2013年8月16日金曜日

神戸・小豆島・高松旅行②

2013年8月11日(日)

K氏宅に泊めていただき、ゆっくり休んで起きました。

朝食は定番のベーグルサンド。ちょっとBLT(ベーコン・レタス・トマト)風。
久し振りにヨーグルトを頂き、朝も例のイチジクを食す。

9時過ぎにはK氏夫妻とK氏のお母様と、車で芦屋恵キリスト集会へ。
(ご子息は全国模試とやらで朝から晩まで外出。)

芦屋恵キリスト集会は(プリマス)ブレザレンの流れを汲む群れで、牧師はいない。
教会とは呼ばず、集会と言う。
会衆に選ばれた長老がリードする。

小さなビルの1階と2階合わせて170㎡(?)を占有するので、大分余裕を感じる。
入ると既に集まっていた方々が迎えてくれる。
あちこちで元気な声の会話が飛び交っていて、これが「関西」か・・・と言う印象。

今朝の集会をリードするT長老が早速挨拶をしてくれる。
名詞を頂き、それとなく講師(筆者)の関心・趣味などについててきぱき質問。
趣味では「木工」が特に興味を惹いた模様。

まず聖餐式が始まる。
式文はないが、毎週のことなので淡々と進む。

パンとぶどう液に与る時、それぞれ別な信徒が祈り(自由祈祷)をささげる。
(祈るのはいずれも男性。女性は集会をリードするようなことはせず、頭に被り物をしている人も何人か・・・。)

少しの休憩の後、「聖書のお話」に。

筆者の用意した題は「いま キリストに従う」。
同じプロテスタントといえども、かなり背景の異なることを念頭に、「共有」するテーマとして選んだ。

最初は皆さんに質問してみる。
皆さんは自分を言い表す時、次のうちのどれを用いますか。
 ①クリスチャン
 ②キリスト者
 ③イエス/キリストの弟子
やはり①が大多数。

この後は巣鴨教会HPのスローガン「わたしたちは、聖書からじっくり学ぶ、キリストの弟子たちの群れを目指しています」と、芦屋恵キリスト集会パンフレット掲載文とを比較しながら、「いま キリストに従う」に繋げていく。

40分近く話させて頂いたが、やはり盛り込みすぎた観が強い。

「キリストに従う」ことの、①個人的な側面(主に使徒パウロの生き様が、キリストの苦難を模範としたことを例に挙げて)と、②共同体的な側面(教会として建て上げられる)、とを聖書箇所を読み上げながら進めていった。

「キリストに従う」ことの具体的目標を「聖化」(聖徒として召され、完成される)と言うテーマに見ながら、二つの側面の普段の実践を、「神への献身と、神の御心を絶えず探り求める」(ローマ12章1、2節)から説き起こしてみた。

最後は「聖化」が自分の達成目標と言うよりも、「神の作品」として御霊によって完成されると言う風に見ることの重要性、さらには「主の祈り」にある「御国がなりますように、御心がなりますように」と言う祈りの姿勢・追求が「キリストに従う」ことを持続していく鍵となるものであることを強調させて頂いた。

多分3回くらいに分けて話すべき主題であったろう・・・。

終わると、この後控える「福音の再発見」感謝デーイベント会場へと急ぐ。

昼食は会場近くの丸亀製麺へ。

かなり混んでいた。
すだちおろし大と鳥の天麩羅。
この旅行初のうどんを食す。
(講評は旅行記最後の巻で)

イベント(福音の再発見ファンサイトで後日報告予定)も終わり、ようやく今回の旅行の公式部分が終了。

K氏夫妻と夕食のため少し山の手方向にあるパン屋が経営するレストランへ。


ここもなかなかリーズナブルであった。
とにかくスペース的にゆったりしていて、その辺がかなり東京と違うところかな。

ゆっくり食事をした後で近くの駅まで送ってもらい、そこでお別れ。
(ほぼ2日間、色々お世話になりました。)

新快速で姫路まで。
その日の宿はヴィアイン姫路

駅からすぐとは言え夜なのでちょっと探した。
ぐだぐだ半沢直樹を見たりして時間を過ごす。

(次回に続く)








2 件のコメント:

  1. 先生、どうもご奉仕ありがとうございました。

    少し予習的に去年の秋ごろに「主の祈り」の講解をして、多少重要性は触れているので、ある程度なじみはあったと思います。

    聖化は、うちではあまり強調おかないので、理解されたかどうかは少し気になります。今度日曜、そこはかとなく皆様のご意見をお聞きしてみます。

    うーん、姫路駅直結のホテルの方がよかったですかねぇ。

    とても、楽しんでいただけたことが伝わりましたので何よりでございました。

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  2. コメントどうもありがとうございました。

    盛り込んだ要素(ばらばらに見えるはず)を総合するのは一回きり聞いただけでは至難だと思いながら反省しています。

    「主の祈り」祈る習慣のない文脈で、しかも「御国」と言うことと繋ぎ合わせて「キリストに従う」ことを考えるのは、やはりなかなか難しかったでしょうね。

    「聖化」は巣鴨教会でもそのまま解かれることは殆んどありません。と言うかホーリネスの伝統的教理に沿って、の話ですが。
    「個人的救い」の焦点の当て方と同一延長線上ではない、より歴史ナラーティブな「贖いの完成」の中に位置づけられればと思いつつ講解しています。

    いえヴィアインでちょうど良かったです。
    とにかく急ぐたびでなし、後はのんびり行きました。

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