2010年12月29日水曜日

原罪とキリストの救済

 先の「洗礼について」のポストは、そこで紹介した方のブログに筆者がたまたま遭遇して啓発されて書いたものであった。

ついでにそのブログにコメントを残したら、以下のような返答が返ってきた。

私がキリスト教信仰を持てない理由なのですが

1.人間には「原罪」がある
2.それをキリストが贖って人類が救われた

1は理解できますが、2がどうしても私には腑に落ちないのです。
キリストが罪を贖ったというが、人間は依然として弱く、汚くあり続けているのにどこが救われたんだ・・・と思ってしまいます。
一度に回答できるとも、又回答し切れるとも思わないが、ジャブ程度のものは書いておこうと思う。

先ず人間の現実として「原罪」を受け入れているようであることを確認しておこう。

次はキリストの贖いと原罪がどのように向き合うのか、と言う問題であろう。

この方のこのような疑問が出てくる背景には、キリストの贖いを「原罪からの普遍的、全き救済」と言う前提があるように見受けられる。

普通のクリスチャンはこのような疑問を抱かないのではないか。
それはキリストの贖いの意義を、「私の罪の身代わり」と言う個人レベルでの了解事項としているからではなかろうか。
プラス、キリストの救いは信ずる者に適用されるのであって、信じない者には適用されない。
キリストの贖いは「信仰」と言うものが介在して初めて有効となる、と言う理解が前提されているように思える。

但し、「キリストの救いを受けた者が依然として罪にからめとられている」と見るならば、この方の疑問は「キリストの救いは単に違う意味での免罪符」あるいは、原罪を抱える人間の咎(罪責感)を心理的に解消するだけで、実態においては原罪に対しては何の効力も発揮していない、と言う見方に解釈することもできる。

またここで表現されている疑問よりスケールは大きくなるが、キリストの贖いが罪に対する決定的な解決であるならば、なぜ依然として世界には罪や苦難が満ち溢れたままなのだ、という「神義論」の様相を帯びて来ることも予想される。

筆者の属するウェスレー派の「聖化論」の伝統では、新生(救われた)者に残存するアダム来の罪の問題は、「(信者が死ぬまでの間に)聖化される」ものとして理解する。その過程は漸次的な段階と危機的(瞬時的)体験との二段構えで理解されている。
どっちにしてもキリスト者は刻々罪に死んで行く者として捉えられる。

とまあ、ここまでは神学的な議論で、実際には、教会の信者を観察しながら、
「救われた」と言ったって結局同じ罪人じゃない。 じゃ「キリストの救い」を信じるのと信じないのとで何の違いがあるのよ。
と少し皮肉っぽく言えばそう言う事になるかもしれない。

すると、「キリストの救いは道徳的にも人間を変えるものなのよ。マザー・テレサやマーティン・ルター・キング牧師を見るまでもなく、確かに聖人ではないにしても、罪に勝とうとする力を与えるものよ。」と反論するかもしれない。

ただこれだけは言えるかもしれない。救いに伴う「罪の自覚(認罪)」はそれ自体が救いの過程にある事柄だ、と言うこと。
そしてこの自覚はその人をまだ実質的「聖徒」にはしないかもしれないが、「聖さ」を希求する出発点にすることができる、と言うこと。


人を「聖」へと導くのは、詰まるところ人間の窮状の正体である「罪」を自覚し、その破れに自我が砕かれ、神の一方的な恩寵を間断なく期待することではないか。

そしてこの人類と被造物の「破れた状態」、窮状からキリストは十字架と復活の贖いによって解放したからこそ、「新しい創造」「回復と癒し」への端緒につけたのだ、と言うこと。

贖われた私たちの歩みはキリストの勝利ほど圧倒的ではないにしても、「新しい人」として生きる限りその道行(目指すゴール)は確かであることを。

2 件のコメント:

  1. 私のコメントにこのような丁寧な応答をいただき、まことにありがとうございます。とても勉強になりました。

     さて、小嶋さんのお考えになったとおり、私は「キリストの贖いを「原罪からの普遍的、全き救済」」を前提として捉えております。ですので、「普通の」クリスチャン・・・・・・のくだり、非常に興味深く拝読しました。キリストの贖いは個人レベルのもので、さらに信仰がなければ贖いには与れない、と。まさに「教会の外に救いなし」といった感じでしょうか。

    >但し、「キリストの救いを受けた者が依然として罪にからめとられている」と見るならば、この方の疑問は「キリストの救いは単に違う意味での免罪符」あるいは、原罪を抱える人間の咎(罪責感)を心理的に解消するだけで、実態においては原罪に対しては何の効力も発揮していない、と言う見方に解釈することもできる。

     私の疑問はまさにこのお言葉通りのことにあります。神義論も少し入っています。信徒であっても、私から見ればですが、原罪から逃れている人間はいません。しかしそれは「クリスチャンなのに高潔ではない!」と非難しているのではなく、人間とはそういうものだと考えております。

     「贖罪でも世界は全然救われてないのに、原罪あふれる世界を見てクリスチャンはどう折り合いをつけているのだろう」とずっと疑問に思っていましたが、個人的レベルで考えていること、また信仰を持たなければ贖罪には与れないと考えているということであれば、とても納得できました。
    (どうも文章に起こすととても皮肉っぽい文体になってしまいましたが、そのつもりはありません。本当に、とても勉強になりました)
     周りに信徒の友人がたくさんいますが、信仰のことはとてもデリケートな話だと思いますし、非信徒の私には話しにくいこともあるだろうな、と感じるところもありますので、こうして忌憚ないお話を伺えてとても嬉しいです。
    ありがとうございました。

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  2. きくかわさん、またまたコメント頂きありがとうございます。不十分な回答内容ながらその意味を汲んで下さりありがとうございます。
    大分ニュアンスの問題を残していますが、救いの受け手としての個人の主観的理解ではそうなるだろう、と言うことを示したつもりです。
    しかし「キリストの贖罪」の普遍性を否定しているわけではありません。それは「キリストの贖罪は人類・被造物全体を視野に入れた」ものであると言う解釈がより聖書的理解だと思うからです。パウロ書簡により明示されていると思います。では信じる信じないという主体的応答は必要ないのか、と言うとそれは必要なのです。
    では信じない人はキリストの救いから除外されているか、これはあやふやに聞こえるかもしれませんが、はっきりそうとは言えない面があると思います。それで「教会外に救いなし」も額面通り肯定できません。教会がたとえ唯一の公同教会だけであったとしても、神の恩寵の豊かさから考えるに、教会が救いを独占するような排除的制度とは思えないからです。
    神の恵みの豊かさはイエス・キリストにおいて十二分に示されている、とは思いますが、はたしてその広さ、深さ、高さを私たちキリスト者が知り尽くしているかどうかとなると、答えはまだまだ、と言うべきだろうと思います。

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