2010年12月3日金曜日

「義認」と聖書

「のらくら者の日記」ブログで、先日北米ジョージア州アトランタで持たれた三つの会議のうちの一つ、「北米福音主義神学会」でのN・T・ライト師の様子が紹介されている。「北米福音主義神学会でのN.T.ライト博士」

内容は同学会に出席されたご友人の、山崎ランサム和彦先生のご報告(私信)。

実は私の友人も同学会に出席していた。もっと簡単な内容だが山崎氏と似たような印象を持たれたようだった。

(二人の討論の相手のように)教理的に細かいポイントに近接し、神学的伝統の枠組みに当てはめて論じるのではなく、聖書全体の文脈的流れから当該箇所(聖書の義認の教理に関連する箇所)を理解する、と言うライト師のアプローチのことである。

さて、筆者はこのような学会に参加する機会は残念ながら持てないが、このような討論がいくつものブログ上で取り上げられ、詳細に論じられ、ついにはその一つにライト師自身が反論すると言う異例の機会にも接し、興味深く「その後」を追っている。

簡単だが、英語を厭わない人のためにそれらのブログを紹介しておこう。

手始めにA Justification Debate Long Overdueをお読み頂くと、今回の討論の枠組みと、討論のポイントの概観を得ることができる。

※ちょっときつい言い方かもしれないが、当初討論に招かれていたジョン・パイパー師が欠席し、代わりにトム・シュライナー師が相手を務めたのは残念である。私見ではライト師に対して最も強い反論をしているのはパイパー師であり、より聖書学者としての議論をするシュライナー師は、ライト師の相手としてはやや軽量、と言うか本当の論敵ではなかったような気がする。
それに対しこのブログの著者が言っているように、明らかに二人の相手と対論する「敵陣」にちゃんと姿を見せたライト師は、「討論を厭わない」礼を尽くしたと言える。

このブログで引用されているライト師の言葉が大切だ。

“Only by close attention to Scriptural context can Scriptural doctrine be Scripturally understood,”
次に、ライト師もコメントで加わった、デニス・バーク氏のブログ。N. T. Wright on Justification at ETS

ここではまさに「教理的に細かいポイント」において、ライト師が自説を曲げたかのように論評されている。

曰く、将来(最後)の裁き (Future Justification) に関して、ライト師が討論の間に、今まで
on the basis of (works, a whole life led) を使用していたが、in accordance with と表現を変える譲歩を示した、とまるで鬼の首を取ったかのように論評している。

コメントにおいてライト師は、自分の見方が変わったのではなく、あくまで討論の相手が自分たちの枠組みで納得できる表現を取ったに過ぎない、と言うような反論している。

実際、どちらの表現を使おうとも、ライト師側で理解している枠組みは変更されたのではないことは、ライト師が同じことを両方の表現を使っていることで明らかである、と別のブロガーが指摘していた。

しかしライト師にとってどちらでも理解が同じ表現が、“こちこち”のカルヴィニストにとっては大きな違いがあるのだと言う。


この細かいポイントを詳細に論じているポストはWhat N. T. Wright Really Said


さて、筆者はここ数年「ガラテヤ人への手紙」から講解説教をしているが、確かにライト師の「義認」とは「神の民の一員」であることを宣言することであり、宗教改革者や、その後の伝統的な義認の教理が教えるような、「信ずる者に『キリストの義』が、その人の義として認められること」ではない、とする立場を理解するのに最初は戸惑いを覚えた。

しかし講解が進むに従い、ガラテヤ人への手紙の直接の文脈(ユダヤ人と異邦人が同じ根拠で、一つの神の民を形成する、つまりアブラハムの祝福の成就)に従って理解すると、義認が問題にしているのは「個人の罪が赦され、神の前に義と認められる」との“救済論的問題”と言うよりも、ペテロがアンテオケで異邦人と同じ食卓に着き(「ユダヤ人の様にではなく、異邦人のように生活していた)、「一つの契約の民」を生きていた、と言う“教会論的問題”が主要ポイントである、と理解できるようになった。

もちろんすべてが解決されたわけではないが、先ほどのライト師の引用の言葉にあるように、聖書それ自体の文脈に沿った理解がされないと、教理の正しい解釈とは言えないのだと思う。

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