それの続き。
前回話題にした
①フランクフルト学派を取り上げている「ウニベルシタス」とはそもそもなんぞや、であった。
②ポール・ティーリッヒ
③ハンナ・アーレント
別に初耳だったわけではないが、こうして連続借りてみるまで余り気にしなかった。
ウニベルシタスってuniversityのことか・・・。
と言うところからもうずっこけである。
しかし法政大学出版局の編集者ってどういうんだろう。
もう1000点もの叢書を発行してきたと言うが、どのようなクライテリアで選んでいるのだろう。
少しスケールは違うが、米国遊学時代、バークリーの古本屋街で、Harper_Torchbooksを見つけてはよく買っていたが、そのラインナップに少し似ている感じもある。
しかしウニベルシタス叢書は値段が違いすぎるが・・・。
明日には図書館に返却しなければならない、アーレント=マッカーシー往復書簡
を読んでいて何箇所か面白いところがあった。
「真理」は思考の最後に出てくる結果だと信ずるのは大きな誤りです。それどころか、真理は常に思考の始まりであり、思考は常に結果のないものです。そこが「哲学」と科学の違うところです、科学には結果があり、哲学にはない。思索は真理の経験がいわば胸にぐさっときたときに始まります。哲学者とそうでない人の違うところは、哲学者はつかんだ真理を放さないということであり、彼らだけが真理をつかむということではないのです。(中略)真理は、言いかえると、思考の「中」にはなく、カントの言葉を借りれば、思考の可能性のための条件なのです。それは始まりでありアプリオリです。(82-3ページ)後そうですね、この本読んでて少し面白いのはマッカーシズムが吹き荒れた頃とその後のアメリカ知識人の様子が少し肌で感じられるような点と、それからどちらにしても若い国アメリカの知識人はヨーロッパを古典とする点かな。
それからこれはマイナーポイントだけれど、アレントのテオドール・アドルノ観が窺えるコメントがちょっと。(アドルノの父方のイタリア人姓を名乗ることで、ユダヤ出自を隠すようなところをアレントは由としなかったようだ。)
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