2010年12月6日月曜日

講解説教

留学を終えて帰国し、母教会(父が牧師をする)へ帰って副牧師になってから21年が経つ。

副牧師でいた頃は、説教は月に一回していた。
最初の頃はトピカル(主題的)な説教をしたり、その時々の時宜に応じた説教をしていたのだろうか、今はちょっと思い出せない。
しかし間もなく所謂講解説教をやりだした。

最初に選んだ本は確か使徒の働きだったと思う。
月一回のペースなので全体を学び終えるのに4年かかったと思う。
この頃はまだ説教のネタ本になるような註解書や研究書を使うことなくやっていたように記憶する。

次に選んだのは「共観福音書」。
始まったのは1995年1月。
これが苦しみの始まりだった。
まだ本格的な講解説教ではなく、共観福音書の一大テーマである「神の国」にいきなり切り込もうとしたのである。

先ず、「神の国」と言う用語の登場箇所を表にしながら、マタイ、マルコ、ルカと言う区別なく、たとえ話や、癒し、悪霊の追放、と言う風に追って行った。

この頃ようやく説教のネタ本として買い求めたのが、G. R. Beasley-Murray, Jesus and the Kingdom of Godや、既に購入していた、Norman Perrin, Jesus and the Language of the Kingdom、などである。
しかし、これらの研究書は難しく、とても筆者の説教に反映させるまでには至らなかった。

そんな時手にしたのが、 Ernest Best, Following Jesus、であった。ようやく毎週の説教に反映させられる研究書に出会ったと思った。
「弟子の道」がマルコの福音書のテーマである、と言う切り口は学ぶうちに得心するようになった。

そしてようやく(筆者にとっては)本格的な講解説教となる、ルカ福音書の学びが、2000年から開始した。
その前年あたりからN. T. Wrightを読み出していた。
まもなくライトの、Jesus and the Victory of God、が講解を推進するネタ本になった。

細かいパッセージの釈義も、一世紀ユダヤ教の背景や聖書全体の文脈から関連付けられ、時に驚くような視点での解釈にも遭遇しながら、ルカ24章を走破した。
共観福音書の学び全214回中、何とルカ福音書の学びに154回かけたのであった。


ライトに至って、ようやく共観福音書の一大テーマである「神の国」の解明に端緒がついた。

そんな感触を得て、次の学びである「パウロ書簡」の学びに移ることができた。
2007年のことである。

現在、「ガラテヤ人への学び」が38回を数えているが、まだ3章の途中である。
しかし、神学的に難しいと言われる「パウロの説く福音」と「福音書の神の国の福音」の溝はあまり感じていない。
ライト的な解釈、一世紀の歴史的基盤での「神の国」理解が、福音書からパウロ書簡へスムースに繋がるように感じている。

筆者の説教の場合、「本格的講解説教」とは言わないだろうが、先ずはテキストが何を語っているのか、聖書全体の文脈的理解と、一世紀(主に)ユダヤ教と言う文化と歴史の文脈理解とを合わせながら、今後の学びを進めて行こうと思っている。

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