2021年1月30日土曜日

自宅礼拝ガイド

主日礼拝

2021年1月31日(日)

賛  美  あまつ真しみず  154番(※)
※YouTube動画を利用できる方は、以下のリンクで「あまつ真しみず(歌詞表示あり)」の演奏をご利用ください。
https://www.youtube.com/watch?v=0M4CssklNS

聖書交読  詩篇53:1-6
使徒信条
聖書朗読  ヨハネの福音書 7:37-39
  祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。
  「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
  わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、
  その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
  イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。
  イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。
    (ヨハネ 7:37-39、新共同訳)
黙  想  「生ける水の川」
静思祷告
主の祈り

【解説】
 ヨハネ7章にはイエスが家族の者たちとは別行動で、エルサレムでの「仮庵の祭り」に出かけたことが書かれています。仮庵の祭りはイスラエル民族がエジプトを脱出して荒野を彷徨したことを記念するお祭りです。荒野で水に飢え渇いたイスラエルの民のために、神は「岩から水をほとばしり出させ」たことを回想する儀礼シーンが、祭りの中にはあったそうです。 その儀礼シーンを背景に、イザヤ書55章1節「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。」と関連付けてイエスはことばを発せられたようです。ヨハネはその意を「聖霊」のことだと解釈しています。
 私たちは神によって「霊的な存在」として造られたことをもっと知る必要があるのではないでしょうか。イエスを信ずる者の「内から生きた水が川となって流れ出る」とは、まさにそのような霊的存在であることを私たちが知ることを指しているのではないでしょうか。「主イエスよ」と呼びかけましょう。

2021年1月24日日曜日

(論考)「近代の原理③『自由』」

自由の原則

聖泉誌の一面でここ2回ほど書いてきたこと(「人を導くということ」と「フェミニズムという視点」)は、実は近・現代社会変革の中核理念となってきた『個人』及び『平等』ということに関連している。今回はもう一つの中核理念である『自由』ということについて書いてみようと思う。

 『自由』という言葉が使われている場面・状況は実に多種多様にわたっていて、これにそれぞれが「自分の思うままに(自由に)」使用する局面まで含めるとほとんど収拾がつかないほどに思えてくるほど自由は私たちの生活に浸透している。一見無秩序に見えるこの自由の領域の氾濫は私たち現代人に警鐘を鳴らし、もう一度自由の原則の評価を要請しているように思う。

 さて今「自由の原則」といったがある方にはこれが矛盾に聞こえたかもしれない。すなわち自由と無原則はほぼ同義と考えている人である。専門学校でキリスト教倫理を教えながら、その中で「自由」についてのレポートを書いてもらったりするが、依然として自由を「自分勝手・やりたい放題」すなわち非道徳的な、無軌道なものと受け取る考え方が根強い。

 柳田国男によれば明治期に自由民権思想とともに「フリーダム」の訳語として定着したこの言葉は、まさにそれ以前には「自由勝手」という意味で用いられていた言葉だと言う。(谷川徹三『自由について』)そのような背景を持っている言葉だから余計ややこしくな るわけである。

 さて自由の原則というとき私たちの社会生活でまず大切なのは、思想・表現・出版の自由、集会・結社の自由といった一連の民主主義的政治参加を支える政治的自由の制度である。次に宗教者として大切なことは自己の良心の帰属する宗教的権威を自分で選択する権利を保証する信教の自由、あるいは内心の自由である。このような個人の人格を尊重し、その精神的能力のゆえに、それまで国家や家父長に帰属していた決定権を個々人に委譲してきたのが近代の自由の歴史であったと言える。

 私たちプロテスタントの流れに信仰を受けた者たちとしては特に自由の原則は大事である。教皇の前で破門も恐れず自己の良心の帰属する究極的権威を神と神の言葉である聖書のみに限定したルター。聖書に照らした教会形成を実現すべくイギリス国教会の下を離れ、新天地アメリカに移住したピューリタンの群れ。さらに聖泉の歴史を語るときにも自由の原則は中心的なものであったと思う。その経緯を初期の聖泉誌に見るかぎり、出エジプトにしばしばたとえられたようにやはり聖書に照らした自己決定の試みであったように思う。

 個人であれ、グループであれ、それぞれ信ずるところによって自己決定をしていくあり方を自由の原則と呼ぶとすれば、それは自己決定の根拠・権威づけを、神と神が示す真理とに限定・究極化していく試みであり、それは当然あらゆる人間的権威に対する検証を要請するものとなる。

 自由の原則を評価しその下に歩む者は絶えず真理に対し謙虚に究明することが肝要である。初歩的なことを言えば、寛容をもってあらゆる人の意見に耳を傾け(少数意見の尊重=力の劣る者の意見を封殺しないこと)、それを正しく評価・批判し(主観や感情のみで評価せず、常に客観的評価基準を提示するよう努力する)、自己の確信に対してはその根拠を示すことを厭わず(確信や意見の表明において知的努力を怠らない)、また自己の確信を超えた範囲のことに対しては断定を避ける。

 教会内外を問わず、一致・秩序・協力等「公共の善」を追求するときにもやはり真理という基準を抜きにして機構的・制度的処理(総会を通ればよい、議長一任、多数決、などなど単なる手続きだけによる処理)に甘んじていては、それは真の建設に耐えるものではない。真理の御霊のたもう一致を目指す私たちとすればなおのこと、真理の追求のプロセスの尊重は必須と思う。

 

※機関誌「聖泉」(1994年4月号掲載)

(論考)「近代の原理②『平等』」

フェミニズムという視点

 バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。
(ガラテヤ3:27-28)

1.フェミニズムとは

フェミニズムというとまだ耳慣れない人も多いかもしれない。しかし今は余り口に上る数も減ったかもしれないが、ウーマンリブと言えばうなづかれるかたも結構いると思う。ウーマンリブとはウイミンズ・リバレーションつまり女性解放運動のことである。フェミニズムのほうはフェミニン(女性的な)に語源を持つことばで訳せば「男女同権論」になるだろう。

 ウーマンリブあるいはフェミニズムの主張・運動は一面的には「父権制社会」「男性上位社会」 に対する異議申立であることによってどうしても「女性」対「男性」という構図でとらえられがち である。しかしそれは単に会社の上司が殆ど男性であるとか、政治家の殆どが男性であるとか、つまり社会の実権を握るのが男性ばかりである、ということに対する抗議であるだけでなく、つまりそのような支配が「男性的な」原理、特徴を中心に構成された、ゆえに「女性的な」原理、特徴が軽視され排除されたものである、というなかなか奥の深い抗議でもある。

2.パウロとフェミニズム

さて冒頭のパウロのことばであるが、ここで彼が言っているのは、キリストの体という視点から言えば、その中にバプテスマによって一体とされた者たちにとっては、人種・民族的区別(ユダヤ人、ギリシャ人、等々)、社会階級的区別(奴隷、自由人等々)、性別(男子と女子)という人間社会の構成原理となる諸々の区別が教会社会においてはもはや無効となった、という宣言ととれる。なぜそうなるのか。パウロによれば「キリストの体」という共同体を構成するメンバーの加入(バプテスマによって)はユダヤ人とか奴隷とか男子であるとかと言ったあらゆる人間的・生来的な資格・性質によるのではなく、ただ各々に賦与される(言ってみれば)キリスト格によるからである。

 パウロはいわゆる現代のフェミニストではない。むしろ彼の新約聖書中に残されている手紙の内容を見ると女性蔑視ととられる部分も持っている。(例えば、Iコリント14:34-5、エペソ5:22-24、Iテモテ2:12)一方でフェミニズムを超越するような思想と、もう一方で当時のユダヤ的(ラビ的?)思考に基づいた階層的男女観を併せ持つように見えるパウロをどう理解すればよいのだろうか。

3.福音派とフェミニズム

 近代社会において女性の地位向上・社会進出が紆余曲折があったにせよ少しずつ実現され、また現代においては男女平等を積極的に社会制度に反映させようという流れのなかにあって、福音派内部からのフェミニズムに対する発言はこれまでのところ非常に少なかったと言えるだろう。また発言しようとしてもそこには上記のようなパウロのフェミニズムに対する態度の不透明さという聖書解釈の問題があり、聖書を信仰と倫理の唯一の基準とする福音派のフェミニズムに対する態度の不明瞭さになっているように思える。

 フェミニズムの問題は、普遍的人間観に基づく自由と平等の精神に由来する近代社会の問題であり、将来に向かってもなお根本的な社会変革の中心に位置するだろうと思われる重要な問題の一つである。歴史の流れにまかせるだけでなく、立ち止まってよく考えてみたい問 題である。

 

※機関誌「聖泉」(1993年4月号掲載)

 

(論考)「近代の原理①『個人』」

人を導くということ

四月を迎え、年度の変わり目、さて次の一年をどう乗り越えたらよいか思案しつつ過ごしている。私は教会の先生の他に学校の先生をやっているのだが二つに共通しているのは、牧会にしても、教育にしても、人を導く、ということである。最近メディアでも「大学教育」が特集されるようになった。去年であったか某大学で大量留年騒ぎがあった。それに端を発してか、しばらく新聞の投書欄に大学教育の問題が盛んに取り上げられていた。私の場合大学ではないが、専門学校で同年代の青年たちを相手しながら、実は私が授業の場で直面していることが例外的なことではなく、非常に広範にあるらしいということがこれらの記事や投書を目にするにつけ思うようになった。端的に言うと、私語が多くて殆ど授業が成立しないのである。少しでもそれらしくなったときは「おや今日は皆どうしたんだろう」と逆に思ってしまうのである。私語といってもヒソヒソではなく今は堂々とやっている。クラスルームは殆ど喫茶店のなかと変わりないぐらい多方向のおしゃべりが行き交う場となっている。 

 一体これはどうしたことか。教育(狭い意味では授業)の前段階のシツケの問題か。しかしおよそ小手先のシツケ教育ではどうにもならない。「おい静かにしろ!」とどなってみても静かになるのはほんの一時。そのうちおしゃべりのボリュームはあがってくる。またシツケというのもそれ自身問題である。彼らは多かれ少なかれ校則やなにやらでやたらに管理的教育を通ってきた人達である。先日早稲田大学の学長が入学式で「これからは君達を大人として、ジェントルマンとして扱う」と言っていたが、今まで管理的に指導されてきた人を18になったからといって急に大人扱いしても両方戸惑うばかりであるのは事実だ。現に生徒たちは自分たちがうるさいのは分かっていても、自分たちではどうしようもないので先生にもっと厳しく叱ってくれという始末である。

少し極端な言い方かもしれないが、実は日本社会は大方人を大人として扱わないのではないか、と思う。「大人として扱う」という意味は人を一個の人格として尊重し、そのように接する。そういうふうに私は理解している。急に18になってから大人扱いしてもだめなのだ。子どものときからきちんと彼らを一個の人格として尊重していかなければならないのだ。

管理が行き過ぎると個人は抑えられ、個性の自由な発揮も当然抑えられる。日本社会は集団の繁栄を第一目標として、画一的・均質的に揃えられた人々の総合力で今日の繁栄を築いた。しかし今その繁栄の意味も、そのために取った管理的な方法も両方が問われている。豊かな個性を持った人材が育たなくなってしまったことに今気付いている状態なのだ。

個人や個性を重視するようになったことはたいへん結構だ。人格を尊重するありかたはこの個人という考え方を抜きにしては考えられない。しかし、この個人という考え方が日本にあってはあたかも、これまでの集団的なやり方の一つの軌道修正としか考えていないのではないか。そんな気がしてならない。集団的な考え方をしてきたものにとって、個人という考え方はどうしても「自分勝手、てんでんばらばら」の結末を予想しやすい。集団の目標を維持するためにも管理や命令に依存しやすい。集団の目標が物質的な繁栄だと管理や命令も勢いせっかちになる。教会建設においても目標の設定の仕方によってはこのような誘惑に簡単に陥ってしまう。やがて個人が「集団の目標」の名のもとに忘れられ、埋没してしまわないために、今個人という考え方を十分深める必要を痛感する。

 

※機関誌「聖泉」(1992年5月号掲載)

(論考)「地(球)的視点と聖書―④ パウロから見る『地球市民倫理』」

 地球大の問題、特に地球環境問題を解くどんなヒントが聖書の中から見つかるだろうか、と言うテーマで考えてきました。今回シリーズ最終回、使徒パウロの福音理解において人間と被造物全体がどこへ向かっているのかを見、そしてそこから地球市民倫理へのヒントを考えてみたいと思います。

ロマ8・18-23

今の時のいろいろな苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意思ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

一体全体パウロがここで描いている終末の展望をどう理解したらいいのでしょうか。私たちは二重三重の意味でパウロのこのような展望を理解する事が困難になっています。一つにはこの箇所の主題である復活の理解がかなり歪んで弱くなっています。もう一つは私たちが理解する救いのゴール、死後のいのちが天(国)に向いていて、この地(球)に向いていません。つまり私たちの関心において天(国)と地が分断しています。さらに私たちの救い理解が極めて個人的な関心の範囲に留まっているため、この箇所でパウロが解き明かそうとしている「被造物全体の贖い」と言う巨視的救いの全体像に連絡し統合されて行くことが困難になっていること、等が挙げられます。

パウロはこの箇所で「現在」苦難を受けているキリスト者を「将来」受ける栄光に目を向ける事によって乗り越えるよう励ましています。そして現在の受苦は無意味なものではなく、いのちの誕生に伴う痛み(産みの苦しみ)になぞらえています。当然パウロがここで示唆する新しいいのちは回心を通して起こる「新生」のことではなく、将来いただく復活の体のことを指しています。それが「神の子供たちが栄光の姿で出現する時」を指します。では現在はまだ古いいのちのままかと言うとそうではなく、既に新しいいのちの「先取り分(初穂)」として聖霊が与えられていると指摘します。この聖霊がキリスト者の内に将来受ける栄光のからだを保証し、その聖霊によって「早くそのからだを着たい」と言う渇望を生じさせているのだ、と言います。

ところがその渇望はキリスト者だけのものではなく、被造物全体がその誕生の時を今か今かと心待ちにしているのだ、と言います。なぜ被造物全体がこの誕生に関連付けられているのでしょう。それは新しいいのちつまり死者からの復活はキリスト者個体の復活だけでなく、それを含んだ万物の更新(イザヤや黙示録では新天新地)の時だからです。つまり新創造。その中心に(新しい)人が位置します。旧創造において堕落した人が新創造において栄光の姿に回復される時被造物全体もあるべき秩序に回復されるからです。

このような展望から具体的に地球市民倫理をすぐ導き出す事は難しい。しかし「キリストにある新人」が被造世界に対して持つべき関心と働きかけの足がかりにはなると思います。(「地(球)的視点と聖書」シリーズ完)

 

※機関誌「聖泉」(2006年2月号掲載)

(論考)「地(球)的視点と聖書―③ 聖書の終末観から見る『地球市民倫理』の方向性」

 前々回は旧約聖書の創造物語から地球と人間との関係を考え、前回はさらにこの聖書の人間観が地球環境問題の淵源であるとする説を考察しました。そして結論として野放図な経済発展の結果と位置付けられるべき地球環境問題の淵源は経済活動に対する倫理的規制が鋭く盛られた律法を中核とする旧約聖書思想に求めることは妥当ではないことを見ました。 

 今回は「創造」の対極である「終末」の視点を紹介して、この角度から人間の置かれている立場、責任、可能性を考えてみたいと思います。 

聖書の視点:終末

 私たちの聖書全巻には創造から終末へ、「どのように神が働かれ完成させようとしておられるのか」に関するそれぞれの時代の聖書記者たちによる神の御心、御業の理解が示されている、と言えると思います。

 終末を敢えて単純化して言えば、「被造物全体が向かっている究極的ゴールに関する事柄」と言えるでしょう。さらに少し肉付きを加えれば、「神の創造のみ業が堕落による脱線の後どのようにして最初に意図された姿を回復し、更に完成されて行くのか」に関する事柄とも言えるのではないでしょうか。

キリスト教の終末観

 聖書の終末観をさらにキリスト教の終末観と言い替えて話を進めます。それは聖書の終末観には先ず土台となる私たちにとっては旧約聖書と呼ぶ聖書の終末観があり、その上にキリスト教の終末観があるからです。 

 旧約聖書は創造と堕落の後ノアを経由して始まるアブラハムの選びとイスラエルの形成の歴史を中心に構成されています。神の民の選びと形成は、人類と被造物を回復しようとする神の業の一環でした。しかしこの民は契約に背き捕囚の民となってしまいます。しかし預言者たちは、イスラエルがもう一度神の契約の民、選びの器として諸国民への「祭司・預言者・王」の国民として回復されると言う展望を示します。イスラエルの民は捕囚から帰還し、神殿を再建します。しかし回復は始まりましたが依然としてその十分な回復を見る事が無いまま旧約聖書は幕を閉じます。

 その後イエスが誕生するローマの支配の時まで約四百年の間に、ユダヤ人の期待は預言者たちの描いた約束が実現する「来るべき世」とそれを導くメシヤに集中していきます。このやがて来る「神の訪れの時」「終わりの日」に実現するだろう事柄がユダヤ人の終末観を構成していきます。
と、ここまでが一応旧約聖書の終末観及びイエスの時代のユダヤ人たちの終末観の大枠と言うことが出来ると思います。

 キリスト教の終末観はこのユダヤ人が終末に期待していた事柄がイエスにあって根本的に成就された、と言う理解の上に展開します。即ちナザレのイエスが来るべきイスラエルのメシヤであり、さらに一切のものの主である事が十字架の死からの復活によって公に示された、と言うことです。 

 次回は十字架と復活を中核に展開したパウロの福音理解の中に、どのように人間と被造物との関係が回復し、更に完成されて行くのかを見ることにしたいと思います。そこから地球市民倫理への方向性が見えてくるのではないかと思います。

 

※機関誌「聖泉」(2004年4月号掲載)

(論考)「地(球)的視点と聖書―② 地球環境問題とユダヤ・キリスト教人間観」

 二十一世紀を迎え私たちが抱える問題は個人や国家の枠組を越え、地球的視点から解決を探らなければどうにもならない、という問題意識からこのシリーズを始めました。そして前回は聖書の中に地球的視点を探ろうと創世記の創造物語から人間と世界の位置付け、関係付けを考えてみました。その特徴を簡単に言えば、「人間が被造物の一部でありながら全被造物の頂点に位置し、さらに創造者に代わって全被造生物を支配する役割を与えられている」、となります。

 しかしここで一つの疑問にぶつかります。この人間が全被造生物(少し広げて自然)を支配すると言う考えはまさに現在の地球環境問題を引き起こしてきた考えではないのか。このような聖書の人間観・価値観が環境破壊を作り出してきた元凶ではないのか。このような疑問がユダヤ・キリスト教に対して突きつけられているのです。今回はこの疑問を検証しながら聖書に基づく「地球市民倫理」がどのように可能なのかその方向性を探ってみたいと思います。

 「キリスト教が環境問題の元凶である」との論争のきっかけとなった歴史家リン・ホワイトの論文「生態系危機の歴史的ルーツ」は1967年に発表されました。ホワイトはこの論文で、環境問題は科学技術で解決できるような問題ではなく、言ってみれば文明病のレベルの根が深い問題であること、そしてここまで自然を汚染・収奪・破壊できた背景には西欧の精神文明であるユダヤ・キリスト教の経典である聖書の人間観があることを指摘しました。その人間観とはまさに創世記の「人間が自然を支配する」との考えでした。

 果たして聖書のこの人間観は本当に今日の環境問題の背景にある経済社会構造の成立にまで影響を及ぼすようなものなのでしょうか。

 旧約聖書の社会を経済の面から見ますとご存知のように私たちの社会とは大分異なっています。人類の始祖アダムは園を耕す人として描かれていますし、その後のアブラハムから始まる契約の民は農耕牧畜社会でした。それに対し環境問題を直接引き起こしている私たちの社会は大量生産・大量消費・大量廃棄の経済システムです。

 このような違いを確認した上で聖書の「人間の自然支配」を見ますと、そこには一定の条件のもとでの支配であることを見つけます。エデンの園から始まり、人類が増え広がる経緯の中で絶えず罪の問題とまた罪からの贖いと神との契約のもとに社会を築く歴史が継がれていきます。その契約の媒介となる律法には土地所有に倫理的条件が付けられ、それが破られれば契約の民でも自分の土地から追い出される、そういう枠組です。

 一つ例をあげれば、「七年目の休耕年」は小作民・奴隷、家畜、耕地の休息を目的としますし、また共同体内部の貧しい者たちが収穫の分け前に与かれるように刈り取りの一部を残すような規定もあります。

 このように土地所有者の自由に対して一定の道徳的歯止めがかけられ、限度を越えた収奪を防止する配慮がされています。契約の民にとって無制限の自由な経済活動はありえません。家畜も含めた共同体の全成員が(全く平等ではないにしても)共存する社会を維持することを律法は目指しています。

 結論として言えることは、聖書の「人間の自然支配」を直接現在の地球環境問題の原因として結びつけることは、旧約聖書全体の文脈を度外視し、創世記の支配と言う言葉にのみ留意して解釈するのでなければ困難だということです。あらためて思わされるのは、私たちの経済システムがいかに効率や利益を優先させた収奪のシステムであり、またいかに自由な経済活動の名のもとに倫理的配慮が脇に押しやられているか、ということです。

 

※機関誌「聖泉」(2003年7月号掲載)