2010年12月15日水曜日

先生の横顔(3)

アズベリー神学校を卒業し、次に進んだのは米国東部ニュージャージー州プリンストンにある、長老派の名門プリンストン神学校。

その神学修士課程(Th.M.)は学生の様々なニーズに対応する便利な課程だった。
コースは一年。
論文はなし。
適当にクラスを取って次の目指す博士課程へ行くもよし。
それで学業を終えてもよし。

筆者が入学時、同課程には100以上入ったように記憶する。
留学生が多かった。
中にはカール・バルトの孫と婚約している、とか言う学生もいたっけ。

仲良くなったのはインドネシアからの留学生二人。
どちらも筆者よりかなり年配。国に家族を残しての単身留学だった。
後はルーマニアの学生ともテニスやバレーボールなどスポーツで楽しく遊んだ。

筆者は社会倫理を専門にしようと思っていたので、主たる教授はギブソン・ウィンター(Gibson Winter)教授だった。
聞いた話ではハイデガーを深く読んでいて、解釈哲学的なボキャブラリーが授業にも良く出てくるので殆んど「何の話や、これは」みたいな感じだった。

バイブルベルト地帯の超保守聖書学校を振り出しに、保守系神学校を卒業し、言ってみれば穏健なリベラル(と当時は見えた)の神学校に来た緊張もあってか、最初はウィンター教授に対し非常に警戒心が強かった。
聞きなれた聖書言語や神学用語は教授の口にはあまりのぼらず、哲学用語や抽象的な説明が多く、コネクトすることが難しかった。

一度、教授の部屋で、自分が書いた期末論文に関して意見交換する機会を持った。
まだコチコチの保守で、神学的にインセキュアー(不安で防御的)だった筆者は、自分としては珍しく熱い口調で自らの「福音主義信仰」を述べ立てた。ウィンター教授をリベラル(敵)と見立てたような剣幕で。
その時の教授の困ったような、悲しげな表情が忘れられない。
しかし、教授は議論せず、型にはまった筆者の「保守」的弁明を優しく受け止めてくださった。
筆者も言い分を明らかにした後は、却ってオープンマインデッドで学べるようになったような気がする。
やはり自分の(信仰的・思想的)殻は、段階的に再構築していくものなのだな、と後から振り返るようになったわけだが・・・。

その意味では、チャールズ・ウェスト教授の「ディートリック・ボンヘッファーの神学」クラスには大変啓発された。「コスト・オブ・ディサイプルシップ」「エシックス」「獄中書簡」、それにベートゲの「ボンヘッファー伝記」など、かなり身を入れて読むことができた。そして理解できたと思った。

ウィンター教授の授業内容は、多分に当時執筆中のLiberated Creationから来ていた。
基礎となるのは包括的な「解釈学的」パースペクティブであり、その上に社会学的、倫理学的、神学的思索を構築する、北米版「解放の神学」であった。

まあこの時には筆者の理解も浅く、伝統的な福音派の「個人的魂の救済」伝道と、「解放の神学」のような現実社会の政治社会問題を通して「福音を“実践する”」、という宣教観のギャップを客観的に把握できていなかった。

ただ「解釈学」や「現代哲学」など、アズベリー神学校では触れられなかった事柄に目を開いてくださったことには今でも感謝している。
問題は伝統的な神学科目と、これらの学問とが、どう学際的に連関するのか、と言う点にあったが、当時とてもそこまでは思いも及ばなかった。

プリンストンでの一年弱はある意味「遊び」のような気がする。
東海岸の「エスタブリッシュメント」の雰囲気は肌に合わなかったし、プリンストンの町は四季が綺麗で住みやすい場所ではあったが、なぜか落ち着く場所ではなかった。

一月頃だったか、突然勉強に身が入らなくなり、一週間ほど滅入った気分が続いた。
アズベリーを卒業してすぐ帰国した方が良かったんじゃないか。
自分はここで何をやっているのか。
思えば軽い鬱になったのかもしれない。

ここでの経験を反省して、次の(博士)課程は「教会コミュニティー」に繋がった環境で勉学できるところを選ぼうと思いが定まった。

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