2014年9月27日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2014年9月28日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヘブル人への手紙 5:1-10
説 教 題 「暗闇からの祈り」  
説 教 者 小嶋崇 牧師
 

詩篇に沿って(6)
詩88篇・・・苦難からの解放の訴え

2014年9月25日木曜日

(危)「某キリスト教イベントを短考する」

まだホットな話題で炎上(はまさかないと思うが)を避けるため具体的な名称等は避けて書く。
それで『難易度ランク』も初の「危(険)」 とした。
今回の記事は基本「ユーモア」の部類だと自分では思っている。
それで短い記事を書くつもりなので「短考する」とした。

先日ある催しに行ってきた。

キリスト教の文化祭のような複合的催しで、そのうちの「トーク」イベントに呼ばれた人は暫く前結構顰蹙を買った本を出した人だ。

その方がプロデュースする「アイドル・グループ」が会場で「歌や踊り」をしたそうだ。

(「・・・そうだ」と書く時点で大した事書いてないはずだから、その辺適当に。)

もともとこのイベント、プロデュースする某キリスト教系出版社のアイデアマンが、ジリ貧の日本の教会に花火を仕掛けるような趣があり、何をしても教会内外から風当たりが強い。

もしかしたら思う壺なのかもしれない。


何はともあれ今回一番「ヒハン」を浴びているのは、この「アイドル・グループ」が、教会堂で、十字架を前にして、お祈りみたいな所作をして、etc.と言うところにあるようだ。

※場所が「聖堂」かどうかは多少微妙な点を含むが、基本的には「聖堂」ではなく「ホール」であることに関して十分周知されていず、少し余計な論争になった部分があるのは否めない。

この方本人の弁によれば、「アイドル」を「本気、ガチ」で「宗教=超越体験」として捉え、実験的に取り組んでいるらしい。

これは確かに「論争の種」になるだろうな。

敢えて冒険的に言えば、この方は「新興宗教」に括られる「活動」をやっているのだろう。

大規模な教団になるかどうかを問わずに言えば、この方の「アイドル・グループ」活動は立派に新興宗教に近いものと感じられる。

少なくともこれまでの新興宗教と、この方の「アイドル・グループ」宗教活動と、何が大きく違うかと言えば、『教祖のカリスマ』が前面に出るのではなく、プロデュースする人間の「宗教理解」が推進役を務めている点ではないか。

巨大新興宗教には、もしかしたら、カリスマ教祖の背後に、教祖のカリスマを防御し、教団とのパイプ役となって教団の具体的な動向を操るような黒子の存在がいる場合があるかもしれない。

その場合カリスマ教祖はもっぱら『聖』を演出することに専念し、『俗』には手を出さずに黒子に任す。
そんな役割分担が考えられる。

しかしこの方の「アイドル・グループ」宗教活動の場合、プロデュース役が自らの「宗教理解」を公言しながら、非常に自覚的に「宗教=超越」を実験的に演出し、(恐らく)フィードバックを見ながらやっている。
そこがかなり違うように見える。

このような「宗教」実験が、かなりポストモダン的で、伝統的な『聖』を愚弄されたと感ずる者達の感性を逆なでするのは、無理もない、と愚考している。(筆者も多分についていけてないが。)

2014年9月24日水曜日

(3)今日(9月23日)の収穫

今日は(昨日9月23日の書きかけ記事でした)早稲田奉仕園のスコットホールを会場にして、「いのフェス」が催された。

知人のミーちゃんはーちゃんが出展しているのでN.T.ライト・セミナーの打ち合わせも兼ねて午後から繰り出した。

最初に出展ブースを眺めてみた。



例の聖書を題材にしたカードゲームの実演販売か。

このブロックではミーちゃんはーちゃんが見当たらないので、スコットホールで探してみたがこちらもいない。

と言うことで元に戻ってよく見ると復活書店の古書バザーをやっているではないか。

いのフェス出店ではなく、同時期に日本キリスト教会会館2階を借りてやったみたい。

ぼんやりと名前は聞いたことがあるのでちょっと暇つぶしと思い入ってみた。

結構たくさんのキリスト教関連古書。

100円から300円程度のものが殆ど。

中に洋書(殆ど英書と少し独書)があったので買うつもりもなくズラーっと見てみると、これが結構いいのがあるある。

主に聖書学分野を気にしながら見てみたが、一時代を画したような学者の本や、当時の研究を指導した名著など。

一冊100円の値段では捨てておくにもいかず何冊か買ってしまった。

  
Tradition and Interpretation in Matthew、は所謂『編集史批評』を切り拓いたので有名。


Paul and the Salvation of Mankind、は余り評価を受けずに忘れられた感があると、ラリー・フルタド教授は言う。

Munck was an incisive exegete who died too young, but not before he had produced two major works, of which this is one.  The other likewise deserves continuing attention among serious students of the NT:   Johannes Munck, Paul and the Salvation of Mankind (Aarhus/Copenhagen: Universitetsforlaget/Ejnar Munksgaard, 1954; reprint, Richmond: John Knox Press, 1959).

さて、どんなもんか暇な時に読んでみよう。

G. E. Wright, God Who Acts、も「聖書神学運動」を画した一冊。今となっては色々限界はあるようだが。


G. B. Caird, Saint Luke、ケアードは言わずと知れた(そうでもないか)N.T.ライトのメンターで、その聖書関連知識の豊富さ(オールラウンド)は凄い。

※画像がなぜか縦に表示されてしまいます。

ジョージ・マースデンは最近の「新カルヴィン主義」でも取り上げているが、このジョナサン・エドワーズの伝記は短い古いもので、最近もっと大著のものを出したはず。

マーカス・ボーグはN.T.ライトとともにジョージ・ケアードの弟子筋と言うことで僚友みたいなところがある。
(しかしボーグがジーザス・セミナーの代表的な学者なのに対して、ライトはセミナーを徹底的に批判している。)
しかし聖書観・聖書解釈の違いが「キリスト教理解」をこれだけ変えるか、と言うことでは好対照なので買っておこう。


不寛斎ファビアンについては1回投稿しています。

最後に紹介したブログの書評記事のリンクがブログのアドレスまでで、記事(2009年4月21日のもの)まで行っていませんでした。

今確認したらその書評記事で取り上げた本がこれだったのです。

奇遇、と言いたいところですが、どうやら類書が少ないようで、ググッてもごく少ないヒット。
貴重な本をゲットした感じです。

伊藤明生先生の「新約聖書よもやま話」は、ミーちゃんはーちゃん出店ブースから購入しました。プレゼント用です。


以上忘れないうちにまとめておいたメモ記事でした。





2014年9月22日月曜日

(3)水村美苗『日本語が亡びるとき』②

ほぼ2ヶ月経っての『続き』となります。

でも先日「加藤周一記念講演会」と題して更新しましたので、ある意味③と数えた方がいいかもしれません。

水村さんの『日本語が亡びるとき』は現在英訳が進んでいます。


The Fall of Language in the Age of Englishはコロンビア大学出版社から、2015年1月発売予定です。

この英訳をなさっている方の一人が吉原真里さんと言うのですが、1968年ニューヨーク生まれで日米両国に在住したと言う水村さんと似通った背景の持ち主です。(吉原真里略歴

たまたまこの方のブログ(Dot Com Lovers)を読んでみたのですが、なかなか充実した記事が満載で面白いです。

ご本人は既に何冊も御著書をお持ちですが、多くの記事(特に開始した2008年から数年)は幾つかのテーマに絞った米国時事関連エッセイ集として十分お金の取れる文章をお書きだと思います。

最近は色々とお仕事の関係もあるのか更新頻度は大分落ちていますが、自分の著書の感想文コンクールを主催するなど、非常に啓蒙意識、知的意識の高いブロガーです。

一応水村関連と言うことで、
『日本語が亡びるとき』
水村美苗+梅田望夫 
の二つの記事のリンクを挙げておきます。

是非他の記事もご一読を。


2014年9月20日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2014年9月21日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 1:15-23

説 教 題 「初めに生まれた方」
説 教 者  小嶋崇 牧師


パウロ書簡の学び(127) | コロサイ人への手紙(9)

(3)加藤周一記念講演会

加藤周一記念講演会なるものに行って来た。
(フランス文化講演シリーズ第280回)
第5回加藤周一記念講演会
「私の知っていた加藤周一さん」
水村美苗(作家)
日時:2014年09月19日(金曜) 18:00
会場:日仏会館ホール - 渋谷区恵比寿3丁目
 
開始30分前には会場に着いたが、もう20-30人くらいの人がホールで待っていた。
事前予約だが、なんでも「120名」定員のところ応募が多く180名くらいを見込んでいるとの係りの人の言。
 
日仏会館は初めてだったが、近づいていくと何やら少し変な建物のように感じられた。
 
それはどうでもいいとして、会場となる1階のホールは別に何の変哲もないが却ってそれが良かった。割合くつろげる感じ。(建物の外観は余り感心しないが、内側はいい感じだ。)
 
予想通り中高年が多かった。
定員オーバーなのは加藤周一のこともあるが、講演者の水村さんが割合知名度が高いこともあるのと、女性と言うこともあるかもしれない。
 
事前に朝日新聞で最近(8/11~)連載された『人生の贈りもの』のプリントコピーがイントロ代わりに配られた。
 
講演者の水村さんも「私の知っていた加藤周一」を余りまとまりなく、断片を寄せ集めて綴るような話だったが、この報告もそれに準じる。
 
 
加藤周一の人となり
 
1. やはり第一に言及されるのは加藤の「知性」。
2. ユーモア
3. 品性
 
確かもう一つあったが、とにかく加藤が人間として第一級、上等な人間であった、と言うことをエピソードを色々交えとつとつと語った。

水村さんが親しくなったのが加藤であったため、日本の知識人を測る標準を加藤にして、その後日本に帰国してから知った日本の知識人、文士たちとの落差にえらく戸惑ったとのこと。
 
水村さんを挟んだ加藤との人的交流では、水村の夫岩井克人、矢島翠、丸山真男、辻邦夫、磯崎新、らの名前があがった。
 
講演は50分ほどで終わり、フロアーからの質問となった。
 
質問は割合活発だったが、その中で信仰・宗教・キリスト教に絡むものをメモしておく。(質問は加藤だけでなく、講演者についてもオーケーとのことだったので、ほぼ半々くらいの割合になった。)
 
①加藤の死直前のカトリック洗礼
 質問者が自分の周りの人たち多くが「えっ」と思い不可解に思ったので加藤と親しかった水村さんが何か事情を知っているか聞いてみたかったとのこと。
 
 水村さんも驚いたと言うし、(初耳だったが加藤の知人らしい)石黒ひでも驚いたと言う。つまり多くの加藤を知る人が驚いたと言う。
 葬式はごく内輪の者達でなされたと言うが、知人たちはこのことをマスコミには伏せておいた方が懸命ではないか、と取り沙汰したらしい。
 
 どうやら経緯から言うと、晩年加藤がかなり意思表示が難しくなったような段階で加藤の家族の者達の意向が主導的となってカトリック洗礼へと物事が進んだらしい。
 
 その辺を反省した矢島翠が、暫く後、加藤の遺骨をあるお寺に分骨したとのこと。
 
②水村自身のキリスト教との接点
 (水村は12歳までは日本、その後海外に住んだ。)小さい頃は学校がミッションスクールだったり、教会学校に通ったりして、それなりに聖書の教えやキリスト教に親しんでいた。
 
 しかしその後青年期で出会ったり、触れたキリスト教は作家仲間たちの殆どがユダヤ人であったりもしたせいで、かなり日本の人たちが知っているキリスト教とは異なるものであった。(説明しにくいみたい。)
 
 
 散会のあと持参した「日本語が亡びるとき」にサインをしてもらった。 
 

 

2014年9月19日金曜日

(4)新カルヴィン主義動向③

シリーズ3回目。

どこまで行くのでしょう。(当分終わりそうもないのが怖い。)

「新カルヴィン主義の動向」とは、ここ5-10年程度と言うごく最近のことであり、言ってみれば「現代(主に)北米プロテスタント教会史」に属する出来事を扱うわけで、「(依然として)流動的な(あるいは一過的な?)現象」を追跡するようなものではないかと思います。

北米プロテスタント史と言えば、もう引退していますがシカゴ大学のマーティン・マーティー教授や、ノートルダム大学のジョージ・マースデン教授(彼も引退していた)、そして同じくマーク・ノル教授などがいます。

彼らはこの動向に気がついているのでしょうか。
そしてどんな風に見ているのでしょうか。

① ジョージ・マースデン教授
 少しネットであちこち調べてみたのですが、「ニュー・カルヴィニズム」についての言及は見当たりませんでした。
 今年2月発売されたばかりのThe Twilight of the American Enlightenment: The 1950s and the Crisis of Liberal Belief、はタイトル副題の通り1950年代が焦点ですから、「現在のカルヴィニズム、福音主義」には直接は関係してきませんね。

 (※とは言え、新カルヴィン主義を牽引する4旗手 -- ジョン・パイパー、ティム・ケラー、マーク・ドリスコル、と -- の一人アルバート・モラー・ジュニアのポッドキャスト番組でこの本についてのインタヴューに答えていますが・・・。)



②マーク・ノル教授
 ノル教授もマースデン教授と同様「新カルヴィニズム」についての動向について特に発言していると言うことはないようです。

 最近の本やインタヴューを見てみると、もっと大きな文脈でのキリスト教の動向について関心を示している模様。

 しかしジョン・パイパーが総長を務めるベツレヘム大学・神学校に昨年招かれてた時の動画がネットに見つかりました。



 このインタヴュー動画で、司会者が「新カルヴィニズム」のような背景を持つ学生が、「世俗のアカデミックな場で研究することは、そして生き延びることは可能か」、と質問しています。

 ノルの回答は、
(基本的には)どんな分野であっても知的追求は可能だ。その学生の信仰的確信の深化については教会や同じ基盤に立つ者たちの交わりの中でした方がいいだろう。アカデミックな文脈で自分の宗教的信念について披瀝するのは(しかし)終身雇用を獲得するまで控えた方がいいだろう。
といったものです。


 マースデンもノルも「新カルヴィニズム」に対してどのような評価を持っているか、ストレートな発言は見つかりませんでした。

 しかしマースデンがアルバート・モラーの番組に、そしてノルがジョン・パイパーの催しに招待されそれに応えているところから見るとやはり親近感は持っているのだろうと思われます。

 やはり同じカルヴィン主義の流れの福音主義者として共通するものは色々持っているのでしょう。


 (次のフォローアップ質問も興味深いのですが、意味を汲み取ることが十分出来なかったので省略します。)


③マーティン・マーティー教授

 マースデンやノルとは異なり、新カルヴィニズムをより「外から」眺めることのできるマーティー教授は今年1月のサイティングス(『発見情報』)で「カルヴィニズムと対立という題で寄稿しています。

 使徒パウロが依然として種々論争の火種であることを幾つか例証していますが、その一つとしてカルヴィニズム神学への関連に言及しています。

 短い論評の中でヒントになるようなことを仄めかす様に書いています。

 新カルヴィニズムは果たして「イマージェント教会」「ミッショナル教会」など、5年サイクル程度で置き換えられる「流行」に過ぎないのかどうか。もっと長続きするのか。

 新カルヴィニズムのリーダーたちが内輪の神学的指導権にだけ関心を持っているのか。それともそこからさらに外に、パブリックに向かっての「デスティニー」を感じているのか・・・。



と言ったところが今回掲載できる分です。

段々複雑になって行くかもしれませんが、また次回に続く。

2014年9月13日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2014年9月14日(日) 午前10時30分

朗読箇所 Ⅰコリント 14:1-20
説 教 題 「心を一つにして祈る」
説 教 者 小嶋崇 牧師

説教シリーズ:キリスト者の交わり(8)  




 「一人が皆のために祈る」ことを可能にする条件は、先ず皆が彼自身と彼の祈りのために執り成しの祈りをささげることである。彼を支え押し上げる祈りなくしてどうして「一人が『会衆の祈り』をささげる」ことができようか。この祈りに至った時点ですべての批判的言辞は熱心な執り成しと助けに取って代わっていなければならない。

 共同の礼拝における自由祈祷は『会衆の祈り』であるべきで、ただ個人が祈っているというようなことになるべきではない。彼は会衆のために祈らなければならない。そのために彼は会衆に加わる者たちの日々の生活、即ち彼らの悩み、必要、喜び、感謝、願い、希望を知らなければならない。(ボンヘッファー、Life Together、2章)
 

2014年9月10日水曜日

(3)アーミッシュの納屋

米国遊学時代、ケンタッキー州にいた時、近くにシェーカー村があった。
残念ながら訪ねる機会はなかった。

帰国してひょんなことから木工を始め、家具を作るようになって、シェーカー家具を知ることになり、「そう言えばシェーカー村が近くにあったんだ」と懐かしく思った。

多少キリスト教史を学ぶ中で、宗教改革以降の急進的(あるいは)より原初的な(新約聖書に観られるような、と言う意味も含む)キリスト者共同体が北米のあちこちに現存していることを知った。

シェーカー・コミュニティーはそんな中の一つだ。

もう一つ有名なのはアーミッシュだ。

ハリソン・フォード演ずる『刑事ジョン・ブック 目撃者』にもアーミッシュが出てくる。

18-19世紀では(大型)納屋を建てるのは村人総出のイベントだった。
しかしその伝統はもはや過去のものとなり、今ではアーミッシュたちくらいだと言う。

そう言えば日本でも、大きな民家の茅葺は似たようなものだ。

たまたまオハイオ州にあるアーミッシュ村の納屋造りを収めた動画があった。
10時間かかったそうだが、3分半にまとめてある。

2014年9月7日日曜日

(4)新カルヴィン主義動向②

前回からうまく繋がることは保証しません。あしからず。

このシリーズのタイトル「新カルヴィン主義」を少し説明します。

「新カルヴィン主義」には元となる英語で次のような幾つかの表現があります。
①Neo-calvinism
②New Calvinism
③そして前回紹介したマーク・オッペンハイマーの記事で使われていた、a Calvinist Revival

①はアブラハム・カイパーに代表されるオランダ改革派神学運動を指します。
③は主に「カルヴィン神学の再興」に焦点が当てられていたようです。

と言うわけでこのシリーズの関心はどちらかと言うと②になるわけですが、New Calvinismがマスメディアで使われだしたのは多分この5年ないし10年くらいではないかと思います。(ウィキ『New_Calvinism』参照

2009年にTIME誌が
10 Ideas Changing the World Right Now
と言う記事を特集したのですが、その一つにThe New Calvinismが入ったわけです。

そしてこの新しい動向の筆頭に
the pioneering new-Calvinist John Piper of Minneapolis
と挙げられたのが前回名前を伏せましたが誰あろう10月にLOVE JAPANで来日するジョン・パイパーです。

と言うわけで今回はこのジョン・パイパーに少し注目します。


パイパーは今年4月、福音主義改革派の牙城ウェストミンスター神学校で講演をしました。
そのタイトルがThe New Calvinism and the New Communityでした。


この講演で彼は「新カルヴィン主義」を12ポイントで要約しています。

(興味のある方はこちらの記事をご覧になれば12ポイントが分かります。)

一応この動画を1回観ただけなのですが、これは単に 「新カルヴィン主義」を説明しただけのものではないのが分かると思います。

講演が The Gaffin Lecture on Theology and Missions となっていますが、その名が取られたリチャード・ガフィン(・ジュニア)はウェストミンスター神学校の聖書神学と組織神学の現役名誉教授です。

パイパーはこのリチャード・ガフィンが、2005年に「信仰義認」解釈をめぐってN.T.ライトと「対決」し、ライトの「『パウロ研究』の新しい視点」解釈に対し、宗教改革、改革派解釈を「保守」したことを賞賛気味に言及しています。


パイパーが「信仰義認」をめぐってライトと論争をしたことは有名ですが
(パイパー、The Future of Justification、2007年 対 ライト、Justification、2009年・・・)、
言って見ればこの新カルヴィン主義の定義においても、「『パウロ研究』の新しい視点」解釈との神学対決を継続していることが分かります。

(次回に続く)

2014年9月6日土曜日

第3回 N.T.ライト・セミナー

久し振りの「N.T.ライト」ねたです。

別サイトの方に、今年で3回目となる、N.T.ライト・セミナー案内をアップしました。
ご覧くだされば幸いです。

今年は
休日(体育の日)
開催といたしましたが、会場探しに苦労し筆者の地元「巣鴨一丁目」となりました。


明日の礼拝案内

主日礼拝
 
9月7日(日) 午前10時30分

 
朗読箇所 ヨハネの福音書 16:5-15
説 教 題 「真理に導き入れます」
説 教 者 小嶋崇 牧師
 

 

《御霊の働き》 6

※聖餐式があります。 

2014年9月1日月曜日

(4)新カルヴィン主義動向①

暫く更新がなく過ごしました。
そして9月になりました。

まだ更新するほどではないですが、とりあえず(書き終わるかどうか分かりませんが)一つ。

先々週でしたか、来月に、ある催しが東京・名古屋・大阪で同時開催されることを知りました。
その催しには米国から二人の著名な神学者と牧師が講師として招かれています。

今回のエントリー・タイトルにあるようなテーマで過去にも何度か書いたことがあるので、この二人のことはそんな記事の中にも登場してきます。

二人は「新カルヴィン主義」の指導的人物です。

米国においては「新カルヴィン主義」の動きは暫く前から注目されています。

日本において、彼ら二人はまだ知名度は低いですが、彼らや彼らの神学あるいは運動を支持する(主に米国留学経験がある?)牧師たちは結構いると思われるので、今後ある程度浸透してくるかもしれません。

最初に断っておきますが、筆者はどちらかと言うとこの動きに少なからず警戒感を抱いてこれまで見てきました。

いよいよ日本上陸と言うことで、警鐘を発する意図ではないですが、取り上げるタイミングとしてはいいかな、と思って書いています。

*    *    *

ニューヨーク・タイムズ紙の「信仰」コラムに隔週記事を書いているマーク・オッペンハイマー氏が今年早々

Evangelicals Find Themselves in the Midst of a Calvinist Revival
と言う記事を書きました。

Increasing numbers of preachers and professors teach the views of the 16th-century French reformer. Mark Driscoll, John Piper and Tim Keller — megachurch preachers and important evangelical authors — are all Calvinist. Attendance at Calvin-influenced worship conferences and churches is up, particularly among worshipers in their 20s and 30s.
神学教育を受けてきた人には改めて言うまでもないことですが、「カルヴィニスト」は16世紀のフランスの宗教改革者ジョン・カルヴィンを発祥とする神学を指します。

マーク・オッペンハイマー氏はこの記事で21世紀を迎えたプロテスタント(さらに言えばその中の福音派)教会に起こっている新たな動きとしてカルヴィンの神学をルーツとする牧師たちの影響が顕著になっていることに注目します。

そしてその影響が比較対照されるのは、所謂「繁栄の福音」タイプのメガ教会牧師(例えばジョエル・オスティーン) なのです。
そしてさらに彼らの(神学的)影響が20代から30代という若い層に及んでいることに注目しています。

例えば20年前、会員数低下に喘いでいた、首都ワシントンのキャピトル・ヒル・バプテスト教会に牧師招聘されたマーク・ディーバー牧師の場合・・・。

(当時は南部バプテスト連盟はリベラル路線を行っていたと思いますが、ですからカルヴィン主義のディーバー牧師はインタヴューでは自身の神学的立場を気にしていたと思われますが)

そのインタヴューで、 ディーバー牧師は予め自身の立場を明らかにしておきたいと「カルヴィニスト」のことを話したそうですが、殆ど不問に付されたそうです。
(ある意味「神学的立場」がどうでもいいほど教会が追い込まれていたと、言うことでしょうか・・・。)

何はともあれ、就任当時平均礼拝出席者数70名(会員数130名)から、 現在では一千名。しかも平均年齢が30歳、と言う変化を遂げたそうです。

ディーバー牧師は「カルヴィニズム」については特に説教で語ることはないそうですが、教理的な教えが反映された説教は若い会衆たちのニーズに応えていることが見て取れます。

会衆の一人、ワールド・バンクに勤めるサラ・ロットマンさん(34歳)は、神の言葉である聖書を中心にした説教、罪の問題とその解決としての救いの必要を語る背景に「カルヴィニズム」の神学的背景を感じているようです。

そしてこの「罪の深刻さ」を焦点から外さないところが、福音派の中でも「繁栄の神学」で注目されてきたメガチャーチと好対照になるわけです。


(次回に続く)