元旦主日礼拝
朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 5:1-15
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 5:13
説 教 題 「愛に基礎を置く」
説 教 者 小嶋崇牧師
2012年度 教会標語聖句
愛によって互いに仕えなさい
※神への礼拝を通して、心新たに新年をスタートしましょう。
巣鴨聖泉キリスト教会(日本聖泉キリスト教会連合)創立1965年。 大和郷の一角にある緑と花に囲まれた教会、隣には牧師の木工房。 静かに賛美と聖書の学び、そんな礼拝の時をお過ごしください。
2012年度 教会標語聖句
愛によって互いに仕えなさい
Twitterには「つぶやき」を、ブログには「演説」を、というふうになんとなく使い分けをしてきたが、二年ほどやってわかったことは、Twitterに書き付けたアイディアもそのあとブログにまとめておかないと、再利用がむずかしいということである。「なるほど」、とも思ったが「待てよ」とも思った。
Twitterは多くの場合携帯で打ち込んでいるが、これはアイディアの尻尾をつかまえることはできるが、それを展開することができない。
指が思考に追いつかないからである。
だから、Twitterは水平方向に「ずれて」ゆくのには向いているが、縦穴を掘ることには向いていない。
そんな気がする。
ブログは「縦穴を掘る」のに向いている。
「縦穴を掘る」というのは、同じ文章を繰り返し読みながら、同じような文章を繰り返し書きながら「螺旋状」にだんだん深度を稼いでゆく作業である。
①もろびとこぞりて むかえまつれ ひさしくまちにしところがJoy To The Worldの歌詞はと言うと、
主はきませり 主はきませり 主は主はきませり
②くろがねのとびら うちくだきて とりこをはなてる
主はきませり 主はきませり 主は主はきませり
③とこやみの世をば てらしたもう あまつみひかりの
主はきませり 主はきませり 主は主はきませり
④しぼめるこころの はなをさかせ めぐみのつゆおく
主はきませり 主はきませり 主は主はきませり
⑤あまつかみの子と いつきむかえ すくいのぬしとぞ
ほめたたえよ ほめたたえよ ほめほめたたえよ
Joy to the World , the Lord is come!あれっ、節数も歌詞の意も違うじゃないか・・・。
Let earth receive her King;
Let every heart prepare Him room,
And Heaven and nature sing,
And Heaven and nature sing,
And Heaven, and Heaven, and nature sing.
Joy to the World, the Savior reigns!
Let men their songs employ;
While fields and floods, rocks, hills and plains
Repeat the sounding joy,
Repeat the sounding joy,
Repeat, repeat, the sounding joy.
No more let sins and sorrows grow,
Nor thorns infest the ground;
He comes to make His blessings flow
Far as the curse is found,
Far as the curse is found,
Far as, far as, the curse is found.
He rules the world with truth and grace,
And makes the nations prove
The glories of His righteousness,
And wonders of His love,
And wonders of His love,
And wonders, wonders, of His love.
全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。ワッツはこの賛美歌を「初臨のキリスト」ではなく「再臨のキリスト」にフォーカスして作ったのだと言う。
琴に合わせてほめ歌え
琴に合わせ、楽の音に合わせて。
ラッパを吹き、角笛を響かせて
王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。
とどろけ、海とそこに満ちるもの
世界とそこに住むものよ。
潮よ、手を打ち鳴らし
山々よ、共に喜び歌え
主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き
諸国の民を公平に裁かれる。
I refuse to be anti-gay. I refuse to be anti-feminist. I refuse to be anti-artificial birth control. I refuse to be anti-Democrat. I refuse to be anti-secular humanism. I refuse to be anti-science. I refuse to be anti-life.(2010/07/29 ハッフィントン・ポスト)ただしキリスト者であることをやめたのではなく、既成教会(彼女の場合はカトリック教会)の「文化的対抗主義(そんな語あるかどうか知りませんが)」に嫌気がさした、と言うことのようです。
“My heart and soul and love for Jesus Christ is in this book,” Rice told Examiner.com. “It really has nothing to do with my move away from Organized Religion. That had to do with many theological and social and political issues that have no connection with Jesus at all.”(Harry Potter Producer To Work On New Film About Jesus Early Life)筆者の教会では、マタイ福音書とルカ福音書の「クリスマス・ストーリー」を毎年交代で取り上げているのですが、この映画がイエスの幼少年期をどう描くのか興味深く待ちたい思います。
今日は長らく闘病生活をされておられた駒場の尊敬する同僚の訃報に接し、ずっと落ち込んでいました。心より先生のご冥福をお祈り申し上げます。Wikipedia http://p.tl/i_4Vリンクを辿ると同僚の方とは北川東子氏のことだった。
いま、新しい本の相談をしているのですが、その最後に書こうかな、と思っている話。「僕が東大で受けた、もっとも美しい授業」 あんまし反響ないかな、とかとも思いつつ、ちょっと考えています。外国の哲学者の原文(テキスト)と格闘する。
僕が学生として東大で受けた「もっとも美しい授業」は30を過ぎて二度目の博士取得の際に参加した北川東子先生のゼミナールでした。学生はたった3人、 ニーチェの「悲劇の誕生」の原書講読。毎週木曜日の午後4時過ぎから先生の部屋で始まりますが、深い議論になりやすく9時10時になる事もしばしば6時7時を過ぎるとおなかも空き、先生のご発案で34回目あたりから夕ご飯時に場所を駒場の研究室から渋谷方向に少し歩いた店に移しビールを傾けながらま た3,4時間ゼミ後半の議論になりました。そういう時の北川先生のゼミ指導の所作が本当に素晴らしかった。テキストの一言一句を精緻に読みながら一人の好奇心に満ちた個人として何の衒いもなく、必要ならその場で辞書なども引きながら、本当に嬉しそうに楽しそうにニーチェを読んでゆかれました。上か らものを仰る先生ではなく僕らも好きに発言し、その場で調べて間違ってたりもしながらテキストと同時にテキストとどう関わるかの姿勢も学びました。5時間6時間に及ぶゼミは一方向的な講義では到底もたず、素の構えでどう向き合うかという仕事そのもの、ビールを傾けつつ資料も前に真剣な議論というのは北川先生が博士を取られたベルリン自由大学ご留学時代のご経験と同様ということで、こういう授業をやってみたかった、とも仰っておられました。酒を飲みながらの授業とは何事か!と怒る方があるかもしれませんがニーチェの「悲劇の誕生」は酒の神のランチキ騒ぎみたいなお祭りの話で、また北川先生は 本当に端正な仕事をされる方で、そんな先生がビールを飲みながら議論しましょう!と嬉々として輝くように読解の喜びを体現しつつ教えて下さった。決して上からモノ申すのでなく、同じテーブルでその喜びとか、あるいは瞬間的な発想、アイデアなども遊ばせつつ「テキストと戯れる」ということを目の前で 行って下さった。ちなみに鋭利と言って良いほどの北川先生の実力は知る人は誰でもしっています。本当の本物の知性、いま思い返してみて僕が学生時代に受けたあらゆる講義や授業の中で、飛びぬけて「美しい」授業として、現在まで自分の支えになっているのは北川東子先生の原書講読のゼミナー ルでした。ただドイツ語本来の難しさはその場で先生が解いちゃうので僕の語学力はここでは伸びなかった^^;それはこれからの僕の課題と思います。(以上、@itokenstein Ken ITO 伊東 乾)
まあちょっとブラック・ユーモアだが、確かにこんな贈り物を毎日もらっていたら家中ひっちゃかめっちゃかになってしまうはずだ。Day 1On the first day of Christmas my true love gave to me, a partridge in a pear tree. Such a thoughtful gift, she knows how much I love fruit. She also knows my building’s pretty strict about pets so the bird threw me a little. But he is a cute little guy.
Day 2On the second day of Christmas my true love gave to me, two turtle doves. Wow, she’s really into the avian theme this year. Um, thank you? I guess I’ll just put them in the kitchen with the partridge and the pear tree, which suddenly seems a lot bigger than it did yesterday.
Days 11 & 12These final days have come and gone in a bewildering fog. I remember drummers. Pipers. Lots of them. I haven’t slept or washed my body in quite some time. Food is scarce… the fighting, fierce. I killed a lord today! Snatched him right out of the air and killed him with my bare hands. Now he doesn’t leap anymore. I used his leotard as a net to trap one of the swans. She was delicious. Didn’t even cook the old gal. Ha! I made everyone gather around and watch—that’s what you do when you want to send a message. A very important message! This is my castle! Do you all hear me? Do you see what I’ve done? What I am capable of!! No more eye contact with the king, do you understand? Or I will end you! I will end you all right here and now!! Now one of you fetch me a goddamned pear. The king needs something sweet.(The Twelve Days of Christmas by Colin Nissan)
エリザベス1世により「統一令」が出された1558年から1829年の「カトリック教徒解放令」までの期間、英国ではローマ・カトリック教の信者は、公然と自分たちの信仰を実践することは出来ませんでした。「暗号」と言うより当時の権力構造で出来た「隠語」のようなものだとおもうのだが、それはそれで分かって歌っている方は一種の快感なのかもしれない。
そこで、イギリスのカトリック教徒たちは、自分たちの信仰を織り込んだ「わらべうた」を創作しました。つまり、一見数え歌のように聞こえ、歌っても捕らえ られる心配がないが、裏にカトリックの信仰をも歌い込んである──そんな歌を創作したのです。それがこの「クリスマスの12日」というキャロルでした。
歌は二重構造になっていて、表向きは他愛もない子供の歌ですが、裏の意味はローマ・カトリック教会への信仰を示す敬虔なものです。歌詞のすべての単語は、 カトリック信仰の核をなす概念の暗号(符牒)になっていて、信者たちはこれを歌う時、暗号の裏に秘められたものを思い浮かべ、自分たちの信仰の実践にした のです。(歌詞の翻訳と説明も合わせてこちらをどうぞ。)
The church calendar is all about the Story of Jesus, and I know of nothing ... that can "gospelize" our life more than the church calendar. It begins with Advent, then Christmas, ... Anyone who is half aware of the calendar in a church that is consciously devoted to focusing on these events in their theological and biblical contexts will be exposed every year to the whole gospel, to the whole Story of Israel coming to its saving completion in the Story of Jesus. (p.155、強調は筆者)逆説的かつ皮肉っぽい見方だが、このような「ゴスペル・カルチャー」で漫然と育ったカトリックの信者は、福音主義が強調するイエス・キリストに対する自覚的回心にどれだけ至っていると言えるのだろうか。