ただ今あるグループの同人誌のようなものの原稿を依頼されて執筆中です。
タイトルは「N. T. ライトと『史的イエス』」で大体四分の三くらいまで埋めることが出来ました。(9000字まで)
ライトについては色々な機会に簡単な文章は書いてきているので大丈夫だろうと引き受けたのですが、やはりそれなりに苦労します。
今週金曜日まで締め切りと言われているのでまあ何とかなるとは思いますが・・・。
「史的イエス」と言えば、「イエスの死」の歴史的・神学的意義も問題になるところですが、ちょうど今週の土曜日は「ライト読書会」があり、課題論文が
Jesus, Israel and the Cross
になっています。
そんなわけで原稿の執筆にもちょうど助けにはなっているのですが、この論文は1985年のもので少し古いし、「キリスト教起源と『神』問題」シリーズの二巻目、「イエスと神の勝利」にも目を通しています。
この本の中でライトは、自身も含めた「史的イエスの第三の探求」の研究者たちの問題設定を6つ挙げて、各研究者の方向性と傾向を評価する視座としています。
① How does Jesus fit into Judaism?大変広い視野と野心的な研究姿勢がこんな設定を第三探求に課しているように思います。
② What were Jesus aims?
③ Why did Jesus die?
④ How and why did the Early Church begin?
⑤ Why are the Gospels what they are?
⑥ Agenda and theology.(Pp.89-121)
ライトは困難な作業が待ち構えているけれども歴史的研究としてはこの位徹底してやれるだけの立場に第三探求が置かれていると認識しています。
つまり『史的イエス』研究の将来に対して非常に楽観的姿勢を取っているわけですが、日本において「史的イエス」に関心を持つ神学者、上智大学神学部教授の岩島忠彦教授は、ラリー・フルタド著「主イエス・キリストーーキリスト教最初期におけるイエスへの信心」の書評で、欧米の「史的イエス」第三の探求について次のようなコメントと評価をしているのです。
目下、聖書学界では米国を中心とする史的イエスの第三探求がもっぱらの話題である。J・D・クロッサン、M・ボーグ、E・P・サンダーズ、J・マイヤー、N・T・ライト、B・ウィゼリントン等々、それぞれが(時として何分冊にもなる)大著を刊行している。これら「第三探求」のキリスト論的貢献は無視できないものであるが、その膨大なエネルギーに比して、これまでに得られている成果は乏しいように思われる。一部の学者たちは、イエスのユダヤ性に注目し、そこから終末の到来にかける預言者としてイエス像を描き出すが(例えばライト)、これは基本的には二十世紀初頭のシュヴァイツァーのラインの踏襲である。…とまあ「史的イエス」研究に対して非常に悲観的な評価なのです。
筆者が言いたいのは、史的イエスの探求には限界があるということである。聖書学者は二百年以上これに携わってきた。今日その探求はますます厳密さを要求されている。確かにこのテーマ抜きには、イエス・キリストを論じることはできない。しかし、史的イエスという課題は、問題設定自体が持つ限界があるということが、特に今日明らかになりつつあるように思う。筆者は組織神学者である。少なくとも信仰の学としての神学としてキリスト論を論じるには、別のアプローチが必要であると思われる。この別のアプローチをフルタドは提供しているように思われる。それは「史的イエス」ならぬ「史的キリスト」の研究である。(書評リンク)
依頼された原稿ではこのコメントに対して筆者の考えを付記して結論に持って行こうと思っています。