こう言うのを私小説と括っていいのか分からないが、ご自身の子息、光さんのことがテーマになっている小説である。
記憶では「大変な子供が生まれて」おろおろする父親の自画像みたいのが書かれてあった。
ブログ名が「大和郷にある教会」に余り個人的なことを書くのは相応しくないかもしれないが、最近の思いを書いてみる。
最近、と言うかこの数年調子が良くない。
心身にアンバランスを生じ、最初は胃腸科に通ったがちょっと違う、と言うことで最終的に心療内科に通うようになった。
軽ーいうつ病と診断された。
最初は半年くらいでよくなるはずであった。
実際薬を飲むようになってからその効き目に驚いた。気分は変わるし、睡眠導入剤はよく効いた。
しかし現実のシナリオは当初の予想通りには運ばなかった。
一年経ち、二年経ち、今三年目に突入している。
一旦薬を減らし始めたところが症状が改善せず違う薬に変えたりしてやっているが、小康状態を保つだけで、微妙に体の違和感が解消しない。
先月、「安定してきた」と言う診断で、また薬を減らす過程に入った。
一週間は変わらず来れたので、このまま維持できたらいいな、と思っていた矢先、またいつもの症状が、今回は突然前触れもなくやってきた。
いわゆる更年期障害の症状としてよく挙げられる足の冷えと胃の辺りが熱くなると言うものである。
昨日は午前中から夜寝るまでずーっと胃の辺りの熱さが去らずにいた。
その間なんともしんどい思いをした。
自分の調子悪いところにだけ関心が行って、物事に集中できないのである。
ブログの更新なんてもうどうでもよくなっちゃうわけでした。
さて今日になって起きてみると収まっていました。
一日恐る恐るやっていましたが昨日のようなことは無く済んでいます。
ようやくブログの更新を考える余裕が出てきました。
でもここのところずーっと調子が良くなかったため「あれを書こうとしては消え、これを書こうとしては消え」の連続でした。
そしてやっと先ほど見つけました。
大野更紗「困ってる人」
大分前からツイッターでフォローしている方ですが、最近出したこの本が話題で益々注目を集めています。
ツイートで「グターリ」とか「鋭意昏睡中」みたいなのを見ては、ユーモアとともにしんどい状態をコミュニケートするその姿を想像していました。
筆者は身体的痛みに弱いです。
だから身体的な不便や不快に対してはすぐ負けてしまいます。
とたんにやる気が無くなったりしてしまいます。
マカバイ記の拷問の記述なんか読んでいるともう「自分がこんな目に遭ったら簡単に棄教するだろーな」などと想像してしまいます。
大野更紗さんの「困ってる人」はブログにもなっています。
「第0回目」を読んでみました。
聞きしに勝る壮絶さです。
でも何か爽やかに読めちゃうのは大野さん持ち前のユーモアと自分を客観視できる力と、そして生きるのに必死になれる意志力が伝わってくるからです。
人は自分より相対的に貧しかったり、困っていたりする人を見ると、それで何か自分は少しましなんだと慰めたりする卑俗な根性を持っています。
筆者もそうです。
でも大野さんの文章を読んでいると単に「自分の困り」とは比較にならないその困りようにそんな慰めなんか必要なくなります。
人が普通に出来ることを、生きることを大変な困難と努力で維持している大野さんの姿を想像すると何か変な言い方ですが爽快感さえ感じるのです。
かっこいいのです。
地を這い蹲ってでも何かを掴もうと一生懸命手を伸ばすその必死さにわが身のだらしなさを感じ恥ずかしくもなります。
と言うか自分が苦痛に思っていることを一瞬忘れてしまう位大野さんの壮絶な生の戦いに圧倒されてしまうのです。
良くぞ「個人的なこと」をここまでさらけ出して書いてくれた、と大野さんに感謝したくなります。
大野さんは自分の生の戦いをしながら、日本の病院制度や福祉制度や、色々な制度的制約の壁にぶち当たってはそれを突破する前衛のような戦いもしているのではないかと思います。
「わたしのフクシ」と言うサイトに連載を持っていますが、そこでの記事「せちろうくんの巻」では難病を抱えるせちろう君について興味深く書いています。
何か大野さんの書く文章と言うか文体は新しい文学のジャンルなのでは、と素人判断ですが、思うくらい読ませる魅力があるのです。
中身はもちろん「身体的苦難」ですが、それに閉じこもるのではなく、生きる方へ開放された伸びやかさを垣間見る感じなのです。
是非一読をお勧めします。
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