2010年12月27日月曜日

洗礼について

最近立ち寄ったある方のブログに自身の洗礼のことが書いてあった。

救いに関わる「イエス・キリストへの信仰」の故ではなく、自分が携わるキリスト教系組織で仕事をする手段的理由から受けたと言うのだ。
だから受洗の時の「信仰告白」は“嘘をついた”とのこと。

そう言う訳で、洗礼を受けたと言う意味では「クリスチャン」だが、イエス・キリストによる救いの信仰がないと言う意味では「クリスチャン」ではない、と言う二義的な「クリスチャン」であることを自覚しておられる方である。

この方は「内村鑑三」を研究していて、その意味で無教会的意識が影響して、良心の呵責なしに洗礼を受けることができた面もあるのかもしれない。
いやご本人の言によれば、自分の目的を達成する手段として正当化する意識が強かったようだ。

こんなことを考えていて、2008年12月に亡くなった加藤周一が、生前死の数ヶ月前にカトリックの洗礼を受けていたことを思い出した。

加藤周一の書いたものからは、およそ想像もつかないことだったが、確かに洗礼を受けたと言う事実から推察するに、老境の思想の変化があったのかも知れない、と考えたりもした。

思想的整合性の点からは、加藤は不可知論で徹底していたのではなかったか。


しかし誰にでも「信仰の飛躍」の機会はいつ訪れるか分からない。
加藤にもそう言う時が訪れたのかもしれない、とも考えてみた。

これら二つの「洗礼」は、共に“私的”な面・理由を軸に展開した出来事である、らしいことが共通している。

確かに洗礼を受ける、受けないは個人の選択である。その面では大変私的なものである。

しかし一旦新約聖書が教える、あるいは描写する洗礼と言うことから言うと、これは大変に公的なことであり、それ故信仰告白を伴う理由ともなる。

確かに実際に洗礼を受けた者の中には、筆者も含め、それほど十分な神学的理解や自覚を持って洗礼を受ける、と言うことがなかった者も多いことと思う。

洗礼は言ってみれば単純な信仰を持った時点で受ける入門式のようなものでもある。

しかしその神学的深みはパウロをして言わしめたように「メシアと一体となる」ことであり、「メシアと共に死に、メシアと共によみがえる」と言うことを表すものである。

洗礼とは斯くも重大な出来事である。

ただ人間と言うもの、こと洗礼や聖餐と言う聖礼典に限らず、普段の礼拝や祈りにおいても、意識がぼんやりと、ただ習慣的に行っていることがどれほど多いことか。
ことは「組織がやるものだから」と言うのではなく、人間のやることは案外いい加減が多い。

ただいい加減にやっていることでも、それ自体の持っている意味や意義に時々覚醒されて自覚を新たにすることがある。

知性を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、身体を持って生ける神を礼拝する、それが求められていることなのだと思う。

4 件のコメント:

  1. 拙ブログにコメントをいただきまして、ありがとうございました。
    おそらく私のような立場というのは反感を持つ人も少なくないでしょうから、小嶋さんのように教会で牧会に携わっておられる方から受け止めて(いい言葉が見つかりませんが・・・)いただけると、少し赦されたような気になります。

    洗礼の件は、神学が専門ではない人からですが「それは君が神学をする限り背負い続ける十字架だろうね」と言われた時、そうかもしれないと思った自分がいました。
    罪悪感が出てきたのかもしれませんね。

    とりとめのない文章になり、申し訳ありません。

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  2. わざわざこちらにコメント下さりありがとうございます。
    信仰がないのに洗礼を受けた件に関してはその人の良心の問題のこともあり、ご自分で色々分析されていることも含めて、「既に結論が出た」ことではもちろんないと思います。ご友人が仰っていることは、実は信仰を持って洗礼を受けた者に当てはまることだと思います。イエスを信ずるとは、イエスのファロワーになることです。「迷えるトマス」のように迷走しながらのファロワーもきっと多いに違いありません。また信仰をなくす方もまた多いのです。その方々が洗礼を受けた時どの程度の覚悟と理解で洗礼を受けたのか・・・。主観的な信仰は案外あやふやなものです。頼りないものです。
    私はきくかわさんの文章に素直さを感じました。「信仰」の問題としっかり向き合っていると感じました。御ブログでコメントされていた「キリストが罪を贖ったというが、人間は依然として弱く、汚くあり続けているのにどこが救われたんだ・・・と思ってしまいます。」に関しては又コメント差し上げるか、拙ブログで取り上げたいと思います。
    確か内村鑑三の息子も別な意味で贖罪信仰に躓いてクリスチャンにならなかったそうですが、救いのロジックと言うより、現実の悪の存在がキリストによる救済神学思想を根底から否定する、と言う解釈は大きな問題だと思います。

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  3. > 習慣的に行っていること

    以前クリスチャンホームで育った友人に
    「ちゃんと毎週教会に来ていてエラいよね」と何気なく言ったところ、
    「習慣と信仰は違うから」という、私のように家族が信者ではない者からすると想像もつかない言葉が返ってきてびっくりしたことがあります。
    でも信仰生活も長くなるとこの言葉の意味が(哀しいかな)よくわかってきました。
    最近は「習慣」にさえなっていないかもしれず、反省しきりです・・・

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  4. Meeさんコメントありがとう。
    誰でも自分の信仰を振り返ると反省すること多ですよね。でも信仰はある程度までは自助努力(カトリックは功徳を積むのでしたっけ)が必要ですが、最後は神の恩寵に圧倒されることでしょう。そのためには自分の真の姿に気付いて“砕かれる”とこまで行く必要があるように思います。
    大事なことは「すべてのものは神から出て、すべてのものは神に帰る」のだと思います。
    自分が(信仰的に)捉えたのではなく、神が私を捉えてくださった、と言う認識に至れれば、それがキリスト教的“悟り”の境地と言えるかもしれませんがどうでしょう。
    パウロも言っています。自分はまだ捉えたなどとは思っていない。ただ後のものを忘れ前のものに向かってひたすら進んでいる。
    現在の歩みを反省することは大切ですが、信仰は前のものに向かって進む、それが大切では。
    そのためには「何に向かって進むのか」がはっきりして来なければなりませんが。少なくともそれは「習慣」よりはもっと動的な何かでしょう。

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