2013年11月3日
召天者記念礼拝
巣鴨聖泉キリスト教会(前身のインマヌエル時代も含めて)にとって初めてのことでした。
教会墓地もなし、召天者も教会のサイズに比例して少なく、余り注意を払ってこなかったため、これが初めてと相成りました。
礼拝では6名の召天者について、教会の歴史と合わせながら思い出が語られました。
礼拝後の茶話会でも、色々と故人を偲ぶエピソードが語られました。
やってみて思うことは、以下に仏教と比較して「物故者(召天者) 」に対する宗教的儀礼が(プロテスタント、しかも当教会と言う例外的ケースだが)なさすぎるか、ということ。
キリスト者の葬儀の場合は、一種の「証し」とか「伝道」と言う角度からその内容を考えたりすることがあるが、それ以後はなかなか「アフターケアー」をさぼりがち。
そこ行くと(余り詳しく知らないが)仏教は「法事」がお寺の宗教的行事の中心的なもの(?)として営まれている。
これは教役者の見識にもよるのかもしれないが、筆者のような「クリスチャン家庭」に育った者には、召天後は最早「思いの中」にはいても、具体的な場所(墓所)や所作を通して「故人と思いを交わす」みたいなことはないので、自然とドライになりやすいように思う。
お彼岸なのに帰省できず母ちゃんゴメン、とメールしたら電話かかってきて、「いまお寺。ケータイをお父さんの納骨堂(北海道は墓のかわりの納骨堂文化の地)に入れるから話しかけなさい」と…。母ちゃん、シュールすぎるよ!「父さん、そっちでも半沢やってた?」とかしゃべれってか!?
— 香山リカ (@rkayama) 2013, 9月 23
まっ、日本人の心性にとっては墓前報告みたいに「(故人に)話しかける」文化は大切なのだろうな。そんなこんなを考える機会となりました。
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