2011年10月13日木曜日

ビブリシズム(聖書主義)続

先日紹介した本、クリスチャン・スミスの「ザ・バイブル・メード・インポッシブル」を一応読了した。
前回は途中までだったので読み終ってからの感想も書こうと思っていた。
一応大体読みこなせたと思うのだがそれをアウトプットしようと思うとなかなかどう書いたらよいのかまとまらないでいる。
でもとにかく何かメモ程度のものでも残しておこうと思う。

本全体の内容を紹介するのはちょっと大変なので、多分に個人的な印象になってしまうが、特に考えさせられたことを一二挙げてみようと思う。

①聖書とは一体どういう書物なのか。
聖書に対するイメージと実際の聖書との間のギャップの問題。
これはどう言う事かというと、前回スミスが挙げていた「ビブリシズムの前提になっている10個の考え」の中の最後にあったように、聖書をハンドブックやマニュアルのようにイメージして読むことがその良い例であろう。
例えば子供のしつけとか、未信者との付き合い方とか、様々な実際問題に対して聖書は回答を持っている、と言うようなアプローチを極端に進めていくと、「聖書はあらゆる問題の解決方法を持っている『信仰と生活の唯一絶対の規範』」であることにより、聖書の権威は際限なく拡大され、最早その中心となるべきものが分からなくなってしまう、と言う問題である。

物事には軽重がある。ウェストミンスター信仰告白を始め、殆んどの保守的プロテスタントの団体の信仰規準では「救いに関する」聖書の権威が明言されているが、実際には「救いに関する」と言う中心性、即ちイエス・キリストの福音に関する聖書の証言性と、生活の細々とした、中にはどうでもいい様な問いにまで、「聖書の権威」が拡大されて言及されると、聖書と言う書物のそもそもの性格が歪曲されかねない、と言うことである。

②聖書信仰とは何か?
筆者の属するグループは信仰規準や信仰告白に相当するものが決められていない。
「立場」として「聖書信仰」と「ウェスレアン・アルミニアン」の二つが規約に挙げられているだけである。
特に定義をしていないが「聖書信仰」を標榜すると言うことは、他の日本の福音派団体と同じような聖書に関する見解を共有していると言っていい。
最も簡明な言い方としては「信仰と生活の唯一の規範」と言うことになるが、実際にこの原則を運用するほどの論争や問題があったという記憶はない。
立場としてはそうだが、実際に物事の決まる過程においては聖書箇所を引っ張ってきてその権威に依拠する、などという神学的な議論にはおよそお目にかかったことは無い。
物事はもっと今迄踏襲されてきた事例や経験則で決められるのである。

逆説的だがスミスが言うほど聖書主義ではないことによって、聖書解釈を巡って対立したり、と言うことがなかったことになり、それはある意味良かったのかもしれない。

③なぜ聖書通読をするのか
一般に敬虔な信者は聖書通読を習慣とする。
しかしこの本を読み終って思ったことは、なぜ聖書全部を均等に読むことが良い習慣なのか、と言うことである。

イエスは「聖書(旧約聖書)は私について証言している」と言っている。
スミスも言うように聖書をどう読むかと言う問題から言うと、①のようなあらゆるトピックについてハンドブック的に読むことは、聖書をその時代的・文化的背景を捨象して平板に読むことに繋がる危険がある。
聖書のナレーティブがイエスを目標にしている、と言う視点から言うとハンドブック的読み方は脱線になりやすい。
だから聖書通読もよほどこのナレーティブ枠組みを意識したものでないと、ハンドブック的な断片的な読書になってしまうのではなかろうか。

以上、少し平凡な感想になってしまった。

本の中にはなぜ理論的に破綻しているビブリシズムがあたかも有効なものであるかのように福音主義陣営の中で強固に受け継がれているのか、と言う事の社会学的観察や、ビブリシズムのような理論と実践の背景となる、オールド・プリンストン神学(チャールズ・ホッジやベンジャミン・ウォーフィールド)の哲学的ルーツなどにも言及していて興味深いのだがとてもここでは紹介しきれない。

本自体はアメリカの福音主義の問題として分析、提言されているので、邦訳しても他人事のような印象を受けるかもしれないが、扱われている神学的問題、特に「聖書の権威」の今日的有り様に関して幾つか面白い提案をしていると思う。
(聖書の真理を帰納的に組織的に記述することが出来る、と言うオールド・プリンストン神学のようなモダニストでもなく、相対主義的なポストモダニズムになるのでもなく、第三の道、理論的にはクリティカル・リアリズムを提唱している。)

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