安保法制論議に直接関わらないが、その傍系の論議の一つについて。
いくつかあるが、先ずすぐ思いつくことから始める。
近代戦争における「いくさ」の非人間化
(1)破壊兵器の技術的進歩は何を目的とするのか
確か第一次大戦からであったろうか、戦闘機が導入されたのは。
大量破壊兵器と位置づけられるのかどうか知らないが、第二次大戦での重爆撃機B-29による無差別爆撃を考えると、短期間で、なるべく味方の損害を増やさないうちに、一方的優位を勝ち取って、相手を降伏に追い込むための「武器」という考え方が「いくさ」のやり方として最重要な問題になって来ているのではないか。
もちろん、本格的な戦争に入る前の「小競り合い」というのはあり、その場合は相互に「計算されたダメージ」の応酬をしている間に、何とか政治的決着を図る・・・というのが「いくさ」のやり方の一つとしてある。
だから様々なレベルの武器が必要とされるのだろう。
しかし流れとしては「戦闘員と非戦闘員の区別」がつかない争乱・戦争の方向が強まっているのではないか。
(2)ハイテク武器の意味すること
大量破壊、無差別攻撃、の次に思うのは、レーダーやハイテク機器の発達で、戦闘員が敵を生身の人間として見たり、相対することなく、殺戮できるようになってきたことである。
ここ数年ドローンによる偵察や攻撃がかなり使われるようになってきた。
特に民主主義国が戦争に関わる場合、人的な損害を最小に抑えるために、このような「非人武器」利用の増加は避けられないだろう。
GPSの利用で敵ターゲットをピンポイントで攻撃でき、市民の巻き添えを避けることができる武器、と考えられているが、やはり戦闘員の「非身体化」という点で、大きな疑問が残る。
戦は望んで行うものではなく、回避できなくて取る「悪」という位置づけであっても、相互に身体的ダメージを確認し合いながら停戦を探っていた時代に比較し、このままハイテク機器が進歩し、それが大々的に「いくさ」で使われるようになると、「戦争悪」の深い反省がどれだけできるだろうか。
第二次大戦を「終結させた」と理解されている原子爆弾使用を人類的な悲劇として反省するまでにかかった(まだ進行中だが)時間はどれだけか・・・。
民主主義国家の戦争は、職業エリート軍人と一定期間軍人(戦争後に退役)でなされるが、そうであっても実際の戦闘によって(理由は様々あろうが)精神的トラウマを受け、かなりの数の自殺者を出している。
民主主義国家は、基本的に「普遍的人類意識」を持つ傾向にあり、たとえ国益だとしても他国の軍人・市民を殺戮するための道徳的ハードルは高い。(分かっていても、教育されても、人を殺すことは簡単ではない)だから基本厭戦である。
ということで、味方の損害を最小限に抑えるという理由で大量殺戮兵器が進歩し、戦闘員の「非身体化」を助けるために武器のハイテク化が進んでいくと、戦争を遂行するための道徳的矛盾は激化・複雑化し、それを解決するための精神的スタミナがギリギリまで試され、磨耗・疲弊させられる傾向にある、といえないだろうか。
と、そんなことを考えている。
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