2016年7月30日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年7月31日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 ルカの福音書 24:36-49
説 教 題 「聖書はわたしについて」
説 教 者 小嶋崇 牧師

聖書の一大ナラティブ

2016年7月29日金曜日

今日のツイート 2016/7/29

数日来この事件(相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」殺傷事件)についていろいろ考えていたところだ。



連ツイの最後三つだけを紹介したので、文脈を補足すると、この記事に対する批判の必要を感じてのものであることが連ツイの初めに断られている。

筆者の方の「いろいろ」の一つは、事件の重大さ・深刻さを鑑みて速やかに表明されるべき(であった)「アラーム(覚醒)」が明瞭に出なかった、ということ。

事件を起こした個人の特殊状況その他を考慮に入れても、今回の事件が「人間の尊厳」に対する挑戦であることは免れないだろうからだ。

しかしその面に関しての「アラーム(覚醒)」は海外のメディアの方が速かったように思う。

フェイスブックではある「ドイツ在住日本人」女性の方の投稿がこの面に注意を向けるようアッピールしていた(と記憶する)。


かつて『酒鬼薔薇事件』のときであったか、「なぜ人を殺してはいけないのか」に「どのように答えたらいいのか」という問いが立てられた。

学校その他で「いじめ」によっていのちがなくなると「かけがえのないいのちを大切にしましょう」と繰り返される道徳訓のひ弱さ。

直接には繋がりはないが、「いのち」や「人間の尊厳」を根底で支える教えを道徳的権威とともに言明することが躊躇われる何か、が背景の一つのように思われるのだ。

あるノーベル賞作家が、その理由を「人間として守るべき暗黙の了解」のような道徳的価値観(大前提)を「口にしなければならないことへの恥ずかしさ」のようなものを表現していたように思う。

(道徳的であるべき)「人間はそこまで退化してしまったのか」、「そのような悪びれもせず人のいのちを奪うことの出来るような人間を社会は生み出してしまったのか」という改悛に沈んだまま沈黙してしまいたくなる敗北感・・・のような。

そんなムードが感じられた。

今回の事件に際して人々の心の中にある「道徳感度計」が何度を表示するか、「道徳針(モーラル・コンパス)」が何を指すか、はまだまだ見守る必要があるのだろう。



2016年7月23日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年7月24日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 ルカの福音書 11:1-4
説 教 題 「御国が来ますように」
説 教 者 小嶋崇 牧師

いのり(6)


 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。 (ルカ11:2、新共同訳)
 

 「御国が来ますように」と祈るとき、幾らかでも「御国」についての具体的なイメージが浮かぶでしょうか・・・。
 20 世紀以降の西洋キリスト教では、近代化の問題に対応する中で「社会正義と平和」に取り組むリベラル派、それに反発して「個人的救霊(伝道)」を強調する保守(福音)派に分裂してきました。その分裂は「福音」の理解、「福音書」の読み方にもそのまま反映されてきたようです。
 その結果福音書の「神の国」は「この世」での社会正義・平和実現に、「十字架」は「あの世/天国」へと個人を救済する、と二分したメッセージのまま、日本に、そして現在へと、引き継がれてきたようです。

 

2016年7月19日火曜日

(5)オープン神論サイドノート②

をアップした後は泣かず飛ばずの「オープン神論」サイドノートになっています。

理由は幾つか考えられますが、大きな方の理由の一つは内容の低調さ・・・もあるかも知れません。

筆者はどちらかというとオープン神論の方に共感を覚える、くらいな程度ですから、ことさらに肩を持つわけではありません。

そもそもが「神論」を論ずる「プローズ(prose)」の面で「オープン」に反対する(異端呼ばわりする)側のことばに「リジディティー(rigidity)」を感じてしまうのです。

それはもちろん(リフォームドの)神学的システムから派生してくるものだと思うのですが、しかしそれでももう少し言い方があるだろうに、と思ったりするのです。

と云うわけで今後もこのシリーズを継続するだけの「関心度」が維持できるかどうかは分かりませんが・・・。

今回紹介する動画は、ダラス・バイブル・チャーチの トム・スティガル牧師のものです。(たまたまです。別に特別いいとかそう言うわけでもありません。)



・「オープン神論者」が福音主義者の中に「侵入して来た」だけでなく、大勢を占めつつある・・・みたいな言い方をしています。(福音主義神学会での2004年、ピノックたちが締め出されそうになった経緯からの変化を見て。20分前後くらいのところ)

・「内輪もめ」の雰囲気が強く感じられるのですが・・・。やはり「オープン神論」の影響力を阻止しよう、と云う目的での「「オープン神論」についての学習ビデオになっています。

・その面では割合良くできているのではないでしょうか。講師自体はそれほど頭に血が上っているわけでもなく、落ち着いて「オープン神論」の(反対者から見ての)間違いを指摘しています。



(次回もあれば、続く)

今日のツイート 2016/7/17

いろいろな教訓が・・・


・「プールサイドは滑りますので走らないでください」
 ・「後方注意を怠りなく」
 ・「自分がして欲しくないことは人にもするな」
御覧ください、彼らは悪をみごもり/災いをはらみ、偽りを生む者です。
落とし穴を掘り、深くしています/仕掛けたその穴に自分が落ちますように。
災いが頭上に帰り/不法な業が自分の頭にふりかかりますように。(詩篇7:15-17、新共同訳)

注意!

実際は「一昨日のツイート」というべきなのですが。
詩篇の引用を付けてから考えました。
あまりいい趣味ではないかと思いアップするのはやめておこうか、と。

最初はただのプールサイドの悪ふざけが目に留まっただけなのです。
しかし注意して見たら、先日のトルコの軍事クーデター未遂事件に引っ掛けたものでした。
ちょっと笑ってられない事態です。

しかし、「ユーモア」の問題提示としてアップします。
と言うのも、拾ったのはあるキリスト者、しかも新約聖書学の博士課程の学生がRTしたものでした。

欧米ではユーモアは好まれます。しかし「テイスト」というのもあるわけで、これは文化によっても個人によっても基準は変わってきます。時に失敗や行き過ぎから学ぶこともあるでしょう。
個人的には、そう言うわけで「ちょっとねー」という感じです。

「面白いとすぐRT」をしてしまうことへの自戒も込めて。

2016年7月16日土曜日

(3)「イチオシ!」の入れ替え、2016

大体年一回のペースで更新しているイチオシ!です。

 2014年・・・水村美苗『日本語が亡びるとき』
 2015年・・・金鎮虎『市民K、教会を出る』

毎回ジャンルが変わると言われそうですが、今年はこれです!!

エリック・ブリニョルフソン『ザ・セカンド・マシン・エイジ』(2015年7月)


どこで評判を聞いたかはもう覚えていない。

昨年7月の発刊だからもう1年経つわけである。

毎度のことながら自分で本書を購入して読んだわけではない。

図書館で借りて読んだ。(『日本語が亡びるとき』はその後古本を購入したが。)

予約者が多く確か2ヶ月くらいは待ったと思う。

そして、一回では読み終えられず、その後2回借りた。(その2回とも again 予約待ちだった。)

そして明日返却となった。まだ10-20ページくらい残っている。

でも大体内容は掴めたと思うので、記事にしてもいいだろう。


デジタル技術によって「人間の労働」が肉体労働だけでなく、知能労働もどんどん取って替わられる近未来社会をいろいろな角度から検討している。

まずコンピューターのもたらす「革新」が人類が経験してきたものとしては「産業革命」に続く広範なものであり、そのスピードもある時点を越すとナントカ数的ものになるそうだ。

一昔前コンピューターがチェスの世界チャンピオン破った事件があったが(今年だったかチェスと比較するとはるかに複雑で暫くはまだ人間を負かせないだろうといわれていた囲碁でもついに何勝かしたのが今年だった、かな・・・。)AI(人口知能)の進歩が加速度的に進むだろう、そして労働市場その他の経済の様相を大きく変えそうだ、という予測にかなり焦点を当てている。

個人的にはこのような「技術革新」がもたらす文明的問題については、過去に何冊か興味深く読んだことがある。

大雑把な印象だが、それらの「未来予想」本が現実をどの程度予測したかと言われると(その途上のものが殆どだが)それほど目を見張るようには実現していないような・・・。

だからといって、このザ・セカンド・マシン・エイジ』も眉唾で読んだらいいとは思わないのだ。

人間に取って替わる「自動化」技術はデジタルの前からあり、長い歴史の延長線にある技術の問題であり、ただデジタル技術というほぼ無限にコピーすることができる、量的制限を撤廃する技術がもたらす革新的変化の予測がかなり大きいとはいえ見通せないところが難しいポイントのようだ。


教会の牧師として一番関心が向く問題が、「人間の尊厳」である。

以前どこかで書いたかもしれないが、大学は経済学部だったが、原論で「マルクス経済学」の基礎を叩き込まれた。

労働者の「労働」が生んだ商品価値が資本家によって搾取される構造を理論化したのがマルクス経済だ。

つまりそこでは「労働」とは人間の価値を端的に表すものだった。

しかし未来社会では「疎外」は「労働者と商品」ではなく、自動機械が人間の労働機会をどんどん奪っていくという構図なのだ。

人間の価値は、人間の尊厳は「働く」ことにあるとすると、これはやはり大きな危機となりうるわけだ。

その辺の展望や対策についても本書はいろいろ書いているのだが、基本的に経済学畑の人なのだろう、このような問題の「精神性」の側面はそれほど深められていない、と云う印象だ。

広範な(事務・頭脳労働も含む)単純労働者の仕事が取って替わられたり、所得格差が大きくなったりと自動化社会への移行過程でも難しい問題が出てくるし、既に出てきている。


まっ、そういった事柄に関心のある方にお薦めしたい。

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年7月17日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 2:1-23
説 教 題 「キリストと共に死んで」
説 教 者 小嶋崇 牧師

コロサイ(30)/パウロ書簡の学び(147)


あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。
これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。 2章20-23節、新共同訳)
 

2016年7月14日木曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、4

「2 17世紀プロテスタント正統主義」(33-44ページ)

今回の部分は筆者にとってはかなり未知な部分で、16世紀の「宗教改革」とある程度のファミリアリティーがある「18世紀(初期信仰復興運動)」 (次章の区分で扱われる)の間に横たわる「知の空白」大陸である。

だから余り危なっかしいことは言わない方がいいのだが・・・。
 
『逐語霊感』と『十全霊感』
 「十全」とは、霊感が部分ではなく、聖書全体に及んでおり、したがって、救いや信仰のことだけでなく、歴史や科学の領域にも及んでいるという考え方である。「言語(逐語)」とは、霊感が思想だけでなく、一つ一つの言葉にも及んでおり、したがって、霊感が言葉と結びついていると考える。 

逐語霊感・・・聖書の記者による「言葉の選択」にまで及ぶ
十全霊感・・・救いや信仰のことだけでなく、歴史や科学の領域にも及んでいる

先ずもって「逐語」と「十全」の違いがピンと来ない。

論理的順番で言うと、①十全霊感があり、それをさらに強化するために、②逐語霊感にまで進めた、と説明されると納得行くが・・・。

つまりこう言う風に「意味(思想)」と「言語構造(語・フレーズ)」の関係を捉える場合である。

 「意味(思想)」を建物の2階部分、「言語構造(語・フレーズ)」を建物の1階部分にたとえ、下部構造が上部構造を規定する、と理解した場合のことである。

しかしその辺のところはさっぱり分からないので、目下はそれなりに「当時の霊感論が時代精神(合理主義、ロマン主義)にある程度影響されて形成された」ものであり、しかしそのような霊感論として形成される論理的必然性は「聖書の権威」を「(人によって)書かれた言葉であるが、真理の直接啓示」として弁護・保証するため、二重三重に論理武装する必要を覚えたから、と仮定しておこう。

17世紀は筆者にとって「知の空白」大陸と書いたが、妄想的仮説を乱発しそうなのでもうやめておこう。

宗教改革後のプロテスタント・スコラ主義が歴史的にどう発展したのかは、今後のより実証的な歴史研究を探すこととしよう。結構面白そうだ。

あるいは時代背景として興隆しつつある「合理主義(rationalism)」との関係が「思想史的」に追跡されると面白いかもしれない。

(次回に続く)

注:「改革派の正統主義」と云う文章が見つかりました。参考になるかもしれません。

今日のツイート 2016/7/14

なんかいろいろ憶測が流れ出しているが、「象徴天皇制」部分が「平和憲法」部分とどう連絡するのか(しないのか)、今後の改憲論議の行く末とともに興味深い。

2016年7月10日日曜日

今日のツイート 2016/7/10

今日は参院選の日ですが、それとは直接も、間接も(少しはある?)、関係ないものです。すいません。


ところでちょっと気になって「慣用的に用いられる『神学論争』」とはどういうことなのか、とちょっとググって見たら、意外や意外、主に神学ブログ⑦で紹介した伊那谷牧師こと大杉先生のブログが話題にしたことだったようですね。(これ

2016年7月9日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2016年7月10日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ルカの福音書 12:13-34
説 教 題 「心のあるところ」
説 教 者 小嶋崇 牧師

こころ(7)


小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。
              (ルカ12:32-34、新共同訳)
《説教要旨》


 今日は参院選投票日です。しかし政治についてではなく、主権者である国民の投票行動に関わることを主イエスの教えから振り返ってみたいと思います。
 投票するとき普通考えるのは候補者の所属する党とか、人柄・実績とか、政策とかではないかと思います。しかし今朝考えたいのは候補者の「価値観」ではなく、投票者である私たちの価値観です。私たちの政治面や経済面、暮らしや人生設計での優先事項を尺度に「候補者」を判定するのではなく、そもそも私たちの「心の宝」がどこにあるのか、を問題にしたいのです。

 今朝のルカの箇所では「貪欲への警戒」「施しによって『天に冨を積む』」ことが言われています。弟子たちの目の先は「神の国」に向いているべきであり、自己の生活の充足や経済の半永久保証に一極集中的関心と信頼を向けてはならないことを教えています。

 「神の国」とは、将来的に神がもたらそうとしている世界のことであり、私たちがそれに(今から)どう対応するかの課題のことです。私たちの「今の時勢」での投票は、「来るべき神の世界」に向けての「先行投資」の面があるように思います。「神の国」を心に思い描きながら、一票の投資先を考えましょう。
 

2016年7月7日木曜日

(5)「イエスの妻」断片、偽造ほぼ判明

一度だけ「イエスの妻」パピルス断片について記事をアップした。

遠からず収束するのではないかと云う観測を立てておいた。

当然「偽造」という線で。

しかしことはなかなか収束しなかった。

パピルス断片や使用インクが「年代もの」ということが専門的検査の結果得られたからだ。

しかし当初から、コプト語の文法や字体については専門家たちは「偽造」の心証を強くしていた。


このように(パピルス・インクの)物理的な信憑性と、(文法・字体の)内容的疑いという反発する二つの面から「決定的なこと」を出せずに時間が過ぎていった。

しかし後から紹介する、The Atlantic誌のアリエル・サバー記者が、このパピルス断片の「来歴・入手経路(provenance)」の面から徹底な調査を行った結果、とんでもないストーリーが浮上することになった。

The Unbelievable Tale of Jesus Wife

残念ながら英語をよく読める人でも、この長文の、入り組んだ「ディテクティプ・ストーリー(推理小説のようなストーリー展開)」をじっくり読むのは大変だと思う。

しかし見返りは大きいと思う。

何しろ登場人物を取り巻く「道具立て」が殆どハリウッド映画並だ。

少しだけ紹介しても、

 (1)ウォルター・フリッツ(断片をカレン・キング教授に持ち込んだ人物で、状況から見てこの人物が今回のドラマを仕組んだ張本人と推定される。)は、旧東ドイツ出身で、コプト語研究でキャリアを得ようとしたらしい。

 (2)しかし上手く行かず、一時シュタージ(旧東ドイツ秘密警察)本部跡に立てられた歴史博物館に勤め(そこに収納されていた物品が幾つも盗難に遭い、その責任を取って辞職、みたいな)

 (3)米国に拠点を置いて、(ポルノを売り物にしたウェブサイト・サービスを運営していた)妻と、「ダヴィンチ・コード」を下敷きにしたような・・・

 (4)キング教授がヴァチカンで初めて断片のことを「イエスの妻」断片と命名して発表するより3週間も前に、その名前でドメイン(www.gospelofjesuswife.com)を獲得し・・・

 以上はほんの少しだけしか紹介できていないが、そして記事が出てから3週間以上も経ち、幾らか記憶も鈍ったので多少詳細な部分では正確ではないかもしれないが、とにかく最後の「あっというエンディング」まで驚きの連続と目くるめくような展開であきれるほどのストーリーだ。


で、筆者が情報収集している範囲(新約聖書学者でネットで盛んに情報提供していたような方々)では、この記事を受けてほぼ大勢は定まったとの見解で満ちている。

幾つか代表的なものを紹介しておく。

 (1)マーク・グッドエイカー、イエスの妻福音書・最終章
  関連するメディア記事(ボストン・グローブ、等)や偽造問題を追跡してきた研究者たちのブログ記事のリンクがまとめられている。

 (2)アリン・スチューさん(コプト語/パピルスの専門研究家みたいだ)のフェイスブック・ページ
  断片がメディアに登場した初期から「偽造」をほぼ確信していたらしいが、「2016年6月17日」のエントリーに、仲間たちの「おめでとう」のようなコメントが並んでいる。

(※フェイスブックの性格上、リンクを貼るのを控えました。ブログの方には関連記事の投稿がないところを見ると、専門家としての発言は本人的には時期尚早ということかもしれません。)

[2016/07/17追記]
 (3) 「ローグ・クラシシズム」ブログの2016年6月24日の記事
 (ウォルター・フリッツにまんまと嵌められてしまった)カレン・キング教授(ハーヴァード大神学部)に多少の落ち度はあったとは言え、学者としては十分情報公開や慎重な審査のもとに発表を進めたとして弁護している。

 この記事のご苦労さんなところは、アトランティック誌記事を時系列にまとめて「流れ」を見やすくしていること。何しろいろいろな思惑で動いているわけだからそれを時系列で追ってみないとポイントがはっきりしないことが多々ある。

 (4)「ジーザス・ブログ」(英語圏神学ブログ、16 で紹介)のアンソニー・ルダンが総括的な記事を書いている。
Now that there is no longer any reasonable reason to argue for the fragment's authenticity, let us devote a bit more time for some self-reflection, shall we? I promise to make this post extra lengthy for your navel-gazing pleasure.
(最早件のパピルス断片の真正性を支持する理由が全くなくなったところで、反省すべきことを探し出して、一体全体何でこんなことになってしまったのか“自分のへそをじっくり見つめるように”振り返ってみようではないか。)
アンソニーはユナイテッド神学校(オハイオ州にある合同メソジスト認可校)の新約学教授で、史的イエス/福音書研究領域で「聖書記者の記憶」に光を当てて福音書記述を研究する比較的新しい研究手法をリードしている一人です。(あのリチャード・ボウカムの目撃者証言の手法とも多分に重なります。)
 
 彼が最後に書いているポイント―― 今やSNSは研究者間の意見交換等、研究発表に不可欠なものになってきた ―― は今回の事件がまさに証明していることなのだと思う。

 ということは研究者たちがブログ等に発表するプロセスに筆者のような素人も含めたパブリックが(多分に野次馬としてだが)参加できる時代になってきた、ということだろう。

 いや、それにしても今回の「イエスの妻(福音書)」断片事件は面白いものであった。



 

2016年7月3日日曜日

ブログ開設6周年

7月3日はこのブログの定点観測の日だ。

さすがに最近更新にバラツキが出てきた。


では「過ぎし一年(2015.7-2016.6)」を振り返ってみよう。

(礼拝案内を除いた)投稿数

 (ほぼ)90は前年比-10くらいだろうか。

 実感としてもそんな感じはあった。

 このまま斬減しながらフェードアウトしていくのだろうか・・・。
 
②総ページビュー

 182,000を越えたところ。

 月平均で2,360、前年比-100くらいだろうか。
  
③この1年での人気投稿、ベスト3

 もうダントツでトランプ関連記事ですね・・・


 (5)ドナルド・トランプと福音派キリスト教(続1)


 (5)ドナルド・トランプと福音派キリスト教

 (5)ドナルド・トランプと福音派キリスト教(続2) 


 これじゃちょっと面白くないので、選外となりますがよく読まれた方の記事を一つ挙げておきます。

 (3)涙とともに種を蒔く者
 


 では読者の皆さん。すぐる一年のご愛顧ありがとうございました。

 また新たな一年も順調に続くようでしたら、よろしくお願いします。

2016年7月2日土曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、3

「1 宗教改革」(24-31ページ)

『福音』と『体験』と『聖書』
 この福音の個人的体験は、信仰義認にとどまらない。宗教改革者たちはいずれも、キリスト者としてどのように生きるべきかを、ローマ教皇の教えでも教会の伝統によるのでもなく、サクラメントの秘儀の中においてでもなく、聖書から直接に学んでいった。
 ・・・こうして聖書は、キリストの福音を体験し、福音に生きるための神の言葉としてとらえられていく。
筆者はウェスレアン・アルミニアン(注1)の流れに育ったので「福音とは体験するものだ」式なレールの上で育った。

 恐らく「体験主義キリスト教(そうこの段階で呼んでよければ)」のルーツは、宗教改革者の時代の後、いわゆる正統主義の強調(どちらかというと正しい教理に対する知的承認を信仰の優先事項とした)に対して「敬虔の生活を力動させる心」を強調した敬虔主義の流れがより明瞭なものではないかと思う。

 敬虔主義の聖書に対するアプローチは(正統主義が聖書を教理の源泉とするのに対し)、「キリスト者としての成長」や「敬虔の生活(デボーショナルも含む)」の「霊的糧」という面が強くなったのではないかと思う。

 この流れで後々重要になってくるのは「福音体験」にしろ、「キリスト者の成長」にしろ、「個人的」「主観的」ものの見方が中心になってくる傾向だ。

 上記引用での強調部分は、
 (1)権威の問題・・・教皇・教会の伝統
 (2)「恵の手段」・・・サクラメント
に相当するわけだが、ルター個人の経験が端的に物語るように「個人の信仰・良心」対「制度的教会の権威」の図式になったことにより、宗教改革諸派は「反・ヒエラルキーな権威・権力」を志向することになり、「職制」や「聖典」の問題を制度的な(より外面的な)教会の問題と認識するようになって行ったと思われる。

 「キリスト者の成長」にしろ、「教会の形成・構成原則」にしろ、「聖書解釈に対するアプローチ」にしろ、「伝道方法や対象」にしろ、個人が物事を動かす基準に移行して行くのは、ある意味カトリック教会に対する反動としての面もあることは否めないだろう。(注2

聖書の言葉の明瞭性の根拠は?
 さらにブロミリーは、宗教改革者たちの聖書観には、神のメッセージが人間的なものの中で、・・・つまり彼らは、聖書の大部分は明瞭でわかりやすい言葉であり、それはドイツ語にも英語にも、また日本語にも翻訳し得ると考えた。
こちらの引用に関連する問題は、宗教改革の「聖書のみ(sola scriptura)」 原則が、実際上機能するために必要な「聖書解釈上」の要件である「聖書テクストの意味の明瞭性(plain sense, clarity, perpiscuity)」に関わるだろう。

 この問題についてはいずれもう少し取り扱うことにもなるだろうが、どう控え目に言っても「一筋縄では行かない」ものだといっていいだろう。

 (実際上、この問題は聖書を奉じ且つ読むクリスチャン誰もが多かれ少なかれ感じているだろうと思う。「誰もが聖書を読める」幸いな状況は、誰もが聖書のテクストの意味を巡って対立したり論争したりできる状況をも発生させる。そしてプロテスタントの場合それらを調停する手段は制度的・機構的に弱いと見られても致し方ないだろう。もちろん民主的なルールに希望を持っているわけであるが。)


(次回に続く)


注1・・・「ウェスレアン・アルミニアン」とも「アルミニアン・ウェスレアン」ともいう。両方の言い方があって、多分多少のニュアンスの違いがあるだろう。

注2・・・スコット・マクナイト『福音の再発見』1章に短く書かれている(17-8ページくらい)、バプテスト信者であったスコットの自伝的エピソードを参考にしてみてください。バプテストはある面「個人原理」を徹底し、また「聖書」以外に「信条」や「神学」は無用・・・みたいな方に行ったようです。

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年7月3日(日) 午前10時30分


朗読箇所 ローマ 8:31-39
説 教 題 「キリストの愛」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2016年7月1日金曜日

今日のツイート 2016/7/1

日本でも「聖書」を題材にした「カードゲーム」が出来ましたが、アメリカの方ではゾンダーヴァン社が「神学者」のトレーディング・カードを「教会史を楽しく学べます」と売り出しています。

MH氏は「ざーっとキリスト教の歴史を並べながら勉強するのには、とっても便利。自分は興味しんしんだけど、このカード上にない神学者がいても怒らないように。」と紹介とコメントをしています。

それと比較するとこれは「現代の神学者」版かな・・・。