ペンテコステ主日礼拝
6月12日 午前10時30分
説教箇所 ルカによる福音書 7:11-17
説 教 題 「もう泣かなくともよい」
説 教 者 後藤亮兄弟
※礼拝後昼食会があります。
巣鴨聖泉キリスト教会(日本聖泉キリスト教会連合)創立1965年。 大和郷の一角にある緑と花に囲まれた教会、隣には牧師の木工房。 静かに賛美と聖書の学び、そんな礼拝の時をお過ごしください。
2011年6月11日土曜日
2011年6月9日木曜日
アダムとイブの史実性の問題、追記
昨日ポストした記事に「はちことぼぼるの日記」ブログのはちこさんから、ツィッターでレスを頂いた。
昨日のCT記事でも名前が挙がっていたティム・ケラー師のCreation, Evolution, and Christian Laypeople (pdf) をはちこさん(中村佐知さん)が翻訳してネットで公開されているのを教えてくださったのだ。
一読してケラー師が、「進化論(科学)と信仰(聖書解釈及び聖書の権威)」の問題に、信徒の悩みや疑問に答え導く牧師としてこの文を書かれていることに感銘を覚えた。
牧師として、科学、聖書解釈、神学の専門家ではなくとも、それらを読みこなし、専門家の知見と信徒の疑問との橋渡しをする責務が牧師にあることを指摘されていた。
筆者はそのような牧会的局面に殆んど立たされたことはないが、彼が感ずるこの牧師の責務の大変さの幾分かは、昨日の記事で懸念として表明させていただいた。
さて「アダムとイブの史実性の問題」にティム・ケラー師の「創造と進化ーー牧会者の視点から」
はかなりの紙面を割いてその受け止め方を書いている。
ケラー師は「聖書の権威」を保持する保守的な考え方の持ち主とお見受けするが、科学(進化論、特に生物学的進化論)と聖書箇所、特に創世記の調和のさせ方は柔軟であり、対立的な立場を取らず可能な限り「自然啓示」と「聖書啓示」とをバランスさせようと努力しておられる方である、と見た。
結論としてはケラー師は「アダムとイブの史実性」を保持する調和のさせ方を選択するが、そのような立場をとっても当該聖書箇所の解釈の仕方には幾通りかの選択肢があると指摘している。
是非お読みになって、昨日の筆者の物足りない文章に対する消化不良を解消してください。
(※それにしてもこのような文章の翻訳をボランティアしてくださるはちこさんに感謝です。)
昨日のCT記事でも名前が挙がっていたティム・ケラー師のCreation, Evolution, and Christian Laypeople (pdf) をはちこさん(中村佐知さん)が翻訳してネットで公開されているのを教えてくださったのだ。
一読してケラー師が、「進化論(科学)と信仰(聖書解釈及び聖書の権威)」の問題に、信徒の悩みや疑問に答え導く牧師としてこの文を書かれていることに感銘を覚えた。
牧師として、科学、聖書解釈、神学の専門家ではなくとも、それらを読みこなし、専門家の知見と信徒の疑問との橋渡しをする責務が牧師にあることを指摘されていた。
筆者はそのような牧会的局面に殆んど立たされたことはないが、彼が感ずるこの牧師の責務の大変さの幾分かは、昨日の記事で懸念として表明させていただいた。
さて「アダムとイブの史実性の問題」にティム・ケラー師の「創造と進化ーー牧会者の視点から」
はかなりの紙面を割いてその受け止め方を書いている。
ケラー師は「聖書の権威」を保持する保守的な考え方の持ち主とお見受けするが、科学(進化論、特に生物学的進化論)と聖書箇所、特に創世記の調和のさせ方は柔軟であり、対立的な立場を取らず可能な限り「自然啓示」と「聖書啓示」とをバランスさせようと努力しておられる方である、と見た。
結論としてはケラー師は「アダムとイブの史実性」を保持する調和のさせ方を選択するが、そのような立場をとっても当該聖書箇所の解釈の仕方には幾通りかの選択肢があると指摘している。
是非お読みになって、昨日の筆者の物足りない文章に対する消化不良を解消してください。
(※それにしてもこのような文章の翻訳をボランティアしてくださるはちこさんに感謝です。)
2011年6月8日水曜日
科学と人類の始祖アダムとイブ
「クリスチャニティー・トゥデー」誌でこの問題が最近の福音主義論争において大きな火種になりそうであることを伝えている。
The Search for the Historical Adam
一般のキリスト者は依然として創世記1-3章を歴史的叙述として読むことに慣れている。
人類の祖先であるアダムとイブが歴史的な存在であることも余り議論せずに受け入れていると思われる。
しかしここに来て人類ゲノム解析や進化論的科学が立証するデータが、「アダムとイブ」が人類全体の唯一の祖先、つまり歴史個人的存在として理解するのは困難である、との見方が勢力を強めている。
「アダムとイブは神が直接創造された人類全体の祖先」とする保守的福音主義信条が最早議論抜きでは多くの知的福音主義キリスト者に通用しなくなってきている。
その推進力になっているのが国立衛生研究所長官、フランシス・コリンズ氏と、コリンズ氏が創設した「バイオ・ロゴス財団」だ。
とまあそんな書き出しでまとめられている記事だが、筆者は何しろ門外漢なので内容の細部に渡っては論評できない。是非読んでみて最近の動向を理解して頂くしかない。
そもそも一時代前の「科学と信仰の調和」は、「科学」と「信仰(神学)」との対等な関係を前提にしていたようだが、福音主義クリスチャンでありながらダーウィンの進化論を主張するコリンズ氏やその仲間たちは「科学的証拠」を伝統的な聖書理解を左右する根拠にしている、と筆者には思える。科学がリードしている。その意味で二者は最早対等ではないのではないか、との印象をもってしまうのだ。
「アダムとイブが人類の最初の夫婦」と言う概念は科学的証拠からは残念ながら肯定できない、とするコリンズ氏たちの主張は伝統的キリスト教教義の再考を促すことになる。
「神の像」「原罪」「堕落」「イエスの系図(ルカ)」「人類全体を覆うキリストの贖い(パウロ)」もそのインパクトを受けるだろう、とリチャード・オストリング記者は推測する。
「ヤングアース創造論」「オールドアース創造論」「インテリジェント・ディザイン」の立場すべてをコリンズ氏と「バイオロゴス研究所」に関係する学者たちは否定する。そして最新の科学的データに合致する知的に洗練された「神論的進化論」福音主義を推進する。
勢い関連する聖書箇所の解釈でも科学的データを重視する態度が強いように思う。
この論争はまだ学者・識者間での論争だが、一般信徒のレベルまで降りてきたらどうなるのだろうか。相当の混乱を引き起こすことが予想される。
伝統的な解釈に留まろうとする力と、科学的に開明的な理解を取り入れようとする力が個々人の心のうちで拮抗するようなことになるのだろうか。
科学的誠実さと信仰とは両立する、とはコリンズ氏の信念だが実際においては一般信徒はコリンズ氏のように科学的データをコントロールして信仰と両立させるすべを持っているわけではない。
世は(科学的)専門家の意見、それも対立する意見の間を行ったり来たりせざるを得ないのではなかろうか。
信仰的に柔軟であることは、伝統的聖書解釈や教義的信仰を変更する開明さを持ち合わせている。
しかしオストリング記者が指摘するように、これが神学的人間理解の根幹を揺さぶるとなると、果たして体裁のいい調和は可能だろうか。むしろ「科学的実証的データ」を優先させる立場に立たないと終始一貫しない、ということにならないだろうか。
「科学」と「信仰」を調和させると言うのはこの段階まで来るとそう簡単ではないように見える。
そんな懸念を覚えながらこの記事を読んだ。
The Search for the Historical Adam
一般のキリスト者は依然として創世記1-3章を歴史的叙述として読むことに慣れている。
人類の祖先であるアダムとイブが歴史的な存在であることも余り議論せずに受け入れていると思われる。
しかしここに来て人類ゲノム解析や進化論的科学が立証するデータが、「アダムとイブ」が人類全体の唯一の祖先、つまり歴史個人的存在として理解するのは困難である、との見方が勢力を強めている。
「アダムとイブは神が直接創造された人類全体の祖先」とする保守的福音主義信条が最早議論抜きでは多くの知的福音主義キリスト者に通用しなくなってきている。
その推進力になっているのが国立衛生研究所長官、フランシス・コリンズ氏と、コリンズ氏が創設した「バイオ・ロゴス財団」だ。
とまあそんな書き出しでまとめられている記事だが、筆者は何しろ門外漢なので内容の細部に渡っては論評できない。是非読んでみて最近の動向を理解して頂くしかない。
そもそも一時代前の「科学と信仰の調和」は、「科学」と「信仰(神学)」との対等な関係を前提にしていたようだが、福音主義クリスチャンでありながらダーウィンの進化論を主張するコリンズ氏やその仲間たちは「科学的証拠」を伝統的な聖書理解を左右する根拠にしている、と筆者には思える。科学がリードしている。その意味で二者は最早対等ではないのではないか、との印象をもってしまうのだ。
「アダムとイブが人類の最初の夫婦」と言う概念は科学的証拠からは残念ながら肯定できない、とするコリンズ氏たちの主張は伝統的キリスト教教義の再考を促すことになる。
「神の像」「原罪」「堕落」「イエスの系図(ルカ)」「人類全体を覆うキリストの贖い(パウロ)」もそのインパクトを受けるだろう、とリチャード・オストリング記者は推測する。
「ヤングアース創造論」「オールドアース創造論」「インテリジェント・ディザイン」の立場すべてをコリンズ氏と「バイオロゴス研究所」に関係する学者たちは否定する。そして最新の科学的データに合致する知的に洗練された「神論的進化論」福音主義を推進する。
勢い関連する聖書箇所の解釈でも科学的データを重視する態度が強いように思う。
この論争はまだ学者・識者間での論争だが、一般信徒のレベルまで降りてきたらどうなるのだろうか。相当の混乱を引き起こすことが予想される。
伝統的な解釈に留まろうとする力と、科学的に開明的な理解を取り入れようとする力が個々人の心のうちで拮抗するようなことになるのだろうか。
科学的誠実さと信仰とは両立する、とはコリンズ氏の信念だが実際においては一般信徒はコリンズ氏のように科学的データをコントロールして信仰と両立させるすべを持っているわけではない。
世は(科学的)専門家の意見、それも対立する意見の間を行ったり来たりせざるを得ないのではなかろうか。
信仰的に柔軟であることは、伝統的聖書解釈や教義的信仰を変更する開明さを持ち合わせている。
しかしオストリング記者が指摘するように、これが神学的人間理解の根幹を揺さぶるとなると、果たして体裁のいい調和は可能だろうか。むしろ「科学的実証的データ」を優先させる立場に立たないと終始一貫しない、ということにならないだろうか。
「科学」と「信仰」を調和させると言うのはこの段階まで来るとそう簡単ではないように見える。
そんな懸念を覚えながらこの記事を読んだ。
2011年6月6日月曜日
もしこのブログが非公開だったら
このブログを始めて11ヶ月が過ぎた。
ブログは個人のダイアリーのようなもので、非公開に出来るし公開して不特定多数の読者にも読んでもらうことができる。
筆者は最初から「大和郷にある教会」とタイトルを付けてしまったので、個人的な側面は余り考えていなかった。
ツィッターを始めたのでその翌日勢いに任せてブログも始めてしまったのだ。
当初の意図はツイッターもブログも「教会の伝道」ツールのようなイメージで考えていた。
多少その線で頑張っていた時期があったが、公開ブログを継続して読んで貰うためには更新が欠かせない。
多少なりふり構わず「ネタ」を探して書いているうちに、いつしか牧師の個人的雑感のようなブログになってしまった。
そのこと自体はそれほど悪いこととは思っていないが、それならばブログのタイトルもしかるべく改名すべきなのだろうがそのままにしてある。
牧師と言ってもいろいろで、筆者が普段読んでいる「牧師のブログ」を書いている牧師たちはなかなか関心が広い方が多いようである。
うらやましい限りである。
こちらは引き出しが少ないので「ネタ」につまってしまう。
頑張ってもどっちみち聖書や神学関係が多くなってしまうのだ。
そんな時「非公開ブログ」であったらもっと自由に書けるであろうに・・・と夢想する。
別に自由に書きたいことを書けばよいではないか、と言われても筆者は余り器用に書き分けられない。
いや器用に書き分ける、と言うのがあるいはおかしなことなのかもしれない。
でも筆者の場合は説教でもそうなのだが個人的なエピソードを余り持ち込まない、いや持ち込めない方なのだ。
だから「非公開ブログ」であっても恐らくそれ程は自分をひけらかすと言うか、自分の心の中をつまびらかにすることはしないであろうと想像する。
一日の中で様々な想念、情念、記憶のフラッシュバックなど、もし書き付けようと思えばいくらでもあるはずである。
しかしそれを何かに書き付けると言うことは取捨選択のフィルターがかかってしまい、どうしても内容が抑制されてしまうのである。
読むのは楽だが書くのは苦痛だ、とはそんなことも関係しているだろう。
ジェンダーと言う語があるが、自分の心の赴くままに語れるのは女性の方が得意なのではないだろうか、とよく思ったりする。
男性は、と言うと妙にプライドや「沽券」に引きずられ、表現が抑制されたり慎重な物言いになってしまったりするのではなかろうか。
そんな肩肘張った物言いから解放され、あっけらかんと物を書けたらどれほど楽だろうに、などと勝手に思ったりする。
そうすれば書いたそばから(記事を公開した後から)あれは書かなきゃ良かった、とか、あの部分の発言はもうちょっと内容をチェックしてからにしておけば良かった、とか、未練がましい思いをしないで済むのに、と思ったりする。
さて、今日は「ネタ」なしにいくらか自由に書くことが出来た。
別に何ということは無い戯言だ。
これで記事になるかどうかは読者の判断にお任せしよう。
ブログは個人のダイアリーのようなもので、非公開に出来るし公開して不特定多数の読者にも読んでもらうことができる。
筆者は最初から「大和郷にある教会」とタイトルを付けてしまったので、個人的な側面は余り考えていなかった。
ツィッターを始めたのでその翌日勢いに任せてブログも始めてしまったのだ。
当初の意図はツイッターもブログも「教会の伝道」ツールのようなイメージで考えていた。
多少その線で頑張っていた時期があったが、公開ブログを継続して読んで貰うためには更新が欠かせない。
多少なりふり構わず「ネタ」を探して書いているうちに、いつしか牧師の個人的雑感のようなブログになってしまった。
そのこと自体はそれほど悪いこととは思っていないが、それならばブログのタイトルもしかるべく改名すべきなのだろうがそのままにしてある。
牧師と言ってもいろいろで、筆者が普段読んでいる「牧師のブログ」を書いている牧師たちはなかなか関心が広い方が多いようである。
うらやましい限りである。
こちらは引き出しが少ないので「ネタ」につまってしまう。
頑張ってもどっちみち聖書や神学関係が多くなってしまうのだ。
そんな時「非公開ブログ」であったらもっと自由に書けるであろうに・・・と夢想する。
別に自由に書きたいことを書けばよいではないか、と言われても筆者は余り器用に書き分けられない。
いや器用に書き分ける、と言うのがあるいはおかしなことなのかもしれない。
でも筆者の場合は説教でもそうなのだが個人的なエピソードを余り持ち込まない、いや持ち込めない方なのだ。
だから「非公開ブログ」であっても恐らくそれ程は自分をひけらかすと言うか、自分の心の中をつまびらかにすることはしないであろうと想像する。
一日の中で様々な想念、情念、記憶のフラッシュバックなど、もし書き付けようと思えばいくらでもあるはずである。
しかしそれを何かに書き付けると言うことは取捨選択のフィルターがかかってしまい、どうしても内容が抑制されてしまうのである。
読むのは楽だが書くのは苦痛だ、とはそんなことも関係しているだろう。
ジェンダーと言う語があるが、自分の心の赴くままに語れるのは女性の方が得意なのではないだろうか、とよく思ったりする。
男性は、と言うと妙にプライドや「沽券」に引きずられ、表現が抑制されたり慎重な物言いになってしまったりするのではなかろうか。
そんな肩肘張った物言いから解放され、あっけらかんと物を書けたらどれほど楽だろうに、などと勝手に思ったりする。
そうすれば書いたそばから(記事を公開した後から)あれは書かなきゃ良かった、とか、あの部分の発言はもうちょっと内容をチェックしてからにしておけば良かった、とか、未練がましい思いをしないで済むのに、と思ったりする。
さて、今日は「ネタ」なしにいくらか自由に書くことが出来た。
別に何ということは無い戯言だ。
これで記事になるかどうかは読者の判断にお任せしよう。
2011年6月4日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
6月5日 午前10時30分
説教箇所 ヨハネの福音書 15:1-10
説 教 題 「もっと多く実を結ぶために」
説 教 者 小嶋崇 牧師
※聖餐式があります。
※次週、ゲスト説教者、後藤亮兄です。礼拝後昼食会があります。
6月5日 午前10時30分
説教箇所 ヨハネの福音書 15:1-10
説 教 題 「もっと多く実を結ぶために」
説 教 者 小嶋崇 牧師
※聖餐式があります。
※次週、ゲスト説教者、後藤亮兄です。礼拝後昼食会があります。
2011年6月3日金曜日
「ミツバチの羽音と地球の回転」
標題タイトルの自主上映ドキュメンタリー映画を早稲田奉仕園で見てきた。
映画のオフィシャルサイト
鎌仲ひとみ監督のドキュメンタリー映画としては三作目のようだが、「ヒバクシャ -- 世界の終わりに」「六ヶ所村ラプソディー」に続く原爆、原発から来る被爆の問題群を一貫して追跡している映画である。
今回の映画の構成は二つになっている。
メインは中国電力・上関原発反対運動に島をあげて取り組んでいる祝島の人々の生活ぶりである。漁業と農業で暮らす高齢化の島。島と島を取り囲む環境に対する島民の思いがひしひしと伝わってくる。そこに無理やり原発を持ち込もうとする大企業と島民との闘争。力関係から圧倒的不利なのだが、島民は一致団結して反対運動に体を張って取り組んでいる姿が感銘を与える。
間に挟まれているのは人々の生活と密着したエネルギー政策を地域の人々が主体的に選択しているスエーデンの村の様子。またエネルギー転換や節電、エコを推進することで企業価値を高めようとする試みなどが紹介されている。自分たちが使うエネルギーを自分たちで選択する、というスエーデンの姿が原発問題を抱える日本の将来にヒントを投げかける。
監督の原発に対する姿勢は明確だが、映画はそんなイデオロギーがかったものではなく、島の生活を、島に生きる人々の考えを丹念に描いている。彼らの反対運動は真剣だが、四六時中眉間にしわ寄せているだけでなく、ユーモアや人間性を感じさせる場面が幾つも描かれている。
2時間15分はちょっと長い気もするが、全体に「人が生きる」原点を随所で考えさせてくれる点ドキュメンタリー映画の強みではないかと思った。
上映後は鎌仲監督の30分を越えるトークがあり、福島第一原発による内部被曝の危険などに関して、今までの自身の映画製作を通して蓄積された被曝に関する薀蓄を披露してくれた。
来場者の中には問題意識の高い方も結構いたであろうし、既に既知のことも多かったであろうが、監督の啓発的でいて機知に富んだトークは聞いていて気持ち良いものであった。
このブログで取り上げた原発問題に関する情報源となった人々(小出裕章、後藤政志、田中三彦、藤田祐幸、石橋克彦、広瀬隆、広河隆一、等)は今や多くのメディアに取り上げられるようになった。
鎌仲監督も日本の今後のエネルギー選択を考える上で映画の中でも取り上げた飯田哲也氏や田中優氏などの名前を挙げていたが、代替エネルギーにせよ内部被曝の危険にせよ、とにかく私たち自身が必要な情報を自分で確保する大切さを強調されていた。
※入場料1,000円はすべて義援金として寄付されるそうである。
【義援金送付先団体】
測定器47台プロジェクト(リンク)
母乳調査・母子支援ネットワーク(リンク)
このような草の根的啓発運動が今後も市民の原発問題への意識を高め、選択できる社会へと変えていく力となることを願う。
是非皆さんも機会があったらご覧ください。
映画のオフィシャルサイト
鎌仲ひとみ監督のドキュメンタリー映画としては三作目のようだが、「ヒバクシャ -- 世界の終わりに」「六ヶ所村ラプソディー」に続く原爆、原発から来る被爆の問題群を一貫して追跡している映画である。
今回の映画の構成は二つになっている。
メインは中国電力・上関原発反対運動に島をあげて取り組んでいる祝島の人々の生活ぶりである。漁業と農業で暮らす高齢化の島。島と島を取り囲む環境に対する島民の思いがひしひしと伝わってくる。そこに無理やり原発を持ち込もうとする大企業と島民との闘争。力関係から圧倒的不利なのだが、島民は一致団結して反対運動に体を張って取り組んでいる姿が感銘を与える。
間に挟まれているのは人々の生活と密着したエネルギー政策を地域の人々が主体的に選択しているスエーデンの村の様子。またエネルギー転換や節電、エコを推進することで企業価値を高めようとする試みなどが紹介されている。自分たちが使うエネルギーを自分たちで選択する、というスエーデンの姿が原発問題を抱える日本の将来にヒントを投げかける。
監督の原発に対する姿勢は明確だが、映画はそんなイデオロギーがかったものではなく、島の生活を、島に生きる人々の考えを丹念に描いている。彼らの反対運動は真剣だが、四六時中眉間にしわ寄せているだけでなく、ユーモアや人間性を感じさせる場面が幾つも描かれている。
2時間15分はちょっと長い気もするが、全体に「人が生きる」原点を随所で考えさせてくれる点ドキュメンタリー映画の強みではないかと思った。
上映後は鎌仲監督の30分を越えるトークがあり、福島第一原発による内部被曝の危険などに関して、今までの自身の映画製作を通して蓄積された被曝に関する薀蓄を披露してくれた。
来場者の中には問題意識の高い方も結構いたであろうし、既に既知のことも多かったであろうが、監督の啓発的でいて機知に富んだトークは聞いていて気持ち良いものであった。
このブログで取り上げた原発問題に関する情報源となった人々(小出裕章、後藤政志、田中三彦、藤田祐幸、石橋克彦、広瀬隆、広河隆一、等)は今や多くのメディアに取り上げられるようになった。
鎌仲監督も日本の今後のエネルギー選択を考える上で映画の中でも取り上げた飯田哲也氏や田中優氏などの名前を挙げていたが、代替エネルギーにせよ内部被曝の危険にせよ、とにかく私たち自身が必要な情報を自分で確保する大切さを強調されていた。
※入場料1,000円はすべて義援金として寄付されるそうである。
【義援金送付先団体】
測定器47台プロジェクト(リンク)
母乳調査・母子支援ネットワーク(リンク)
このような草の根的啓発運動が今後も市民の原発問題への意識を高め、選択できる社会へと変えていく力となることを願う。
是非皆さんも機会があったらご覧ください。
2011年6月1日水曜日
『教会における聖書の解釈』③
カトリック教会の教皇庁聖書委員会の文書「教会における聖書の解釈」(和田幹男訳)のコメントの三回目です。
今日は『第2部 解釈学の諸問題』についての感想です。
先ず前回と同じように第二部のアウトラインを載せてみます。第一部と違って分量は少ないので混み入ったアウトラインではありません。
第二部ではこれらの方法論やアプローチをどう取り入れるかどうかに拘わらず、テキストを解釈することに伴うより大きな「枠組み的な問題」に関して、『解釈学』と言う哲学が果たしてきた役割と、それによってテキストが持つ様々な意味の次元、聖書のテキストで言うと三つの次元を紹介します。
『解釈学』の祖として名前が挙げられているのは、シュライエルマッハー、ディルタイ、ハイデッガーですが、ここではそれをさらに発展進化させた、ブルトマン、ガダマー、リクールの業績が簡潔に紹介されています。
筆者が「(哲学的)解釈学」に出会ったのはプリンストン神学校での、ギブソン・ウィンター(Gibson Winter)教授の授業からでした。ウィンター教授は社会倫理の専門でしたが、特に社会理論、社会学の限界性を克服するような意図で解釈学、特にハイデッガーの理論を授業に持ち込んでおられました。
当時はちんぷんかんぷん、と言う感じでしたが、解釈学の持つ影響は深いものだと感じていました。解釈理論は伝統的には古典テキストを解釈する際の諸問題を扱うディシプリンだったのですが、現代では哲学や人文科学など広範囲にカバーするものになりました。
当時ウィンター教授に「解釈学入門」として推薦されたのは、Richard E. Palmer のその名もずばり「ハーメニューティックス」です。副題は、Interpretation Theory in Schleiermacher, Dilthey, Heidegger, and Gadamer、となっています。
『教会における聖書の解釈』では、「テキストと解釈者の時代的・文化的距離の問題をどう乗り越えるか」、と言う視点でブルトマン、ガダマー、リクールの3人の視点を紹介していますが、ブルトマンの場合は解釈哲学と言うより、ハイデッガーの実存的解釈哲学の聖書解釈への応用と言う意味でその影響が大きいのでガダマーやリクールらと並べられているように思います。
その上で聖書のテキストを、三つの「意味(センス)」、すなわち、「字義的意味」「霊性的意味」そして「より充足した意味」で捉えられることを示そうとする。
字義的意味は、聖書テキストの著者がその時代の読者に対して意図した意味で、歴史的批判的方法によって解釈されるべき優先的な意味であるが、しかし聖書のテキストはその時代的制約に拘束されるものではない。
新約聖書がしばしば旧約聖書をキリストの出来事、聖霊の現実の光の下で新しい意味で解釈されるように、そのようにキリスト教は旧約聖書を「霊性的意味」で理解しているものである。
「より充足した意味」とは後代の聖書著者がある聖書テキストをその意図した字義的意味を超えて啓示的により十分な意味を付与するような解釈のことである。(例、マタイ1:23とイザヤ7:14の関係)
とまあ、簡単に三つの「意味」の簡単な説明を試みてみた。
説明的には「霊性的な意味」と「充足した意味」とを「字義的意味」から区別することはできるが、それは単にテキスト解釈の範囲に限定されるものではなく、テキストの新しい時代への適用、応用と言う実際的な関心から出てくるのではないか、とも思われる。新約聖書における「(旧約)聖書」の具体的扱い方を追跡していくと、様々な牧会的、宣教的文脈において聖書テキストの意味の開放性が見て取れる。
別な新約学の視点から言えば、それは聖書テキストの相互関連性(インターテキスチュアリティー)にも通じるものではないだろうか。
今日は『第2部 解釈学の諸問題』についての感想です。
先ず前回と同じように第二部のアウトラインを載せてみます。第一部と違って分量は少ないので混み入ったアウトラインではありません。
第2部 解釈学の諸問題第一部では聖書を解釈する時の様々な方法論やアプローチが紹介され、評価されました。
A.現代哲学の解釈学
1. 現代の展望
2. 解釈する場合の有用性
B.聖霊の息吹を受けた聖書の意味
1. 字義的意味(The Literal Sense)
2. 霊性的意味(The Spiritual Sense)
3. より充足した意味(The Fuller Sense、Sensus Plenior)
第二部ではこれらの方法論やアプローチをどう取り入れるかどうかに拘わらず、テキストを解釈することに伴うより大きな「枠組み的な問題」に関して、『解釈学』と言う哲学が果たしてきた役割と、それによってテキストが持つ様々な意味の次元、聖書のテキストで言うと三つの次元を紹介します。
『解釈学』の祖として名前が挙げられているのは、シュライエルマッハー、ディルタイ、ハイデッガーですが、ここではそれをさらに発展進化させた、ブルトマン、ガダマー、リクールの業績が簡潔に紹介されています。
筆者が「(哲学的)解釈学」に出会ったのはプリンストン神学校での、ギブソン・ウィンター(Gibson Winter)教授の授業からでした。ウィンター教授は社会倫理の専門でしたが、特に社会理論、社会学の限界性を克服するような意図で解釈学、特にハイデッガーの理論を授業に持ち込んでおられました。
当時はちんぷんかんぷん、と言う感じでしたが、解釈学の持つ影響は深いものだと感じていました。解釈理論は伝統的には古典テキストを解釈する際の諸問題を扱うディシプリンだったのですが、現代では哲学や人文科学など広範囲にカバーするものになりました。
当時ウィンター教授に「解釈学入門」として推薦されたのは、Richard E. Palmer のその名もずばり「ハーメニューティックス」です。副題は、Interpretation Theory in Schleiermacher, Dilthey, Heidegger, and Gadamer、となっています。
『教会における聖書の解釈』では、「テキストと解釈者の時代的・文化的距離の問題をどう乗り越えるか」、と言う視点でブルトマン、ガダマー、リクールの3人の視点を紹介していますが、ブルトマンの場合は解釈哲学と言うより、ハイデッガーの実存的解釈哲学の聖書解釈への応用と言う意味でその影響が大きいのでガダマーやリクールらと並べられているように思います。
聖書はつぎつぎと続くすべての時代のための神の言葉である。したがって、文学批判、歴史批判の研究方法を、より大きい解釈の模型の中に組み入れることを可能にする解釈学の理論を無視することはできない。問題は、聖書本文の著者とその最初の宛先人の時代とわたしたちの現代という時代の距離をいかに克服し、キリスト教徒の信仰生活を養い育てるために、いかに聖書本文のメッセージを正しく現在化すればよいのかにある。すべての聖書解釈は、現代の意味での「解釈学」によって補完されるよう呼びかけられている。と言うわけで聖書テキストの解釈は、解釈学的洞察を要請することになるわけだが、対象となる聖書テキストは次のような特殊な解釈対象であるという。
聖書解釈は、 すべての文学的歴史的文書一般の解釈と同じであるとしても、 同時にこの解釈にとって独特なケースでもある。 その特殊な性格はその対象から来る。 救いの出来事とそのイエス・キリストの人物における成就は、 全人類の歴史に意味を与える。 新しく歴史の中でなされる解釈は、 その豊かな意味の開示であり、 明示でしかありえない。 これらの出来事を伝える聖書の叙述は、 ただ理性だけでは完全には理解されない。 教会共同体における生きた信仰と聖霊の光のような、 特殊な前提事項がその解釈を左右する。 霊における命の成長と共に、 聖書の読者の中で聖書本文が語る現実の理解も成長する。第二部では聖書テキストの意味(センス)を引き出す解釈として従来あった「字義的意味」と「霊性的意味」と言う捉え方に対し、歴史的批判的方法が「単一の意味」に限定しようとしたのが、ここにきて意味論的また哲学的解釈論の立場から「意味の多義性」が受け入れられる状況になっている、と指摘する。
その上で聖書のテキストを、三つの「意味(センス)」、すなわち、「字義的意味」「霊性的意味」そして「より充足した意味」で捉えられることを示そうとする。
字義的意味は、聖書テキストの著者がその時代の読者に対して意図した意味で、歴史的批判的方法によって解釈されるべき優先的な意味であるが、しかし聖書のテキストはその時代的制約に拘束されるものではない。
新約聖書がしばしば旧約聖書をキリストの出来事、聖霊の現実の光の下で新しい意味で解釈されるように、そのようにキリスト教は旧約聖書を「霊性的意味」で理解しているものである。
「より充足した意味」とは後代の聖書著者がある聖書テキストをその意図した字義的意味を超えて啓示的により十分な意味を付与するような解釈のことである。(例、マタイ1:23とイザヤ7:14の関係)
とまあ、簡単に三つの「意味」の簡単な説明を試みてみた。
説明的には「霊性的な意味」と「充足した意味」とを「字義的意味」から区別することはできるが、それは単にテキスト解釈の範囲に限定されるものではなく、テキストの新しい時代への適用、応用と言う実際的な関心から出てくるのではないか、とも思われる。新約聖書における「(旧約)聖書」の具体的扱い方を追跡していくと、様々な牧会的、宣教的文脈において聖書テキストの意味の開放性が見て取れる。
別な新約学の視点から言えば、それは聖書テキストの相互関連性(インターテキスチュアリティー)にも通じるものではないだろうか。
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