2015年8月30日日曜日

今日のツイート 2015/8/30

なんか圧倒されるというか・・・。

あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
主は、とこしえにいます神
地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
倦むことなく、疲れることなく
その英知は究めがたい。

疲れた者に力を与え
勢いを失っている者に大きな力を与えられる。

若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
(イザヤ書40章28-31節、新共同訳)

2015年8月29日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年8月30日(日) 午前10時30分



 朗読箇所 マルコ福音書 12:13-17
説 教 題 「神のものは神に返しなさい」
説 教 者 小嶋崇 牧師
  
 平和を作る者(2) 

神の民の召命と歩み・・・日本で戦後70年をどう生きるか

2015年8月27日木曜日

今日のツイート 2015/8/27

なんともはや・・・

この「呪殺」とは何なのか・・・

オウム真理教ノート 2015/5/3」で鎌田東二『「呪い」を解く』を紹介したが、その本の中に「呪殺」の考察があった。

印象では《宗教的行為》として見過ごしてはならないものを含んでいる、というニュアンスだったと思う。

やはり「宗教とテロリズム」の範疇に入る事柄であろう・・・。

2015年8月25日火曜日

(5)ドナルド・トランプと福音派キリスト教

ドナルド・トランプの名前はまだまだ日本では知られていないのではないかと思う。

現在、米国大統領選の共和党候補指名争いを先行しているようだ。


つい最近、彼が放った日米同盟についての発言が波紋を投げかけている。
「(現在の日米同盟の下では)米国は、もしも日本が攻撃を受けた場合、日本を防衛することを義務づけられています。しかし日米安保条約の規定では、日本は米国を助ける必要はないのです。こんな状態を、みなさんは良い取り決めだと思いますか?」
日本でもこの発言は大々的にではないが多くのメディアが報道したようだ。


しかしそのニュアンスや背景を斟酌する記事はそれほど出ていないようだ。

上にも一部引用したが、JBPressで古森義久氏が『暴言か正論か、トランプ氏が日米同盟の片務性を非難』という記事を書いている。(2015年8月25日)

古森氏はこのような発言がトランプ氏だけにみられるものではなく、民主党まで含めた多くの政治家が抱いている不満なのだ、と分析している。


さて、トランプ氏を「大衆扇動的」と古森氏が評するように、彼の政治家としての資質を語るとき、その富と合わせて「煽動家」の面はよく指摘されるようだ。

目下支持率を上げるためにかどうか、(メキシコからの)移民政策での強硬な発言が目立つが「彼が大統領として“本当に”何をやりたいのか」はまだよく分からない、という段階だろう。


さてここからが本題だが、一体米国のキリスト者、特に筆者と関係が深い福音派キリスト者は、トランプ氏をどう見ているのだろうか。

まだリサーチを始めたばかりで幾つか目立つものをネットから拾ってみた。

これは保守系のリバティー大学(キリスト教右派の代表の一人であったジェリー・フォルウェルが創設した)での始業式でのスピーチ。

このスピーチから彼の人となりが結構分かる感じだ。

(彼は長老派の教会で堅信礼を受けたキリスト者であることを伝えている。教会学校にもよく通った、と述懐している。)



(1)ハードワーカー

 You have to love what you do、を何度も繰り返していたが、とにかく仕事が好きなのだろう。彼の場合は不動産業だが、父親と同業であったがかなり叩き上げ的スピリットの持ち主のようだ。

(2)競争心旺盛

 Never give up. というのも座右の銘のようだ。90年代自分の周りの味方も敵もどんどん破産していた時に、とにかくあきらめずに生き延びた、というエピソードを紹介している。

(3)誇り

 現在のアメリカの落ちぶれた姿に対する怒りと叱責が鋭い。オバマ大統領がオリンピックをシカゴに誘致できなかったことや、ニュー・ヨークに世界の首脳が大挙押しかけているのに、誰とも会談しなかったことを「恥ずかしく」捉えている。

(4)ビジネスマンのマインド

 リビヤやエジプトからの援助要請に対し、それに見合う金銭的見返りを得なかったことに対する批判が厳しい。この辺の「米国の利益」に対する率直さはなかなか手ごわい。


といったところだろうか。

(またリサーチが進んだら「続編」をやりたいと思う。)

2015年8月24日月曜日

今日のツイート 2015/8/24

最近ツイートに画像や動画を添付したものが増えているが、これもそう。

この意味がよく分からないが(基本ナンセンスなのかもしれない)、江戸の文化が現代のハイテクに勝る・・・といったニュアンスなのか知らん。

と、元を見たら
葛飾北斎「富嶽三十六景 礫川雪ノ旦」 「ミグ29かしら。」おてんば姫は今日も戦闘機を墜落させます。雪の日の朝でした。
となっていました。

2015年8月22日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年8月23日(日) 午前10時30分


朗読箇所 ガラテヤ 3:1-5
説 教 題 「御霊と肉」
説 教 者 小嶋崇 牧師

教会史遡行(7)
 宗教改革・・・マルチン・ルター(1483-1546)

今日のツイート 2015/8/22

あれま!

米国遊学を終えて帰国したのが1989年2月。

それからあれよあれよという間にこんなになっちゃったんだ。

学んだ学校の一つから送られてくる同窓生ニュースに掲載されている写真を見ながら「毎回、あちゃー」とは思っていたが・・・。

2015年8月21日金曜日

(5)雑想「いくさ」について思うこと

安保法制論議に直接関わらないが、その傍系の論議の一つについて。

いくつかあるが、先ずすぐ思いつくことから始める。

近代戦争における「いくさ」の非人間化

(1)破壊兵器の技術的進歩は何を目的とするのか

 確か第一次大戦からであったろうか、戦闘機が導入されたのは。

 大量破壊兵器と位置づけられるのかどうか知らないが、第二次大戦での重爆撃機B-29による無差別爆撃を考えると、短期間で、なるべく味方の損害を増やさないうちに、一方的優位を勝ち取って、相手を降伏に追い込むための「武器」という考え方が「いくさ」のやり方として最重要な問題になって来ているのではないか。

 もちろん、本格的な戦争に入る前の「小競り合い」というのはあり、その場合は相互に「計算されたダメージ」の応酬をしている間に、何とか政治的決着を図る・・・というのが「いくさ」のやり方の一つとしてある。

 だから様々なレベルの武器が必要とされるのだろう。

 しかし流れとしては「戦闘員と非戦闘員の区別」がつかない争乱・戦争の方向が強まっているのではないか。

(2)ハイテク武器の意味すること

 大量破壊、無差別攻撃、の次に思うのは、レーダーやハイテク機器の発達で、戦闘員が敵を生身の人間として見たり、相対することなく、殺戮できるようになってきたことである。

 ここ数年ドローンによる偵察や攻撃がかなり使われるようになってきた。

 特に民主主義国が戦争に関わる場合、人的な損害を最小に抑えるために、このような「非人武器」利用の増加は避けられないだろう。

 GPSの利用で敵ターゲットをピンポイントで攻撃でき、市民の巻き添えを避けることができる武器、と考えられているが、やはり戦闘員の「非身体化」という点で、大きな疑問が残る。

 戦は望んで行うものではなく、回避できなくて取る「悪」という位置づけであっても、相互に身体的ダメージを確認し合いながら停戦を探っていた時代に比較し、このままハイテク機器が進歩し、それが大々的に「いくさ」で使われるようになると、「戦争悪」の深い反省がどれだけできるだろうか。


第二次大戦を「終結させた」と理解されている原子爆弾使用を人類的な悲劇として反省するまでにかかった(まだ進行中だが)時間はどれだけか・・・。

民主主義国家の戦争は、職業エリート軍人と一定期間軍人(戦争後に退役)でなされるが、そうであっても実際の戦闘によって(理由は様々あろうが)精神的トラウマを受け、かなりの数の自殺者を出している。

民主主義国家は、基本的に「普遍的人類意識」を持つ傾向にあり、たとえ国益だとしても他国の軍人・市民を殺戮するための道徳的ハードルは高い。(分かっていても、教育されても、人を殺すことは簡単ではない)だから基本厭戦である。


ということで、味方の損害を最小限に抑えるという理由で大量殺戮兵器が進歩し、戦闘員の「非身体化」を助けるために武器のハイテク化が進んでいくと、戦争を遂行するための道徳的矛盾は激化・複雑化し、それを解決するための精神的スタミナがギリギリまで試され、磨耗・疲弊させられる傾向にある、といえないだろうか。


と、そんなことを考えている。


2015年8月20日木曜日

(4)タカ牧師のセブンー5

残暑お見舞い申し上げます。


さて今回の「セブン」は『アメリカと宗教』といった感じのものを多く集めてみました。

1. Americans and God(ニュー・ヨーク・タイムズ、2011年12月11日)
  『アメリカ人と神』

 キリスト教国アメリカは、キリスト教の退潮著しい西洋において「例外」といわれてきましたが、ここ数年数的な減少が露になり、ついにアメリカも脱キリスト教か、と取りざたされるようになりました。
 この記事ではそのような表面的「アメリカ人のキリスト教退潮現象」は一時的なもので、余りにも「政治と宗教が絡んでしまった」ことに対する嫌悪感情から来ているのではないか、と指摘しています。

2. Evangelicals' Claims of Conservative Supremacy Are Overstated(ハッフィントンポスト、2015年5月14日)
  『保守派隆盛との福音派の主張は言い過ぎ』

 つい最近まで、北米キリスト教諸教派の動向は、主流派の衰退と福音派の伸張の対比で理解されてきましたが、最近のピュー宗教調査で、その構図は崩れた、と指摘します。今や主流派も福音派も殆ど関係なく退潮傾向にあると。

3. Book Review: American Apocalypse: A History of Modern Evangelicalism by Matthew Avery Sutton
  『書評、マシュー・エイブリー・サットン「アメリカ黙示録ー近代福音主義の歴史」』

 詳細についてはコメントできませんが、アメリカ宗教(キリスト教、特に福音主義)史の指導的研究家であったジョージ・マースデン以降の若手研究家が次々輩出しているようです。サットンもその一人で、最近100年くらいの福音主義運動を、前千年期再臨説に立つ終末論によって特徴付けられる、という解釈を提示しているようです。

4. Waning of Apocalyptic Thinking among Evangelicals?
  『福音派の中で黙示的終末思考は衰退しているのか』

 これもサットンの本の書評ですが、お馴染みスコット・マクナイトのブログ記事です。歴史家の大局的解釈に対して「ちょっと違うんでないの」と批判しています。確かに影響は大きかったが福音派をひっくるめてのものではない、と指摘しています。

5. Interview with Matthew Avery Sutton
  『インタヴュー:マシュー・エイブリー・サットン』

 このインタヴューで、サットン自身が、本に著したようなアポカリプティックなキリスト教の環境で育ったこと、それが後の歴史研究に繋がっていると答えています。

6. オープンダイアローグって何だ?

 去年から「カウンセリング」の機会が増えました。いわゆるセラピーと名のつくものは少なくとも大体名前を知っていたりはしますが、カウンセリングの実際でそれら様々な理論や説の実効性や妥当性を考える機会はありませんでした。現在実地研修中ですが、この新著はかなり革新的なアプローチを取っているもので興味深いです。

7. 「こころ教」のガラパゴス

 イスラム地域研究者、東大の池内教授のブログです。「こころ教」とは「浄土真宗の僧侶で仏教学者でもある佐々木閑氏」 の説で、現代仏教の分析に用いられているキーワードですが、佐々木氏がそれを現代イスラム教にも応用しようとしている点に鋭く批判しています。


 以上でした。

 実は上記3、4、5で取り上げた、マシュー・エイブリー・サットン「アメリカ黙示録ー近代福音主義の歴史」については独立したブログ記事を書きたかったのですが、今のところできていません。

 関心のある人にはよだれが出るような研究機運が「ジョージ・マースデン以降の福音主義の歴史研究」でみられます。

 その代表的な歴史家とその著作を紹介している記事を以下に挙げておきます。

 Nathan A. Finn, Evangelical History after George Marsden: A Review Essay (リンク)

2015年8月17日月曜日

今日のツイート 2015/8/17

きょうはこれ。


新約聖書は最初「オーラル・ヒストリー」だったものが、初代のイエスの弟子たちから第三世代になる頃になって文書化されたもの、というのが一応の仮説だ。

現代ではメディアは様々あるし、デジタルにもなったわけだが、この漫画シリーズは第二次大戦の惨禍について伝える「オーラル・ヒストリー」な風合いがある。

2015年8月15日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年8月16日(日) 午前10時30分


朗読箇所 コロサイ人への手紙 1:24-29
説 教 題 「秘められた計画」
説 教 者 小嶋崇 牧師

コロサイ(20)/パウロ書簡の学び(137)

2015年8月11日火曜日

(3)英語圏ブログ紹介⑮

すっかり忘れないうちに、このシリーズも追加しておこう。

⑬マーク・コーテーズ
⑭ピーター・ライトハート

と来て、今回は新約聖書学に特化したブログです。

右コラムの「マイブログリスト」にもありますが、
マシュー・モントニーニNew Testament Perspectivesです。

なぜこのブログを思いついたかというと、最近「のらくら者の日記」ブログにアップされた英国学者主教の伝統のことを書いていたからです。
(記事のタイトルはもっと物騒なものなので書きませんでした。)

ドイツのチュービンゲン学派に対抗する英国の学派は一世紀以上前のダーラム主教を務めたライトフットやウェストコットによって作られた・・・と紹介しています。

今話題となっているN.T.ライトがやはりダーラム主教を務めましたが(2003-2010年)、この記事を書いて以降問い合わせがあり、「・・・日本の福音派の人たちがあまりにも J. B. ライトフットや B. F. ウェストコットらについて知らないことに驚いている。彼らとその業績を知らなくて、どうして N. T. ライトを語れるのだろうか?!」と別の場所で嘆いておられました。


モントニーニのブログはある意味玄人好きのするサイトで、ライトフット、ウェストコットのような昔の学者や現在活躍中の人たちもいろいろカバーしています。

結構渋い名前もあり、とにかく新約聖書学者のフーズ・フー(Who's Who) という感じです。

ちょうどライトフットとウェストコットに焦点が当たりましたが、
Lightfoot did, however, continue to take notes on John's Gospel, which Ben Witherington III discovered at the Durham Cathedral Library in the spring of 2013. With this discovery and its future publication (The Gospel of St. John: A Newly Discovered Commentary; Dec. 2015; InterVarsity Press Academic; 384 pp.), perhaps Lightfoot's name will be placed alongside the pantheon of the great British commentators on the Fourth Gospel.
とのらくら者さんが別なところで紹介していたベン・ウィザリントンⅢアズベリー神学校教授の発見がきっかけで本となる、ヨハネ福音書註解のことを書いています。(Lightfoots Commentary on the Gospel of John

日本ではとても有名な(故人ですが)F.F.ブルースについても音声ファイルのアーカイブを紹介しています。

まっ個人的には一番スリリングだったのは、N.T.ライトのメンターであった(博士論文指導教官だったが残念ながら完成前に亡くなった)G.B.ケアードの『新約聖書神学』のもととなった講義の音声ファイルが見つかり、公開されている。

この『新約聖書神学』は、筆者にとってとても思い入れの強いものなのです。 

2015年8月8日土曜日

(3)オウム真理教ノート 2015/8/8

先日知人から原稿を頼まれた。その方が編集する同人誌だ。

しかもオウム真理教絡みで。

ご丁寧にオウム真理教についての新聞切り抜きも幾つかいただいた。

というわけで今夏は少し考えをまとめる時間が必要になるかもしれない。


前回のオウム真理教ノートは5月初めだった。

まだ3ヶ月しか経っていないが何か1年も前のように感じられる。

やはりこの間憲法と集団自衛権行使の問題がありそちらに注意を取られたからだろう。


少し時間は遡るが、ハッフィンポストにオウム真理教事件から20年、学ぶべきだった「普遍性」とは 森達也さんに聞くという記事が掲載された。

フェイスブックで友達の一人がその記事を「シェア」していたので次のようにコメントした。
□□さんも「オウム真理教」をウォッチしているのですか。
コメントしてもらうとどんな「ウォッチ」をしているか分かるんだけどな。
そして筆者としてはこの記事の要点として二つがあるのではないか、と以下のようにコメントした。
森達也が指摘する2大ポイント:
①宗教組織としてオウム真理教がサリン事件を起こした内在的メカニズム
②サリン事件が引き起こした「日本社会の集団化」の内在的メカニズム
二つの点ともそれほど議論も解明も進んでいないではないか、と言う問いかけに対して、マイノリティー宗教集団ニッポンキリスト教はどう答えるのでしょうかね・・・。
どうでしょう。
□□さんの反応は以下のようなものであった。
私はオウムについてはほとんど知らないのですが、前に奉仕した教会の目の前に□□□□の青年信者のホーム(秘密の共同住居)があり、また八王子駅前での正体を隠した違法伝道が酷かったので、□□□□と闘うことになってしまいました。その関係で異端やカルト問題には少し気を配っている程度です。
ところで小嶋先生は、ニッポンキリスト教、と書かれていますが、この言葉には何か考えが含まれているのでしょうか?日本のキリスト教界、とか日本のキリスト教会、ではなく、ニッポンキリスト教。
続けて引用すると、筆者の応答は以下のようであった。
「ニッポン」は意味ありげに聞こえますね。
確かに幾分意味は込めました。

まだブログ等に書く段階ではないですが、一つは山本七平が使った「日本教」との関連で。

もう一つは山本/丸山真男/そして最近関連付けて書いている池田信夫・・・が問題にしている「空気の思想」辺りですね。

「空気の思想」辺のことは、森達也が指摘している「集団化」と重なる現象でしょう。

オウムのように「トンガッタ」ことをやる宗教団体に対する異質観が本来マイノリティー宗教が持つ社会的役割なわけだけど、「マジョリティー志向のキリスト教」の問題が「ニッポンキリスト教」に繋がると思いますね。

その程度のイミシン状態にしておきます。ご容赦。

とまあ、森達也が「オウム真理教未解決」として提起した「二つの問題」に対する糸口みたいなものを暗示しただけに終わった。

「二つの問題」のうち「①宗教組織としてオウム真理教がサリン事件を起こした内在的メカニズム」はこれまでオウム真理教ノートが追っかけてきたことだ。

しかし「②サリン事件が引き起こした『日本社会の集団化』の内在的メカニズム」に関しては、まだそれほど考え来ていない。

森は同記事で次のような警鐘を鳴らしている。
事件後、各地でオウム信者の転入拒否がありました。あのときこの国の戦後デモクラシーが試されたような気がします。オウム信者の住民票不受理は明らかに憲法違反。行政も当然それはわかっている。でも住民たちは不安を訴える。「受理しないでくれ」と多数派が言ってきたときにどうすればいいか。結局は多数に流されるわけだけど、言い換えればその程度のデモクラシーしか僕たちは獲得できていなかった。そういう意味ではまぎれもなく、オウムは戦後初めて登場した「公共敵」ですね。心ゆくまで思う存分戦える敵。その存在を前にデモクラシーが膝をついた。オウムだからとの理由で。でも例外は絶対に前提になるんです。
オウム真理教自体も問題だが、そのオウムを「公共敵」として排除するに当たり「憲法違反」も許容されるような「空気が支配する日本社会」はさらに問題だ、ということであろう。

いずれにしてもこの辺のことをこの夏の宿題にして、依頼された原稿に繋げていこうと思う。

明日の礼拝はお休みです

巣鴨聖泉キリスト教会での明日、
8月9日の主日礼拝はお休みです。

どうぞお間違えありませんようにお願い申し上げます。

※(東京の)連続猛暑日更新はひと段落のようですが、暑さの中熱中症等 健康にはくれぐれも留意してお過ごしください。

2015年8月6日木曜日

今日のツイート 2015/8/6

えー、という感じのツイート。


この方のプロフィールは以下のようになっている。
山本芳久(やまもと よしひさ)
東京大学大学院総合文化研究科准教授
1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科(哲学専門分野)博士課程修了。中世最大の思想家トマス・アクィナスを軸に、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の比較神学的・比較哲学的考察を進める。
『トマス・アクィナスにおける人格の存在論』、
「イスラーム哲学―ラテン・キリスト教世界との交錯」
(『西洋哲学史Ⅱ』所収、講談社)など。
信仰者としてのスタンスはどうなのか分からないが、これを読んで実はこの方の「信仰者としてのスタンス」について「はてな?」、と思ったのだ。

「キリストの死と復活」を、「死んで甦る神」というモチーフとして捉えた場合、それは世界の神話の中に類似のものが見つかり、その結果キリスト教の特殊性は減ずるが、普遍性は増加するゆえ、「キリスト教の真理性を裏付ける」ことになる。

と言い換えてみたのだが、何か分かったような分からないような主張だ。

まっ、比較宗教の領域では、このような議論はそもそもが初歩的なものであり、単に類似性を指摘することは、比較する意義があることを示すに過ぎない。

とすれば、「キリスト教の真理性を裏付ける」までにはまだ幾多の多様な議論を必要とするであろうから、一ツイートでここまで書くのはいかに何でも飛躍といわざるを得ない。

とまあ、そんな風に思ったわけでした。


(4)「イチオシ!」の入れ替え

水村美苗の『日本語が亡びるときー英語の世紀の中で』を紹介しイチオシ!に推薦したのは去年の7月21日だった。

この欄に陳列するのがこれほど長くなるとは予想外だった。

入れ替えできずにいるあいだ、『日本語が亡びるとき』の増補版が出た。


「日本語という『国語』で文学し(かつそれを用いて国民教育を受けること・受けられること)」の歴史的特異性と貴重性を議論した水村の本と主題や方向は少し違うが、

日本語という国語ベースで科学教育し、かつノーベル賞級の成果を出すまでの言語環境はそうない、と主張する松尾義之『日本語の科学が世界を変える』も似たような問題意識で貫かれている。


さてここまでは今日からイチオシ!を入れ替えるためのさよならセレモニーでした。

では今朝読了したばかりですが(だから少し躊躇の気持ちもあるのですが)、きょうからイチオシ!に陳列する作品を紹介します。


金鎮虎著、香山洋人訳

最も素直な感想は「オモシロイ」だ。

それほど考えずに読んでいたが、読み終わって少し考えてみると、オモシロイ要素の幾つかはこんなものかと思う。

(1)韓国のキリスト教会(特にプロテスタント)事情を赤裸々に伝え分析する

 日本においては韓国教会は「成功モデル」として長らく関心の的であった。
 特に「成長する教会」としてその数量的勢いに圧倒されてきた。
 しかし著者はほとんど何の感傷もなく、その実体にメスを入れている。その「切加減」が容赦ないところに「全体像を把握しようと肉薄する情熱」がうかがい知れる。

(2)分析手法に社会学的洞察が濃く組み込まれている

 朝鮮戦争後の韓国教会の歴史を「近代化」の視点で捉えている。
 特に、産業化・都市化・消費資本主義・階層化・二極化など。

 これを背景に主流派とペンテコステ(純福音教会)の教会成長戦略を支えた「神学」が分析されている。
 ※筆者にとってこのような「近代化」と「キリスト教」を関連付けて分析する古典的名著は、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』だ。
 ヴェーバーの場合分析対象は一国の近代化ではなく、欧米という一大文明圏であった。そのため取られた方法論はもっと慎重で複雑・重厚だ。
 その点この著作では社会学的な概念構成は単純であり、教会神学の「イデオロギー」的表出については詳しくない。
 イデオロギー表出とは、マルクスの弁証法的唯物論の立場からすると「(神学のような)上層構造物は経済関係という下層構造に規定される」、というような捉え方。
 ヴェーバーの視点はイデオロギー部分に当たる「文化的要素」を独立した関係におき、政治・経済要素とは「相関」 する、という立場。
 故に出来上がった近代化の因果関係については、プロテスタント倫理が「意図せずして」近代化に寄与した、とのアイロニカルな歴史像を提示した。
 韓国近代化と教会の関係はより自覚的でいわば共犯関係が成立していることは頷けるが、詳細叙述についてはまだこれからではなかろうか。
 たまたま思い出したが、日本の近代化論にあって、丸山のリードのもとなされた武田清子の一群の「明治期日本人キリスト者の思想史的研究」のようなものが必要ではなかろうか。
(3)問題意識が(筆者があまり関心なかった)民衆(ミンジュン)神学

 米国遊学時既に「民衆神学」については、解放の神学や文化脈化(コンテクスチャル)神学の関連で聞き及んでいたが、ついぞ関心を持つに至らなかった。

 著者の金鎮虎氏は第三世代の民衆神学者、だという。

 結論の部分に「民衆」の側に立った教会論の輪郭のようなものが素描されている。

 これに関しては目下はあまり言わない方がいいだろう。


日本ではまだこのレベルの神学的著作は少ないように思う。

その意味でも一読に値するのではないか。

さらに、隣国との複雑な関係にある日本のキリスト者にとって、批判や羨望を越えたところで、つまり神学的な方法論として、社会学的分析を縦横に用いたこのような著作は一つのモデルとしても読めると思う。

様々な示唆に富むし、また議論の糸口を幾つも提供してくれるように思う。


さて図書館から借りて本書を読んだが、自費購入するとするか・・・。 

2015年8月5日水曜日

今日のツイート 2015/8/5

どうも夏バテ気味で余り更新する元気がないのだが・・・


このグラストンベリー・トア(Glastonbury Tor)は、
イギリスサマセットグラストンベリー近郊にある海抜145メートルで、丘の頂上付近にある屋根が無い旧聖ミカエル教会が特徴的である。ナショナル・トラストによって管理されている。


サマセットの農村地帯に突き出たグラストンベリー・トー
かつてサマセット一帯は湖や湿地帯が広がっており、これらが干拓されてしまう以前は、グラストンベリー・トーは島のように湿地の中に浮かんでいた。古代よりケルト人などの聖地であったほか、アーサー王伝説に登場する伝説の島・アヴァロンをグラストンベリー・トーに同定する説もあり、12世紀末にはアーサー王グィネヴィア王妃の遺体とされる骨や棺がグラストンベリー修道院長らによって頂上から「発掘」され、修道院に埋葬されたと伝わっている。
となっている。(参照はウィキ)

実はほとんど知らなかった。

ただ最近「ピルグリメージ(巡礼)」が『ポスト世俗』現象(※)として騒がれだし、実際今年になって教会員の知人(フランス出身で北米在住)の方が「四国巡礼」に来日されたお話をうかがったばかり。

グラストンベリー・トアも熊野古道とともにThe 10 Best Pilgrimages for Modern Travellersで紹介されている。

近年日本でも「寺ガール」や「仏像ガール」 、そしてパワースポットやホラースポット等、観光と組み合わさった「スピリチュアル」がブームのように扱われている。


岡本亮輔の聖地巡礼がその辺の事情を解説しているようだ。

ちょうどN.T.ライトの『クリスチャンであるとは』の第2章「隠れた泉を慕って」 でも、一見世俗化したヨーロッパの人がスピリチュアルなものに関心を寄せている事情を捉えている。


※ポスト世俗現象・・・スタンダードな「世俗化論」(宗教社会学の研究対象)では、科学が発達する現代社会では宗教は退潮しやがて消滅するだろう、と予測されていた。

2015年8月1日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年8月2日(日) 午前10時30分


 朗読箇所 マタイ福音書 26:47-56
説 教 題 「召しを全うする」
説 教 者 小嶋崇 牧師

平和を作る者(1) 
神の民の召命と召された時の歴史的文脈・・・戦後70年を迎えた日本のキリスト教会