2011年10月28日金曜日

英語圏ブログ紹介⑥

「市民宗教」と言う言葉をご存知だろうか。

もともとは啓蒙主義期フランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソーが「社会契約論」で発案した概念だ。
この概念をベトナム戦争で揺れていたアメリカ共和政治思想に適用しようとして導入したのがカリフォルニア大学バークレー校社会学教授のロバート・ベラーだ。
「アメリカ市民宗教」と題して学術雑誌に発表されたこの論文はその後大論争を巻き起こし数奇な運命を辿る。
日本にもこの概念が導入され、主に神道派の社会学者に適用されたりした。

長い話を省略し、現在一般的にも使用されることとなった「市民宗教」は批判的な方々からは「特定宗教と国家との癒着」や「ナショナリズムに迎合する特定宗教」として理解されることが多い。
政教分離原則を掲げる近代世俗主義からは否定的に取られる現象のことである。

さて今日紹介するブログは米国福音派の中堅新約聖書学者として以前本の紹介で名前を出したことがある、マイケル・ゴーマンの
Cross Talk - crux probat omnia: Life through the lens of the cross / Biblical and theological reflections by Michael Gorman

その副題からして「聖書と神学」を話題にするブログとして始まったのだろうが、最近はアメリカの「市民宗教」現象に対して警鐘を鳴らすウォッチドッグ的記事を多く掲載している。

最近の記事Take me out to the civil religion affair at the ballgameでも大リーグ・ベースボールの試合中に起こったことを取り上げている。
それは7回の時に国内・国外で国のために戦っている兵士たちへの尊敬を込めて国家を歌う、と言うものであった。

ゴーマンは最近は余り試合を見に行く機会は減ったと言っているが、試合開始セレモニーにつき物の国歌斉唱の時はお便所に行ったりして避けていると言う。
そんな具合だから、この試合途中の国歌斉唱にいたく疑問を抱いた、と言う次第である。

記事ではこの場合の「神」はアメリカの民族神のようなもので、キリスト教の神ではない、と疑問を呈し批判している。

ゴーマンのような人はアメリカでは少数派と言っていいだろう。
そのくらい民族(民俗)的市民宗教はアメリカ市民に余り自覚もなく受け入れられている。
イラク戦争の時ブッシュ大統領を支持した多くのキリスト者たちの振る舞いに見られたように、彼らの意識の中では「聖書の神」は「アメリカの神」なのである。

筆者もその現象を最初に目撃した時は面食らったものだ。
アメリカでの一年目、聖書学校での学びを始めて間もなく、「収穫祭礼拝」がチャペルであった。
そもそもチャペルに国旗が飾ってあること自体異様な風景だったが、その時の礼拝の最中に「国旗への誓い(Pledge of Allegiance)」と言う儀式がなされたのである。

礼拝後学生たちにその時の違和感を口にしたら、殆んどの学生が「何がおかしい」とばかりに筆者を見つめた。
まだ足りない英会話力で何とかこのような儀式が教会でなされることの不適切さを議論しようとしたことを思い出す。

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