主日礼拝
2018年9月30日(日) 午前10時30分
朗読箇所 ピリピ人への手紙 2:1-11
説 教 題 「神の国の福音とは」
説 教 者 小嶋崇 牧師
現代とスピリチュアル(3)
巣鴨聖泉キリスト教会(日本聖泉キリスト教会連合)創立1965年。 大和郷の一角にある緑と花に囲まれた教会、隣には牧師の木工房。 静かに賛美と聖書の学び、そんな礼拝の時をお過ごしください。
2018年9月29日土曜日
2018年9月22日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
2018年9月23日(日) 午前10時30分
朗読箇所 伝道者の書 8:1-17
説 教 題 「何が分かったのか」
説 教 者 小嶋崇 牧師
聖書に見る人生観、伝道者の書(8)
2018年9月23日(日) 午前10時30分
朗読箇所 伝道者の書 8:1-17
説 教 題 「何が分かったのか」
説 教 者 小嶋崇 牧師
聖書に見る人生観、伝道者の書(8)
2018年9月15日土曜日
2018年9月8日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
2018年9月9日(日) 午前10時30分
朗読箇所 Ⅰコリント人への手紙 1:18-31
説 教 題 「宣教の愚かさ」
説 教 者 小嶋崇 牧師
「かなめ石」考(9)
エペソ書の学び(18)、パウロ書簡(180)
2018年9月9日(日) 午前10時30分
朗読箇所 Ⅰコリント人への手紙 1:18-31
説 教 題 「宣教の愚かさ」
説 教 者 小嶋崇 牧師
「かなめ石」考(9)
エペソ書の学び(18)、パウロ書簡(180)
2018年9月6日木曜日
(3)主に神学ブログ、11
意外や意外「次世代教会」を展望して、が1~6まで続いている。
今回はちょっと休憩して久しぶりに「主に神学ブログ」をやってみたい。
こちらは1~10まで連載が終わっている。
念のために「1~8」までは、(2)主に神学ブログ まとめと展望で紹介している。
その後、「9」と「10」までアップした。
今回ほぼ2年ぶりの「主に神学ブログ」記事となるわけだ。
神父の放言
言いっぱなし。そんな風に気楽に語りたいもんじゃ。
とあるようにカトリックの神父の方のブログである。
アーカイブを見ると「2012年3月」から「2015年8月」となっていて既に終了したブログのようだ。
ブログ主の語り口にあるように、すでに引退したので後は(カトリックだけでなく)キリスト教界について言いたい放題語ろう、という趣旨らしい。
たまたま今日発見して10個くらい選んで読んでみた。
さすがベテラン神父、もうしがらみも余りなく、自由闊達にトピックを選んで語っている。
充分知らないことも、慎重にならず、自分の言いたいことをストレートに語っている。
そう言う書き方なので読んでいて肩が凝らない。
気軽に読める。
しかしなかなか啓発に富んだ放言にはしばしば頷かされる。
福音派の躍進
カトリックの神父たちの中に「聖書学」が浸透してくるにつれ、批評学による懐疑主義の影響が大きくなり、そのことに反発を覚えているようだ。でこんな風に言っている。
やはり懐疑主義的聖書批評学の問題を取り上げているが、このように釘を刺している。
変わったものでは幕屋について書いているこの記事。全体に異端とか皆から眉をひそめられたりしているキリスト教グループに対しおおらかな態度で評している。
幕屋についてはこんな感じ。
恐らくもう帰天された神父の方なのだろうと思う。別に著書を出すこともなく、地道に伝道牧会された方なのだろうと推察するが・・・。
今回はちょっと休憩して久しぶりに「主に神学ブログ」をやってみたい。
こちらは1~10まで連載が終わっている。
念のために「1~8」までは、(2)主に神学ブログ まとめと展望で紹介している。
その後、「9」と「10」までアップした。
今回ほぼ2年ぶりの「主に神学ブログ」記事となるわけだ。
神父の放言
言いっぱなし。そんな風に気楽に語りたいもんじゃ。
とあるようにカトリックの神父の方のブログである。
アーカイブを見ると「2012年3月」から「2015年8月」となっていて既に終了したブログのようだ。
ブログ主の語り口にあるように、すでに引退したので後は(カトリックだけでなく)キリスト教界について言いたい放題語ろう、という趣旨らしい。
たまたま今日発見して10個くらい選んで読んでみた。
さすがベテラン神父、もうしがらみも余りなく、自由闊達にトピックを選んで語っている。
充分知らないことも、慎重にならず、自分の言いたいことをストレートに語っている。
そう言う書き方なので読んでいて肩が凝らない。
気軽に読める。
しかしなかなか啓発に富んだ放言にはしばしば頷かされる。
福音派の躍進
カトリックの神父たちの中に「聖書学」が浸透してくるにつれ、批評学による懐疑主義の影響が大きくなり、そのことに反発を覚えているようだ。でこんな風に言っている。
福音派の人たちはそんな神学などお構いなしだろう。聖書内の疑問は、聖書内の記述の中で解決する。基本的にはそれでいい気がする。それが昔からの解釈のはずだった。バブル神学の崩壊、2
信じきっているがゆえに、聖書から得る力も喜びも大きい。信じるので神からの返事も大きいだろう。私にはそのように見える。
やはり懐疑主義的聖書批評学の問題を取り上げているが、このように釘を刺している。
聖書学はバランスが必要だ。バランスを取り戻せばよいものになるだろう。また、聖書を信じることなしに、聖書学は成り立たない。創作説というのはけっこう疑いや不信から成り立っている。創作説に安易に道を譲るのは、聖書に対する態度として間違っていないか。聖書を信じて読んだ結果、いろんな矛盾や疑いが出てくる、それを解決するのが聖書学のはずだ。創作説に道を譲りすぎるように私に見えるのが現代聖書学の趨勢だ。興味深いキリスト教新興宗教 「キリストの幕屋」
変わったものでは幕屋について書いているこの記事。全体に異端とか皆から眉をひそめられたりしているキリスト教グループに対しおおらかな態度で評している。
幕屋についてはこんな感じ。
大和魂、他宗教への敬意、ユダヤへの着目は、大変興味深い。これらはややもすると、キリスト教徒が敬遠しなければならないものと考える人が多いんじゃなかろうか。とりわけ日本では、前者2つは必要だとわたしは思う。手島氏は心から大和魂と他宗教を愛している。それはビンビンと伝わってくる。これがなければキリスト教は日本には根付かないと思われる。本物にもならないと思う。
恐らくもう帰天された神父の方なのだろうと思う。別に著書を出すこともなく、地道に伝道牧会された方なのだろうと推察するが・・・。
2018年9月3日月曜日
(3)「次世代教会」を展望して、6
一応このシリーズの「6」としましたが、実際には「5」の「付け足し」、そして今日のツイート 2018/8/31の「解説」みたいなもんです。
Danté Stewart (Stew)さんはご覧のようにアフリカ系アメリカ人の方のようです。 彼のツイートで引用されている画像の文章の作者は、ある福音派系神学校卒業生ですが、その方が、「世界大にキリスト教の遺産を保存したのは、白人・西洋・ヨーロッパ社会のクリスチャンたちだ」 と主張しているんですね。
彼はそれを「人種差別的発言」と受け取られかねないことを承知の上でどうも「白人」と云う部分をあえて強調しているみたいです。
詳細な文脈は分からないので、多分にアバウトな論評から入ってしまいますが、この方には客観的な歴史から見て
(1)正統的キリスト教を保守し、
(2)原語(ヘブル語、ギリシャ語)での旧新約聖書の保存し、
(3)プロテスタント諸派が米国そして世界の隅々に広まる
のに貢献したのは「白人・西洋・ヨーロッパ」のキリスト教社会だ、というわけです。
確かに大雑把な物言いであればこのような見方にそんなに目くじらを立てる人はいないでしょう。問題は「白人」ですね。これが不必要に人種差別トークの印象を強めたと思います。
案の定、このツイートに延々と付けられた「リプ」は人種差別的であることに対する非難と反論です。
しかしここからが本論なのですが、「大雑把な物言い」と云うのはその発言をする人がその「知識分野」についてどれだけ広範で詳細な情報を把握しているかで「信頼性」は全然違ってきます。
私も含めてそうですが、つい関心あるトピックだと話題を拡げるために生半可な知識で大風呂敷なことを言ってしまうもんです。
その後トピックのテーマや内容を絞り、より確実な範囲に意見交換を狭められれば、最初の大風呂敷な物言いも「導入」として許されるのだと思います。
さてこのツイートの後にグレン・パッキャム牧師(英国ダラム大だったと思いますが博士号を取得したばかりです)が反論を試みますが、「礎(ファウンデーション)」という部分を捉えて(白人)ヨーロッパ中心主義的なキリスト教史に楔を打とうとしています。
即ちキリスト教が世界大に進展する歴史を源流まで遡れば、初期数世紀は北アフリカ地域や東方教会の歴史があるわけです。だから新約聖書の時代、使徒パウロのキリスト教から一挙に宗教改革者(ルターやカルヴァン)に飛躍してしまうような神学校の教育は改められるべきだ、というような主張になっています。
さて前回「5」で「教会史」の学びは「神学」より優先するのでは、と言いましたがそれはやはり「今」の時代の文脈をどう捉えて神学教育をデザインするかという問題です。
たとえ日本と云うローカルの場で、そしてさらに小グループ信徒伝道者・指導者のための神学教育であっても、わざわざ何十年遅れで「西洋キリスト教」の「神学テキスト」を翻訳して使っていていいのか、という問題です。
現実的には簡単に解決できる問題ではありませんが、「ヨーロッパそして北米」もポスト・キリスト教時代に突入し、キリスト教の勢いが「アフリカ・南米・アジア諸国」に移っている歴史的文脈を考えると、問題意識は持つ必要があるかと思います。
さてこれ以上大風呂敷な発言は控えることにして、上記のツイートに付けられたリプの中から「面白い教材」がありましたので、それを紹介しておきましょう。
『マイケル執事(Michael the Deacon)』
へー、そんなことあったんだ。全く知らないことが多いです。
(続く)
Danté Stewart (Stew)さんはご覧のようにアフリカ系アメリカ人の方のようです。 彼のツイートで引用されている画像の文章の作者は、ある福音派系神学校卒業生ですが、その方が、「世界大にキリスト教の遺産を保存したのは、白人・西洋・ヨーロッパ社会のクリスチャンたちだ」 と主張しているんですね。
彼はそれを「人種差別的発言」と受け取られかねないことを承知の上でどうも「白人」と云う部分をあえて強調しているみたいです。
詳細な文脈は分からないので、多分にアバウトな論評から入ってしまいますが、この方には客観的な歴史から見て
(1)正統的キリスト教を保守し、
(2)原語(ヘブル語、ギリシャ語)での旧新約聖書の保存し、
(3)プロテスタント諸派が米国そして世界の隅々に広まる
のに貢献したのは「白人・西洋・ヨーロッパ」のキリスト教社会だ、というわけです。
確かに大雑把な物言いであればこのような見方にそんなに目くじらを立てる人はいないでしょう。問題は「白人」ですね。これが不必要に人種差別トークの印象を強めたと思います。
案の定、このツイートに延々と付けられた「リプ」は人種差別的であることに対する非難と反論です。
しかしここからが本論なのですが、「大雑把な物言い」と云うのはその発言をする人がその「知識分野」についてどれだけ広範で詳細な情報を把握しているかで「信頼性」は全然違ってきます。
私も含めてそうですが、つい関心あるトピックだと話題を拡げるために生半可な知識で大風呂敷なことを言ってしまうもんです。
その後トピックのテーマや内容を絞り、より確実な範囲に意見交換を狭められれば、最初の大風呂敷な物言いも「導入」として許されるのだと思います。
さてこのツイートの後にグレン・パッキャム牧師(英国ダラム大だったと思いますが博士号を取得したばかりです)が反論を試みますが、「礎(ファウンデーション)」という部分を捉えて(白人)ヨーロッパ中心主義的なキリスト教史に楔を打とうとしています。
即ちキリスト教が世界大に進展する歴史を源流まで遡れば、初期数世紀は北アフリカ地域や東方教会の歴史があるわけです。だから新約聖書の時代、使徒パウロのキリスト教から一挙に宗教改革者(ルターやカルヴァン)に飛躍してしまうような神学校の教育は改められるべきだ、というような主張になっています。
さて前回「5」で「教会史」の学びは「神学」より優先するのでは、と言いましたがそれはやはり「今」の時代の文脈をどう捉えて神学教育をデザインするかという問題です。
たとえ日本と云うローカルの場で、そしてさらに小グループ信徒伝道者・指導者のための神学教育であっても、わざわざ何十年遅れで「西洋キリスト教」の「神学テキスト」を翻訳して使っていていいのか、という問題です。
現実的には簡単に解決できる問題ではありませんが、「ヨーロッパそして北米」もポスト・キリスト教時代に突入し、キリスト教の勢いが「アフリカ・南米・アジア諸国」に移っている歴史的文脈を考えると、問題意識は持つ必要があるかと思います。
さてこれ以上大風呂敷な発言は控えることにして、上記のツイートに付けられたリプの中から「面白い教材」がありましたので、それを紹介しておきましょう。
『マイケル執事(Michael the Deacon)』
Michael the Deacon was a deacon in the Ethiopian Orthodox Church in the 16th century A.D.[1]エチオピア正教会のマイケルさんが、1534年にルターに会いに来たというエピソードです。つまり「新しく出来たルター派教会」と「聖餐」についての神学的共通性を確認しようとした、いわば「エキュメニカルな働き」だったようです。
In 1534, Michael the Deacon travelled to Wittenberg and met with Martin Luther, the founder of the Lutheran Churches and leader in the Reformation.[2][3] During the meeting, the two compared the Lutheran Mass with that used by the Ethiopian Orthodox Church and found that they were in agreement with one another.[1][4] Michael the Deacon also affirmed Luther's Articles of the Christian Faith as a "good creed".[3][1] As such, the Lutheran Churches extended full communion to the Ethiopian Orthodox Church.[5][1]
へー、そんなことあったんだ。全く知らないことが多いです。
(続く)
2018年9月1日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
2018年9月2日(日) 午前10時30分
朗読箇所 使徒の働き 2:22-36
説 教 題 「主イエス・キリスト」
説 教 者 小嶋崇 牧師
使徒信条考(6)
※聖餐式があります。
2018年9月2日(日) 午前10時30分
朗読箇所 使徒の働き 2:22-36
説 教 題 「主イエス・キリスト」
説 教 者 小嶋崇 牧師
使徒信条考(6)
※聖餐式があります。
登録:
投稿 (Atom)