2012年1月29日日曜日

電柱移設

今日巣鴨聖泉キリスト教会の定時教会総会が持たれ無事すべての議案が承認議決された。

そのうちの一つが教会入り口のちょうど真ん中に立っている電柱の移設工事計画。
10年前の会堂建替えの時設計案に入っていたが、見積もり減額過程で没になった。

以来「そこにある」のに慣れてしまい、移設案は眠っていた。

しかし昨年の定期改修工事の時、担当した工務店の方が
「ここに電柱があるのは何とも景観を台無しにしている。」
「こんなとこに電柱があると運が向いてこない。」
などと言われたおかげで改めてその立っている場所のマイナス性に気付かされた。」

言われた通りまさに目の上のたんこぶのような存在だ。

以来どうしようか暫く考えて「やはり移設に着手しよう」と責任役員会に諮り、そして今日の総会で承認議決された。

東京電力による移設工事見積額は16万円余。

今年前半には工事が終了し道路入り口から見る教会(右側)と木工房活水(左側)がどんな風に見えるか楽しみだ。

2012年1月28日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

1月29日 午前10時30分

朗読箇所 マタイの福音書 25:14-30
説 教 題 「委ねられた者たち」
説 教 者 小嶋崇 牧師


※礼拝後、定時教会総会を開きます。

2012年1月25日水曜日

改革派神学

筆者は「アルミニアン・ウェスレアン」と言う神学的伝統の流れに位置する「日本聖泉キリスト教会連合」に所属する。
別な表現を用いると「メソジスト・ホーリネス」の背景の教会・・・と説明したりする。
まっ一番有名な人は18世紀英国信仰復興運動のジョン・ウェスレーとなる。

米国留学でも最初の二校はこの立場の学校であった。
その後一年間プリンストン神学校に学んだが、ここでも、そしてそれ以降も、ついぞ「改革派神学」についてまともな勉学はしないで来てしまった。

最初の聖書学校では「TULIP(total depravity; unconditional election; limited atonement; irresistible grace; perseverance of the Saints)」に対抗する神学的立場を学んだので、改革派神学のシステムを学んだわけではない。

とにかく神学的立場としてはカルヴィニズムに対抗する後から出てきた神学的伝統に立つことを自覚しているのだが、えてして後代の者がプロテスタントの神学を学ぶ時にカトリシズムが背景にドロップアウトするような勉強をするように、筆者の改革派神学の学びもそんな感じで来てしまった。

しかしそのような教派教理的対立の構図から、「福音主義」と言うそれら二つを抱合するような神学運動に目を転ずると、如何に自派を超えた神学的立場から影響を受けているか、と言うことに気が付く。

今日はそんな感じで「改革派神学」にネットを介して接する道順(計画的ではなく、たまたまリンクして行った経緯)を紹介しよう。


少々「英語圏ブログ紹介」も兼ねるが、先ず出発点は、Ross H. McKenzieのsoli deo gloria
というブログ。
マッケンジーさんの関心は主に「科学と信仰」だが、先日神学関係の記事を投稿した。
An article I wish my Presbyterian friends would read(「長老派の友人たちが読んでくれるといいなと思う論文」)、と題された記事だが、紹介されていたのはジョン・フレームと言う改革派神学者の書いた(2003年と少し古いが)Machen's Warrior Childrenと言う論文だ。

メーチェンと言えば「根本主義対自由主義」の神学論争時代の正統派神学を代表する論客だ。
筆者の父もかなり影響を受けた人だ。

フレームはこの論文でメーチェン以降の神学論争が「対自由主義神学」と言う敵に文化的敗北を喫した後自派内で多くの論争を生み、そのために無益なエネルギーを費やしたり、マナーに欠ける論争を行ってきたりしたのではないか、とその歴史を概観する。
先ずメーチェン以後の神学的系譜を概観し、彼らの間で論争されたポイントを21点挙げている。そしてその論争を評価し、最後にどのような建徳的な神学的作業が可能かを提案して終わる。

この論文を読み通したところで筆者のブログに「改革派神学の論争点整理」みたいな題で紹介しようと思ったのだが、日本語読者には余りに特殊過ぎるかと思ってちょっともてあましていた。
それで方向性を変えて、この論文から出発して、現代改革派の代表的神学者としてジョン・フレームと言う人を紹介してみよう、と思ったのである。

まっ、ウィキペディアでもセオペディアでもいいのだが、以前「神学と倫理」で紹介した、アンドリュー・ゴッダード氏の、Theology and Ethicsを参照してみた。
ジョン・フレームの項はちゃんとあった。

フレームに関するベスト・ウェッブサイトが紹介されていた。
The Works of John Frame and Vern Poythress 
というサイトだ。
ざっと見200本以上の論文・書評がネットで公表されている。
倫理学関係もかなり多い。
また彼の著作のうち3冊がネットから入手可能となっている。
三冊目はTheology at the Moviesとなっていて神学的映画評のコレクションのようである。

出発点に戻って、マッケンジーさんが推薦しているように、ジョン・フレームさんは広い知見とバランスの取れた感覚をお持ちの方のようだ。
この方の書いたものから学ぶことは色々ありそうだと思っている。

2012年1月21日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

1月22日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 5:1-15
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 5:5-6
説 教 題 「希望、信仰、愛」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(74)
ガラテヤ人への手紙(62)
・5:2-15 キリスト者の自由と律法
(A)5:2-6 割礼と律法

2012年1月20日金曜日

エバンジェリカリズムの分析整理

敢えて標題には「福音主義」としなかったが、きょう紹介する本、


は、「福音主義」の流れ、運動に属する者たちが、その中での異なる立場をどうお互いに認識しているか、を表す本である。
と言ってもこの本は多分に「北米」福音主義者たちの間の問題である。

日本においては福音派と言えば「日本福音主義同盟(JEA)」があり「日本福音主義神学会(公式サイト)」があるが、幸か不幸か団体の設立期を除いてそれほど「福音主義のアイデンティティー」を議論するような気風は感じられない。
だから仮に「福音主義」とは何かを論じたとしても多分に「北米」の福音主義における議論の紹介に終始するだろう。

で、筆者がなぜこの本を読もうと思ったのか、と言うことだが、筆者の北米における留学の時代から既に約30年が経過し、その間「福音主義」の抱えるアイデンティティー問題の文脈も変化してきている、そのキャッチアップに資する本ではないかと思って購入した次第だ。

だからこのブログ読者にはそれほど関心がないだろうと思う。(でもちょうど読み終ったところなどで何か書いてみようと思ったのだ。)

さて現在の北米福音主義の色分けとして四つの立場:
①ファンダメンダリズム、
②コンフェッショナル(教理重視)・福音主義、
③ジェネリック(用語本来の意味での)・福音主義、
④ポストコンサバティブ(従来の保守的立場から進んだ)・福音主義、
に色分けされている。

各立場を解説する論客は順に、ケビン・ボーダー、R・アルバート・モウラー・Jr、ジョン・G・スタックハウスJr、そしてロジャー・オルソン、の四氏である。

この本の面白いところは各自が自己の立場から「福音主義」を定義した後に、残りの三氏が「応答」するところである。
言いっぱなしではなく、討論して相互の違いを更に浮き彫りにしようとするところである。(当然共有するところはそれと指摘もするが。)

また日本と違って(日本では逆に議論がなさ過ぎて物足りなさを感じるのだが)何を論ずるのでも「レッテル貼り」や「異端視」や過激に反応して穏やかな討論、噛み合った議論が出来なくなっている傾向のある「神学上の言い合い」にならないように、これら四氏は相互に「ブラザー・○○」と呼び合ったりして努めて礼節を弁えた議論を展開しようとしている。

筆者が読んだ大雑把な感想では、ケビン・ボーダーの「ファンダメンタリズム」の立場が一番論理的に整合していて、しかし最も狭隘で厳密な「境界線」を設定する。彼の定義する「福音主義」ではない者は、即「非キリスト者」でもある。
一番「誰がインで、誰がアウト」かを嗅ぎ分ける臭覚に優れている、とも言えるかもしれない。

R・アルバート・モウラー・Jrの「コンフェッショナル・福音主義」はスピリット的に前者に似ているが、いくらか視野が広い感じがする。
でも「聖書解釈と無誤論」で紹介したように「福音主義」にとって彼がエッセンシャルと認めるものから逸脱する者には激しい論駁をする。
まっ、彼自身が論争好き、みたいな印象もあるが。(正統主義を自負しているイメージが強い。)


これら二者に対して残るジョン・G・スタックハウスJr、とロジャー・オルソンは、デイビッド・ベビントンの


 「近代英国における福音主義」で用いられている定義(神学的と言うより社会学的)、
①Crucicentrism(十字架重視)、
②Biblicism(聖書主義)、


③Conversionism(回心主義)、
④Activism(行動重視)、
を援用して、どちらかと言うと「ビッグ・テント」型な、より広く福音主義の歴史的流れから特徴付けようとしている。
オルソンに至っては北米福音主義神学会で大論争を巻き起こした「オープン神論(Open Theism)」も福音主義の中に含む扱いをしている。

後者二者はその点で前二者より、神学的に境界を設定するのではなく、社会学的な(敬虔主義やリヴァイヴァリズムなどを含めた歴史的な流れ)観点からより広く(generous orthodoxy)、よりリベラル(progressive)な印象を与える。

関心のある方により詳細関連情報:
・出版社サイトのこの本の紹介(リンク
・この本の反響やコメントを掲載したサイト(リンク

2012年1月15日日曜日

ミッションと福音宣教

最近思うことの一つに日本においてカトリックとプロテスタントの垣根が幾つかの次元で大分取れてきている。
信仰と礼拝においてスタイルや内容に結構大きい違いはあれど、「キリストを証しする」こととか「福音宣教をする」ことなどにおいてかなり親近感、協働感を持っている。
そう感じることがある。

その一つの具体例がキリスト教放送局日本FEBCにカトリックの神父様たちがそれほど違和感なく登場なさっていること。
筆者の理解が正しければプロテスタント福音派の伝道媒体として誕生し、発展してきた団体が積極的にカトリックの神父様たちをゲストに迎えるようになったのはそれほど昔のことではないと思う。

紙媒体に関してもこの傾向はある程度共有されているのではないかと推測する。
(残念ながら筆者はキリスト教界関係の新聞雑誌等を全く講読していないので良くは分からないが。)

学問(筆者の場合は神学とか聖書学の分野だが)に関して言えば、米国留学においてイエズス会神学校の教授たちにお世話になった身として幾分違和感なくカトリックの方々を受容できるようになったおかげもあるが、伝統は違えどカトリックの学者であれ、プロテスタントの学者であれ土俵は同じ・・・と言う感じはある。
特に聖書学はそうだと思う。
実際筆者が牧師になって講解説教をするようになって使ってきた註解書の中にはカトリックの学者のものが結構ある。


さて導入はそこまでにして本題に入る。

標題の「ミッションと福音宣教」について考えさせてくれる文章を暫く前ネットで発見した。
と言っても3、4年前だが・・・。
失礼ながら書いた方の名前は全然存じなかったので、文章を読み終えてから(ある感銘を受け)その方の名前を記憶にとどめるようになった。

その方とは幸田和生神父のことであるが、彼は今や東京教区補佐司教(聞いたところによると日本のカトリック教会のヒエラルキーに従えばナンバー・ツーの立場らしい)にあられる。

と余りもったいぶった表現は余り似合わなそうな平易な語り口の人だと思う。
下記に紹介する文章を読んで頂ければ分かると思うが。

筆者の目に留まった文章とは、2004年にカトリック八王子教会で持たれた「第1回多摩西宣教体の集い」のシンポジウム、『宣教とは?』での幸田神父による基調講演「宣教協力体の『宣教』とは?」である。(リンクはここ

この基調講演の中で幸田神父は幾つか興味深い指摘をしている。
①「宣教」はミッションの訳語としては適当でない。ラテン語「ミッシオ」の意味する「派遣」の意義を反映していない。
「宣教は福音宣教の略ではなく、ミッションの訳である」というところです。これは本当にわかっていただきたいことです。「宣教」では何となく狭くなってしまう。そして、皆さんご存知でしょうか。ミッションという言葉は、もともとはラテン語の「ミットー」という動詞から来ていて、「送る、遣わす」という意味の言葉です。ミッションというのは(ラテン語ではミッシオですけれども)、「派遣」という意味なんです。それがなぜか日本では「宣教」と訳される。なぜそうなのでしょうか。
中世のヨーロッパでは、村中みんなクリスチャン、国中みんなクリスチャンになっていた時代が長く続きました。そうすると、自分たちキリスト信者は、神様から派遣された者だという意識はなかなか持てなくなります。キリストを知らない、福音を知らない人たちの中に生きているんだったら、自分は神様から派遣されてこの場にいて、何か神様から大切な使命を与えられているのだと感じられるかもしれませんけど、右見ても左見てもクリスチャンばかりですから、派遣されているという意識をあまり持たなくなります。ヨーロッパの人たちが、特別に派遣されているという意識を持つようになるのは、やっぱり新大陸が発見されるからです。キリストを知らない人たちが世界中にはこんなにたくさんいるということを発見したときに、そこに出かけていってキリストの教えを伝えること、これがまさに神様の派遣だということを感じたのです。そこでたくさんの宣教師たちが出て、盛んに活躍するようになって、ヨーロッパの国々から外国に行ってキリストを知らない人たちのたくさんいる国に行ってキリストを伝える、これこそが派遣だ、これこそがミッショナリー(宣教師)だ、というそういう考えになっていくわけですね。
②アジアに位置する日本が他のアジア諸国と共有する「ミッション」に関する二つの文脈的意義:(A)キリスト信者がマイノリティーであること。(B)今も伝統的宗教が息づいていること。この二つから導き出される「ミッションのあり方」は言葉だけでは不十分。生き方が、その真正性が問われると言うこと。
アジアって広いじゃないですか。東は日本から、西はあの中近東までですよ。全部アジアなんですね。そのアジアっていう、ヨーロッパから見ればアジアかもしれませんけど、アジアの中にいる人間にとって見れば、アジアなんていうのはあまりに広すぎて、アジアという単位で集まっても共通するのものなんか出てこないんじゃないか、共通の課題とか問題なんて出てこないじゃないかって思いながら集まった。でもそうではない。アジアにおいて、やっぱり顕著な特徴は二つ。一つはですね。フィリッピンを除けば、キリスト信者が少数であるということ、これ歴然としいてます。アジアの特徴の一つは、キリスト信者がほとんどの地域で少数派=マイノリティーであるということです。それからもう一つの特徴は、伝統的な宗教が今も生きているということ。それはイスラム教であったり、ヒンズー教であったり、仏教であったり、するのですけれども、そういう伝統的な、本当にすごい宗教が今も生きている。この二つの点ですね。これはアジアの教会全体が共通に置かれている状況だ。その中で、それでは私たちのミッションは何か、ということを考えた。そのときにはっきりとした二つの線が見えてきたと言うのです。一つはわたしたちがもっと徹底的にキリストに従うこと。その生き方を持たなければいけないということ。アジアの人たちは、きれいな言葉とか、難しい神学とか、そういうことに心を動かされない。そうではなくって、生き方、ホントにキリストを信じている人の生き方が本物かどうかを見ている。だから、わたしたちが本当の意味で、キリストに忠実に従うものでなくてはならない。これが一つの線ですね。もう一つは、と同時に私達は他の宗教の人、他の民族の人と共に生きていくという道を歩まなければいけない。決して、他の宗教を排斥したり、ダメだと言ったりするんじゃなくて、その人たちと対話をし、一緒に協力し合って生きていく。そういう社会を作っていくということが私達の課題だ。この二つのことを多くの司教が語りました。
暫く前スコット・マクナイトの「王なるイエスの福音」 と言う記事を書いたが、この幸田神父の文章からプロテスタントとは違う、プロテスタントからは見えにくい「ミッション」の問題が指摘されている。そんな印象を受けている。

信徒に向かって平易に語られた講演を文章にしたものであるので関心を持たれた方はどうぞ全体をお読みください。
講演後の信徒との「質疑応答」も是非。

2012年1月14日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

1月15日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 5:1-15
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 5:2-4
説 教 題 「キリストの益」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(73)
ガラテヤ人への手紙(61)
・5:2-15 キリスト者の自由と律法
(A)5:2-6 割礼と律法

2012年1月13日金曜日

発信プラットフォーム

最近ブログの記事投稿頻度が落ちてきている。

一つは話題にするほどネタが見つからないと言うことがある。
そう言うと顰蹙を買いそうなのでもっと正確に言い直す。

要するに筆者は視野が狭いと言うことが一つ。
更に言えば視野が狭い上に余り深く読まないことも一つ。

一時期新聞を隅から隅まで・・・とは言わないが、ちゃんとした記事をちゃんと読んでやろう、と気合を入れたこともあった。
最近はさーっと目を通すだけで殆んどちゃんと読まずに終わってしまう。

その代わりネットで色々調べて読む量は多くなった。
便利だねー本当に。

でもそれもまた注意しないと決まったブログを巡回したり、ツイッターに時間を使ったり・・・と言うことになる。
一見世間が広く見えるようになった気がしないでもないが、やはり自分の興味・関心に縛られて一瞥で次へ次へと目を移していくだけに感じる。

そう言う訳だから一種の枯渇状態に入ってしまうこと多々。
なかなか記事が書けなくなるわけである。

と、自己正当化してもしょうがないのでこんな文章はやめよう。


昨年からフェイスブックを始めた。
最初慣れるまで数ヶ月かかった。
ブログと比較しながら、「自分はフェイスブックには向いていない。フェイスブックは他人の投稿したものを見るだけ。やはり自分はブログを書く方が向いている。」などと思っていた。

しかし慣れてくるとフェイスブックは苦悶して書くほどの文章を作る必要がない(と勝手に想像している)から簡単に投稿出来ていいや、と思い始めた。
と言う事でブログの方に投稿するより、フェイスブックに時間を取られるようになりつつある。

そんな時ブログでも紹介した、Per∙Crucem∙ad∙Lucemにこんな記事が載った。

「同僚ブロッガーへの励まし」(リンク

ゴロンシーさんの記事ではなく、スコット・ハミルトンさんの、 ‘Blogging and the curse of coolness’
のリンクの紹介である。

その中でこんな風に書かれていた。
Today, though, blogs are out of fashion. A survey reported by the New York Times showed that blogging is fast losing popularity amongst younger people, who are much more enamoured of newer internet platforms like facebook and twitter. A Pew Research Centre survey of thousands of American web users suggests that blogging is also losing its appeal for older folks. The proprietor of Gombeen Nation, one of Ireland's most popular blogs, recently observed that, thanks to steadily falling readerships, his competitors 'are dropping like flies'. The internet is now littered with the hulks of abandoned blogs.
要するに若者の間でも、年行った者の間でもブログ遊離が進んでいる。
読者をツイッターやフェイスブックに奪われたブログたちは捨て去られネット空間のゴミになっている、と言うのである。
しかしその退潮傾向の中でブログは文学的にもっと昇華したプラットフォームになる、さらにまた幼稚化して行く文化に対する抵抗運動になる、とハミルトンさんは言う。
Blogging may have been superseded by new and inferior innovations, but the medium need not die. Indeed, bloggers should treat the rise of alternative forms of online communication as a liberation, rather than a disaster. Freed from the curse of coolness, blogging can now develop as a literary and artistic genre, or set of genres. Blogging may have lost some of its old practitioners, but it should be able to attract writers, artists, and political thinkers dissatisfied with the short attention span of twitter and the ritualised onanism of facebook. Blogging may become an act of resistance against the dumbing down of culture and political discourse in the twenty-first century.
と言うわけで最近ブログの更新が滞りがちだが、高嶺を目指して頑張ろうかな・・・。
おっとと、いやブログがハイ・カルチャーの手段となるためには筆者はもっと努力しなければならないから、もっと更新頻度が落ちていくことにならないだろうか。

まっそんな「トレンド」のことは他人様に任せて我が道を行くことにしよう。

2012年1月9日月曜日

N.T.Wright アップデート追記

昨日の投稿記事の①「キリスト教起源と『神』問題」シリーズの第四巻目、について「本の内容の記述について間違いではないか」と他のウェッブサイトと照合して確認するように、とのコメントがありました。

情報自体のソースについては確かなのですが、まだ公開するほど確定的な内容ではなかったと認識し、内容の一部を削除修正させて頂きます。

関心の高い方に、と思っての投稿でしたが結果的に混乱させることになってしまいお詫び申し上げます

指摘していただいたコメンターの方へ感謝とともに。

2012年1月8日日曜日

N.T.Wright アップデート

筆者が「N・T・ライト読書会」ウェッブサイトを運営している関係で、時々このブログの方に関連情報を掲載しております。

ブログ読者の中にライトに関心のある方がいましたら今日は耳寄りな情報をいち早くお届けします。

①「キリスト教起源と『神』問題」シリーズの第四巻目
パウロ研究の本ですが出版が遅れに遅れています。
しかしどうやら追い込みに入ったようです。
結論から言うと出版は2013年の夏から秋くらいになる予定。



この本の出版を待ち焦がれている方はどうぞ無事目標としている期限までに完成できるようにお祈りください。
ライト博士が厳しい山登りになると仰っているそうです。

②フェイスブックサイトの開設
ライト博士の本の何冊かを出版しているハーバー・コリンズ社がライト博士の著作の読者たちのフォーラムとなるように開設したもので、誰でも(FBアカウントを持っていなくても)見ることが出来ます。
ただしコメントをしたい場合にはアカウントが必要です。
アドレスはここです。

耳寄りな情報が入りましたらまたお知らせします。

2012年1月7日土曜日

明日の礼拝案内

1月8日 午前10時30分

主日礼拝

説 教 題  「訓練」
説 教 者 小嶋崇牧師

※礼拝後、もち粥をいただきながら、各自の新年の抱負や最近の消息などを分かち合う時を持ちます。

2012年1月5日木曜日

キリスト教ユーモア

久し振りにちょっと笑えるお話。(以前のはここ

カトリックの修道僧で司祭をしている二人のお話。

一人はドミニコ会修道士でもう一人はベネディクト会修道士。
二人は霊的修練をしている時にパイプを燻らしてもいいものかどうか延々と議論していた。
なかなか埒が明かないので二人がそれぞれの修道会の管区長に手紙を書いて指示を仰ぐことにした。
ドミニコ会管区長の答えは「ノー」であった。
ベネディクト会管区長の答えは「イエス」であった。

ベネディクト会士:「本当かい。一体どんな風に管区長に尋ねたんだい。」
ドミニコ会士:「いやね、私の祈りの最中にパイプをふかしてもよろしいでしょうか、と聞いてみたんだ。そしたらノーと言われた。」
ベネディクト会士:「それで理由が分かった。君は間違った質問の仕方をしたのさ。私はパイプをふかしている最中に祈りをしてもよろしいでしょうかと聞いたんだ。答えはイエスさ。」
(リンクはここ

さて、「クリスチャンと喫煙」はなかなかセンシティブな話題だ。
冗談では片付かない方々も読者の中にはおられるかもしれない。
なので蛇足だがちょっと一言。

筆者の教会伝統(メソジスト・ホーリネス)は禁酒・禁煙だが、巣鴨教会では特に明文化も暗黙の了解にもしていない。
だから「キリスト教倫理・規律」として指導することはない。(ただ教会の建物・敷地内では禁酒・禁煙を原則にしている。)

しかし喫煙に関しては《聖書的に》どうこう言うよりも、現在は医学的な見地や公衆衛生的な見地から、然るべき選択がなされるだろうと考えている。

ヨーロッパにタバコが紹介され、嗜好品としてあるいは趣味として定着して以降、著名なキリスト者や神学者がパイプあるいはタバコを愛好してきた。(バッハ、C・H・スポルジョン、カール・バルト、C・S。ルイスなど。ここを参照)

やはり時代的な背景や文化が倫理的基準に影響するものだと思う。(※倫理的相対主義を言っているのではない。)

2012年1月3日火曜日

お一人様クリスチャン

先ず2012年初投稿記事なので、新年のご挨拶から。

主の年2012年、新年明けましておめでとうございます。
本年も「大和郷にある教会」ブログをよろしく(お引き立て?)お願いします。

さて、巣鴨聖泉キリスト教会の今年の標語聖句を。
愛によって互いに仕えなさい。
ガラテヤ5:13(新共同訳)

ところでこの聖句が示唆するようにキリスト者として生きるとは、キリストの体である教会、つまり信仰共同体を前提としている。
カトリック的なイメージまで行かなくても、プロテスタント教会においても「信仰者の母」としての教会は受け入れやすい印象だろうと思う。

しかしスコット・マクナイトの「王なるイエスの福音」 でも
今迄「福音」として聞いてきたものが、実は聖書的に忠実に語られた福音ではなく、「サルベーション・カルチャー」と定義された、「個人的救いに特化された神学とその適用」だった、とこの本は分析するわけです。
と指摘したように、今私たちキリスト者が生きる時代環境は新約聖書時代の「社会対個人」の構図より一層個人化していると思うのです。

プロテスタント原理(救済に関し如何なる人的権威も神と人との間に干渉する権利を持たない)の延長線上に、このような個人的救いに特化した「サルベーション・カルチャー」が可能となり、近代の落とし子である「個人化(伝統とそれを抱合する社会に対して独立する個人を析出させた近代化の諸相)」の波に晒されながら現在のキリスト者は“教会生活”を送っているのではないでしょうか。
教会史的に見るとプロテスタント教会の中の「自由教会」の伝統では、教会は一見「救われた個人」が任意で形成する社会であり、地縁、血縁、日本的に言えばムラ社会や義理社会の原理を否定しているかのように見えて実はそれほどスッパリとは異なる原理・原則で動いているわけではない。やはり混在しているのが現実の教会だと思うのです。

とまあ何やらややこしい説明をごちゃごちゃ書いていますが、要するに指摘しようとしているポイントは・・・様々複雑な諸相を呈していても、今の教会は人間関係の“絆”が脆弱化する方向に向かっているのではないか、と言うことです。

たまたま昨年は東日本大震災という出来事を通して人と人との絆と言うことを考え直し、生活インフラが崩壊した時に如何に都市で生活する個人が脆弱であるかを感知する機会となったように思います。
だからと言って教会やその他の中間的自由社会が巨大化したマス消費主義社会で行過ぎた個人主義に生きる人々の「絆作り」の受け皿となりうるかどうか、と問われるとそれはなかなか難しいだろうと思うのです。

以前このブログでも書きましたが(「一%の壁」)、2006年に行われた宗教意識調査で、日本人の特に青年層の「キリスト教支持」が6%と高かったことを指摘しました。
(この記事のギャラップ調査結果に関するリンクは現在有効ではないようです。こちらをご参照下さい。)

つまり長い話を短くつづめて言えば、(日本の)既成教会は人間関係が固定化し、新来会者が受け入れられやすい態勢になっていなかったり、また教会内の様々な習慣に馴染めなかったり、またひどい場合には献金の強制や集会・奉仕の強調など「個人の自由」を脅かすように感じられるものがあったり、と程度や内容にかなりな幅があるとは言え「自称クリスチャン」が教会に留まるのを阻害する要因が教会側にあるのも否めないわけです。
そして更に本記事の標題に掲げたように、ネット社会の出現によって(それが直接の原因ではないかもしれないが)、集会や礼拝がバーチャルに、気安くできる態勢が整いつつあるように思うのです。
特に生身の人間関係構築が苦手な若年齢層によってこのトレンドが今後定着していくと仮定すると、「日曜日に教会へ行く信者」(今や1%を切っているだけでなく斬減していく傾向にあると思う)と、教会のような“組織”に繋がっていない(教会の人間関係や習慣に躓いたりして教会へ行くのをやめた人々も含む者たちはかなり増加傾向にあると思う)「お一人様クリスチャン」との間に大きなギャップが発生し、特になかなか顕在化しない後者のタイプの「自称クリスチャン」がサイレント・マジョリティーとして今後の日本のキリスト教の方向に結構影響を及ぼしてくるのではないかと予感する。

元旦礼拝の牧会祈祷では「一人で礼拝しているクリスチャン」(その中にはなかなか行きたくても教会の公同礼拝に参加できない者たちを含むのだが)、特に上記に掲げたような理由で「お一人様クリスチャン」の礼拝を捧げているかもしれない者たちも念頭に、「聖なる公同教会」の「聖徒の交わり」を意識しながら祈った。

※「お一人様クリスチャン」などと言う題を掲げたが果たしてその実態(様々な様相があるに違いなかろうが)についてそんなに具体的に知っているわけではないのであくまでも「多分こんな風に物事は進んでいるのではないか」と言う想像的な文章と思ってお読みいただけるとありがたい。