2021年2月27日土曜日

明日の自宅礼拝ガイド

主日礼拝

2021年2月28日(日)

賛  美  主よわがかたえを  253番(※)

※YouTube動画を利用できる方は、以下のリンクで「主よわがかたえを(Pass Me Not, O Gentle Savior  歌詞表示なし)」の演奏をご利用ください。
https://www.youtube.com/watch?v=i3i_Q4IV2YA

聖書交読  詩篇55:9-15
使徒信条
聖書朗読  ヨハネの福音書 2:1-11
  イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、
  召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
  イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。
  召し使いたちは運んで行った。
  世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。
  このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。
  「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
    (ヨハネ 2:7-10、新共同訳)
黙  想  「ぶどう酒に変わった水(カナの婚宴)」
静思祷告
主の祈り

【解説】  
 ガリラヤのカナというところで婚礼があり、そこにはイエスの母(マリア)が招かれ、イエスも招かれていました。ところが婚宴でぶどう酒がなくなってしまう事態に直面し、母マリアは状況の打開をイエスに託しますが、イエスはすぐには応答しませんでした。しかし母マリアはしもべたちに「イエスが出す指示の通りに行うように」と言い置きます。
 さてイエスはしもべたちに六つの甕(かめ)一杯に水を満たすようにと指示します。そして一杯になった甕から汲んで婚宴の席に持って行くよう指示します。世話役は味見をして(水から変わった)その葡萄酒の味の上質なことに驚きます。

 母の要請に対してイエスは「どこからかぶどう酒を調達する」ことで応答したのではなく、「水をぶどう酒に変える」クリエイティブな形で応答しました。それがヨハネの福音書でイエスが現した「最初のしるし」(2:11)と言われる所以ではないかと思います。

 私たちは日々さまざまな「状況の打開」と取り組んでいます。祈りもなく期待もなくただその場しのぎの「何かをあてがう」ような対応になりがちです。しかし神さまは状況に対して「私たちにクリエイティブになる」ことを期待なさっているのではないでしょうか。祈りをもって神さまに期待して状況と取り組む時、神さまは「水をぶどう酒に変える」ような対応をくださるのではないでしょうか。

2021年2月20日土曜日

明日の自宅礼拝ガイド

主日礼拝

2021年2月21日(日)

賛  美  ちからの主を  71番(※)
※YouTube動画を利用できる方は、以下のリンクで「ちからの主を(歌詞表示あり)」の演奏をご利用ください。
https://www.youtube.com/watch?v=D1e9tfrv68k

聖書交読  詩篇55:1-8
使徒信条
聖書朗読  ヨハネの福音書 11:43-44
  こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
  すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。
  顔は覆いで包まれていた。
  イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
    (ヨハネ 11:43-44、新共同訳)
黙  想  「ラザロよ、出て来なさい。」
静思祷告
主の祈り

【解説】
 コロナのおかげでインターネットを介しての「オンライン」とか「リモート」でのコミュニケーションの機会が増えました。「スカイプ」とか「ZOOM」といわれるようなソフトを使って顔が見えるコミュニケーションが距離に関係なくネット上で繋がってできるのです。
 「リアル(現実)」に対して「ヴァーチャル(仮想現実)」のコミュニケーションとも言われますが、何世代も前から「電話」でコミュニケーションは出来ていた事実と感覚から言うと、はたしてどこまでが現実でどこからが仮想現実なのかその境界線は曖昧なように思います。
 先日ある方とZOOMで会談をしていたのですが、画像は何の支障もなく途切れずに見えるのに音声の方が途切れてしまったりということがありました。あらためてしっかり声が聞こえるということの大切さを思いました。

 今日の黙想箇所は「ラザロのよみがえり」のエピソードですが、イエスが死んで墓に葬られたラザロに「ラザロよ、出て来なさい」としっかりはっきり声をかけられていることに驚きます。死んでしまった者にではなく「眠っている者」を呼び起こすような声かけです。
 私たちにとって生と死は厳然と区別され乗り越えられない境界線で区切られている「現実」ですが、「わたしはよみがえりです。いのちです。」(11:25)とおっしゃる方にとってはそうではないのです。

 私たちが乗り越えられないと思われる様な「現実」の中にいるときも、主イエスは「ラザロよ、出て来なさい。」と声をかけておられるのではないでしょうか。私たちの信仰を問われているのではないでしょうか。

2021年2月13日土曜日

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2021年2月14日(日)

賛  美  われはおさなご  157番(※)
(1)われはおさなご われ主にすがらん
   ちいさくあれど しんこういだきて
   たえず主イェスの てによりすがらん
   しずけきひるも かぜふくよるも
(2)などかおずべき われ主にすがらん
   かみのみたまの みちびきあれば
   たえず主イェスの てによりすがらん
   しずけきひるも かぜふくよるも
(3)はれたるあさも われ主にすがらん
   あらしのよるは すがりいのりせん
   たえず主イェスの てによりすがらん
   しずけきひるも かぜふくよるも
(4)いきをひくとき われ主にすがらん
   よしあめつちは くずれさるとも
   たえず主イェスの てによりすがらん
   しずけきひるも かぜふくよるも

※YouTube動画を利用できる方は、以下のリンクで「われはおさなご(歌詞表示なし)」の演奏をご利用ください。
https://www.youtube.com/watch?v=F2au13LrTXY

聖書交読  詩篇54:4-7
使徒信条
聖書朗読  ヨハネの福音書 16:20-22
  女は子供を産むとき、苦しむものだ。
  自分の時が来たからである。
  しかし、子供が生まれると、
  一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、
  もはやその苦痛を思い出さない。
  ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。
  しかし、わたしは再びあなたがたと会い、
  あなたがたは心から喜ぶことになる。
  その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
    (ヨハネ 16:21-22、新共同訳)
黙  想  「生み出す苦しみと喜び」
静思祷告
主の祈り

【解説】
 主イエスの「産みの苦しみ」のたとえは何を語っているのでしょう。十字架につけられ殺されなければならない「弟子たちとの別離」がまずあることを語っています。しかしその後には「復活による弟子たちとの再会」と、天に昇った後遣わされる「聖霊による喜び」が示唆されています。弟子たちにはまだその全体像は見えません。今弟子たちは悲しみを予感して不安を覚えるだけのようです。主イエスは「産みの苦しみ」のたとえで「苦しみ」が「喜び」に一挙に転換するのだと励ましています。

2021年2月6日土曜日

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主日礼拝

2021年2月7日(日)

賛  美  あめなるよろこび  289番(※)

※YouTube動画を利用できる方は、以下のリンクで「あめなるよろこび(歌詞表示なし)」の演奏をご利用ください。
https://www.youtube.com/watch?v=V-YRr-xGMxw

聖書交読  詩篇54:1-3
使徒信条
聖書朗読  ヨハネの福音書 1:4
  この方にいのちがあった。
  このいのちは人の光であった。
    (ヨハネ 1:4、新改訳)
黙  想  「いのちとひかりとあたたかさ」
静思祷告
主の祈り

【解説】
 「ひかり」には「暖かくなる」エネルギーもあることは小さい頃「ひなたぼっこ」をして実感的に覚えました。しかし「ひかり」は「いのち」にある、「いのち」から来ている、というのはヨハネ福音書の独特の視点ではないでしょうか。
 この「いのち」は「人のひかり」であった、と1章4節では言っています。
 つまり神ご自身が「人となって」私たち人間の間に「住まわれた」ことによってその「ひかり」と「暖かさ」を実感できるようになったのです。
  「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
  (ヨハネ 1:14、新共同訳)

せっかく「来られた方」のうちに「とどまる」ことが大切ですね。
   いのちをあとうる 主よとどまりて
   われらのこころを とこみやとなし