今回3回目となります。
ご案内してきた「
ヨナ書の表現よみ」と言う催しが、間近になりました。
※まだお席あります。今すぐ、
予約どうぞ!!!(詳細は上のリンクをクリック!!!)
2014年5月30日(金)、午後2~3時半
巣鴨聖泉キリスト教会
今回は「表現よみ」をしてくださる、ゲストの渡辺知明さんへのインタヴュー記事です。
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(1)渡辺さんがよく「表現よみ」している文学作品と比較して、『ヨナ物語り』は何か共通しているものがありますか。
(2)あるいは「違和感」はありましたか。あったとしたらどんなところでしょう。
――もちろん文学としての共通性はありますが、表現よみはおもに小説を読みます。ヨナの物語は、物語ですので寓話のような傾向があります。違和感というよりも、このあたりが基本的なちがいでしょう。
(3)渡辺さんは作品を声に出して「表現」することを「表現よみ」と呼ばれていると思うのですが、その際「解釈」が様々な形で反映されると思います。
「ヨナ物語り」を「表現よみ」するに当たって特に工夫した箇所などありましたか。
――物語の場合には、小説とは違って、人物の「内言(内面の言葉)」の表現があまりありません。ですからリアルに読むためには、人物の感情に「はいる→なりきる→のりうつる」という表現の工夫が必要だと思います。
(4)ヨナ書では、ヨナの預言と呼べるようなものは3章4節の「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」くらいで殆どありません。
だからヨナ物語り、などとよく呼ばれるのだと思いますが、現代社会で「預言」と言ってもぴんと来ませんね。
むしろ大川隆法のような怪しげなものになってしまいます。
現代では人々が「はっ」と我に帰って生き方の方向を大きく変えるような警句とはどんな形で「来る」のでしょうか。
私が昔好んで聞いたサイモンとガーファンクルの歌に「預言者のことばは地下鉄(駅)の壁に書いてある(サウンド・オブ・サイレンス)」と言う歌詞がありましたが・・・。
――キリスト教においては「預言」が神からの指令のような意味を持つのでしょうか? 現代においては自らの意思による自主的な行動になるような気がします。そのための前提になるのが、真実の認識と情報の開示なのでしょうが、マスコミによる秘密がそれを妨げているような気がします。
(5)「表現よみ」はパブリックな場でのスピーチやシュプレヒコールのようなものにはどんな意見を持つでしょうか。
「特定秘密法案反対」と賛成できるものであっても大抵一本調子で絶叫タイプで、「表現」としてかなり稚拙、非洗練ではないかと思うのですが。
またヘイトスピーチも、そして政治の場での「発言」も、しばしば絶叫・罵声・罵倒・怒声になってしまうのはどう思われますか。
政治の場、パブリックな場での「表現よみ」の適用は何かありますか。
――表現よみの基本は「オーラルインタープリテーション」だと考えています。つまり、ことばを理解するための自分にとっての表現です。表現を目指すことによって理解が深まるという考え方です。
ですから、他者に向けた言葉の表現においても、自らの認識やモラルが問われるのだと思います。
(6)今回「文語訳」で「表現よみ」なさることにしたのはどんな意図でしょうか。現代語訳では不足があると思われますか。
――「文体そのものがは思想のかたちである」という考えが前提です。現代語訳と文語訳では、厳密に言うと思想がちがのだと考えています。それは情報伝達のレベルではなく文学思想の微妙なところです。
(7)文学作品を「表現よみ」なさる場合もそうだと思うのですが、その作品がどのような視点(誰の視点、主人公の視点、第三者の視点、一人称、三人称、などなど)で語られているか、と言うのを意識することが大事だと思うのですが、ヨナ物語りはどうだったでしょう。
――聖書というものの語り手の立場を考えました。ある意味で「説教」ということになります。日本の文学で言うなら、芥川龍之介「蜘蛛の糸」などは典型的なものです。次に問題になるのが、作品構成における聞き手の設定です。だれがだれに向かって語るのかということが、いわゆる「視点」の立体化になると思います。
(8)今まで「表現よみ」なさった作品の中には、ヨナ物語りのように「一定のメッセージ、教訓、道徳訓」のようなものを内包するものがありましたか。
――作品の教訓というよりも、関連する作品をいくつか思い浮かべました。
太宰治「人魚の海(新釈諸国噺)」での船が荒れる場面。
丸山健二『白鯨物語』(2013眞人堂)にヨナの物語の引用があります。もともと「白鯨」に書かれているものでしょう。
また、中島敦「文字禍」は、アッシリアやニネベを舞台にした話です。
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④で、「キリスト教においては「預言」が神からの指令のような意味を持つのでしょうか?」、とありましたので簡単ながら・・・。
「預言」はどちらかと言うと旧約聖書で主要なものです。新約聖書(キリスト教)はその「預言」が成就した、と言うところにポイントがあります。
「預言」は、予言のこともありますし、指令のようなこともありますが、そのような具体的内容に関わらず、起源が神の言葉である、と言うことがポイントだと思います。
ですので「預言」、つまり「神の言葉」を預けられた預言者は、自分の好きなようにその言葉を改変することが出来ませんし、また都合が悪いので言わないでおくと言う選択肢もありません。
彼は「預言」せざるを得ないのです。たとえその内容が聞く民に怒りを引き起こし、預言者を殺そうとするような厳しい警告のような性格のものであっても。
丸山健二『白鯨物語』(2013眞人堂)・・・と言うご指摘は日本現代文学に全く疎い筆者にはありがたいものです。
当初「ヨナ書」を題材にした日本現代文学は、丸谷才一の『エホバの顔を避けて』しか見当たりませんでした。(一応読みました。)
確かにメルヴィル『白鯨』はヨナ物語の引用どころか、重要なモチーフになっています。
それもこれもヨナを飲み込んだ魚が鯨と想定されているからですが。
メルヴィルは北米東部地方の捕鯨船の船乗りたちの逸話などを集めて物語を作ったようですが、その中には、
「鯨の胃液でヨナは生き延びれなかったはずだ。」
「地中海で鯨に飲み込まれたとして、イラク付近で吐き出されるまでには三日以上かかったはずだ。」
「鯨の回遊路としては喜望峰を回ってインド洋に入る方が自然だ。 (その場合さらに日数がかかったはずだ。)」
と言ったようなヨナ書を史実に基づいた物語として読んだ場合の難点が物語の中で議論されているのだそうです。
また船に乗り込んだマップル神父がヨナ物語りを聴衆に回想させながら、ヨナが鯨に飲み込まれる前の様子を、詩篇18篇を引用して描写しているくだりがあるそうです。
ほむべき方、主をわたしは呼び求め/敵から救われる。
死の縄がからみつき/奈落の激流がわたしをおののかせ
陰府の縄がめぐり/死の網が仕掛けられている。
苦難の中から主を呼び求め/わたしの神に向かって叫ぶと/その声は神殿に響き/叫びは御前に至り、御耳に届く。(詩篇18篇4-7節、新共同訳)
以上、渡辺さん、『インタヴュー質問』への回答ご協力ありがとうございました。
当日の「表現よみ」と対論のお相手もよろしくお願いします。