2014年6月29日日曜日

東京やきとり亭 六義園店

当教会がある大和郷についてはごく簡単に紹介した。

最近散歩コースが「近・短」に変わった。
ちょっと体調がいまいちで。

それで近くの六義園の塀を回るコースを歩き出した。
その一回り外、不忍通を歩くようになって気がついた店が「東京やきとり亭 六義園店」だ。

大和郷には独自の町会があって、最近「一般社団法人大和郷会」に組織替えをした。
有名な「大和郷幼稚園」を運営する組織でもある。

大和郷の分譲開始が大正時代だからもうかなり昔のことである。
開始当時分譲を購入した方々が文化人が多かったためか、自治組織を作って色々活動をしてきた。

このご時勢だから、その「大和郷会」も独自のウェブサイトを持っていてもいいと思うのだが、どうやら未だにないようだ。

しかし「大和郷会」については、最近某社のウェブサイトで「理事長 田口邦臣さん・副理事長 伊東久信さん」のインタヴュー記事が出ているので、そこに会の名前の由来や、「大和郷だより」について結構詳しく書かれている。

筆者がこの「六義園店」を耳にしたのは昨年出た「大和郷だより」のどれかであったと記憶している。(年頭号だったような・・・。)

あーあんなとこにそんな店があったのか。いつか行ってみたいな・・・。

くらいで終わってしまっていた。

そして散歩で通りかかるようになって再確認した次第。

そんなに大きな店ではないのでうっかり通り過ごしてしまうくらいだが、何と言っても目印は「山葡萄」。

当教会の前庭にも山葡萄があるのだが、ほっぽりぱなしで、毎年実はついても大きくならず、葉に隠れて萎んで枯れておしまい。

しかしこの店のは大変立派。(先週撮影)



何となくこれ見てお店の方にもまた興味が湧いてしまった。

ちなみにメニューはこれ。

2014年6月28日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2014年6月29日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 21:1-14

説 教 題 「家に住む」
説 教 者  小嶋崇 牧師
  


上半期の感謝の礼拝 

 

2014年6月25日水曜日

(4)雑想 2014/06/25

やはり同じテーマになってしまった。

言わずと知れた「『パウロ研究』の新しい視点」について。

あるブログ記事を読んでいて(賢い読者はすぐにお分かりと思うが)、このテーマを取り扱う環境が果たして日本で整っているのか、と言う懸念が一方であることを知らされた。

筆者のように『パウロ研究』と一応「学術領域での議論」であることを断ったとしても、警戒心を抱く方はおられるのだろう。それは無理もないことだ。

特に今頃、かつて70年代以降90年代にかけて一学術領域で盛んになされた議論(それだけでも約20年前となる)を日本に紹介するのは如何なものか--特にその議論が“福音派”を大いに分裂させた論争的なものであるとするならば--と言う見方も分からないでもない。

筆者のスタンスは「論争が巻き起こることを期待する」ものではない。

どちらかと言うと「第二神殿ユダヤ教」理解の積極的評価の可能性、としての研鑽そして受容である。


ただ、「パウロ研究の新しい視点」に対抗的な学者の方々が少なからずおられるので、その方面のことも最初から紹介しておいた方が宜しいと思う。


前回真っ先に挙げておいたThePaulPage、に「新視点」批判者・懐疑論者たちの論文を纏めたページがある。


ご覧のようにかなり沢山あって、とてもじゃないが読み切れるものではない。


たまたま読んだものを紹介しておこう。(上記ページにはリンクはされていないようだ。同著者のものはあるが。)

Sinclair Ferguson, Justification in Christ



ご覧の画像の本、Justified In Christ: God's Plan For Us In Justification の「少し長いイントロダクション」として書かれた論文である。


ファーガソンはここ50年間にもたらされた「福音」の“誤った再解釈”を嘆いている。

そして特にこの本が論敵にしている「新視点」の影響を危険視している。

もし(この本に寄稿している)批判者たちの「新視点」への懸念や疑念が、ファーガソンがこのイントロ論文でまとめている程度であれば、溝はそれほど深いものではないのだと個人的には思う。

そんな感慨を抱いた部分(論点)を三つ選んでみる。

The authors, it should be stressed, do not believe that salvation is received by a mere affirmation of the doctrine of substitutionary atonement and the imputed righteousness of Christ. But they do believe that unless the gospel is articulated in these terms (or worse, if they are denied) the good news about the Christ who does save and what it means to believe in him is distorted and the gospel is compromised.(強調は筆者。以下同様)
The "New Perspective" began life as a new perspective on Jewish faith and religion around the time of Jesus and Paul. In essence its contention is that the Judaism of this period of the second temple was - contrary to Protestant interpretations of the past - actually a religion of grace. It was most certainly not a religion of "works-righteousness." It did not teach that salvation is earned by self-effort. Rather, it held that salvation, or entry into the covenant community, was entirely a matter of grace. Thereafter obedience to the law was the way of remaining in the community whose principal external "boundary" markers were observing the Sabbath, the rite of circumcision, and the food laws. Consequently the teaching of Jesus and especially of Paul must be read (or re-read) in that light.
For Luther the great personal issue was how a sinful man can be justified before God. The "problem" the gospel solves was essentially that of his guilty condition before a righteous and holy God who abhors sin. Luther held that justification, being accounted righteous before God, takes place when the individual trusts in Jesus Christ who was "made sin for us, who knew no sin, that we might be made the righteousness of God in him" (2 Cor. 5:21). Like Calvin, Luther was awestruck by the wonderful exchange, in which our sins were accounted ("imputed") to Christ on the cross, and his righteousness was accounted ("imputed") to us through faith. For the Reformers, then, this "wonderful exchange" meant that a double imputation lies at the heart of the gospel. Thus justification was seen as "the standing or falling article of the church" (Luther) and "the hinge on which all religion turns" (Calvin).
と言うわけでファーガソンは、「新視点」が、「信仰義認」を再解釈することによって、「福音におけるキリストの贖罪のわざ」を軽んずる結果になっていないか、と言う点を重要視しているのではないかと思う。


やはりなかなか厄介な釈義的問題を孕んでいる、と言う印象。(双方が議論し合うだけでなく、双方の釈義がなぜ噛み合わないのかを説明する「解釈学的」視点も持ち込む必要があるのではなかろうか・・・。)

「新視点」を支持するにしても、伝統的「古視点(少し揶揄した感じでそう呼ばれている)」を支持するにしても、将棋やチェスではないが、双方一挙に形勢有利に持って行こうとしない方がいいのではないかと思う。


ざっとそんな感想を抱いている。

2014年6月24日火曜日

(5)現代哲学入門、現象学

母校でもある、The Graduate Theological Unionの加盟校であるドミニカン神学哲学校が主催する

What Has Athens to Do with Jerusalem?
Dialogue between Philosophy and Theology in the 21st Century

が、2014年7月16-20日まで開かれるそうである。(ここ参照

地元のカリフォルニア大学バークリー校のジョン・サール教授もパネリストに名を連ねている。

釣られて、サール教授のウェブサイトをクリックしてみた。

カリキュラム・ヴィテは積年の業績で満載、壮観である。

それから論文(Articles)のページに行って、何か読みやすくて面白そうなものはないか物色してみた。

The Phenomenological Illusionを読み出してみたのだが、ご専門ではない「現象学」について講演を引き受け、それで試みたのが「現象学」(フッサール、ハイデガー、マーロ・ポンティー)を受け継ぐ哲学者たちの「奇妙な学問構築的態度」に対する批判のようである。

それを、the Phenomenological Illusion、と呼んだわけだ。

(どうも読み進むと同じバークリー校のヒューバート・ドレイファス教授が出てくるので、結構彼を標的にしているのかもしれない。
ちなみにドレイファス教授のレクチャーには出た覚えがある。)

イントロの後、Ⅰ. The Current Situation in Philosophyという流れになり、「(人間)意識」を哲学する土俵が、原子物理学、進化論的生物学、脳科学、の進展によって極めて厳しいものになっていることが指摘される。
How do we account for our conceptions of ourselves as a certain sort of human being in a universe that we know consists entirely of physical particles in fields of force.

More precisely: Given that any sort of Cartesianism or other form of metaphysical dualism is out of the question, how do we give an account of ourselves as conscious, intentionalistic, rational, speech-act performing, ethical, free-will possessing, political and social animals in a world that consists entirely of mindless, meaningless brute physical particles.

筆者にはこれだけでも十分である。

確かに物質ベースの「リアリティー」がこれだけ分厚く・詳細にマップ・アウトされてくると、心理を含めた精神活動と言うものの独自性・独立性を領域確保するだけでも一仕事のような感じになってくる。

まっ、でも物質決定主義にそうやすやすと還元できないだろうな、という気もするが。

しかしだからと言って心理を含めた精神活動が「どのようなリアリティー」なのか、ベースとなる物質的リアリティー全体に組み込むためにはどうするかは、サール教授がドレイファス教授を槍玉に挙げているように、従来のデカルト的二元論(精神と身体)を越える「第三の存在」提唱のような議論では間に合わない、と言う指摘はその通りだと思う。

「科学と信仰」もまだまだ接近が必要だろうし、「科学と哲学(現象学)」もまたそうなのだ。


以上午後の遊び終了。

2014年6月22日日曜日

(5)亡命知識人

この話題は宗教と社会 小ロキアム@巣鴨に書いた方がいいのかもしれないが・・・。

話題にするのは
①フランクフルト学派
②ポール・ティーリッヒ
③ハンナ・アーレント

順番から言うとポール・ティーリッヒが最初だが、と言うのもアズベリー神学校やプリンストン神学校にいた時はティーリッヒは殆ど読んでいなかった。

Graduate Theological Unionに来てポール・ティーリッヒに関心を持つようになったのは、ロバート・ベラーが彼から影響を受けている、と聞いたことがあるからかもしれない。

しかし宗教社会学の古典の一人である「マックス・ヴェーバー」を読み出してまもなく、「フランクフルト学派」について知るようになり、特にMartin Jay, The Dialectical Imagination: A History of Frankfurt School and the Institute of Social Research, 1923-1950で関心を持つようになった。

そこで確かポール・ティーリッヒに言及があり、「あれっ、神学者のティーリッヒとフランクフルト学派に何かしら繋がりがあるんだ」と記憶に留めたものの、その後その繋がりについては何も調べることはなかった。

そうしたら日本語で「ティーリッヒとフランクフルト学派


と言うそのものずばりの本が出ているではないか。

ネットで調べると、深井智朗という最近よく耳にする神学者によるものらしい(でも「監修」とある)、と言うことがわかった。

で、図書館から借りて読んでみたのだが、一応少し分かったので重宝した。

そうしたら今度は「ティーリッヒとアレント繋がり」があると言うではないか。

と言うことで、これまた先日図書館から借りてきて読んだ。

悩める神学者ティーリッヒと、それを個人的によく知るハンナ・アーレントの取り合わせは「へー、そうなんだ」である。

筆者が現在出席する某神学者の読書会でも、著作となる神学書の内容と著者の人生における道徳問題とを、どのように斟酌するかと言う課題が読者側に求められるので、ティーリッヒにおいても同様関心を持った。

著者の深井は以下のようなコメントを残している。
 この二つのティリッヒ像[筆者注、精神分析と神学を結び付けた著作家像と、性的倒錯傾向者像]のどちらかに過度に傾くティリッヒ理解はいずれも誤りであろう。両者の統合がティリッヒだからである。それゆえに、今後もしまだ誰もなしえていないティリッヒの思想を総合的に、また全体的に解釈するという難行を誰かがなしうるとすれば、それは具体的には、この思想家自身の統合や体系化への熱情を上回る情熱をもって思想と生活とを統合的に結び付けたティリッヒ像を提示する、ということであるに違いない。
 実はハンナ・アーレントはそういうティリッヒを比較的若い頃から晩年にいたるまで、ひとりの人間として受け入れ、交際することができた数少ない友人のひとりであり、これまであまり注目されてこなかったが、ティリッヒにおける思想と生涯とのけっして引き裂くことのできないあの結びつきを知っている重要な証人のひとりなのである。(147ページ)
さて「思想と生活」「思想と生涯」と言うような『結び付き』は、その神学者なり思想家が「自伝的言及」を著作に入れるか、彼らの伝記作家が然るべく著作と背景とを照合して全体像を提示する仕事であり、特に「あの結び付き」とクローズアップして「思想史専門家」の「情熱的仕事」にするほどのものなのか・・・がまだよく分からないのだが。
 これはティーリッヒの場合に良く当てはまる、と言うことなのか。多分そう言う意味なのだろう。
 (しかしティーリッヒの著作と言うのはそれほど複雑で隠れたニュアンスのあるものなのか。神学者が読むより精神分析家が読み解く方がいいのか・・・。)


※タイトルの「亡命知識人」について説明していなかった。ご存知のように、①フランクフルト学派、②ポール・ティーリッヒ、③ハンナ・アーレント、らは皆ナチスドイツの時代にアメリカに亡命してきた方々で、ティーリッヒを除けばユダヤ人であった。


2014年6月21日土曜日

(2)「トイレの神様」を神学する

いやー土曜日の夜なので・・・。

やっとこ明日の週報を作成したところで、頭を幾分柔らかくしようと思って・・・。

ただ「神様」だけで思いついたので・・・。


はい、歌のタイトルは知っていました。
でも聞いたことなかった。


何かほんわかした歌だね。
かなり単調なメロディー。

やはり実話に基づいたストーリーだからかな、すんなり聞けるのは。

「喪失」と「帰還」がモチーフかな。

なんでおばあちゃんなのだろう。
そして両親が不在。

誰でもが成長と共に家族から離れて行く時がある、それが喪失の原風景。

東京に行って離れて、おばあちゃんが具合悪くなって帰るとすぐ亡くなる。

これは大きな喪失だったけど、おばあちゃんの記憶をより強く呼び戻す。


で、「神学する」だけど

別に「神様」が出てくるから「神学している」ことにはならないと思うけど
「トイレの神様」はおばあちゃんがこさえたストーリー神学なのかな

ちょっと引用しようかと思ったら、歌詞が表示されているサイトから歌詞をコピーしようと思っても出来ないや・・・。

トイレ掃除が苦手なので
おばあちゃんは
トイレ掃除をやる気にさせるために
編み出したんだろうな

だからおばあちゃんが女神様を作っちゃったんだ
でも女神様は別にトイレにいるだけで
特に何かをするわけではないね

要するにトイレれを磨くと自分も磨かれるよ
べっぴんさんになるよ
ということなのだね

人は「意味ない行為」はしたくない
というかあまりやりたくない

でもその行為に「意味がある」とやりやすい

でもトイレ掃除をしたら100円あげる
では余り面白くないよね

自分が変わるストーリー
を生きるのは楽しいよね

女神様はそのストーリーを引き出す
あるいは動かす仕掛けだ・・・
って別にたねあかしみたいなことをしても面白くないよね

きっとその気になってやったんだね
そしてできるようになって
良かったと思っているんだね

お嫁さんになった(結婚なさったそうです、その後)
今では孝行の意味でトイレ掃除がんばっているのかな


と、遊んでいたらもうお風呂に入る時間になりました
お風呂にはどんな神様おるんやろ


※この記事に対するキリスト教神学的批判その他は受け付けておりません。あしからず。

明日の礼拝案内

主日礼拝

2014年6月22日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 1:9-14

説 教 題 「父なる神に感謝をささげる」
説 教 者  小嶋崇 牧師
  

パウロ書簡の学び(124)
コロサイ人への手紙(6)
  手紙冒頭の祈りとその内容について②