この欄に陳列するのがこれほど長くなるとは予想外だった。
入れ替えできずにいるあいだ、『日本語が亡びるとき』の増補版が出た。
「日本語という『国語』で文学し(かつそれを用いて国民教育を受けること・受けられること)」の歴史的特異性と貴重性を議論した水村の本と主題や方向は少し違うが、
日本語という国語ベースで科学教育し、かつノーベル賞級の成果を出すまでの言語環境はそうない、と主張する松尾義之『日本語の科学が世界を変える』も似たような問題意識で貫かれている。
さてここまでは今日からイチオシ!を入れ替えるためのさよならセレモニーでした。
では今朝読了したばかりですが(だから少し躊躇の気持ちもあるのですが)、きょうからイチオシ!に陳列する作品を紹介します。
金鎮虎著、香山洋人訳
最も素直な感想は「オモシロイ」だ。
それほど考えずに読んでいたが、読み終わって少し考えてみると、オモシロイ要素の幾つかはこんなものかと思う。
(1)韓国のキリスト教会(特にプロテスタント)事情を赤裸々に伝え分析する
日本においては韓国教会は「成功モデル」として長らく関心の的であった。
特に「成長する教会」としてその数量的勢いに圧倒されてきた。
しかし著者はほとんど何の感傷もなく、その実体にメスを入れている。その「切加減」が容赦ないところに「全体像を把握しようと肉薄する情熱」がうかがい知れる。
(2)分析手法に社会学的洞察が濃く組み込まれている
朝鮮戦争後の韓国教会の歴史を「近代化」の視点で捉えている。
特に、産業化・都市化・消費資本主義・階層化・二極化など。
これを背景に主流派とペンテコステ(純福音教会)の教会成長戦略を支えた「神学」が分析されている。
※筆者にとってこのような「近代化」と「キリスト教」を関連付けて分析する古典的名著は、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』だ。(3)問題意識が(筆者があまり関心なかった)民衆(ミンジュン)神学
ヴェーバーの場合分析対象は一国の近代化ではなく、欧米という一大文明圏であった。そのため取られた方法論はもっと慎重で複雑・重厚だ。
その点この著作では社会学的な概念構成は単純であり、教会神学の「イデオロギー」的表出については詳しくない。
イデオロギー表出とは、マルクスの弁証法的唯物論の立場からすると「(神学のような)上層構造物は経済関係という下層構造に規定される」、というような捉え方。
ヴェーバーの視点はイデオロギー部分に当たる「文化的要素」を独立した関係におき、政治・経済要素とは「相関」 する、という立場。
故に出来上がった近代化の因果関係については、プロテスタント倫理が「意図せずして」近代化に寄与した、とのアイロニカルな歴史像を提示した。
韓国近代化と教会の関係はより自覚的でいわば共犯関係が成立していることは頷けるが、詳細叙述についてはまだこれからではなかろうか。
たまたま思い出したが、日本の近代化論にあって、丸山のリードのもとなされた武田清子の一群の「明治期日本人キリスト者の思想史的研究」のようなものが必要ではなかろうか。
米国遊学時既に「民衆神学」については、解放の神学や文化脈化(コンテクスチャル)神学の関連で聞き及んでいたが、ついぞ関心を持つに至らなかった。
著者の金鎮虎氏は第三世代の民衆神学者、だという。
結論の部分に「民衆」の側に立った教会論の輪郭のようなものが素描されている。
これに関しては目下はあまり言わない方がいいだろう。
日本ではまだこのレベルの神学的著作は少ないように思う。
その意味でも一読に値するのではないか。
さらに、隣国との複雑な関係にある日本のキリスト者にとって、批判や羨望を越えたところで、つまり神学的な方法論として、社会学的分析を縦横に用いたこのような著作は一つのモデルとしても読めると思う。
様々な示唆に富むし、また議論の糸口を幾つも提供してくれるように思う。
さて図書館から借りて本書を読んだが、自費購入するとするか・・・。
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