2011年10月30日日曜日

プレイヤー・ウォーク

日曜の午後散歩に出た。
いつもの散歩のつもりだったが、この日はあることを祈るために散歩に出た。
あいにく10分過ぎた位で雨がポツポツと降り始めた。
通常だとこの時点で散歩コースを短かく切り替えて帰ってくるところであったがどうしても祈る必要を覚え続行することにした。

思えば筆者はいわゆる「プレイヤー・ライフ(祈りの生活)」に関してはずぼらな方である。
筆者の育ったキリスト教環境は概して「敬虔主義」の影響が強く、デボーションと呼ばれる聖書と祈りの「個人の密室の時間」を大切にする。
聖書学校や神学校ではこのことを霊的修練として大事にする。

牧師になってある時ふと思ったことがある。
福音書では「イエスが一人祈りに専念している」姿が描かれ、その姿を見た弟子たちがその崇高さに打たれたのかイエスに「祈りを教えて欲しいとやって来たのである。
つまりイエスは召し出した弟子たちを自分のそば近くに置きながら、あえて自分から弟子たちに祈りを教えなかった、と言うことになる。
勿論当時の敬虔なユダヤ人たちは日に三度シェマーを唱えていただろうし、「18の祝福の祈り(The Amidah)」のようなものが既にあってそれを唱えていたのかもしれない。弟子たちは弟子たちなりの「プレイヤー・ライフ」を持っていたはずだ。それなのに師であるイエスに祈りを教えて欲しい、と願ったのである。

イエスの答えが現在の私たちキリスト者も受け継いでいる「主の祈り」である。

さて「プレイヤー・ウォーク」に戻ろう。

祈りの課題は一つであり、集中して祈るために歩いた。
歩きながら幾つかの聖書の場面や言葉が思い浮かんだ。

一つはヨシュアとイスラエルがエリコの町を周回した場面である。
祈りの課題は周回コースに関連していたのだが、一歩一歩踏みしめながらかつて約束の地の一部を確保するために為されたこの一種「プレイヤー・ウォーク」とも言える場面を想像していた。

祈りの言葉は単純であった。
「信じて」「祈って」「歩きます」と繰り返した。

途中また雨が強めに降り出した。
横っ腹も苦しくなったので無理はよして区切りにしようかと一瞬迷った。
しかし祈りの要請が強く最後までコースを歩き通すことにした。
幸い雨は小降りのままで済んだ。

「信じて」と繰り返しながら、なかなか納得がいかなかった。
福音書には汚れた霊に取りつかれた子をイエスのもとに連れてきた父親のエピソードがある。(マルコ9:14-29)
父親の懇願の言葉「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(マルコ9:24)の場面が思い出された。
今祈りながら歩いている自分もこの父親のようだと感じられた。
父親のことばを繰り返した。

段々コースは終盤に差し掛かって来た。
横っ腹が苦しいままで歩き続けていた。

祈り終えた、と言う感触ではなかったがプレイヤー・ウォークは終点(家)に来た。
70分かかった。
祈りの1ラウンドが終わった感じがした。

2011年10月29日土曜日

明日の礼拝案内

10月30日 午前10時30分
宗教改革記念礼拝

朗読箇所 Ⅰペテロ 2:1-10
説教箇所 Ⅰペテロ 2:5,9
説 教 題 「万人祭司」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《宗教改革の発端》
1517年10月31日、万聖節前夜、マルティン・ルターはヴィッテンブルグ城教会の門に免罪符を始めとする95箇条の公開質問状を打ちつけました。当時の教会が教える内容について聖書に照らし合わせて疑義を覚え、それを公開の場で議論しようとしたことからこの世界史的出来事は始まりました。

2011年10月28日金曜日

英語圏ブログ紹介⑥

「市民宗教」と言う言葉をご存知だろうか。

もともとは啓蒙主義期フランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソーが「社会契約論」で発案した概念だ。
この概念をベトナム戦争で揺れていたアメリカ共和政治思想に適用しようとして導入したのがカリフォルニア大学バークレー校社会学教授のロバート・ベラーだ。
「アメリカ市民宗教」と題して学術雑誌に発表されたこの論文はその後大論争を巻き起こし数奇な運命を辿る。
日本にもこの概念が導入され、主に神道派の社会学者に適用されたりした。

長い話を省略し、現在一般的にも使用されることとなった「市民宗教」は批判的な方々からは「特定宗教と国家との癒着」や「ナショナリズムに迎合する特定宗教」として理解されることが多い。
政教分離原則を掲げる近代世俗主義からは否定的に取られる現象のことである。

さて今日紹介するブログは米国福音派の中堅新約聖書学者として以前本の紹介で名前を出したことがある、マイケル・ゴーマンの
Cross Talk - crux probat omnia: Life through the lens of the cross / Biblical and theological reflections by Michael Gorman

その副題からして「聖書と神学」を話題にするブログとして始まったのだろうが、最近はアメリカの「市民宗教」現象に対して警鐘を鳴らすウォッチドッグ的記事を多く掲載している。

最近の記事Take me out to the civil religion affair at the ballgameでも大リーグ・ベースボールの試合中に起こったことを取り上げている。
それは7回の時に国内・国外で国のために戦っている兵士たちへの尊敬を込めて国家を歌う、と言うものであった。

ゴーマンは最近は余り試合を見に行く機会は減ったと言っているが、試合開始セレモニーにつき物の国歌斉唱の時はお便所に行ったりして避けていると言う。
そんな具合だから、この試合途中の国歌斉唱にいたく疑問を抱いた、と言う次第である。

記事ではこの場合の「神」はアメリカの民族神のようなもので、キリスト教の神ではない、と疑問を呈し批判している。

ゴーマンのような人はアメリカでは少数派と言っていいだろう。
そのくらい民族(民俗)的市民宗教はアメリカ市民に余り自覚もなく受け入れられている。
イラク戦争の時ブッシュ大統領を支持した多くのキリスト者たちの振る舞いに見られたように、彼らの意識の中では「聖書の神」は「アメリカの神」なのである。

筆者もその現象を最初に目撃した時は面食らったものだ。
アメリカでの一年目、聖書学校での学びを始めて間もなく、「収穫祭礼拝」がチャペルであった。
そもそもチャペルに国旗が飾ってあること自体異様な風景だったが、その時の礼拝の最中に「国旗への誓い(Pledge of Allegiance)」と言う儀式がなされたのである。

礼拝後学生たちにその時の違和感を口にしたら、殆んどの学生が「何がおかしい」とばかりに筆者を見つめた。
まだ足りない英会話力で何とかこのような儀式が教会でなされることの不適切さを議論しようとしたことを思い出す。

2011年10月26日水曜日

ベースボールとキリスト教

「野球とキリスト教」と言う題を書きかけてすぐ書き改めた。
現在ワールド・シリーズたけなわの米大リーグの「ベースボール」と日本の「野球」はルールは同じでもかなり違う、とよく言われる。
プレーのスタイルや、球場、観客の雰囲気、そして応援の仕方やチームと地域の繋がり方など、挙げだしたら色々あるだろう。

筆者は別にプロ野球のファンでも、米大リーグにお気に入りのチームがあるわけではない。
球場に足を運んだことは記憶にあるだけでも後楽園に一回、留学中にシンシナッチ・レッズの試合を一回見に行っただけである。

さて今年のワールド・シリーズはセントルイス・カージナルスとテキサス・レンジャーズとの対戦で、目下レンジャーズの方が3勝2敗と王手をかけている。
レンジャーズの主砲ジョシュ・ハミルトン選手が今日の記事の主役である。

これはクリスチャニティー・トゥデー誌に掲載されたSuper Natural: Josh Hamilton's Comebackを読んでの感想みたいなものである。

なるほど大したカムバックである。

記事は、ハミルトンが選手として駆け出しの頃酒とクラック(覚せい剤)に溺れ怪我や何かで選手生命を棒に振っていたが、ある時を境に立ち直り現在の活躍までを綴っている。
その立ち直りの要因の中に少なからず信仰も関わっている。(自伝の中でそのことが綴られているらしい。)

さてハミルトンがドラフト一位指名でそのままスターに上り詰めていたら、変な言い方だが普通の「アメリカン・ドリーム」の話で終わるわけだろう。
しかし挫折を繰り返しどん底まで行って這い上がって現在のスーパースターダムにいることがよりドラマティックな「アメリカン・ドリーム」の達成者としている。

しかし彼は酒やドラッグに逆戻りしないように妻や、コーチや、同僚の選手たちの監視に守られている、と言う曰くつきのスーパースターなのだと言う。

彼の元には教会などから講演依頼が舞い込んでいるらしいが、彼は自分がそのような条件のもとで選手を続けていることを自覚している。自分のカムバックが周りの人たちの守りによることを承知で「証し」しているらしい。
Hamilton says it's all part of his "platform" for reaching people who deal with their own or loved ones' addictions, and for reaching people with the good news of the gospel.
果たして日本でプロ野球選手が麻薬で自滅した後にカムバックできるような環境があるだろうか。多分麻薬常習が発覚した時点で社会的にアウトだろう。
野球に限らずプロスポーツ選手は倫理的に少し高いハードルを課せられていると思う。(彼らは青少年の憧れの的であり、模範的であるべきだ、と言う考えによるものだろう。)

人生に失敗した人間に第二、第三のカムバックの機会を提供できるアメリカ(スポーツ)社会は懐が深いと言うべきなのか。それともいかにドラッグに陥りやすい環境が満ちている社会と言うべきなのか。難しいところだ。

2011年10月24日月曜日

何歳まで生きたい?

とある会話で「何歳まで生きたい」と唐突に聞かれた筆者は答えに詰まった。

先日57歳の誕生日を迎えたが暫く前から、もっと正確に言えば40代後半位から、人生の折り返しに入っていることは漠然と考えるようにはなっていた。

ここ2年ほど体調がすぐれないと言うか、気力が落ちているのを感じているので、どちらかと言うと一日一日、一週間一週間なるべく不具合なく過ごすのが目標みたいにしている。

「何歳まで生きたい」と質問されて、はたと「そんなこと考える余裕のない自分」を発見したような気がした。
でも改めて考えてみると「長生きしたい」とは思っていないようである。

先日元気印の有名老人、日野原重明氏が100歳を迎えたことがニュースになっていた。
その時だったか、その数日後位だったか、何かのテレビ放映で日野原氏が「私はまだ110歳くらいまで生きる気がする」と言っていた。
またご自分スケジュール帳には10年先までの予定が書いてある、みたいなことも言っていた。
全くバイタリティーに溢れた方である。

でも余り羨ましいとは思わないのはなぜなのだろう。
詰まるところ「自分の人生でこれを実現したい」と言うようなはっきりとしたゴールを持っていないからなのだろうな。
これまでもそうであったように大体が行き当たりばったりの人生を歩んできたわけだ。
計画性がないというか・・・。

もともと人より何事もゆっくりペースを好む方だ。
競争は嫌い。
とにかく何かに必死になると言うことが殆んどない。

思い返せば神学校時代、初めて頑張って勉強することを学んだ。
と言ってもせいぜいタームペーパー(小論文)を締切日前に完成させるため半徹夜したことが一回ある程度だ。
だが筆者にとってはそんなに必死になったことはなかったので、無事完成させた時の解放感、達成感は特別なものだった。

要するに普段はいかにして労を惜しむか、つまり省力に頭をひねる方なのだ。
そういう生き方をしてきた人間が「何歳まで生きたいか」と問われても答えに窮するのは無理もないのではないか。

自然体。
流れに任せる。
少しキリスト教的に高尚に言えば「摂理のまにまに」だ。
自分であれこれ画策するのは面倒くさいだけなのだが・・・。

ただ牧師をやっている手前後何年位できるのか、教会の将来をどうしたらいいのか、等の課題は無理にでも考えざるを得ない。
回答は難しくて出そうもないが・・・。

「何歳まで生きたい」
こんな質問時々必要だ。
はたと立ち止まってぼんやりしている自分に活を入れるためにも。

2011年10月22日土曜日

明日の礼拝案内

10月23日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:8-5:1
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 4:27-31
説 教 題 「自由の女の子ども」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(70)
ガラテヤ人への手紙(58)
・4:21-5:1 自由の子

2011年10月21日金曜日

英語の強制

今朝の朝日の朝刊、世界政治欄(12ページ)の『特派員メモ』コラムの記事についての感想。
「英語でしゃべって。じゃないと放送できない」
18日夕、国連本部前の公園。米大手放送局の記者たちが声を張り上げた。イエメンのサレハ大統領退陣を求める在米イエメン人らのデモに参加した、今年のノーベル平和賞を受賞する人権活動家タワックル・カルマン(32)さんの記者会見のことだ。
「英語は得意ではありません」と当惑するカルマンさんに、米国人記者たちは「片言でいい」と食い下がる。カルマンさんは悩んだ末、「正確に伝えたい」として母語のアラビア語で語り、通訳が一文ずつ英訳した。米国人記者たちからはため息が漏れた。
この様子を見ていた日本人記者(『特派員メモ』の筆者)、春日芳晃は会見後米国人記者たちに「カルマンさんに対して失礼ではないか」とたずねたそうだ。
反応は「英語は世界共通語だ」「彼女が英語で話す映像は世界中で放送される」だから少しでも英語でコミュニケートする努力して当然だ、とばかりに猛反発されたそうである。
春日記者はその反応に「自分たちが世界標準と言うおごり」を感じたと記している。

朝日の記者が「失礼」と感じたのは米国人記者がカルマンさんに対して英語で話すように要求したやり方が一方的、と映ったからだろう。通訳が傍にいたのだから自国語で話したとしても問題はないはずだ、と朝日の記者は思ったに違いない。
一方米国人記者たちは、自分たちが大手メディアであることを背景に、ノーベル賞を受賞する人権活動家が英語でアッピールするインパクトを計算して、カルマンさんに片言でもいいから英語で話すことの効果を思う余り「英語でしゃべって。じゃないと放送できない」のような言い方になってしまったのだろう。

米国人記者は「英語を強制」したのだろうか。
その場に居合わせたわけではないので実際のところは分からないが、その後の推移を見ると「強制」とまで感じたのは朝日の記者の方で、カルマンさんではなかったのではないか。
実際カルマンさんは通訳を介してインタヴューに応じた、とある。
その後の実際の報道が通訳部分を介して語ったところをどの程度省略せず報じたか、それはこのコラムからは分からない。

この一件から思い出したことがある。
女子プロ・テニスの伊達公子のことだ。
現在のクルム伊達のことではなく、一時引退する前の世界ランキング上位にいた頃の伊達選手のことだ。

女子プロ・ワールド・ツアーに参加する選手は試合後のインタヴューに対し英語で応対するよう決められていた、と言うことがあり、伊達選手はそれをプレッシャーに感じていた、と言うことを何かで読んだ。
実際何度か彼女の英語のインタヴュー場面を見た覚えがあるが、いかにも苦手な感じでそそくさとした受け答えであったような記憶だ。
もし記憶が間違っていなかったら、伊達選手はある時インタヴューをすっぽかして帰ってしまい協会から注意を受けたようなことがあったらしい。

スポーツ選手のインタヴューとカルマンさんの場合は比較にならないが、少なくともカルマンさんが英語でしゃべるか、それとも母語でしゃべり通訳してもらうかはカルマンさんの訴えたいことをどのように効果的にやるか、と言うことの選択肢であり、この時のカルマンさんは「正確に国内の状況をなるべく詳細に伝えたかった」のだろう。
簡単な英語でキャッチーなコピーを発することも出来ただろうが、彼女はそれを選ばなかった。やはりジャーナリストとしての自覚と意識に基づく選択だったのだろう。

ところでネットで入手できる、タワク・カルマンさんの英語の挨拶とアラビア語のスピーチ
を聞くと、ある程度英語でコミュニケートできることが分かる。ただ内容的に自分が伝えたいことをしっかりと訴えるにはやはり通訳の助けを借りることが賢明であることがこのスピーチを聞くと分かるような気がする。

イエメン国内での人権侵害や報道規制など、アメリカの対テロ政策とイエメン政府との関係の背景などを聞いてみると、やはりその複雑な内容を外部の人たちに伝える時には母語でしゃべらざるをえなかったのだと思う。
世界がどれだけイエメンの国内問題に関心を持っているだろうか。
ノーベル賞受賞と言うきっかけを用いてできる限りイエメンの状況を正確かつ詳細に訴えられるかはカルマンさんにとって優先的課題だったに違いない。

2011年10月19日水曜日

英語圏ブログ紹介⑤

今日紹介するのはアンディ・ローウェルのChurch Leadership Conversationsというブログです。

彼は現在デューク神学校の神学博士(Th.D)過程5年生(と言うのは変な言い方か)。
更新回数はそれほど頻繁ではないですが、カール・バルト、ディートリッヒ・ボンヘッファー、ジョン・ハワード・ヨーダーなどについて時にアップ・ツーデートな、時に突っ込んだ内容の記事を掲載します。

ここ二回ほど取り上げた、クリスチャン・スミスのビブリシズム批判の本に関しても記事を書いています。A few reflections about Christian Smith, Biblicism and Barth

この記事を読むとアンディーはクリスチャン・スミスとは良き友達のようで、スミスの本でのカール・バルトの取り上げ方に関して少し批判していて、それに対してスミスが、コメント欄でその批判に応じ、さらにアンディーが返答する、と言う議論を読めます。

またスミスがビブリシズムの根本問題としている「pervasive interpretive pluralism」に対しても、アンディーは全面的否定的に取らないで、「聖書を取り囲む共同体」の姿として解釈の幅があること自体を容認する姿勢を示しています。

筆者は今年7月からだったか、ヨーダーの「イエスの政治」読書会に出席するようになったのですが、「イエスの政治」が終わった後、次に取り上げた「社会を動かす礼拝共同体」の方へも続けて出席しています。
段々ヨーダーを読むことで興味が湧いてきています。

アンディーのブログでも、たまたま右コラムのツィッター・メッセージ(ツイート)の中に面白そうな情報を見つけました。
The Yoder Indexと言うサイトでは、ヨーダーの著作のインデックス化を始めているようです。
既に9冊の本のインデックス化が終わっている様子。
ただ読書会でこの前から読み始めている「社会を動かす礼拝共同体(原題、Body Politics)」はまだのようです。

こんな風に筆者が紹介するブログは既に神学校の教授になっているような人ばかりでなく、現在学生で研究途中の最新情報のようなものを提供してくれるものもあります。

2011年10月17日月曜日

牧師と副業

「ミニストリー」と言うキリスト教界の雑誌がある。
最近始まったもので筆者が閲覧している日本語圏のキリスト教・牧師のブログでも時々内容が取り上げられている。
なかなかの評判である。

筆者と言えば、いわゆるキリスト教界の新聞・雑誌類は何一つ購読していない。
ネットで手に入る情報で間に合っている感じである。

「ミニストリー」誌最新号の特集は「ボクシたちのリアルⅡ 現代牧師白書―生活編」だそうである。ちょっと面白そう。

対談では上田紀行氏と牧師でホームレス支援をやっているらしい奥田知志氏が何やら色んな牧師たちの面白い話をしているらしい。上田氏がツィッターで3つもツイートしている。
雑誌「Ministry」が届いたら、表紙がワタシで驚いた!「次世代の教会をゲンキにする応援マガジン」、つまりキリスト教の雑誌で、表紙を飾るとは!

雑誌「Ministry」、奥田知志 さんとの対談「3/11後の宗教界を斬る!!」は、自分で言うのも何だけど、必読。奥田さんの素晴らしい洞察力が爆発している!!経験と思索から生みだされる言葉。ぜひお読みください。 

雑誌「Ministry」特集「ボクシたちのリアル」もむちゃくちゃ面白い。牧師の給与の最多層は「200〜400万」(38%)とか、2割の牧師が副業を持っていて、トラック運転手の牧師もいたりとか。
上田紀行氏は文化人類学者で特に仏教に関心があるらしい。自身のホームページのプロファイルでは、
近年は、日本仏教の再生に向けての運動に取り組み、2003年より「仏教ルネッサンス塾」塾長をつとめ、宗派を超えた、若手僧侶のディスカッションの場である「ボーズ・ビー・アンビシャス」のアドバイザーでもある。
2004年に出版された『がんばれ仏教!』(NHKブックス)では、時代の苦悩に向かい合う寺や僧侶達を紹介、日本仏教の未来図を提示し、大きな反響を呼んだ。
とあった。なんか仏教の応援やっているみたいと思ったら、今度はキリスト教の応援もやっているみたいだ。要するに「(既成)宗教よ、元気にがんばれ」ってことかな。

ところで本題に戻って、「ミニストリー」誌の調査によると牧師の給与の最多層は「200〜400万」(38%)だそうである。
他は知らないので何とも言えないが「そんなに悪くないじゃん」と言う印象。
筆者の場合はこれより下。
この層の牧師たちは副業やらなくてもいいのかな。

2割の牧師が副業を持っている、とのことらしいが筆者もこの二割の人たちと同じで副業をやっている。
某所でシニア英会話の非常勤講師をやっている。

実は遊学から帰国後、副牧師時代からずーっと続けている。(最初は中学生のクラス、その後は成人会話と変化はしてきたが・・・。)
始めた理由は経済的な理由も無きにしも非ずだが、それよりも社会経験という面が強かった。
また副牧師なので時間的余裕を他のことに使えた、と言うこともあった。

筆者は父方から言うと「牧師二代目」だが、父が初めに牧師をしていた教団では副業などはご法度であった。
名前に「伝道団」とついていただけあり、伝道に専念し、信者数を増やし、彼らの献金で生活するのがセオリーとされていた。
伝道をおろそかにするような副業などとんでもない、というわけである。

聞いた話では信者の少ない教会を持つ牧師婦人で栄養失調のため亡くなった方がいたそうである。
同じ教団で筆者の祖父は教区長をしていたが、小さな教会で貧しい暮らしをしていた教会の牧師たちに食料の差し入れなどの支援をしていたらしい。

時代は変わり、今では牧師の副業に目くじらを立てるようなことはなくなった。
現在属している連合の教会の牧師たちも副業をやっている方は何人かいる。

「牧師と副業」と言うと「牧師が本業、本職」と言うことになるわけだが、筆者の感触では経済的にこの形が維持できるのはそれほど長くないのではないかと思う。
他に仕事をしながら「牧師」を半ばボランティア的に奉仕するような形が増えてくることもあり得るのではないか、と感じている。
そのような現在の教会の行く末にある面悲観的な予感を持っている。

さてそんな事態になったら筆者はどうしようか。
やはり何かアルバイトでもやるか。
趣味の木工では生活を成り立たせるのは難しいだろうから・・・などと真面目に考えるような時は果たして来るのだろうか。

2011年10月15日土曜日

明日の礼拝案内

10月16日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:8-5:1
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 4:22-26
説 教 題 「律法からの比喩」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(69)
ガラテヤ人への手紙(57)
・4:21-5:1 自由の子

2011年10月13日木曜日

ビブリシズム(聖書主義)続

先日紹介した本、クリスチャン・スミスの「ザ・バイブル・メード・インポッシブル」を一応読了した。
前回は途中までだったので読み終ってからの感想も書こうと思っていた。
一応大体読みこなせたと思うのだがそれをアウトプットしようと思うとなかなかどう書いたらよいのかまとまらないでいる。
でもとにかく何かメモ程度のものでも残しておこうと思う。

本全体の内容を紹介するのはちょっと大変なので、多分に個人的な印象になってしまうが、特に考えさせられたことを一二挙げてみようと思う。

①聖書とは一体どういう書物なのか。
聖書に対するイメージと実際の聖書との間のギャップの問題。
これはどう言う事かというと、前回スミスが挙げていた「ビブリシズムの前提になっている10個の考え」の中の最後にあったように、聖書をハンドブックやマニュアルのようにイメージして読むことがその良い例であろう。
例えば子供のしつけとか、未信者との付き合い方とか、様々な実際問題に対して聖書は回答を持っている、と言うようなアプローチを極端に進めていくと、「聖書はあらゆる問題の解決方法を持っている『信仰と生活の唯一絶対の規範』」であることにより、聖書の権威は際限なく拡大され、最早その中心となるべきものが分からなくなってしまう、と言う問題である。

物事には軽重がある。ウェストミンスター信仰告白を始め、殆んどの保守的プロテスタントの団体の信仰規準では「救いに関する」聖書の権威が明言されているが、実際には「救いに関する」と言う中心性、即ちイエス・キリストの福音に関する聖書の証言性と、生活の細々とした、中にはどうでもいい様な問いにまで、「聖書の権威」が拡大されて言及されると、聖書と言う書物のそもそもの性格が歪曲されかねない、と言うことである。

②聖書信仰とは何か?
筆者の属するグループは信仰規準や信仰告白に相当するものが決められていない。
「立場」として「聖書信仰」と「ウェスレアン・アルミニアン」の二つが規約に挙げられているだけである。
特に定義をしていないが「聖書信仰」を標榜すると言うことは、他の日本の福音派団体と同じような聖書に関する見解を共有していると言っていい。
最も簡明な言い方としては「信仰と生活の唯一の規範」と言うことになるが、実際にこの原則を運用するほどの論争や問題があったという記憶はない。
立場としてはそうだが、実際に物事の決まる過程においては聖書箇所を引っ張ってきてその権威に依拠する、などという神学的な議論にはおよそお目にかかったことは無い。
物事はもっと今迄踏襲されてきた事例や経験則で決められるのである。

逆説的だがスミスが言うほど聖書主義ではないことによって、聖書解釈を巡って対立したり、と言うことがなかったことになり、それはある意味良かったのかもしれない。

③なぜ聖書通読をするのか
一般に敬虔な信者は聖書通読を習慣とする。
しかしこの本を読み終って思ったことは、なぜ聖書全部を均等に読むことが良い習慣なのか、と言うことである。

イエスは「聖書(旧約聖書)は私について証言している」と言っている。
スミスも言うように聖書をどう読むかと言う問題から言うと、①のようなあらゆるトピックについてハンドブック的に読むことは、聖書をその時代的・文化的背景を捨象して平板に読むことに繋がる危険がある。
聖書のナレーティブがイエスを目標にしている、と言う視点から言うとハンドブック的読み方は脱線になりやすい。
だから聖書通読もよほどこのナレーティブ枠組みを意識したものでないと、ハンドブック的な断片的な読書になってしまうのではなかろうか。

以上、少し平凡な感想になってしまった。

本の中にはなぜ理論的に破綻しているビブリシズムがあたかも有効なものであるかのように福音主義陣営の中で強固に受け継がれているのか、と言う事の社会学的観察や、ビブリシズムのような理論と実践の背景となる、オールド・プリンストン神学(チャールズ・ホッジやベンジャミン・ウォーフィールド)の哲学的ルーツなどにも言及していて興味深いのだがとてもここでは紹介しきれない。

本自体はアメリカの福音主義の問題として分析、提言されているので、邦訳しても他人事のような印象を受けるかもしれないが、扱われている神学的問題、特に「聖書の権威」の今日的有り様に関して幾つか面白い提案をしていると思う。
(聖書の真理を帰納的に組織的に記述することが出来る、と言うオールド・プリンストン神学のようなモダニストでもなく、相対主義的なポストモダニズムになるのでもなく、第三の道、理論的にはクリティカル・リアリズムを提唱している。)

2011年10月11日火曜日

個人的なこと

昔、大江健三郎の「個人的な体験」を読んだことがある。
こう言うのを私小説と括っていいのか分からないが、ご自身の子息、光さんのことがテーマになっている小説である。
記憶では「大変な子供が生まれて」おろおろする父親の自画像みたいのが書かれてあった。

ブログ名が「大和郷にある教会」に余り個人的なことを書くのは相応しくないかもしれないが、最近の思いを書いてみる。

最近、と言うかこの数年調子が良くない。
心身にアンバランスを生じ、最初は胃腸科に通ったがちょっと違う、と言うことで最終的に心療内科に通うようになった。
軽ーいうつ病と診断された。

最初は半年くらいでよくなるはずであった。
実際薬を飲むようになってからその効き目に驚いた。気分は変わるし、睡眠導入剤はよく効いた。
しかし現実のシナリオは当初の予想通りには運ばなかった。
一年経ち、二年経ち、今三年目に突入している。

一旦薬を減らし始めたところが症状が改善せず違う薬に変えたりしてやっているが、小康状態を保つだけで、微妙に体の違和感が解消しない。
先月、「安定してきた」と言う診断で、また薬を減らす過程に入った。

一週間は変わらず来れたので、このまま維持できたらいいな、と思っていた矢先、またいつもの症状が、今回は突然前触れもなくやってきた。
いわゆる更年期障害の症状としてよく挙げられる足の冷えと胃の辺りが熱くなると言うものである。
昨日は午前中から夜寝るまでずーっと胃の辺りの熱さが去らずにいた。

その間なんともしんどい思いをした。
自分の調子悪いところにだけ関心が行って、物事に集中できないのである。
ブログの更新なんてもうどうでもよくなっちゃうわけでした。

さて今日になって起きてみると収まっていました。
一日恐る恐るやっていましたが昨日のようなことは無く済んでいます。
ようやくブログの更新を考える余裕が出てきました。

でもここのところずーっと調子が良くなかったため「あれを書こうとしては消え、これを書こうとしては消え」の連続でした。
そしてやっと先ほど見つけました。

大野更紗「困ってる人」

大分前からツイッターでフォローしている方ですが、最近出したこの本が話題で益々注目を集めています。
ツイートで「グターリ」とか「鋭意昏睡中」みたいなのを見ては、ユーモアとともにしんどい状態をコミュニケートするその姿を想像していました。

筆者は身体的痛みに弱いです。
だから身体的な不便や不快に対してはすぐ負けてしまいます。
とたんにやる気が無くなったりしてしまいます。

マカバイ記の拷問の記述なんか読んでいるともう「自分がこんな目に遭ったら簡単に棄教するだろーな」などと想像してしまいます。

大野更紗さんの「困ってる人」はブログにもなっています。
「第0回目」を読んでみました。
聞きしに勝る壮絶さです。
でも何か爽やかに読めちゃうのは大野さん持ち前のユーモアと自分を客観視できる力と、そして生きるのに必死になれる意志力が伝わってくるからです。

人は自分より相対的に貧しかったり、困っていたりする人を見ると、それで何か自分は少しましなんだと慰めたりする卑俗な根性を持っています。
筆者もそうです。
でも大野さんの文章を読んでいると単に「自分の困り」とは比較にならないその困りようにそんな慰めなんか必要なくなります。

人が普通に出来ることを、生きることを大変な困難と努力で維持している大野さんの姿を想像すると何か変な言い方ですが爽快感さえ感じるのです。
かっこいいのです。

地を這い蹲ってでも何かを掴もうと一生懸命手を伸ばすその必死さにわが身のだらしなさを感じ恥ずかしくもなります。
と言うか自分が苦痛に思っていることを一瞬忘れてしまう位大野さんの壮絶な生の戦いに圧倒されてしまうのです。

良くぞ「個人的なこと」をここまでさらけ出して書いてくれた、と大野さんに感謝したくなります。

大野さんは自分の生の戦いをしながら、日本の病院制度や福祉制度や、色々な制度的制約の壁にぶち当たってはそれを突破する前衛のような戦いもしているのではないかと思います。

「わたしのフクシ」と言うサイトに連載を持っていますが、そこでの記事「せちろうくんの巻」では難病を抱えるせちろう君について興味深く書いています。

何か大野さんの書く文章と言うか文体は新しい文学のジャンルなのでは、と素人判断ですが、思うくらい読ませる魅力があるのです。
中身はもちろん「身体的苦難」ですが、それに閉じこもるのではなく、生きる方へ開放された伸びやかさを垣間見る感じなのです。

是非一読をお勧めします。

2011年10月8日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

10月9日 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 6:1-15
説  教 「聖霊と教会」シリーズ(6)
説 教 題 「御霊と知恵とに満ちた」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※昼食会があります。

2011年10月7日金曜日

反ウォール街デモ

今週も余り体調は良くないようです。
一応少しは更新していますが大したことは出来ません。
ツイッターやフェイスブックも疎遠な感じです。

世の中のことにも注意散漫です。
そんな状態ですが関心を持って見ているのがこのデモです。
日本でも数日前くらいから段々とメディアで目にするようになって来ました。

でちょっと検索してみようと思ったのですが、ウォール・ストリート・ジャーナルではなく、おひざもとのニュー・ヨーク・タイムズはどんな記事を組んでいるのだろうと・・・。

プロテストを始めたグループは「オキュパイ・ウォール・ストリート」って言うんですね。
Occupy Wall Street is a diffuse group of activists who say they stand against corporate greed, social inequality and other disparities between rich and poor. On Sept. 17, 2011, the group began a loosely organized protest in New York's financial district, encamping in Zuccotti Park, a privately owned park open to the public, in Lower Manhattan.
と言うことはまだ一ヶ月も経っていない訳だ。
彼らが抗議に立ちあがったのは、「企業の強欲、社会的不公平、富裕層と貧困層の間にある様々な不均衡」に対してだということらしい。

最初の一週間くらいはカバーするメディアもなかったらしいが、次第にメディアも注目するようになり、ここに来て全米の幾つかの都市に同様なデモが飛び火し拡大することによって、どのような運動になって行き、どんな政治的影響を持つのか、無視できないほどになってきた、ということらしい。

ニュー・ヨーク・タイムズのコラムニスト、ポール・クルーグマンは以下のように書いている。
What can we say about the protests? First things first: The protesters’ indictment of Wall Street as a destructive force, economically and politically, is completely right.
つまりデモが抗議の対象にしていることは正しいと。

(※以上デモの経緯や様々な情報はタイムズのここにまとめられているので詳細を知りたい方はどうぞ。引用したクルーグマンのコラムへのリンクも同ページで見つかります。)

このグループの「草の根民主主義的運動」がアラブの春をヒントにしているらしい点も見逃せない。
何はともあれ人々の「正義」への働きかけが政治や社会を動かしていくことが出来るのを期待して見よう。

2011年10月5日水曜日

朗読会のご案内

「空に消える雪」
紀元九世紀の日本の一女性の手記からの抜粋
原作 中村真一郎

朗読 松岡みどり(エー&イー)


日時 十月十九日(水)PM2時~
場所 巣鴨聖泉キリスト教会
 2000円(お飲み物付き)

申し込み コスモス映像工房
TEL/FAX 03-3392-2205
090-9823-2205
jadehottaer(アットマーク)i.softbank.jp

2011年10月3日月曜日

ビブリシズム(聖書主義)

暫く遠ざかっていました。
もう更新しないでいるうちに一週間経ってしまいました。
風邪気味で体調が今ひとつ、なかなか考えもまとまらず迷っているうちにこうなってしまいました。

と言い訳のような前置きはそれまでにして、今回は最近購入した本の感想を書こうと思います。(まだ三分の一位までしか進んでいないので途中経過、と言うことになりますが。) 
Christian Smith, The Bible Made Impossible: Why Biblicism Is Not a Truly Evangelical Reading of Scripture.
副題でビブリシズムという言葉が使われています。悪い意味(反知性的で、過剰な聖書の権威に対する信仰と言ったニュアンスがあると思います)で使われることが多いのですが、著者のクリスチャン・スミスは福音主義を始め多くのプロテスタント、特に保守的な信仰者・団体に共通してみられる「聖書に対する一定の態度」を表す用語としています。

先ずはそのビブリシズムをどう定義しているかと言うと
By "biblicism" I mean a theory about the Bible that emphasizes together its exclusive authority, infallibility, perspicuity, self-sufficiency, internal consistency, self-evident meaning, and universal applicability.
まあこれだけだと分かりにくいと思いますので一つ例を挙げます。
福音派のキリスト教に基づく大学である「東京基督教大学」の信仰規準(リンク)では次のように謳われています。
66巻からなる聖書は、聖霊の完全な霊感によって、それぞれの著者を通して、記されたものです。したがって、聖書の記述には、誤りがありません。聖書は、神が救いについて人々に啓示しようとされたすべてのことを含み、信仰と生活との唯一、絶対の規範となるものです。
これはかなり簡単な文章ですが、ビブリシズムで定義されたうちの、①唯一絶対の規範、②無誤性、などは明瞭に表現されています。
③十全性、④意味の自明性、⑤統一性などは少し表現は違いますが、例えば「ウェストミンスター信仰告白」の一番最初の条項である「聖書」に関する説明の文章に注意深く定義されながらも表されていると思います。(リンク

何はともあれ社会学者スミスにとってのビブリシズムの関心は、単に組織のタテマエとして表明されていることに限らず、実際にそのような聖書に対する態度を持っている人たちが実際に示す意見の表明や行動から推し量られる総体としての現象です。

少し蛇足になりますが、プロテスタントの団体・組織がその「信仰規準」について表明する時に、従来の歴史的信条での骨格的内容となる「三位一体の神」についての条項は、「聖書」についての条項の後に来る、と言うこと自体にプロテスタントの信仰原理である「聖書のみ」の重要性が如実に示されてと言えます。

さてスミスはビブリシズムのような態度を前提させている事柄を10個挙げていますので、それを列挙してみます。(以下はジーザス・クリードのスコット・マクナイトのダイジェスト版です。リンク
1. Divine Writing: the Bible is identical to God’s own words.
2. Total representation: it is what God wants us to know, all God wants us to know (he quotes J. I Packer here) in communicating the divine will to us.
3. Complete coverage: everything relevant to the Christian life is in the Bible.
4. Democratic perspicuity: reasonable humans can read the Bible in his or her language and correctly understand the plain meaning of the text.
5. Commonsense hermeneutic: again, plain meaning; just read it.
6. Solo [not sola] Scripture: we can read the Bible without the aid of creeds or confessions or historical church traditions.
7. Internal harmony: all passages on a given theme mesh together.
8. Universal applicability: the Bible is universally valid for all Christians, wherever and whenever.
9. Inductive method: sit down, read it, and put it together.
10. Handbook model: the Bible is handbook or textbook for the Christian life.
先ほどの定義より幾らか説明がついて分かりやすくなっていると思いますが、どちらにしてもアメリカの保守的キリスト者、特に聖書の権威を高調する福音主義者たちの信仰生活の中でどのように聖書が読まれ、用いられているか・・・の概観を示しているのではないかと思います。
もちろんこのような現象は日本の同様の背景を持つ信仰者たちにもかなりな程度で現れていることと思います。

著者が主張するのは、このような聖書への態度・理論(ビブリシズム)は基本的にも、論理的にも維持不可能であり、また実際面でも「多様で広範な聖書解釈の多元性(pervasive interpretive pluralism)」の問題を起こして、様々な対立や意見の相違から分裂や離反を繰り返す、教会の不一致の原因になっている、というものです。

筆者が今まで読んできた中では、著者の言わんとしていることは概ね当たっていると思われます。ただ聖書のテキストの多義性の問題と、実際に聖書学者や神学者たちが異なる解釈や見方(例えば「贖罪論に関する四つの異なる見方」のような現象)に至ることに直接の因果関係があるように著者が考えているとしたら、それは少し論理の飛躍ではないかと思うのですが・・・。

何はともあれまだ途中なので先ずはこの位の紹介でとどめておくことにします。

2011年10月1日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

10月2日 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 15:1-10
説教箇所 ヨハネの福音書 15:8
説 教 題 「わたしの弟子となる」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。