2017年2月25日土曜日

今日のツイート 2017/2/25

トランプ大統領となって一ヶ月が過ぎた。

初期の混乱がひと段落して鎮静化・・・に向かうとはとても思えない。

トランプ支持の「キリスト教原理主義=福音派」が定着して行くのではないか、と危惧しているところ。



明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年2月26日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 マタイの福音書 6:5-15
説 教 題 「祈りと実践」
説 教 者 小嶋崇 牧師

主の祈りと実践(1)

2017年2月24日金曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、8

また前回から大分間が空いてしまいました。

実は先日『聖書信仰と諸問題』を購入しました。

この書はいま解説している『聖書信仰』をかなり意識して出版された本です。

今後の解説は、表立って言及はしないと思いますが、多少なりともこの聖書信仰と諸問題』を意識して書き進めることになるかと思います。


さて 、今回扱う6章「ファンダメンタリズム」は脚注も入れると20ページあり、少し長いので2回に分けようと思います。

6章 「ファンダメンタリズム」(88-108) 
 A 「英米ー明らかに異なる二つの流れ」(88-94)

イントロに
・・・1920年代、保守的な神学者たちが宣言した「五つのファンダメンタル」となった。後の十二冊からなるトラクトシリーズ『ファンダメンタルズ』は、篤志家の協力を得て、無料で全世界に三百万部供給されたが、自由主義に対抗するファンダメンタリズムの基本的な教えを説明している。(88ページ)
とあるのですが、恐らく名前としてはその存在を知っている人でも、「現物」を所有していたり、見たことのある人は少ないかもしれません。(ネットには画像がありますが・・・。)


実はこの『ファンダメンタルズ』のⅦとⅧは筆者が(確か)このことと縁の深い某神学校の古本市で入手したものです。(一冊が25セントでした。)

ついでに目次のところをスキャンしたものをお見せします。



前々から「自慢したかった」のですが機会がなかった。(一体何の自慢になるのだ、と言われそうですがやはり「歴史」を証言するハードな証拠をもっていることはそれなりに・・・。)

さて、英米での違いを浮き彫りにする「証言」として、ジェームズ・オアが紹介されています。(90ページ)
神の啓示の書物としての聖書を守ろうとして「微細なデータに至るまで聖書には『誤りがない』と実証しなければ、啓示宗教への信頼全体が崩れてしまうとまで主張するのは、きわめて自殺的な行為である。」
と引用しています。

脚注によると、この引用は『啓示と霊感(Revelation and Inspiration)』(1910年)からだそうです。(リンクはオアーの著作の全文、フリーです。)

以下は周辺も含めた原文の引用ですが、オアの議論は「霊感の教理」は「啓示の事実・真実」に基づくのでありその逆ではない、というものです。

もしそれを逆転させて、しかも「無誤論」のような形で「キリスト教の真理性」を主張・証明しようとするならば、もしそれが実証されない時、「無誤論」とともに「キリスト教の真理性」の主張まで崩壊してしまう、という危惧に聞こえます。

オアが「the right method」に対して「The older method」と呼んでいる「霊感を先に論証することで啓示を証明する」アプローチのいわば名残のようなものとして「無誤論」が紹介されています。

そしてこのthe right method」を取るならば「無誤論」を必要としないことを「福音書」のケースに即して語っています。

福音書記者がたとい「霊感」されたとしなくても、彼らが記述した「人物」が、確かに「超自然的主張」をしそれが言葉と行いによって確かめられた「人物」として記録されているならば、(私たちは)福音書を通してその「人物」を信じることが出来るし、その方が「霊感された福音書を先ず信じた上でその人物を信じる」よりもはるかに無理がない。


「無誤な聖書」を主張していたホッジやウォーフィールドでさえ、「新約聖書」という「啓示の記録」より「イエス・キリストの啓示の事実」の方が先に存在し、そして仮に神が「完璧に無誤な啓示の記録」を与えなかったとしても、啓示の事実に基づくキリスト教は、そのような霊感された書物の存在に左右されずに成立したはずだ、と脚注[1]で言及しています。
I. Revelation and Inspiration — Their Relations.

1. It will have been seen that it is sought in the preceding pages to approach the subject of inspiration through that of revelation. This seems the right method to pursue. The doctrine of inspiration grows out of that of revelation, and can only be made intelligible through the latter. The older method was to prove first the inspiration (by historical evidence, miracles, claims of writers), then through that establish the revelation. This view still finds an echo in the note sometimes heard — ' If the inspiration of the Bible (commonly some theory of inspiration) be given up, what have we left to hold by ? ' It is urged, e.g., that unless we can demonstrate what is called the ' inerrancy' of the Biblical record, down even to its minutest details, the whole edifice of belief in revealed religion falls to the ground. This, on the face of it, is a most suicidal position for any defender of revelation to take up. It is certainly a much easier matter to prove the reality of a divine revelation in the history of Israel, or in Christ, than it is to prove the inerrant inspiration of every part of the record through which that revelation has come to us.

Grant the Gospels to be only ordinary historical documents — trustworthy records of the life of Christ, apart from any special inspiration in their authors — we should still, one may contend, be shut up as much as ever to the belief that the Person whose words and works they narrate was One who made super-human claims, and whose character, words, and deeds attested the truth of these claims. [1] It is assuredly easier to believe that Jesus spoke and acted in the way the Gospels declare Him to have done, than to prove that Mark and Luke possessed an exceptional inspiration in the composition of their writings — though, as has been already stated, there is the best reason for believing that they did.

[1] This has often been put as strongly as it can be by the stoutest defenders of the infallibility of Scripture. Cf., e.g., Bannerman, Inspiration: the Infallible Truth and Divine Authority of the Holy Scriptures, pp, 18 ff. Drs. Hodge and Warfield, arguing for an 'errorless Scripture,' write: 'Nor should we ever allow it to be believed that the truth of Christianity depends upon any doctrine of inspiration whatever. Revelation came in large part before the record of it, and the Christian Church before the New Testament Scriptures. Inspiration can have no meaning if Christianity is not true, but Christianity would be true and divine, and being so, would stand, even if God had not been pleased to give us, in addition to his revelation of saving truth, an infallible record of that revelation absolutely errorless by means of inspiration' (Presby. R$v. t April 1881, p. 227).
藤本氏は他にも「英米二つの流れ」の由来や背景を指摘していますが、やはりこの辺を丹念に検証しながら、聖書の性格や意義・役割を考えて行く必要があるのではないか、と思わされた次第です。

(次回へ)

2017年2月22日水曜日

(3)隠れキリシタンになる前に 余波1

昨日、筆者が所属する教会のグループである聖泉連合の教役者会があった。

昨日の場合は普段より議題が多かった。

しかし北から(盛岡)南から(名古屋)集まる面々の会議に滑り込むペースはいつものように殆ど変わらなかった(遅かった)。

(そのときは余り意識していなかったが)筆者が司会を買って出て、会議のペースを上げるため矢継ぎ早に冗談めいたことや、いくらか挑発的なコメントをした。

弾みをつけたかったのだと思う。

「普段と違う!!」ということで何人かの人から「今日は○○先生は元気がいいですね」と驚きとも皮肉とも取れる感想をいただいた。

結局5時間ほど6人の教役者の方々と一緒に時間を過ごしたわけだが、その間何度か言われた「普段と違う!!」「元気がいい!!」類のコメントを家に持ち帰って反省する羽目になった。

明け方うつらうつらしながら一つの解を得た。

と思ったので、この記事を書き始めたのである。

つまり、筆者の「普段と違う」言動、その雰囲気を意識下で醸成していたのは、先日ブログ記事で「隠れキリシタンになる前に」と書いた事柄にある、と。

初めは最近意識するようになった「老人性イライラ」がハイテンションに形を取って出たのかな、と思った。

でも考えているうちに、「教会が衰退して行くのをただ傍観している現状(事実と言うよりそのように見える状態)」に対する腹立たしさのようなものがふつふつと沸いていたのかもしれない、と思い至った。

そこまで思い至って過日の言動を省みるに、どうやら筆者は何らかの「目を覚まさせる」ような物言いを画策していたみたいだ。

(少々失礼な言葉で)仲間の教役者たちのほっぺたを引っ叩くような・・・。

 「このまま事態を放置していていいのか!舟は沈み始めているぞ!」

普段は至って「常識を大事にする人」のように振舞っているのに、突然「覚醒者」ぶったことを言うのは憚られた。それで通路を変え、別なトピックで仲間たちに発破をかけるような言動をしたのではないかと・・・。



さて導入が長くなりすぎた。

(1) 幾つかの線が交差する

(3)隠れキリシタンになる前に」では「ある方」が属する「一プロテスタント教会の衰退」とその取り組み(あるいはその無策)を聞いた範囲で、しかし幾らか筆者の知見を付加・脚色してまとめた。

書いてから思ったのだが、まだ別の幾つもの事象から線を引っ張ってきて「この事態」がかかえている問題に交差させることが出来る、と。

 (A)「お一人様」現象

 ※かつてこのブログでも「お一人様クリスチャン」で書いた事柄。

 (B)「シーライズム」(ロバート・ベラー他『心の習慣』、ミヒャエル・フス『愛の力に祈る――宗教間対話の現状について』8頁の脚注20に簡単な「シーライズム」の紹介がある。)
 
 (C)「新宗教の信者激減 10年後に消滅する教団も

 「・・・日本の新宗教が信者を増やしたのは、高度成長期に地方から都会に出てきた人を取り込めたことにある。希薄になった人の繋がりを宗教に求めたからだ。しかし、現代の若者は何か困ればスマホがあり、人間関係はSNSで築く。それでは宗教の出る幕がない・・・」

 (D)「東京23区だけで238人 20~30代の『孤独死』なぜ増えた

 「・・・若者の孤独死が増えたのは契約、派遣社員、フリーターの増加も一因です。彼らが数日間、無断欠勤したぐらいでは、会社は心配してくれない。・・・一人っ子が増え、一人でいる方がラク、友達関係も希薄という若者が増えたせいもある。」

(2)「既成宗教団体」の衰退(あるいは消滅)がもたらすもの

(1)で挙げた「引っ張ってきて交差させることが出来る線」はまだあるが、要するに「隠れキリシタンになる前に」でも紹介した中外日報の「人口減少社会」記事にもあるように、
今回の国勢調査で、高齢者や外国人のほかに5年前と比較して増加しているのは世帯数だ。総人口減少にもかかわらず、世帯数は2010年の時点より145万世帯増えて、1世帯当たり2・38人となった。1970年は3・45人だから、世帯規模も著しく縮小した。
人口減少にもかかわらず「世帯数の増加」つまりそれは「お一人様」現象として出てきていることの社会構造変化面でもあるだろう。

しかし「お一人様」現象が単に「個人のライフ・スタイル」選択にとどまらず、戦後の高度経済成長期の都市化、人口集中という構造変化、さらにポスト経済成長期・ポストバブル期の人口の大都市一極集中という社会構造的変化と重ね合わせると何が言えるだろうか。

一方で既成宗教団体の衰退・(近未来の)消滅(可能性)があり、もう一方で「個人化・孤独化」の深化がある。

つまり、人と人を結ぶ絆帯の役割を担ってきた伝統的宗教(仏教寺院・神社)が近代化によって次第に衰退し、代わって様々な新興宗教が近代社会のひずみを吸収してきた。

しかし、ここにきてそれらの新興宗教ももはや「既成宗教」となり、新しい社会の動向に相応しく人々の宗教的ニーズに対応しきれていない状況が明確になって来ている。

(殆どのキリスト教団体の趨勢はこの流れの中で左右すると思われる。)

衰退して行く既成宗教、そして新興したが今や既成となった宗教団体が対応できずに、口を開けた隙間がどんどん広がっている(ように見える)。


この隙間を埋めるように様々な新々宗教が参入するが、一部巨大化・カルト化するが残り多くは泡沫現象として消えて行く。

既成宗教を置き換えるような勢いにはなっていかない。

(1)(D)の「若者の孤独死」増加はいわば「パックリ開いたクレバスに落下する事故」のような印象で筆者には受け止められた。



そんな図が(以上挙げた点を結んだだけでも)描けるのではないか・・・。


もちろんこれは「単なる図」であって、「説得力のある絵」ではない。

真実はディテールで検証されなければならないことは言うまでもない。


次回「牧会の現場」から上がってくる「ケース(例証)」で巨大ジグソーパズルの一ピースを埋めることが出来るかどうか試してみたい。

2017年2月20日月曜日

(5)『スキャンダル・オブ・ザ・エヴァンジェリカル・マインド』の今

米国福音派はトランプ大統領の隆盛と共にもはや「キリスト教原理主義」とほぼ重なって見えるようになってきている観がある。

実際はもっと複雑な内部事情があると思うのだが、恐らく「外の人」にそれを説明することはかなり困難になって来ているかもしれない。

そんな兆候の一つともされかねないのが小論壇誌『ブックス&カルチャー』の閉巻だ。
このツイートによれば「大衆福音主義迎合タイプの映画は続編を出すが、一級の(小)論壇誌は廃刊に追い込まれる。」、ということになるのだろう。

実はツイッターを始めて間もなく、この『ブックス&カルチャー』のツイッター・アカウントをフォローしてきた。

しかし、やりくりが大変そうなのが伝わっていた。

ツイートの数がかなり減って行った。

そして2016年を最後に「店を畳んだ」。

そういった事どもを思い返したのは、このツイートだ。

(順番から言えば最初にこのツイートを掲げるべきなのだが・・・。)

いやー、この記事本当面白かった。

こんなツイートもしたくらい・・・。

この記事の中で、ジョン・シュマルツバウアーが、『ブックス&カルチャー』を編集に携わってきたジョン・ウィルソンが(標題に使った)マーク・ノルのThe Scandal of the Evangelical Mind (1995年)に言及している部分を紹介している。

Like many little magazines, Books & Culture was a response to a problem. As Wilson remarked in a recent podcast, "It was not accidental that The Scandal of the Evangelical Mind came out in '94 and the first issue of B&C in '95." Lamenting the persistence of anti-intellectualism within American evangelicalism, Scandal was an "epistle from a wounded lover," articulating Mark Noll's "hope that we American evangelicals might yet worship God with our minds."
どうやら『米国福音主義の知的生活・文化』は退潮傾向にあるといわねばならないのだろう。
 

2017年2月19日日曜日

(3)隠れキリシタンになる前に 20年後(?)の日本の教会を見据えて

論文の題めいた投稿記事ですが、先日ある方のところに行って聞いた話を基にしています。

いくらか脚色がないわけではありませんが、この種の物言いは余り正面切って話されることがないので、多少は許されるかなと思っています。

「20年後」としましたが、10年後かもしれないし、あるいは逆に30年後かもしれない「近未来予測」というか悲観的予測に基づいたシナリオと申しますか・・・。


その方はあるプロテスタント教会の教職をしています。

その教会の近未来に対してかなり悲観的な展望を持っておられます。

話を聞きながら、このプロテスタント教会の「辿りつつあるコース」、そして「待ち受ける将来」は半周か一周遅れで(多分カトリックも含めた)他のキリスト教会諸派の上にも降りかかるかもしれないと思っていますし、この方は自分の所属する教派だけでなく「日本のキリスト教会全体の将来」として懸念・危惧されていることを感じました。

(1)既に悪循環は始まり、それは悪化の一途を辿っている

仮に「20年」というスパンで見てみるとします。その方の教団は既に20年前に「教勢」の衰退を自覚していました。

大きな背景的要素は: 「教職者と信徒の高齢化と減少」と「青年層信徒の不在」でした。後者は「教職者候補の減少・枯渇」となって現れました。
 ※教団が特定されないように「教職者」という一般名で表記しておきます。

これらの大きな課題に対して「対策」を施さなかった訳ではないのですが、如何せんそんな簡単には状況を変えることは出来ませんでした。

教職者数が足りなくなり、一人の教職者が幾つかの教会を兼牧するようになりました。

高齢化して行く教職者に負担増となって行くことにより、教職者たちは現状維持に手一杯になり、将来の展望を拓く様な構想を抱いたり、将来への布石を打つようなことが出来なくなりました。

それから20年後、衰退が目に見えてはっきりしたところで、もう一度「打開策を練る会議」が持たれました。

しかし、20年間の不振を、打開策の不備を、客観的に分析・検証するようなことは出来ず、また今となっては「より根本的(出直し的)対策」が必要なはずなのに、会議をリードする「キーワード」や「コンセプト」は20年前から何も変わりませんでした。

20年後の打開策会議は(空洞化と言いたいところですが)「頭がストップしたまま」推移した、とのことです。(「失われた○十年」というフレーズが思い浮かびます。)

(2)別な道の模索

数値データから言っても、教団指導部の姿勢から見ても、もはや「教勢」挽回は不可能と見たこの方は悲観的な予測に基づく「生き延びる」対策を練り始めました。

それは「今ある教会の姿」を記録に残し、それをアーカイブすること。

そして「次世代」あるいは「次々世代」に生まれてくるかもしれない信仰者が(ネット経由で)これらのアーカイブされた記録を基に集会を復活させる、というものです。

このために残された時間はそれほど多くはないだろう、とこの方は見ています。

今のうちにできるだけ「日本というキリスト教信仰不毛の地」で生き延びたキリスト信者たちの「生きた信仰の記録」を残しておきたい、とこの方は考えています。

(3)話を聞いた筆者の感想

筆者もどちらかというと「悲観的予測・観測」を基に将来を構想する方ですが、この方ほどでは・・・と感じつつ話を聞かせてもらいました。

将来というのは本当に分からないことがあります。

西洋近代とともに当然と考えられた「世俗化(セキュラリゼーション)」は明らかに修正を迫られ、いまや「ポスト・セキュラー」がポストモダン西洋の合言葉となりつつあります。

ただ個々の既成宗教団体の将来を予測させる最も基本的データの一つである「人口動態変化」とそれに伴う(既に社会に定着した)宗教団体の変化は「連動する」と見ていいでしょう。

既に日本においては仏教寺院、特に地方の中小の寺は急速に消滅して行くと観測されています。


主に仏教界のニュースを扱う中外日報も、「人口減少社会」という社会のインフラからくる構造的変化を「宗教的真理の価値は変わらないとしても、伽藍や教団制度などを支える社会的基盤の変化を無視できない。」と警鐘を鳴らしています。

将来は分からない。しかしある程度分かっている社会的構造変化にはかなり抜本的な教会の構造変革を少なくともイメージしたり構想したりしておくことは必要だ、と筆者は考えています。

残念ながら、キリスト教会(だけの)「全体の推移」については統計やデータを揃えるのですが、それらを「教勢」変化とだけ捉えて、社会の動向と「連動した変化」として捉えない傾向が依然としてあるように思います。(たとえばこのようなデータ

やはり日本においてはキリスト教はあまりにも弱小すぎて、日本社会(の動向)から遊離したところで「セルフ・イメージ」や「将来像」を描きすぎているのではないか・・・と思ったりするのです。

(今回のレポートには、今後の展開では、後日談や発展的考察が出てくるかもしれません。しかし何度も言うように、将来は分からない。)

2017年2月18日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年2月19日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 3:1-17
説 教 題 「寛容を身に着けるとは」
説 教 者 小嶋崇 牧師


コロサイ(36)/パウロ書簡の学び(153)
 

「キリストにある」生き方⑤
 メシアの民の性格  (コロサイ3:12-14)

2017年2月11日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年2月12日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネ福音書 8:31-47
説 教 題 「真理は自由にする」
説 教 者 小嶋崇 牧師


「真理」2 
イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31-2、新共同訳)
 

今日のツイート 2017/2/11

日米首脳会談でのマリーン・ワン機上の両首脳の写真に対するツイートの一つです。



上の画像では安倍首相をちゃんとファーストネームで呼んでいますが・・・

(国内では)「ポチ」と揶揄されたり・・・

(英国視線からは??)「誘拐された(日本は身代金を払わなければならない???)」と皮肉られたり・・・

いろいろありますね。

[追記: 約43分後]

どうやらビル・クリストフ記者は安倍首相の姓と名とを取り間違えたと見ているようです。当方てっきり親しみをPRするためにそうしたのかと思いましたが・・・。

2017年2月9日木曜日

今日のツイート 2017/2/9

映画『沈黙』が引き金となったのかもしれないツイート。




残念ながら、最初に入信した『集団』での体験が、『福音派』で括られて次ぎの警告ツイートとなっている。

2017年2月8日水曜日

今日のツイート 2017/2/8

セオロジカル・ディファレンシズ・・・神学的見解の相違から解雇される、ということだが、
確かに出版社の雇用条件には社の神学的立場に同意することを求め、更にそれを毎年更新するという条件がウェッブサイトに掲げられてはいるが。

Hiring Considerations

The status of InterVarsity Christian Fellowship/USA as an equal opportunity employer does not prevent the organization from hiring staff based on their religious beliefs so that all staff share the same religious commitment.
Pursuant to the Civil Rights Act of 1964, Section 702 (42 U.S.C. 2000e 1(a)), InterVarsity Christian Fellowship/USA has the right to, and does, hire only candidates who agree with InterVarsity's Statement of Agreement: Purpose and Doctrinal Basis.

The Hiring Process

If you are hired, each year you will be asked to re-affirm and sign InterVarsity's Statement of Agreement.

確かに彼の神学的立場はいわゆる福音派のものとは異なっているとは言えるのだろう。恐らく問題はその相違をどの程度厳密に規定して雇用条件として運用するかではなかろうか。



というのも編集者が余りにも雇用者の神学的立場に合致することだけを戦々恐々やっていたら必要な冒険もできないだろうと思うからだ。


福音派の場合「神学的見解の相違」で神学校の教師が解雇される等の事件は度々起こるが、その度にこのようなコントロールの実質的意義はなんだろうか、と考えさせられるのだ。

2017年2月4日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年2月5日(日) 午前10時30分


朗読箇所 使徒の働き 2:41-47
説 教 題 「使徒の言葉を受け入れた」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。