日曜の午後散歩に出た。
いつもの散歩のつもりだったが、この日はあることを祈るために散歩に出た。
あいにく10分過ぎた位で雨がポツポツと降り始めた。
通常だとこの時点で散歩コースを短かく切り替えて帰ってくるところであったがどうしても祈る必要を覚え続行することにした。
思えば筆者はいわゆる「プレイヤー・ライフ(祈りの生活)」に関してはずぼらな方である。
筆者の育ったキリスト教環境は概して「敬虔主義」の影響が強く、デボーションと呼ばれる聖書と祈りの「個人の密室の時間」を大切にする。
聖書学校や神学校ではこのことを霊的修練として大事にする。
牧師になってある時ふと思ったことがある。
福音書では「イエスが一人祈りに専念している」姿が描かれ、その姿を見た弟子たちがその崇高さに打たれたのかイエスに「祈りを教えて欲しいとやって来たのである。
つまりイエスは召し出した弟子たちを自分のそば近くに置きながら、あえて自分から弟子たちに祈りを教えなかった、と言うことになる。
勿論当時の敬虔なユダヤ人たちは日に三度シェマーを唱えていただろうし、「18の祝福の祈り(The Amidah)」のようなものが既にあってそれを唱えていたのかもしれない。弟子たちは弟子たちなりの「プレイヤー・ライフ」を持っていたはずだ。それなのに師であるイエスに祈りを教えて欲しい、と願ったのである。
イエスの答えが現在の私たちキリスト者も受け継いでいる「主の祈り」である。
さて「プレイヤー・ウォーク」に戻ろう。
祈りの課題は一つであり、集中して祈るために歩いた。
歩きながら幾つかの聖書の場面や言葉が思い浮かんだ。
一つはヨシュアとイスラエルがエリコの町を周回した場面である。
祈りの課題は周回コースに関連していたのだが、一歩一歩踏みしめながらかつて約束の地の一部を確保するために為されたこの一種「プレイヤー・ウォーク」とも言える場面を想像していた。
祈りの言葉は単純であった。
「信じて」「祈って」「歩きます」と繰り返した。
途中また雨が強めに降り出した。
横っ腹も苦しくなったので無理はよして区切りにしようかと一瞬迷った。
しかし祈りの要請が強く最後までコースを歩き通すことにした。
幸い雨は小降りのままで済んだ。
「信じて」と繰り返しながら、なかなか納得がいかなかった。
福音書には汚れた霊に取りつかれた子をイエスのもとに連れてきた父親のエピソードがある。(マルコ9:14-29)
父親の懇願の言葉「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(マルコ9:24)の場面が思い出された。
今祈りながら歩いている自分もこの父親のようだと感じられた。
父親のことばを繰り返した。
段々コースは終盤に差し掛かって来た。
横っ腹が苦しいままで歩き続けていた。
祈り終えた、と言う感触ではなかったがプレイヤー・ウォークは終点(家)に来た。
70分かかった。
祈りの1ラウンドが終わった感じがした。
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