2014年1月31日金曜日

(4)小澤征爾と村上春樹

小澤征爾と村上春樹の対談本を図書館から借りてきた。
「小澤征爾さんと、音楽について話しをする」

と言うタイトルどおりの本だ。

そもそものきっかけは、もう一冊図書館から借りてきた、丸谷才一の「エホバの顔を避けて」だ。

ネットで調べている時、たまたま丸谷がこの本について書評のような文章を書いているのが目に留まった。

それで面白そう、と思って借りたのだ。

読んでみたら、丸谷は小澤の桐朋学園時代の英語の先生だった、とあるではないか。
しかし小沢は英語を全然勉強しなかったと述懐している。

それでレナード・バーンスタインの下で副指揮者をやっていた時、英語が分からなかったことで大変損をしたことを度々嘆いている。

一応メモとしてその中から以下を引用する。
(色々興味深いことはあるのだが、筆者がメモに残しておこうかなと思ったものだ。)
村上「特別ということで言えば、マーラーを聴いていて僕はいつも思うんですが、彼の音楽にとっては、深層意識がかなり大きい意味を持っているみたいです。フロイト的というか。バッハとかベートーヴェンとかブラームスとかそういう音楽の場合、やはりドイツ観念哲学的というか、地上に出ている意識の整合的な流れが、大事な意味を持っている。でもそれに比べるとマーラーの音楽にあっては、アンダーグラウンド的というか、地下の暗闇に潜っている意識の流れみたいなものが、積極的に取上げられているように感じられます。そこには矛盾するもの、対抗するもの、混じり合わないもの、峻別できないもの、そういういくつもノモチーフが、まるで夢を見ている時のように、殆んど見境なく絡み合ってる。それが意図的なのか非意図的なのか、そこまではよく分かりませんが、少なくともきわめて率直で正直ではある」

小澤「マーラーが生きたのは、たしかフロイトとほとんど同じ時代ですよね」

村上「そうです。どちらもユダヤ人ですし、生まれ故郷もすぐ近くだったと思います。フロイトの方が少し年上ですね。マーラーは奥さんのアルマが浮気したときに、フロイトの診察を受けています。フロイトはマーラーを深く尊敬していたそうです。そういう無意識の水脈の率直な追求みたいなものが、ところどころ辟易させられる部分があるにせよ、マーラーの音楽を現在、優れてユニヴァーサルなものにしている原因のひとつじゃないかと、僕は考えています」

小澤「そういう意味では、バッハからハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスといったドイツ音楽の骨太の潮流に、マーラーは反抗したということになると思います。十二音音楽が出てくる前に、ということですが」(249-251ページ)
この他には「楽譜を読み込む」と言うことで、小澤が「カラヤン先生」から学んだこととして、小さなフレーズではなく、もっと大きなフレーズの塊を読み込むこと、その中から音楽のディレクションを探ることの大切さを学んだ、と言うようなことが書いてあった。

これは以前氷の塊をとかすで書いたように「説教を作る過程と似ている」と重なる。
その中で引用したように、「のらくら者の日記」さんが、
聖書の<スコアリーディング>なる訓練が非常に有効であることはもうお分かりかと思います。 与えられた聖書テキストのエッセンスをいかに効率よくテーマ で括るかを鍛える訓練です。 音楽の世界のスコアリーディングを聖書の読み方に適用する訳です。 ここで重要なのは、細部の正確さに拘泥しないということです。 むしろ<抽出>という作業に徹することです。
と書いている部分の<抽出>は多分カラヤンの<音楽のディレクション>を細部の正確さより重視する、と言うのと相通じているのではなかろうか。


2014年1月28日火曜日

(5)主に神学ブログ⑥

このシリーズも大分停滞している。

筆者の既知の或いは普段閲覧している神学ブログと、検索して新たに探した神学ブログとを、交互に紹介する、と言う意図で始めたが、最早そんな余裕はない。

今回紹介するのは、既知であり、しかし新しくもある。

佐藤優の「日本人のためのキリスト教神学入門」(リンク)は、筆者が何回かコメントした同氏の「キリスト教神学概論」の言わばリスタート版です(2012年11月から現在まで連載中)。
(その経緯についてはどこかに書いたと思いますが・・・。)

今回紹介したのは、この連載が「キリスト論(リンク)」に入っているためだ。

佐藤が「上からのキリスト論」と「下からのキリスト論」に対して、前者を取ると主張しているのに、ジョン・ドミニク・クロッサンの『イエスとは誰か 史的イエスに関する疑問に答える』(新教出版社、2013年)が出版され、読者の質問に応ずるように「史的イエス」の問題について少し脱線し始めているようだ。

恐らく佐藤は余り「史的イエスの第三の探求(関連記事)」については読んでいないのだろう。

近代批評学の歴史懐疑主義(ブルトマンなど)に対して、歴史的アプローチが有益で有効であることを実証的に研究する学者たちが増え、キリスト教起源に対する神学的再解釈も含めた包括的な研究枠組み(特にN.T.ライトの『キリスト教起源』シリーズ)が出てきていることを見逃しているようだ。

「キリスト論」においては、いかにしてナザレ出身の預言者イエスが「神」となったかを歴史的に探求する議論、つまり「下からのキリスト論」が面白い。

先日も聖書学及び原初期キリスト教歴史学からのアプローチで「高いキリスト論(high christology)」が歴史段階的に(進化論的に)形成されたのではなく、ごく初期から(イエスの死後20年以内に)既にあったことが実証的にも合理的な説だ、と言う研究者間合意が出来つつある、との見方を報告した。(この記事

どちらかと言うとかなり歴史懐疑主義的なスタンスを取る新約聖書学者(福音派の出自で懐疑論者となった)、バート・イァーマンの近著のタイトルが刺激的だ。
How Jesus Became God: The Exaltation of a Jewish Preacher from Galilee (New York: HarperOne, 2014).


これを論駁する本も用意されている。
寄稿者の一人マイク・バードが自分のブログで紹介している。(リンク

筆者はライトのものを読むようになって、つまり史的イエス研究のアングルから、「イエスの神性」の問題に対し、非常に深く関心を持つようになった。

どう言う意味でイエスは「神」なのか。
新約聖書の主張はどうなっているのか。

神学的に定まった見方はそれとして、ユダヤ人である初期キリスト者がどのようにイエスをヤハウェと「同一(identify)させて行ったのか」と言う極めて歴史的に興味深い問題である。

ライトはこの疑問を歴史の地平で徹底的に問おうとする。

しかし盟友であるリチャード・ヘイズは、ガベンタ(当時プリンストン神学校で現在はベイラー大学)とともに「信条」を解釈枠としたアプローチを提唱し、



これが発表された2008年のSBL(北米聖書学会・・・聖書学者たちの学会としては世界最大級)では、ライトから「歴史からの撤退」とばかりに厳しい批判に遭う。(この辺の消息はマイク・バードのCanonical Jesus vs Historical Jesusを参照のこと。)

ライトが昨年出した、How God Became Kingは幾分sketchyだが、「下からのキリスト論」と言う点でも、「受肉論」や「贖罪論」も統合的に視野に入れる野心的な「福音書」解釈であった。

ヘイズは最近も福音書の「正典的解釈」の実効性を訴えている。
(冒頭の部分で、盟友ライトとのアプローチの相違が依然として続いていることにも言及しているところも興味深い。)


「キリスト論」の歴史的研究は暫く目が話せないホットなトピックになるだろう。



2014年1月25日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2014年1月26日(日) 午前10時30分

朗読箇所 マタイの福音書 25:31-40
説 教 題 「迎える教会」
説 教 者 小嶋崇 牧師

教会総会を迎えて
※礼拝後、総会議事に入ります。

(4)信仰と科学

昨日は朝から軽い頭痛がしていた。
頭痛薬を服用したが、夜になっても余り変わりばえしないので、早めに就寝することにした。

目が覚めたのは3時半過ぎ。
今度は空腹の時のような軽い腹痛。

また寝ようと思っても無理そう。
しかし起き上がるのには早過ぎる。

どうしようってんでスマホにすがりついた。
ツイッターやフェイスブックは面倒くさい。

ラジコは好きな音楽がない。
辿りついたのがYOUTUBE。

ちらほら探して時間潰しになりそうなのはこれか、と選んだのがこれだ。


ジョン・レノックスの動画(講演)は何度か聞いたことがある。

オックスフォードの数学の教授だが、キリスト教信仰を弁証する際には、「宇宙の実在を人格的創造神の存在」に訴えることは当然ながらするが、むしろ素朴に敬虔にイエス・キリストの十字架と復活の意義をアッピールする。

その点C・S・ルイスの「キリスト教の精髄」の議論のように、「道徳世界」の前提と「罪の現実」を軸にする。

片やリチャード・ドーキンスは、と言うと、これが真面目に聞いたことはまだなかったのではないかと思う。

数年前、アリスター・マクグラスと討論したり、N.T.ライトが彼をdismissするような発言を聞いたりしていたので、「聞くに値しない」と思っていた。

しかしこの討論を聞いてみて、やはりドーキンスなりのスタンスがあることが分かったような気がする。
「無神論」と区別されるが、思っていたほど攻撃的でも狂信的でもない印象である。

一通り聞いて感じたことはレノックスとドーキンスはやはり「Worlds Apart」なのだろう。どちらかが相手を説得するだけの切り札は持っていない。

もちろん世の中に無神論者はいろいろいるだろうが、ドーキンスのようなcommittedでインテリジェントな神論的説明不要論者はそれほどいないのではないか。

信仰もしばしばそうであるように、無神論もまた多くの人にとって、It Just feels like it、な選択に過ぎないケースが多いのではないか。

ドーキンスのように、生物の起源、宇宙の起源、生命の起源に関して、神論的説明は不要であり、むしろ科学を阻害する有害なものであることを論じるのに熱心な方は珍しいのかもしれない。

欧米では年齢が低くなるに従って「無神論」の立場を取る、あるいは表明する者の割合が増加傾向にあると聞くが、既成宗教の否定の裏でスピリチュアリティーへの関心が持続しているのとどこかで関連しているのではないだろうか。

ドーキンスはキリスト教の「救済信仰」的な面(人間の罪をキリストの死が身代わりで赦す)をpettyと度々指摘していた。

この点に関してはボンヘッファーも指摘していたし、近年そのような個人的救済宗教の牙城である「福音派」内部からも自己批判がかなり出てきている。

ドーキンスの指摘は誇張もあるが、キリスト教の新たな捉え方、あるいは提示の仕方の必要性を示唆しているかもしれない。

レノックスは最後の方で、ハーバーマスが「公共世界」を維持する上でキリスト教に基づく倫理の必要性を指摘していることを、キリスト教信仰の有効性のポイントとして挙げたが、これはドーキンス相手には上手く噛み合いそうもない議論であろう。

筆者の見たところ、ドーキンスの主張・議論はかなり狭い。
「生物の起源」、「宇宙の起源」、「生命の起源」はマクロな知的問題であるが、日常世界を生きる人間を四六時中拘束する問題ではない。

人間関係に悩み、病気に苦しみ、人生の不条理に悩み、愛し憎み合い、対立し殺し合うことに満ちている「現実」世界を生きる殆んどの人間にとっては(ドーキンスもその一人であるはずだが)、科学が問いそして提供する言説は、宗教が提供するそれよりも今のところかなりかけ離れていると言うべきだろう。

生物は自然淘汰して進化してきたことがどれだけ生物学的に証拠に基づく合理的説明であったとしても、自由・平等・慈悲・親切といった倫理的価値観を駆逐するような説得力を持ちえるかどうか疑わしい。

人は「知的パズル」を解明する為に生まれてきたのではなく(それも重要なものであるが)、よく生きるために生まれてきたのだ。

よく生きるとは、この世界で人が与えられたあらゆるもの(困難や悪も含めて)に対して回答を求めて行く生き方であり、その点で(自然)科学はすべての答えを持つものではないただろう。
人類はそのような生きる知恵を宗教的伝統に求めざるを得ないのではなかろうか。

まっ、以上は寝て起きたばかりのボケ発言とご容赦ください。

2014年1月23日木曜日

(4)神学遍歴⑩

たまに書いている「神学遍歴」であるが、暫く更新していないので、どこまで書いたやら・・・と繋ぐのに一苦労。

どうやらプリンストン神学校時代が終わって、GTUに入るところだ。

簡単な経緯は
先生の横顔(4)
先生の横顔(5)
で書いたが、いささか簡単すぎたようだ。

そもそも日本においてはGraduate Theological Unionと言っても知名度がないのでお話にならないかもしれないが、何と言ってもその魅力は同地域にある(当時)9の神学校(しかもカトリックもプロテスタントも合わせた)の集合体(コンソーシアム)というものだ。

それにプラス、Ph.Dはカリフォルニア大学バークリー校との提携によるプログラムとして運営されていたことだ。

GTU博士課程の学生は、一応所属校を決めることになっていたので、筆者はPacific School of Religionに籍を置いた。

今では大分こじんまりとしてしまったが、当時はまだ活躍していた(名の売れた)教授が複数いたのだが・・・。

ところで当時博士課程は8つの領域に分かれていて、それぞれの分野でPh.Dを出していたのだが、筆者はそのうちArea IVと呼ばれる、社会理論(と言っても内容的には宗教社会学が中心だが)と社会倫理の部門に入った。

マスターとの違いは、ドクターの学生は、半分は学生の身分だが、もう半分は部門のアカデミックな内容に積極的に関わることが求められていたことだった。

例えば、その頃の重大関心事は、Area IVの学問を束ねるような重要文献を確定する作業をしていた。
所謂何が古典的学術書で、何が必読書なのかを検討するわけだ。

筆者が入学した頃はこの重要文献確定作業の半ばのような状態だった。

その作業と関わるのが、コア・コースと呼ばれる「社会倫理」のセミナーだ。
キリスト教社会倫理(倫理学教説とも呼べるし、広くキリスト教社会・政治思想史とも呼べる内容)を歴史的に概観し、重要人物の著作を重点的に読破する、そう言う様なコースだ。

教員は二人いて、前期と後期と合わせて1年(だったか2年だったか)みっちりやるわけだ。

一人はDr. Drew Christiansen, S.J.
Jesuit School of Theology at Berkely (JSTB) であったが、現在はサンタクララ大学
と合併したようだ。

当時は助教くらいだったか、確かイェールで博士をやった人だったように記憶している。

もう一人は、こっちはちゃんと名前を覚えている、マーサ・ストーツ。確かまだシカゴ大学の博士課程で論文を書いているくらいではなかったか。

このコースは古典をみっちり読まされるので、留学生にはちときつかった。
アウグスチヌス、アクィナス、ダンテ、その前にはプラトンやアリストテレスも読んだろうか。

現在は二人とも大分出世したようだ。

ドルー・クリスチャンセンは、国際的な活躍もし、2014年にはジョージタウン大学に迎えられるようだ。
クリスチャンセン近況1
クリスチャンセン近況2
マーサ・ストーツ近況 


2014年1月18日土曜日

(4)政治神学

「政治神学」と日本語でググって見ても先ず出てくるのはカール・シュミット。

なーんだ、と言う感が否めない。

近代啓蒙主義による「政教分離」で宗教は多分に「内心」のことに限定され、政治と言う「世俗」のこととは関わらない、と言う観念・図式が依然として支配的ではないかと思う。

一方世俗社会の方も民主政治の成熟に宗教は関与せず、ただ間接的に支えるのが教会のような中間的・地域的任意共同体と考える。(アレクシス・トークヴィル)

しかしここに来て(ポストモダン)「世俗化と民主政治の実現」にもう一度宗教が再登場するようになってきている。

筆者がハーバーマスを読み始めた頃(1980年代前半)、彼の著作には殆んど「宗教」の役割は見当たらなかった。

21世紀になる頃からか、ハーバーマスが宗教を盛んに題材にするようになった。
前教皇とも対談本を出している。

一方的な世俗化論にカトリック信者の立場を明確にして疑問を呈したチャールズ・テイラーの「世俗の時代」は広く議論されている(邦訳はまだないようだ)。

最近ある読書会でジョン・ハワード・ヨーダーの「イエスの政治」を読むようになり、続けて似たような問題や関心を扱っている。

それらのテーマや問題関心を要約する領域として「政治神学」がある。

最近では、マイケル・カーウィン「政治神学イントロ」がある。ここ

また世俗化の問題に対しては、The Immanent Frameが様々な議論を提供している。

また政治哲学者の「宗教回帰」の流れに抗するような本が紹介されている。

Victoria KahnのThe Future of Illusion: Political Theology and Early Modern Texts. ここ

インマネート・フレーム紹介記事ここ

本のタイトルは有名なフロイドの宗教批判をもじったものだ。

昨年亡くなられたロバート・ベラーも「公共神学」を提唱した方だ。
彼が若手の社会学者の中で注目していたのが、ノートルダム大学のマイケル・スミス。

彼には「解放の神学」と言う著書がある。ここ

政治神学。
なんか結構面白そうな感じがしてきた。

明日の礼拝案内

主日礼拝

2014年1月19日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 1:1-8

説 教 題 「福音とは、1」
説 教 者 小嶋崇 牧師


コロサイ人への手紙(2)
 

2014年1月15日水曜日

(4)ユダヤ教とキリスト教

本の紹介、と言ってもたんに目がついたと言うだけでここにはそのメモ程度のことを記すのみ。


ダニエル・ボヤーリン
と言うカリフォルニア大学バークリー校の中近東学教授がいる。(リンク


最近、「ユダヤ教の福音書」(教文館)ここ

と言う本を出したそうだ。

原著は
ここ

本の紹介ページでは
Daniel Boyarin, Taubman Professor of Talmudic Culture and rhetoric at the University of California, Berkeley, is the recipient of numerous awards and fellowships. His books include A Radical Jew, Border Lines, and Socrates and the Fat Rabbis. He lives in Berkeley, California.
となっている。

このブログでも度々取上げる、ラリー・フルタド教授も紹介している。

書評フルタド

この記事で登場するピーター・シェイファー教授(プリンストン大学)は、ご自身The Jewish Jesusと言う本を出されている。(ここ


どうやらお二人はライバル同士らしく、それで結構厳しい書評を書いたらしい。

どちらにしても「ユダヤ教」と「キリスト教」は学問の世界ではキリスト教発展史の初期(数世紀)においては、きびすを接する簡単に区別できない、分かち難い繫がりを持った同士である、との認識が前提のようである。

ちなみに我がN.T.ライト教授はダニエル・ボヤーリンの、Two Radical Jewsについてかなり高い評価をしている。ここ






2014年1月11日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2014年1月12日(日) 午前10時30分

朗読箇所 マルコの福音書 3:31-35
説 教 題 「交わりは恵み、賜物」
説 教 者 小嶋崇 牧師


説教シリーズ:キリスト者の交わり(1)

2014年1月9日木曜日

(4)ニュー・カルヴィニズム

プロテスタント諸派の一つ、宗教改革者ジョン・カルバンの流れを汲む教会があります。

教派を越えてジョン・カルバンの神学はカルヴィニズムとして今日に至っています。

最近米国ではニュー・カルヴィニズムと呼ばれる動きがかなり声高になってきています。
(20世紀初頭のアブラハム・カイパーが代表する新カルヴィン主義とは使われる用語は同じでも異なります。この辺は整理したいものですが・・・。)

代表的なのは牧師を隠退したらしいジョン・パイパーや、彼ほどの神学的素養はないものの、声量の大きさと大胆さで注目されるマーク・ドリスコルなど。

グループとしてはニュー・カルヴィニズムの論客たちを束ねるThe Gospel Coalitionがあります。

最近「限定的贖罪」と言うカルヴィニズムの5論点(頭文字を集めてTULIPと呼ばれます)の一つがテーマとなった大論文集が刊行されたようです。
From Heaven He Came and Sought Her


筆者はウェスレヤン・アルミニアンの流れを汲む教会に属するので、神学教育としてはこのTULIPに対抗する議論を叩き込まれました。

アンドリュー・ウィルソンの書評
では以下のように論点の一つが挙げられています。

I said above that only about thirty pages in From Heaven He Came were addressed to the question I thought the book would be about: “Is definite atonement, the belief that Christ’s death was intended to win the salvation of God’s people alone, taught by any biblical writers?”

For many, this might seem to be the wrong question; after all, as I am often reminded, the Trinity is not explicitly taught (in so many words) by any biblical writers.

But there is a crucial difference between the Trinity and definite atonement: the Trinity is the unbiblical name we give to a way of synthesising a series of propositions (there is one God; the Father is divine; the Son is divine; the Spirit is divine) which are clearly found in at least Paul and John, whereas definite atonement is the unbiblical name we give to a single proposition (that Christ died to save God’s people alone) that is not clearly found in any biblical writer.

とにかくニュー・カルヴィズムの神学的産物として画期的なものらしいので、購入するかどうかは別にして、少し記憶にとどめておきたいと思います。

2014年1月6日月曜日

教会巡り

これが今年初めての投稿になるようなので、先ずはご挨拶。

新年明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

年末年始、巣鴨聖泉キリスト教会は主日礼拝が3週連続でお休みでした。
別に突然のことではなく、恒例と言ってもいいのですが。

12月24日夜はイブ礼拝。
1月1日は元旦礼拝。

それでこれら二つの特別礼拝に日曜日が近接する場合はその主日の礼拝をお休みとしています。

2013-2014年末・年始は、12月22日、12月29日、1月5日、と3週連続で他教会の礼拝へ出席しました。

12月22日は少し遠出の散歩も兼ねて、日本キリスト教団弓町本郷教会へ。

12月29日は近場の、日本キリスト教団駒込教会へ。

1月5日は近場ではありますが少し教派傾向が遠くなる、日本福音ルーテル小石川教会へ。

礼拝後、帰り際に各教会の牧師と一言二言ことばを交わしましたが、「日曜日礼拝がお休みです」と説明すると「えっと」驚かれました。毎回ではないですが。

3回のうち2回は聖餐式がありました。
1回は洗礼式もありました。

各教会の礼拝に出席しながら、色々と筆者が奉仕する教会との違いを考えてみる機会となりました。
色々ありますが、一番感じたのは、巣鴨聖泉キリスト教会が伝統や格式とはかなり縁のない教会なのだな、と。

まっ他にも色々ありますが、先ずはそんなところで簡単なレポートを。