豊島区には区立の図書館が7つくらいあるが、筆者が住む場所から一番近いのは「駒込図書館」だ。
JR駒込駅のすぐそば。
先日、日曜日の午後、散歩の帰りに駒込図書館に立ち寄った。
ちょっと気になっていた本があったので、書架から探してみたが見つからず、たまたま目に付いた、ドナルド・キーン対談集『日本の魅力』を借りてきた。
出版されたのはもう30年以上前、1979年だ。
ドナルド・キーンと言えば、東日本大震災以後、終の棲家を日本に選び、現在東京都は北区に住んでいらっしゃるご様子。
筆者の毎週の散歩コースに入れている霜降銀座商店街でもその姿を見かけたことがある、と誰かから聞いたっけ。
本に戻って、対談集と言うことで色んな方々との対談が載っているのだが、その中で加藤周一との対談もあった。
二人とも外国に長く住み、外国語が堪能な上、文学を専門にしているということで、そのあたりが面白いかなと思って読んでいた。
俳句の話題になって、キーンさんはこんなことを言っている。
日本人は今でも、鎖国の影響が強いと思います。日本人は鎖国は悲劇だと思っていても、アタマの別のところでは、外国人は日本のことは知ってはいけない。知っては困るという考え方があると思います。お箸を使えないような外人を歓迎しますし、尊敬します。お箸を上手に使えるような外人は、変な外人です。言葉を上手に使える外国人は、外国人らしくない外国人で、あんまり尊敬されていないのです。それは不安を感じるからです。自分に、他の人にないようなものがあると言う事を信じたいと思うのではないでしょうか。それは一種の悪口のように聞こえますが、各国にその国独特の精神的弱点がありますが、日本人の場合、鎖国の遺伝というものがあると思います。(62-3ページ)
これを読んで思うのだが、筆者は北米に少々長く住んだが、よほどの田舎でもない限り外見だけで「外国人」と見定められ、英語で話すのをゆっくりにしたり、加減したりなどと言うことは余りなかった。
生活している限りは「英語をしゃべる」のは「外国人」でも当たり前、ということだ。
しかし日本ではどうかと言うと、「外国人」は日本語を話せないことが前提になっている風だ。
但しこの流れで言う時の「外国人」とは、大体が「白人」だ。
(特にアジア系だと外見上見分けが曖昧になるので、微妙な距離感の「外国人」にされてしまいやすいと思う。)
道ですれ違う白人外国人に、たどたどしい日本語で道を聞かれて、わざわざ拙い英語で答えようとする日本人は多いのではないか。
また白人外国人がちょっとだけ日本語が出来ると、えらく感動して「お上手」などと評したりするのも良くあることだ。
確かに余りにも日本語が好く話せる「外国人」は少なからず警戒心を覚えるのではないかと思う。
キーンさんがそれを「鎖国の遺伝」と呼ぶのはいささかどうかと思うが、しかし案外鎖国のメンタリティーと言うのはどこかで受け継いできてしまっているのかもしれない。
ちょっと飛躍するが、日本語がぺらぺらな外国人に対する警戒心と、よく言われる日本人の英語コンプレックスとは表裏一体の関係ではあるまいか・・・。
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