2013年8月29日木曜日

(4)若松英輔『イエス伝』

最近のアクセスを見るとちょっと意外に感じるのだが、佐藤優「キリスト教概論」へのページ・ヴューが依然として多い。

これは「ふしぎなキリスト教」などに対する関心と通底するような、「教養としてのキリスト教」を求めている兆候なのだろうか。

ところでこのブログでも何回か紹介したリチャード・ボウカム「イエス入門」出版と時期的に相前後して、最近よく名前を聞くようになった「批評家・若松英輔」の『イエス伝』が中央公論から連載開始した。

一応連載①「一章」(中央公論、2013年5月号掲載)から読んでいるのだが、今回はその④を取上げたい。

第四章 洗礼ーーイエスは洗礼を授けたのか

先ず全体的な印象から。

これは連載全体に通じるのだが、若松氏の考究(瞑想?も含む想像を活かした読み・・・のような取り組み)は、新約聖書学(主に福音書に限定されるが)の最近の研究や動向にも目を配りながら、しかしその枠組みには縛られない、むしろその殻を破ろうとする試論のように思う。

若松氏は「史的イエス」にも関心があるが、むしろ「内村鑑三」に言及したり、また背景には「井筒俊彦」もあり(若松英輔ウィキ)、「宗教間対話」のような狙いがあるのではなかろうか、と筆者には感じられるのだ。

「霊性」の次元で時代や文化の異なる「宗教家・宗教運動」を横断的に捉える視野を探っているような雰囲気と言おうか・・・。

今回の文章は「イエスの幼年期」について書いているが、福音書資料は大変限られており、ルカ福音書の「幼児期物語(infant narrative)」についての解説が主になっている。

かなり内容を省略するが、「イエスが12歳」の時のエルサレム行エピソードでの少年イエスの「父の家」発言に対する両親の驚愕の背後にルドルフ・オットーが用いた「ヌミノーゼ」体験のようなものがあるのではないかと若松氏は指摘する。
 このとき、マリアとヨセフを、名状し難い、しかし烈しい戦慄が貫いたのではなかったか。日々、子供が育っていくのは悦ばしい。だが、その一方で、幼き魂がかいまみせた叡智と霊性の次元が、自分たちとはほとんど隔絶されていることを認識せざるをえない。
 彼らは恐れと畏れが入り混じった、霊的な慄きとも言うべき経験に投げ込まれている。福音書で何もふれられないことによって現出するコトバには、宗教学者ルドルフ・オットーが、超越的体験の原型として論じた「ヌミノーゼ」の事実を見る思いがする。(下線は筆者)
若松氏の関心はここでも新約聖書学者が通常『釈義』と呼ぶ、「著者(福音書記者)の意図した意味」を文脈から取り出してくることよりも、その背後にある「霊性」に繋がる「何か」へ意識を向け、その「何か」を浮き立たせることに関心があるようだ。

さて福音書記述ではこの「イエス12歳のエピソード」より前に来るのだが、「洗礼者ヨハネ」の母エリサベツと、「イエス」の母マリヤの邂逅場面で、エリサベツが「最初」にイエスを「主」と認めたことの経験が、「福音書は具体的には伝えていない」が、洗礼者ヨハネを形成する重要な要素となったであろうと若松氏は想像している。

さて標題の「洗礼」に関し、洗礼者ヨハネの「洗礼」と、イエスの「洗礼」とを福音書の記述に照らして比較するところでも、若松氏は何の前触れもなく「内村鑑三」を登場させる。
 キリスト教に入信するときには洗礼を受けなければならない、とされている。だが、その根拠は必ずしも明確ではない。仮に、イエスを神の子キリストであると信じる者、と「キリスト者」を定義するなら、すべてのキリスト者が洗礼を受けているわけではないからだ。
 たとえば近代日本を見るだけでも、内村鑑三によって始められた無教会に連なった人々のように、洗礼だけではなく、宗教的儀礼を信仰上の必須の条件であるとは考えなかった一群の人々がいる。新約聖書を読む限り、彼らの信仰を誤りと断ずることはできない。
と前置きのようにしながら、「洗礼」が「キリスト者」の条件とはならないことを見ていくことになる。(若松氏は、特にヨハネ福音書4章2節の挿入的解説に注目する)。

この辺りでも若松氏の考究は一定の問題意識によってテキストを選択していくことになる。

洗礼者ヨハネの「水の洗礼」に対し、イエスの「聖霊と火の洗礼」の意味を明らかにしようとする時も、若松氏は依然として「儀礼的・外形的」洗礼に対して、「目に見えないところで成就する出来事」であるところに、『聖霊』による洗礼の意義を見ようとする。

そしていよいよパウロ書簡に進んで行く。
 洗礼が無意味だといったのではないにしろ、イエスは、洗礼を救いの条件にはしなかった。原始キリスト教団が信じたイエス像も同様ではなかったろうか。パウロがユダヤ教の割礼の儀式にふれて言った言葉は、キリスト者の洗礼を考えるときにも見過ごすことはできない。
 あなた方は古い人とその行いを脱ぎ捨て、深い知識へ進むようにと、創造主の姿にかたどって絶えず新しくされる新しい人を身にまとっているのです。そこにはもはやギリシア人もユダヤ人も、割礼を受けた者も受けていない者もなく、未開人とスキタイ人、奴隷と自由の身の区別もありません。キリストこそがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。(「コロサイの人々への手紙」)
洗礼に意味がないのではない。パウロも回心のあと、アナニアという人物から洗礼を受けている。洗礼は、今日も秘蹟であり続けている。しかし、パウロが割礼において明言しているように、洗礼の有無は、救済とは関係がない。もし、ここに固執するならば、大多数の洗礼を受けていない人々が救われないことをよしとすることになる。自分は救われ、ほかの人々が業火にさらされているのをだまってみていることが、果たしてイエスの生涯に続く者がとるべき態度だと言えるだろうか。
若松氏の問題意識は明確である。

ただ下線で指摘した部分で、若松氏は「割礼」と「洗礼」とを混同し、パウロにとって「洗礼」と「割礼」とはあたかも区別がなく、ともに宗教儀礼上のことのように扱ってしまった。

これはかなり大きなミスである。

パウロの真正の手紙と認められている『ガラテヤの信徒への手紙』では、
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。(ガラテヤ3章26-27節、新共同訳)
と言明しているように、洗礼とは「キリスト者」となる体験が、「キリストと一体化」される体験であることを示唆しているものです。

若松氏が嘆く「洗礼」を巡る問題はさておき、パウロに関して言えば、「洗礼」は単なる宗教儀礼上のものではなく、そのエッセンスは「キリストに結ばれる」ことをあらわすものであり、「キリストの死と復活に与る」(ローマの信徒への手紙6章4節)決定的意味を持ったものであることは明白です。


故に原始キリスト教団において、洗礼とは「イエス・キリストの名によって」「古い人・古い世」から切り離され、「終末の神の民」の一員となる(聖霊はその確たる証し)ことをあらわすものとして実践され(使徒言行録2章38節)、「ヨハネの洗礼」を受けただけの「弟子たち」も「聖霊の有無」を確認されて「主イエスの名による洗礼」を受けたわけです(使徒言行録19章1-7節)。

ただ若松氏の「洗礼」に対する問題意識は根拠がないか、と言うと決してそうではない。
ご指摘のように「洗礼」が多分に宗教儀礼上のものに過ぎないような扱いをされている現状は様々あると思われる。

しかし「洗礼」が持っている意味を新約聖書にさかのぼって見る時には、その意義は甚だ大であることは認めざるを得ないのではないか。
そしてむしろ新約聖書から、現在の「洗礼」を巡る混乱に対するアプローチを考えるのも有効なのではないか、と筆者は思う。

2 件のコメント:

  1. うーん、ここでコメントするかどうかは迷ったのですが、ちょっと気になったので、コメントしておこうかと。

    いつもお世話になっております。ミーちゃんはーちゃんでございます。

    内村先生のオリジナルにあたったわけではないのですが、内村が洗礼晩餐廃止論を説いたのは、聖書之研究1901年2月22日 の号での記事らしいです。(鈴木範久 NHKこころの時代 ~宗教・人生~ 道をひらく~内村鑑三のことば p98 2013年4月)によれば、

    「教会は全然此等両式を廃して可なり」

    としているようですが、両式を廃すべしではないようです。それが、若松さんの表現では、必須の条件としたわけではなかった、となっていますよね。多分、洗礼を必須としなかった根拠として、日本人に通りのよい内村を持ち出してきているのかもしれませんねぇ。

    同書で、その直後に、鈴木先生は、次のようにお書きです。

    『しかし、(内村は)その二つを頑として斥けたのではなく、必生なら自分から洗礼を施してもよいとさえ言明していました。問題は、形式や資格ではなく、実質でした。その結果、内村の一生にわたり、その手で洗礼を授けた人の数は、十数人以上いるのではないでしょうか。』

    また、この洗礼(消極的)廃止論が、前掲書によると、曰く因縁つきの有島武郎の札幌独立教会への入会をめぐる一悶着の結果であったというのが、また何ともですが。

    まぁ、形式論としての洗礼の有無問題と未洗礼者陪餐問題で、若松さんはどこかの教会でリアルに相当不愉快な思いでもされたのかもしれませんねぇ。現代では、ここまでうっとうしい参入障壁の高い社会集団は数が少ないですから。

     小嶋先生も最終部分でご指摘のように形式的には、洗礼の有無が目に見える形としては教会のメンバーシップの問題とかかわるのが、外部の人からは分かりにくいんでしょうね。

     キリスト者として本来問われるべきは、洗礼の有無よりもむしろ、その実質の問題(先生のことばを使えば聖化、あるいは弟子としての歩み、キリストとともに生きること、マクナイトの表現では、福音の文化を生きること、あるいは、その信仰の正当性)が問われることであり、霊肉一体としての歩みをどうとらえるのか、ということが問われているのだろうと思います。

     若松さんの本分全体を読んでいない段階での詳細な考察を避けたいと思いますが、想像するに、若松さんは、やや霊・肉と二元論的に考え、現実空間上での出来事の世界に対する霊的な世界や物事の優先を想定しておられるのかもしれませんねぇ。先生の引用などを読んでいて、そんなふうに感じました。

     しかし、内村先生って、誤解され続けており、弟子も誤解し続けているって、とってもかなしい存在だなぁ、と思いました。内村鑑三の後方乱流といった感じですね。

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  2. ミーちゃんはーちゃんの的確なご指摘と内村の聖礼典観についての解説、感謝申し上げます。

    コメントが遅れに遅れて申し訳ありませんでした。

    「現代では、ここまでうっとうしい参入障壁の高い社会集団は数が少ないですから。」との感想に色々考えさせられます。

    「形式」と「実質」を分けて考えるにしても、前者を必須としないとした場合、後者をどう確保するのか・・・と言う部分でやはり何らかの「表現」の問題は残るように思います。

    「形式」とは幾分違いますが、「霊的修練」の方向で「身体的所作」を伴う信仰形成は、逆にプロテスタント側でも模索されているのではないでしょうか。
    「霊肉一体としての歩み」とありますが、ライトなどは、fully embodied、な方向でこのような問題も見ているように思います。

    まあこんなコメントしかできませんで失礼。

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