論文の題めいた投稿記事ですが、先日ある方のところに行って聞いた話を基にしています。
いくらか脚色がないわけではありませんが、この種の物言いは余り正面切って話されることがないので、多少は許されるかなと思っています。
「20年後」としましたが、10年後かもしれないし、あるいは逆に30年後かもしれない「近未来予測」というか悲観的予測に基づいたシナリオと申しますか・・・。
その方はあるプロテスタント教会の教職をしています。
その教会の近未来に対してかなり悲観的な展望を持っておられます。
話を聞きながら、このプロテスタント教会の「辿りつつあるコース」、そして「待ち受ける将来」は半周か一周遅れで(多分カトリックも含めた)他のキリスト教会諸派の上にも降りかかるかもしれないと思っていますし、この方は自分の所属する教派だけでなく「日本のキリスト教会全体の将来」として懸念・危惧されていることを感じました。
(1)既に悪循環は始まり、それは悪化の一途を辿っている
仮に「20年」というスパンで見てみるとします。その方の教団は既に20年前に「教勢」の衰退を自覚していました。
大きな背景的要素は: 「教職者と信徒の高齢化と減少」と「青年層信徒の不在」でした。後者は「教職者候補の減少・枯渇」となって現れました。
※教団が特定されないように「教職者」という一般名で表記しておきます。
これらの大きな課題に対して「対策」を施さなかった訳ではないのですが、如何せんそんな簡単には状況を変えることは出来ませんでした。
教職者数が足りなくなり、一人の教職者が幾つかの教会を兼牧するようになりました。
高齢化して行く教職者に負担増となって行くことにより、教職者たちは現状維持に手一杯になり、将来の展望を拓く様な構想を抱いたり、将来への布石を打つようなことが出来なくなりました。
それから20年後、衰退が目に見えてはっきりしたところで、もう一度「打開策を練る会議」が持たれました。
しかし、20年間の不振を、打開策の不備を、客観的に分析・検証するようなことは出来ず、また今となっては「より根本的(出直し的)対策」が必要なはずなのに、会議をリードする「キーワード」や「コンセプト」は20年前から何も変わりませんでした。
20年後の打開策会議は(空洞化と言いたいところですが)「頭がストップしたまま」推移した、とのことです。(「失われた○十年」というフレーズが思い浮かびます。)
(2)別な道の模索
数値データから言っても、教団指導部の姿勢から見ても、もはや「教勢」挽回は不可能と見たこの方は悲観的な予測に基づく「生き延びる」対策を練り始めました。
それは「今ある教会の姿」を記録に残し、それをアーカイブすること。
そして「次世代」あるいは「次々世代」に生まれてくるかもしれない信仰者が(ネット経由で)これらのアーカイブされた記録を基に集会を復活させる、というものです。
このために残された時間はそれほど多くはないだろう、とこの方は見ています。
今のうちにできるだけ「日本というキリスト教信仰不毛の地」で生き延びたキリスト信者たちの「生きた信仰の記録」を残しておきたい、とこの方は考えています。
(3)話を聞いた筆者の感想
筆者もどちらかというと「悲観的予測・観測」を基に将来を構想する方ですが、この方ほどでは・・・と感じつつ話を聞かせてもらいました。
将来というのは本当に分からないことがあります。
西洋近代とともに当然と考えられた「世俗化(セキュラリゼーション)」は明らかに修正を迫られ、いまや「
ポスト・セキュラー」がポストモダン西洋の合言葉となりつつあります。
ただ個々の既成宗教団体の将来を予測させる最も基本的データの一つである「人口動態変化」とそれに伴う(既に社会に定着した)宗教団体の変化は「連動する」と見ていいでしょう。
既に日本においては仏教寺院、特に地方の中小の寺は急速に
消滅して行くと観測されています。
主に仏教界のニュースを扱う
中外日報も、「人口減少社会」という社会のインフラからくる構造的変化を「宗教的真理の価値は変わらないとしても、
伽藍や教団制度などを支える社会的基盤の変化を無視できない。」と警鐘を鳴らしています。
将来は分からない。しかしある程度分かっている社会的構造変化にはかなり抜本的な教会の構造変革を少なくともイメージしたり構想したりしておくことは必要だ、と筆者は考えています。
残念ながら、キリスト教会(だけの)「全体の推移」については統計やデータを揃えるのですが、それらを「教勢」変化とだけ捉えて、社会の動向と「連動した変化」として捉えない傾向が依然としてあるように思います。(たとえば
このようなデータ)
やはり日本においてはキリスト教はあまりにも弱小すぎて、日本社会(の動向)から遊離したところで「セルフ・イメージ」や「将来像」を描きすぎているのではないか・・・と思ったりするのです。
(今回のレポートには、今後の展開では、後日談や発展的考察が出てくるかもしれません。しかし何度も言うように、将来は分からない。)