2011年9月27日火曜日

「史的イエス」と「史的キリスト」?

先日の「英語圏ブログ紹介④」の追記もかねて。

ただ今あるグループの同人誌のようなものの原稿を依頼されて執筆中です。
タイトルは「N. T. ライトと『史的イエス』」で大体四分の三くらいまで埋めることが出来ました。(9000字まで)

ライトについては色々な機会に簡単な文章は書いてきているので大丈夫だろうと引き受けたのですが、やはりそれなりに苦労します。
今週金曜日まで締め切りと言われているのでまあ何とかなるとは思いますが・・・。

「史的イエス」と言えば、「イエスの死」の歴史的・神学的意義も問題になるところですが、ちょうど今週の土曜日は「ライト読書会」があり、課題論文が
Jesus, Israel and the Cross
になっています。

そんなわけで原稿の執筆にもちょうど助けにはなっているのですが、この論文は1985年のもので少し古いし、「キリスト教起源と『神』問題」シリーズの二巻目、「イエスと神の勝利」にも目を通しています。
この本の中でライトは、自身も含めた「史的イエスの第三の探求」の研究者たちの問題設定を6つ挙げて、各研究者の方向性と傾向を評価する視座としています。
① How does Jesus fit into Judaism?
② What were Jesus aims?
③ Why did Jesus die?
④ How and why did the Early Church begin?
⑤ Why are the Gospels what they are?
⑥ Agenda and theology.(Pp.89-121)
大変広い視野と野心的な研究姿勢がこんな設定を第三探求に課しているように思います。

ライトは困難な作業が待ち構えているけれども歴史的研究としてはこの位徹底してやれるだけの立場に第三探求が置かれていると認識しています。
つまり『史的イエス』研究の将来に対して非常に楽観的姿勢を取っているわけですが、日本において「史的イエス」に関心を持つ神学者、上智大学神学部教授の岩島忠彦教授は、ラリー・フルタド著「主イエス・キリストーーキリスト教最初期におけるイエスへの信心」の書評で、欧米の「史的イエス」第三の探求について次のようなコメントと評価をしているのです。
 目下、聖書学界では米国を中心とする史的イエスの第三探求がもっぱらの話題である。J・D・クロッサン、M・ボーグ、E・P・サンダーズ、J・マイヤー、N・T・ライト、B・ウィゼリントン等々、それぞれが(時として何分冊にもなる)大著を刊行している。これら「第三探求」のキリスト論的貢献は無視できないものであるが、その膨大なエネルギーに比して、これまでに得られている成果は乏しいように思われる。一部の学者たちは、イエスのユダヤ性に注目し、そこから終末の到来にかける預言者としてイエス像を描き出すが(例えばライト)、これは基本的には二十世紀初頭のシュヴァイツァーのラインの踏襲である。…
筆者が言いたいのは、史的イエスの探求には限界があるということである。聖書学者は二百年以上これに携わってきた。今日その探求はますます厳密さを要求されている。確かにこのテーマ抜きには、イエス・キリストを論じることはできない。しかし、史的イエスという課題は、問題設定自体が持つ限界があるということが、特に今日明らかになりつつあるように思う。筆者は組織神学者である。少なくとも信仰の学としての神学としてキリスト論を論じるには、別のアプローチが必要であると思われる。この別のアプローチをフルタドは提供しているように思われる。それは「史的イエス」ならぬ「史的キリスト」の研究である。(書評リンク
とまあ「史的イエス」研究に対して非常に悲観的な評価なのです。

依頼された原稿ではこのコメントに対して筆者の考えを付記して結論に持って行こうと思っています。

2011年9月24日土曜日

明日の礼拝案内

9月25日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:8-5:1
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 4:21
説 教 題 「律法に聞く」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(68)
ガラテヤ人への手紙(56)
・4:21-5:1 自由の子

※プチ・オープン・チャーチ・カフェ、午後1-3時

2011年9月23日金曜日

英語圏ブログ紹介④

先日「今日注文した本」で紹介した
Larry W. Hurtado, Lord Jesus Christ: Devotion to Jesus in Earliest Christianity.
を読み始めている。
 
他の数冊も序文、目次、導入などに目を通したがどうやらこの本が今一番読みたい感じなのである。実際20数ページまで読み進んだ。
 
ところでアカデミックな世界では有名でも一般には知られていない学者は結構いる。
今まではそれが普通だった。
しかしネット世界の登場で、そしてブログが活用されるようになって、学者たちは自分から一般に向けて積極的に学会での議論や最近の研究動向などを発信するようになった。
特に30代から50代の若手から中堅にかけての学者たちがブログを有効に活用している。
 
「英語圏ブログ紹介」はそのような方々のブログを主に紹介している。
 
ところでラリー・フルタドは今年68になる。ちょうどエジンバラ大学を定年退職した方だが、この年齢の方にしては珍しく最近(2010年7月)ブログを始められた方だ。
 
で、そのブログだが、その名の通りLarry Hurtad's Blog と言う何の変哲もない名称である。
ブログ内容は主に彼の研究に関連するもので個人的な事柄のようなものは殆んどない。
だからコメントも真面目に研究に関すること、と注意書きしている。
 
ブログが開設された当初、若手の研究家たちは大いにこれを歓迎し、彼のような実績のある学者がブログ界に登場することを称えた。
確かにそうだ。自分の研究過程にあることや今までの研究実績から若手の研究者たちや一般の読者たちを励ましたり、鼓舞したり、少し苦言を呈したりするような存在は貴重だと思う。
フルタド教授の主要研究対象はイエスが初代教会においてどのように礼拝対象となって行ったのか、を歴史的に究明することである。
 
最新のブログ・エントリーでは、
Karl-Heinrich Ostmeyer, Kommunikation mitt Gott und Christus: Sprache und Theologie des Gebetes im Neuen Testament, WUNT, 197 (Tübingen: Mohr Siebeck, 2006). 
と言う「神」「キリスト」に対する祈り(呼びかけや会話)の研究書を紹介している。ちょっと引用してみよう。(英訳はフルタド教授によるもの) 
“Praise of God unconnected to the confession of Christ as the Lord is for Paul unthinkable” (p. 87). 
キリストを主と告白することと関連なく神への賛美をすることはパウロには考えられない。
“It is indisputable that Paul was familiar with communication with [the risen] Jesus.  . . . . [For Paul] The relationship of people to God differs from the relationship to Jesus; the manner of communication of Christians with both is not exchangeable” (98). 
パウロが復活の主とコミュニケーションを持つことが珍しいものでないことは論を待たない。 パウロにとって、人々と神との関係、そしてイエスとの関係は異なるものである。キリスト者と両者とのコミュニケーションの持ち方も同様混同されていない。
“God and Christ are not addressed in the same way.  God alone is addressed in thanks and worship.  Christ is the one through whose saving work is opened the possibility of thanks to and worship of God” (115).
神に対する呼びかけ方とキリストに対する呼びかけ方は同一ではない。神だけが感謝と礼拝の対象として呼びかけられている。キリストはこのような神への感謝と賛美を可能にした救済者なるお方である。
新約学や初代キリスト教史に関し、少し専門的な関心のある方にはお勧めのブログである。

2011年9月21日水曜日

日本人によるパウロ研究

先日(7月20日)「ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ」と言う記事の中で以下のような発言をした。
英語圏では神学や聖書学を専門にしているブログが数多くあるが、日本語圏では非常に少ない。
既に少し書いたがこの辺の事情を日本の研究者たちはもっと真剣に考えて欲しい。
学会に対してだけでなく、ネットパブリックに対してもせっかくの研究成果をもっと発表して欲しいものである。
筆者は現在主日礼拝の説教で「ガラテヤ人への手紙」を取り上げている。
既に4章に入っていて、いやもう4章の最後の区分、4:21-5:1に入ろうとしている。

筆者は原典釈義はしない(やったとしても中途半端なことしか出来ないので余りやろうと思わない)。
その代わりパウロ研究書や註解書(ワード聖書註解に収められている、リチャード・ロングネッカーの「ガラテヤ書」)などを参照している。

ネットでも色々探索するが、さすがにパウロ研究のトピックを記事にしているブログ(英語圏)は沢山ある。
最近の収穫としてはガラテヤ人への手紙に特化したサイトを見つけた。
Paul's Epistle to the Galatians

ガラテヤ書関連のトピックや書籍紹介などが行われているが、その他に「註解書文献リスト」と、『ピスティス・クリストゥー』を「主格」「目的格」のどちらに取るかで学者・文献をまとめているページがある。

今日それらのページを読んでいて二つ発見した。

発見①ちょうど講解しようとしている箇所に関するエントリーがあった。
Andrew Perriman on Galatians,4:21-5:1 Available Online)。
まだ全文読んでいないが、結構まとまった内容のものである。
pdf文書でHDDに保存した。

発見②『ピスティス・クリストゥー』のページに日本人研究者の名前が・・・。
Ota, Shuji. “Absolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paul.” Annual of the Japanese Biblical Institute. 23 (1997): 64-82.
これは珍しい。と言うかこのサイト主がリストに研究者・論文を網羅しようとしているからなのだろう。

さて先に引用したように日本人研究者は大学の紀要や論文集には発表するが、自分でブログを立ち上げ専門的な研究成果を一般向けに公開しようとする人が、少なくとも聖書学の分野ではなかなか見当たらない。
この辺英語圏のブログと比較すると大変な落差がある。

残念ながら太田修司氏のこの論文はネットには見当たらないが、氏が所属する一橋大学の方からネットで読めるようになっている何と2011年の論文がある。
これだ。
「ローマ書におけるピスティスとノモス(1)」

まっちょっと読み出してみたがやはり専門的過ぎて骨が折れる。
やはりブログのような形でもう少し一般読者に向けて噛み砕いて書いてくれたらなー、と思う。
でもネットにあるだけでも大したものだと思う。
それぐらい日本の研究環境はネットパブリックと断絶しているから。

この太田修司氏とはどんな研究者なのか殆んど詳しいことは知らないが、日本におけるパウロ研究ではかなりな人なのではないだろうか。前掲の論文でも大抵の欧米の研究者(筆者の知る範囲で)には言及している。

と、今日は主に自分用のメモでした。

2011年9月19日月曜日

聖書解釈と無誤論

先日は欧米福音的キリスト者の間でたった今話題の本、The King Jesus Gospel、を紹介した。
今回もたった今論争の的となっている本を紹介しよう。


Michael R. Licona, The Resurrection of Jesus: A New Historiographical Approach.

なぜこの本が話題になっているのか。それはこの本がN.T.WrightのThe Resurrection of the Son of God、の後にまたもやイエスの復活を歴史的に論証したからではない。但し、マイケル・バードはライトの本までとは行かないがかなり近くまでその成果を挙げているとこの研究書を評価している。(リンク
そうではなくてたまたま復活の関連で取り上げたマタイの箇所に関する解釈で論争を起こされたからだ。
まずはその関連箇所だが、
墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。(マタイの福音書27:52-53、新共同訳)
となっている。 
ライコナ(発音は定かではない)氏はこの箇所を色々と釈義的に検討した結果、黙示文学的な、詩的な表現による神学的意義の強調と受け止めた。(つまり第一義的に直接的歴史的出来事の叙述とは取らなかった。)

これを見逃さなかったのが「聖書無誤論」で有名なノーマン・ガイスラー氏で、二度に渡ってライコナ氏に歴史的叙述であることを認め自説を撤回するよう要請した。
ガイスラー氏曰く、「ライコナ氏は福音主義神学会の会員である。福音主義神学会はシカゴ声明で定義した『聖書無誤論』の立場を奉じているから、それに反する聖書解釈は許されない。故にライコナ氏の取るべき行動は自説の撤回である。」と言うのである。(ガイスラー氏自身は福音主義学会員ではなく数年前に何かのことで退会している。)

これで「個別の聖書箇所の解釈を巡る『無誤論』論争」の火蓋がきって落とされたわけである。相変わらず保守主義論客を自認するアルバート・モラー・ジュニア氏も見逃してはおかない。自分のブログで論争に加わった。(リンク

筆者の感じでは、「またかー」なのである。
保守的な聖書論者(歴史的叙述であることを前提している)と、聖書学の知見を援用して釈義に幅を持たせる研究者の対立の構図なのである。
進化論論争と並べればその類似性が見て取れる。「創世記の記述は『事実』を叙述している」と取る立場はそのような解釈が自明であると考え、もっと文学的に幅のある解釈を導入しようとすると、たちまち「聖書の権威を脅かす」と受け取るのである。

このような論争に何度も巻き込まれている者たちは、「いい加減頭から『聖書の権威』や『無誤論』を振りかざす議論はやめて、もっと対話的討論をしようではないか」となる。
すぐ二者択一に持ち込む、どっちが勝つか勝負するような議論は非生産的で、建設的な知識の探求に寄与しないことを思い嘆くのである。

ところでライト教授はこの箇所をどう解釈しているか。久しぶりにあの大著のページをめくってみた。かなり史実的なものとマタイが受け取っている、と言う立場を有力と見ているが、当該箇所自体の独自性や不明性を鑑み、決定的な解釈には達せられない、との立場であった。

この論争に興味のある方は、この記事を書くのに参照したマーク・コーテズの記事から読み始めるのが良いかもしれない。記事の終わりに関連ブログ記事等がまとめられている。

2011年9月17日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

9月18日 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 4:1-31
説  教 「聖霊と教会」シリーズ(5)
説 教 題 「地上の権威とイエスの権威」
説 教 者 小嶋崇 牧師

2011年9月16日金曜日

プチ・オープン・チャーチ・カフェ

日時:2011年9月25日、午後1-3時
場所:巣鴨聖泉キリスト教会及び活水工房
※ミニ・バザーもあります

3年前だったか、教会の文化祭、と言ったコンセプトで始まったのが「オープン・チャーチ」。
敷居の高い教会を地域の人に開放する、と言う目的で取り掛かったのだが、最初は色々な人の応援もあって「内輪の人たち」だけである程度盛況になってしまった。

その次の年、昨年だが今度はなるべく教会の中の人たちで出来ることをしようと言うことになり、こじんまりとした「オープン・チャーチ」になった。
写真、書、俳句、を展示して、道路にテーブルを出して工房から出た端材(ただ)や銀杏を売ったりした。

今年も「オープン・チャーチ」は継続すると言うことで決めていたが、規模は更に縮小。
それでネーミングもそれに合わせてスケール・ダウン。
「オープン・チャーチ」の前にプチをつけることにした。
更に今年は展示をやめて「カフェ」で行くことにした。

教会によっては立派な看板や、扉がついていて雨風をしのげるようになっている箱のようなケースのような案内板を持っているところもある。
大抵主日礼拝の説教題などが筆と墨でしたためられていたりする。
そんなものは当教会にはないので、今回のイベント案内はパソコンでワード文書にチラシを作成し、教会のプリンターではA4までなので、A3プリントアウトとラミネートを3枚外注した。
結構お金がかかるもので1700円ちょっとだった。
普段伝道的なことをしないので、この程度の「伝道」出費は致し方ない。

それにしても教会が外に向かって伝道する時の考え方や姿勢と、信徒でもない方々が教会に求めるものとは大分ずれがあることを最近感じる。

教会の前には「自由にお入りください。」と言う木の札が看板に張ってあるのだが、それはイベントを案内した時の意味で、常に教会堂が開放されているわけではない。
普段はしまっている。
しかし通りがかりの人が、この案内を見てか、見ないでか、いきなり玄関を開けて入って来ようとすることが年間数回ある。
その人たちは「当然開いている」と思って玄関を開けようとするわけだが閉まっている。
「どうしたんだろう」としばし立ち止まって考えた後あきらめて帰って行く。

たまたま事務室で玄関ががたがたと音がしたのを聞きつけた場合は、ちょうど敷地から出ようとしている人に向かって「何の御用でしょうか」と聞く。大抵「ちょっとお祈りしたいと思って・・・。」と言うことが多い。
恐らくカトリックの聖堂の先入観なのだろう。
残念ながらそのような開放の体勢は取っていないので、と事情を説明してお引取り願っている。

まだまだ今の時代の人との「うまいインターフェース」を作れていない教会の「お招き」を今年もトライする。

2011年9月13日火曜日

「王なるイエスの福音」

今年(英語圏の)キリスト教界で出版前に大きな話題になった本があります。
以前このブログで名前だけは出していると思いますが、ロブ・ベルの「ラブ、ウインズ(愛は勝利する)」です。

今またもう一冊話題になっている本が、スコット・マクナイトの標題の本、The King Jesus Gospel: The Original Good News Revisited、です。
既にキンドル版は出ているし、書評用に何人ものブロガーが読んでいるので、筆者としては10月に出版されて、購入して、読了するまではブログに取り上げるのもどうかと思うのですが、そう言う訳で何人もの筆者が目にしているブロガーたちが取り上げているのを見過ごしにしておくのももったいないのでここで記事にすることにしました。

幸い(と言うか不幸にもと言うか)他に取り上げるネタが余り見つからないので、ちょうどいいタイミング、と言うことで・・・。

先ず前文に、N.T.ライトと、ダラス・ウィラードが推薦文を寄せています。
ダラス・ウィラードの方は筆者はそれほど分かりませんが、ライトの場合は本の内容から言ってライトが主張してきた聖書の包括的ストーリーを背景にした福音の捉え方を提示している点、大いに推薦できる本だと言うことが分かります。

筆者がこんなことを言うのは少し生意気かもしれませんが、マクナイト教授がこの本の主張まで漕ぎ着けるのにライトの影響が大きかったことは本人も認めていますが、むしろ気付き方が少し遅かったと言うか、もっと早くこのような内容の本を書いていてもおかしくないほど、ライトの視点は明瞭だったと思います。
筆者は既にライトを読み始めて数年でマクナイトがこの本で強調している「サルベーション・カルチャー」と「ゴスペル・カルチャー」の区別はついていましたし、「使徒的福音に立ち戻らなければならない」ことははっきりしていました。

さてそんな生意気な前置きはそこまでにして、目次を見てみますと、
1971(序論的挿入、著者の若き日の「福音」伝道体験エピソード・・・筆者注)
1.The Big Question
2. Gospel Culture or Salvation Culture?
3. From Story To Salvation
4. The Apostolic Gospel of Paul
5. How Did Salvation Take Over the Gospel?
6. The Gospel in the Gospels?
7. Jesus and the Gospel
8. The Gospel of Peter
9. Gospeling Today
10. Creating a Gospel Culture
となっています。
アマゾン・ブックスである程度中身を数ページずつくらい読めるようですが、敢えて読まないでおきます。(ライトとウィラードの前文と「1971」はちょっと読んでみましたが。)

この本の紹介をしているブログを少し挙げておきますと、
①ユーアンゲリオン(ジョエル・ウィリッツ・・・右横のマイ・ブログ・リスト参照)
②フェイス・インプロバイズド(テイム・ゴンビス、Theological Method & the Gospel
③キングダム・ピープル(トレヴィン・ワックス、Scot McKnight and the King Jesus Gospel
④レイチェル・ヘルド・エバンス、"What was the Original Gospel?"

さて、この本の中身は広義の福音派も中世以降の、と言うより原始及び教父時代以降のキリスト教も、みんなが影響を受けてきた「自分が罪から救われる方法」に特化した福音と言う受け取り方に対する、聖書的チャレンジと言えます。

使徒的福音を端的に伝える「コリント15章前半」にしても、使徒の働きにおけるペテロやパウロの福音提示にしても、また福音書そのものにしても、いずれにしても旧約聖書のイスラエル物語の成就として語られ、提示されたメシヤ(ユダヤ人の王)、とは位相の異なる「福音」を私たちは聞いてきた、と言うのがこの本のテーゼです。

言ってみれば福音に関して大きなパラダイム・シフトを迫る本だと言うことができるでしょう。

今迄「福音」として聞いてきたものが、実は聖書的に忠実に語られた福音ではなく、「サルベーション・カルチャー」と定義された、「個人的救いに特化された神学とその適用」だった、とこの本は分析するわけです。

多分多くの人は最初読んでもぴんと来ないかもしれません。
しかし聖書の福音に関する箇所の叙述と比較しながら考察すれば、自ずとその指摘が理解できると思います。
問題はそのような新しい視点での「福音」が自分にとって座り心地が良いかどうか、と言う「自分の救いの居場所の心地よさ」に関する厳しい選択となって降りかかってくることだと思われます。
今までの「救い」に安住していたいのか、それともより聖書の叙述に忠実な「福音理解」に移行しようと船出するのか、と言う選択です。

さて、そう言う訳でもし邦訳出版されるならば、それなりのインパクトを与える本であることは十分予測されます。
筆者としては個人的にこの問題に講壇から取り組んできた者として、大変有益な本であることは間違いないと思いますので、是非邦訳して欲しいと思います。

このブログを読んでいる方でキリスト教出版に携わっている方があれば、是非早いうちに取り組んでください、とお願いしておきます。

2011年9月10日土曜日

明日の礼拝案内

9月11日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:1-31
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 4:19-20
説 教 題 「苦悩する使徒」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(67)
ガラテヤ人への手紙(55)
・4:8-20 訴えかけるパウロ

2011年9月9日金曜日

フィジーでのメソジスト教会弾圧

昨日届いた世界福音同盟信教自由委員会からの9/7付けの報告では、フィジーの軍事政権によるメソジスト教会の弾圧が続いているらしい。

メソジスト教会はキリスト者が人口82万の約半数を占めるフィジーでも最大の教派とのこと。ちょうど政府から教団総会の許可も取って開催寸前で中止させられた。これで総会が中止させられたのは三年連続とのこと。

政府のキリスト教会弾圧は、教会活動が会堂内での集会のみに制限され、(しかし総会は中止させられたのだが)、キャンプピング、バザー、基金活動、伝道集会等が禁止となっている。明らかに信教自由の過剰な制約である。

これには現軍事政権とメソジスト教会が支持してきた政治団体との歴史的経緯があるのだと言う。
The military rulers see the Methodist leadership as siding with the erstwhile Soqosoqo Duavata ni Lewenivanua (locally known as SDL) government, which was ousted by the military in a coup in 2006 and which was mainly supported by indigenous Fijians.
 フィジーと言うと、まもなく開催される「2011ワールドカップ・ラグビー」にも参加する強豪国の一つだ。
南国の島国で平和なイメージが強いが、政情はそう言う訳で不安定であり、信教自由に関わる宗教活動が極端に制限されている現実を見るとそのギャプを感ずる。

世界福音同盟信教自由委員会はフィジーのキリスト教会を取り巻く環境が改善するよう祈りを要請している。
CJC通信による同国の政治・宗教事情

2011年9月7日水曜日

映画「ツリー・オブ・ライフ」

めったに(映画館で)映画を見ない筆者だが、この映画には多少「見に行って来ようかな」と言う衝動ともつかない好奇心が湧いている。
既に何度か簡単な寸評やネットやメディアの伝聞でその内容みたいなものをイメージしている。
何か大きなストーリー(宇宙史、生物史、人類史)を舞台に繰り広げられる核家族の普通の物語り、と言う風な・・・。

たまたま手にした昨日の朝日の夕刊、池澤夏樹のコラム『終わりと始まり』でこの映画評が載っていた。
と言うわけで彼の映画評の文章を糸口に今日の記事を書き始めてみよう。

このブログでは以前池澤氏の文章を取り上げたことがある。池澤夏樹「多神教とエコロジー:世界を支配する資格」、ではいくらか彼のキリスト教解釈について辛口の文章を書いた。 今回取り上げた映画評もたまたま彼の「キリスト教解釈」が引っかかってくる。
 「ツリー・オブ・ライフ」にキリスト教の色は濃い。そもそも「生命の木」とは旧約聖書でエデンの園に「善悪の知識の木」と並んで生えていた木だ。
だが、人間はこの世界で他の被造物の上に立つ別格の存在であり、神の愛でる子である、という楽天的な世界観は採用されていない。
映画の最初に「ヨブ記」からの言葉が掲げられている(引用省略)
と、言うようになぜか氏はこの映画にキリスト教の意義を読み込もうとしているようなのだ。

筆者はまだ見ていないので、この映画がどれほど「キリスト教の色が濃い」のか何とも言えない。
少なくとも池澤氏の評では「キリスト教」に当たる部分は、宇宙創成と重なるという意味での『創世記』と、『ヨブ記』からの引用だけのようだ。
それならば旧約聖書の「トーラー(律法)」と「詩歌・知恵文学」だけで「預言書」を含まないということになり、新約聖書(本来のキリスト教を性格づける聖書)とは直接関連のない、とも言い換えることが出来る。むしろユダヤ教の幾つか(大きなものだが)のテーマを隠喩的に用いているだけかもしれない、とも言えるのではなかろうか。

しかし池澤氏は続ける。
 大事なのは世界は人間のために作られたのではないということだ。人間が登場しなくても世界は完結していた。それでも我々は「神は与え、神は奪う。その御名はほめたたえられよ」と言わなくてはならない。
家族がずっと考えているのはこのことだ。今、東日本大震災の後でぼくが考えているのはこのことだ。キリスト教の信仰とは別に、なぜ震災でたくさんの人が亡くなったのか、なぜ大地は揺れるのか、その先のどこに生きる意味があるのか?(強調は筆者)
ははーん。なるほどそこに持って行きたかったのか。とすると、映画でのヨブ記からの引用も、氏にとっては「宇宙創成についての知識をヨブに問う神」の言葉としての意義ではなく、「神義論」への布石なのだ。

さて一通り氏の映画評を咀嚼した後、ニューヨーク・タイムズでの映画評(リンク)にも目を通してみた。
Not Mr. Malick (who prefers to remain unseen in public) but the elusive deity whose presence in the world is both the film’s overt subject and the source of its deepest, most anxious mysteries. With disarming sincerity and daunting formal sophistication “The Tree of Life” ponders some of the hardest and most persistent questions, the kind that leave adults speechless when children ask them. In this case a boy, in whispered voice-over, speaks directly to God, whose responses are characteristically oblique, conveyed by the rustling of wind in trees or the play of shadows on a bedroom wall. Where are you? the boy wants to know, and lurking within this question is another: What am I doing here? (強調は筆者)
永遠から永遠に流れる命の流れの中で、人間の根本的存在意義が人間を取り巻く大きな世界の背後にある「神と思しき存在」に発せられ、そして確たる答えがなくその問いは自己の存在証明の問いとして継続される。
と言う風な宗教的設定としてこの評者は捉えている様だ。

所謂キリスト教的背景はある意味米国と言う文化圏から言えば前提であり、格別この映画が「キリスト教の色が濃い」わけではなさそうである。
ただ池澤氏が見落としていて、キリスト教的視点として言及されているのは「死者の復活」である。
だからと言ってそれが「キリスト教的に」解釈されていないことは明らかだ。
だからタイムズの評者は「宗教的に濃い」とは言えても、特に「キリスト教的に濃い」とは言えないはずだ。

恐らく欧米の知識人にとっても、更に日本の知識人にとってはなおさら、「キリスト教」が意味するところは多分に西洋文化に浸透している事柄や、聖書に言及するかどうかと言った事柄なのではなかろうか。
なぜなら「キリスト教」にとって決定的とも言える「イエス・キリスト」の存在とその意義に言及することなく「キリスト教の色が濃い」とかどうとか言えたものではないからである。
もしこのような知識人が敢えて「キリスト教的」と言う表現を使いたいのであれば、「キリスト教文化の色濃い」と言った一枚壁を挟んだ物言いにしなければ厳密とは言えないであろう。

何はともあれ、「ツリー・オブ・ライフ」はなかなか魅力的な映画であることは確かなようだ。そしてその解釈の仕方も多分色んな方向に出来るのだろう。池澤氏だけでなく。

2011年9月6日火曜日

英語圏ブログ紹介③

少し間が空いてしまいました。ブログネタを探していたのですが適当なのが見つからないのでこのシリーズものにします。

今回紹介するのはかなり若手の新約聖書学者(パウロ研究)で、最近教鞭を取る学校がセダービル大学からグランド・ラピッズ神学校に変わったばかりのティム・ゴンビス(Tim Gombis)です。

その変化を受けて新しく始められた(?)らしいのが、Faith Improvised、と言うブログです。
今年6月から始まったばかりです。

先ず簡単に彼の紹介から始めたいと思いますが、ネットで検索してみると、彼に関する記事や(ブロガー同士の)インタヴューは、殆んどこのシリーズに登場してきそうな方々ばかりで、一々取り上げると、それだけで延々と「英語圏ブログ紹介」になってしまうほどです。
まあ類は友を呼ぶと言うか、若手の新約学者たちの間は割合ネットで通じていると言う印象です。

と言うわけであえてソースのリンクを省略してつまみ食いしたことを簡単に羅列します。


 ①先ず現職は、

Grands Rapids Theological Seminary、の associate professor of New Testament、と言うことになります。新約学の分野で博士号を英国スコットランドのセント・アンドリュース大学から取得しました。指導教官はブルース・ロングネッカー教授(ガラテヤ書の註解で有名)でした。

②著書



「パウロ:迷っている読者たちのためのガイド」(Paul: A Guide for the Perplexed.)




「エペソ書のドラマ:神の勝利に参与する」(The Drama of Ephesians: Participating in the Triumph of God.)



筆者が彼のブログを読み出したのは7月からだと思います。第一印象は若い感覚の新約学者が出てきたな、バランスが取れてて、単なるアカデミックではなく、新約聖書の教えを研究するだけでなくそれを自分の現実(聖書学界やキリスト教界)に当てはめようとしている人、でした。

7月のブログ記事はキリスト教会内の対立、特に福音主義陣営内でのトライバリズム(党派傾向)がもたらす混乱状況に関する観察と聖書的適応が書かれています。
「レイチェル・ヘルド・エバンス」の記事でも指摘しましたが、若い世代のキリスト者たちは神学的立場をめぐって対立や抗争がエスカレートしていく現状を非常に憂いており、教会にとって克服すべき深刻な課題と捉えているようです。
ティム・ゴンビスのこの一連の記事は新約聖書学の知見を動員しながらアメリカ福音主義の党派対立現象に警鐘を鳴らしているものだと言えます。
(四つ目の記事には筆者もコメントを書き込みました。)

最後に「入門編」として、彼が「クリスチャニティー・トゥデー」誌に寄稿した論文のリンクを挙げておきます。
The Paul We Think We Know

2011年9月3日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

9月4日 午前10時30分

説教箇所 ヨハネの福音書 15:1-10
説 教 題 「ぶどうの枝が願うこと」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2011年9月2日金曜日

今日注文した本

円高傾向が続いています。
また本を買うチャンスだなー、と暫く色んな本を眺めていました。
適当な本が見つかるとアマゾンのウィッシュ・リストにためておくのです。
 
夏の間はさすがになかなか本を読む気力もなかったのですが、秋が近づくにつれてそろそろと言う感じになってきました。
それで今日になって注文を入れました。
 
と言うわけでどんな本を購入したか紹介しましょう。

最初の本 
Larry W. Hurtado, Lord Jesus Christ: Devotion to Jesus in Earliest Christianity.
は、前々から目を付けていた本です。フルタド(発音は正確ではないかもしれません)は最近エジンバラ大学を定年退職した著名な新約学研究者です。初期キリスト教史における重要な歴史的神学的問題である、「初期キリスト教におけるイエス崇拝」を論述する本です。 
Michael J. Gorman, Inhabiting the Cruciform God: Kenosis, Justification, and Theosis in Paul's Narrative Soteriology.
は、米国の新約学者(特にパウロ研究や最近では黙示録研究)ではもう中堅に位置する方です。「クルシフォーミティー」と言う造語(?)を使い出したのがゴーマンかどうかは定かではありませんが、彼によればその定義は、
“Cruciformity”—from “cruciform” (cross-shaped) and “conformity”—means 
conformity to the cross, to Christ crucified. Cruciformity is the 
ethical dimension of the theology of the cross found throughout the NT 
and the Christian tradition. Paradoxically, because the living Christ 
remains the crucified one, cruciformity is Spirit-enabled conformity to 
the indwelling crucified and resurrected Christ. It is the ministry of 
the living Christ, who re-shapes all relationships and responsibilities 
to express the self-giving, life-giving love of God that was displayed 
on the cross. Although cruciformity often includes suffering, at its 
heart cruciformity—like the cross—is about faithfulness and love.
となっています。筆者の関心はこの「クルシフォーム」と言う視点です。
 
John Stott, The Cross of Christ.
は、つい最近天に召されたジョン・ストット師について記事にしましたが、そこで書いたように筆者は彼の本を一冊も読んでいないことを改めて思わされ、遅ればせながら一冊読んでみようと思い探していました。ストットの「この一冊」は何冊か候補があったのですが、その中でもこの近刊のものを読むことにしました。
 
John Howard Yoder, Body Politics: Five Practices of the Christian Community Before the Watching World.
は、最近参加するようになったヨーダー読書会の「イエスの政治」が終了した後を受けて次の一冊の候補になっています。この本は『社会を動かす礼拝共同体』として東京ミッション研究所シリーズから出ています。邦訳も持っていますが小冊子なので原著も購入しておこうと思いまして・・・。
 
John M. G. Barclay, Obeying the Truth: Paul's Ethics in Galatians.
は、目下礼拝でガラテヤ書を講解中なのでそのためにも、と思い、最近よく名前を聞くジョン・バークレー(ダーラム大学)にも興味があったので購入しました。
 
Christian Smith, The Bible Made Impossible: Why Biblicism Is Not a Truly Evangelical Reading of Scripture.
は、最近話題の本で混沌と言うか混乱の中にある「福音主義のアイデンティティー」の根幹をなす「聖書の権威」に関わる社会学的な研究のようです。ジーザス・クリードのスコット・マクナイトがこの本について連載中です。(終了したかかな?)
本が到着するのは九月の半ば頃でしょうか。楽しみに待っています。