2015年6月28日日曜日

(3)主に神学ブログ⑨

さてさて、昨日は米国で「同性婚」に関する最高裁の判決が出された。

このブログの読者はキリスト教関係の方が多いだろうと思うので、しかも「福音派」と呼ばれる立場の方が多いと思われるので、戸惑ったり、気が重かったりしていることと思われる。

(※ステレオタイプに理解されると多少不本意なので断っておくと、この問題は複雑で難しい要素があり、単純に喜んだり、腹を立てたりできないものと思う。)

この「主に神学シリーズ」を始めて気になっていたことがある。

それは「女性」の神学ブログをなかなか紹介できないでいたからである。

そう言うことで今回初めて女性による「神学」ブログをシリーズに加えることがほっとしている。


地の果てまで福音を

はKinukoさんによるブログだ。

どのような方かはよく知らないのであるが、どうも翻訳をなさっているみたいだ。

かなり頻繁に更新なさっている。

そしてカバーするトピックはかなり限られている。(殆ど遊びのような記事は見当たらない。)

特にパウロ書簡(Ⅰコリント11章1-16節)の「かぶりもの」について、驚くほど丁寧に追求されている。

「主に神学」という基準からいうと、まさにこの問題を聖書解釈、歴史神学、実践神学、と多角的に検証している点が素晴らしいと思う。


さて、冒頭アメリカ最高裁判決のことを持ち出したが、「性」「ジェンダー」をめぐる考え方や態度の混乱が続いているが、日本のキリスト教会においてもこれらの一連の問題に対する対応が緊急性を帯びて迫ってくるのではないかと思う。

筆者の見たところこのブログの立場は「保守的」、いやかなりの人は「超保守的」と捉えるのではないかと思う。

しかし、読んでいくうちに気がつかれると思うが、様々な検証の上に、このような立場を選び選択しようとする態度は、反対の立場の人にも理解されるのではないかと思う。

2015年6月27日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年6月28日(日) 午前10時30分


朗読箇所 ローマ人への手紙 7:13-8:2
説 教 題 「救いの確立と確証」
説 教 者 小嶋崇 牧師

教会史遡行(5)
 
「大信仰覚醒」と教会復興・・・ジョン・ウェスレー(1703-1791)

2015年6月25日木曜日

2015年6月24日水曜日

今日のツイート 2015/6/24

今日は言語と宗教という文化障壁についてのツイート二つ。


これはどういうことか適当に説明を付けてみよう。

鎖国の影響が強いでも書いたが、多民族国家でたとえば英語が共用語だとすると、英語運用能力に関しては個人差が激しい。

いちいち下手な人の英語を笑っていたらきりがないし、その下手さ加減のばらつきが激しいので、どこで線引きするかは難しい。

一方(ほぼ)単民族国家で、「国語」を第二外国語として暮らす方々の運用能力とネイティブのそれとを比較するのは簡単で、反応も画一化・ステレオタイプ化しやすい。

下手だと笑い、上手いと脅威を感じる。
(この部分が「鎖国の影響」でドナルド・キーンさんが指摘したことに通じる部分。)

今朝の朝日に掲載された政教分離と不平等 フランスの壮大な「偽善」についての内藤教授(同志社大)のコメントに対する逸見教授(新潟大)の反論。

フランスの「政教分離政策」ライシテはムスリムに対して欺瞞に満ちている、とトマ・ピケティが指摘した。

内藤教授は10年前の暴動の背景に人種差別問題があったことを当時の「フランス」人は問題視しなかった。つまり当時から「欺瞞」の構造はあったが見ようとしなかった。

その構造を、今、ピケティが指摘したからといって別に驚くようなことではない、ということだろう。

逸見教授は「フランス」と一括り(『全称命題』というのだそうだ)にやってしまうのは『全称命題』の濫用だ、と反論し、2003年時の研究の存在を提示する。


これらの問題を、まだ朝食後のぼやけた頭で咀嚼しながら考えた。

2015年6月22日月曜日

(4)断想 2015/6/22

(※《断想》と《雑想》の違いは前者の方が後者より幾分内容的にまとまりがある、という程度のものでさしたる違いはありません。その時の気分で選んでいます。あしからず。)

(1)日本福音主義神学会東部部会の公開研究会
日時:6月15日(月)14:00-17:00
場所:OCC508号室
テーマ:『今、再び人間の罪について考える』
講師:鈴木浩ルーテル学院大学教授
に行ってきました。

講演・・・というよりはトークといった感じでしたね。(ノリがよくなるまで、エンジンがかかるまで、結構時間がかかった感あり。)

(断想と呼ぶだけに軽い感想しか書きませんが・・・。)

講演の要約を掲載するのは勘弁してもらって、内容的にかなり重複する論文が入手できますので、もし興味ある方はそれをご参考までにお読みください。

少し長めの前書き、あるいは、義認論をめぐる環境の変化

また有能な“速記録者のレポート”もあるのでそちらも是非ご参照のほど。



筆者の関心あるポイントは『義認論』なのですが、くしくも昨年の同神学会東部研究会公開講演会でも『義認論』が深く関わ「『パウロ研究』の新しい視点」を紹介していました。(これこれ

今回の講演は『義認論』が宗教改革において中心的な位置を占めるようになった議論の筋道を、アウグスティヌスまで遡ってまとめていました。

宗教改革(主にルター)の義認論は、(主にカルヴァンのポイントである二重予定論とともに)あいまいさの残っていたアウグスティヌス主義神学を徹底したもの、と言う見方がそれですね。

つまり宗教改革をリードしたルターとカルヴァンという二人の神学者は、急進的アウグスティヌス主義者であった、ということ。

そこから引き出されるのは、ルターは原罪論を徹底させたゆえに義認論を確立した、という解釈です。しかし、この歴史的回顧による義認論解釈は、講師のトークの趣旨からするとまだイントロにしか過ぎない。本当に話したかったのは、現代における「原罪」を語ることの難しさ、罪の意識の低さ、ということでしたね。
 「ルターの信仰義認論の前提は、アウグスティヌス的人間論の断固たる再主張であった」というペリカンの命題は、「義認論の前提は原罪論であった」という意味であり、義認論の神学者ルターは、何よりもまず「原罪論の神学者」であり、「原罪論を強化した」ことが義認論の再発見の糸口であった、という意味である。心理学的用語を使えば、義認論は罪認識の深刻さを前提にしており、罪認識の深刻さに対応する教理なのである。言い換えれば、義認論は、原罪論という前提を失うと、その教理的インパクトも、そしてとりわけ、その心理的インパクトも失われるのである。・・・
義認論がその前提である原罪論を失ったこと、言い換えれば、罪認識がかつてなかったほど希薄化したこと、再度言い換えれば、「脱アウグスティヌス的環境」の中に義認論が置かれるようになったこと、それが義認論をめぐる、第三の環境の変化である。そして、それこそが、義認論にとっては、致命的な意味を持っているのである。それは、無論、義認論の再度の再解釈が要請されているということである。

鈴木氏が「義認論の環境」で第三の変化として指摘している「罪の希薄化という『脱アウグスティヌス的環境』」の問題は、福音派ではそれほど意識されていないように思いますが、「神学の文化的環境」という発想とも合わせて検討する必要があると思います。

しかし、そのことの前に、あるいは同時並行でもいいですが、福音派がしなければならない神学作業は、実はスコット・マクナイトが『福音の再発見』で指摘した「救い派(ソテリアン)」の「罪の扱い」ではないかと思うのです。

ルターの「実存を脅かす罪の縛り」の自覚はどこかに行ってしまい、大衆伝道で分かりやすく「救い」を得させるために「地獄」とセットで「個人的罪」が語られ、その処理をする「福音」に矮小化、陳腐化されてきた、という指摘です。


詳論は避けますが、鈴木氏が指摘した「義認論の環境」の第二の変化である(アウグスチヌスの影響を受けていない)東方神学の救済論も興味深いものでした。
図式的に言えば、人間が持つ根本的問題性が「罪の必然性」であるのなら、「救い」とはまずもって「罪の赦し」であるし、同様にその根本的問題性が「死の普遍性」であるとしたら、「救い」とはまずも
ってその克服である「永遠の命」でなければならないということになる。その結果、東方神学は義認論を深めることはせず、西方神学は神化論を深めることはしなかったのである。
東方の神学が「別な視角」を提供する、ということは実際そうで、筆者自身ウェスレアン・アルミニアンの流れに属しながら不勉強なので確実なことは言えないが、ウェスレーの聖化論には東方神学影響が流れていないか・・・を見てみることは必要ではないか。

義認論との関連で言えば、マイケル・ゴーマンがまさに神化論(セオーシス)を組み入れた議論を展開している本が、Inhabiting the Cruciform God: Kenosis, Justification, and Theosis in Paul's Narrative Soteriology.です。

ついでにもう一点。

神学的人間論としては『原罪論』が創世記3章からスタートしているとすると、聖書の包括的ナラティブとしては『神のかたち』(創世記1章)の視点が補われる必要があると思います。(これをやっているのがライトやマクナイトとですね。)

そのようにしないと「救済論」が脈絡を失って教会論や宣教論とシームレスに繋がっていかないのではないかと思います。

この点においても「聖書の包括的ナラティブ」、端的には「創造→新創造」は組織神学の各論が孤立化することを防ぐと思います。


(2)「罪」の復活

ちょっと長くなりますが、ちょうど講演の趣旨と沿うものなのでメモだけしておきます。

鈴木氏の嘆きにもかかわらず、一部の世俗の知識人の中には「罪の意識の希薄化」を指摘するとともにその重要性を認め復興する試みがあるようです。いわば、アウグスチヌスの現代性を発見するもののようです。

デーヴィッド・ブルックス(ニューヨーク・タイムズのコラムニスト)が最近著した本がそのような例の一つのようです("David Brooks: We Need to Start Talking about Sin and Righteousness Again", クリスチャニティー・トゥデー誌、2015年6月号)。
Brooks’s quest to fill that hollowness culminated in his latest book, The Road to Character (Random House). He pairs sketches of historical figures like Augustine and Dwight Eisenhower with analysis of our culture’s retreat from biblical notions of sin and righteousness.
 
 
さて、もう一つ例を挙げておきたいのですが、不十分になると思うのでやめておきます。

今日のツイート 2015/6/22

今回はこれにしておこう。

少女が母親に買ったばかりのノートパソコン(USBポート2個)を見せているところ。

大理石像、ギリシャ、前110年。

2015年6月20日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年6月21日(日) 午前10時30分


朗読箇所 コロサイ人への手紙 1:9-23
説 教 題 「信仰に踏みとどまる」
説 教 者 小嶋崇 牧師

コロサイ(18)/パウロ書簡の学び(135)

2015年6月17日水曜日

(3)雑想 2015/6/17

本を一冊読み終わったので何か書こうと思った。

書評とは呼べないので雑想としておいた。



『A Wild Haruki Chase 世界は村上春樹をどう読むか』(文春文庫

国際交流基金の企画で、アジアや欧米から村上春樹の翻訳者を一堂に集めたイベントが2006年に持たれた時の記録である。

本の紹介はこちらこちらにおまかせして、ここでは単刀直入に筆者が面白く感じたことを二点だけ。

(1)リチャード・パワーズの基調講演

 これが圧巻だった。最近の脳科学の発見に引き付けながらムラカミ・ワールドを解いていくのだけれど、読んでいて「最近の脳科学」が面白いのか、ムラカミの小説世界が面白いのか、何か混乱してしまった。

 最近の脳科学についてはとても面倒くさくて説明できないので『認知神経リハビリテーション学会』のブログに掲載されていた書評をご参考まで。

 一箇所だけ短く引用しておく。
 村上春樹の小説を読む上での大きな楽しみのひとつは、日常的リアリズムと地下の幻影、この二つのミスマッチされた世界のあいだにいったいどんな関係が生じていくのかを想像するところにあります。これらの別個の、しかし密接に結びついた二つの世界は明らかに、蝶番でつながれたかのように依存しあっているわけですが、その蝶番とは、多くの場合、物語のプロセスそれ自体です。(50ページ)

(2)村上不在の中で翻訳者たちによって熱く語られるムラカミ・ワールド

 本の最後のところに、(国際交流基金)企画担当の佐藤幸治が「『春樹をめぐる冒険』舞台裏報告」を書いている。
 昼夜を分かたず、春樹談義は止まない。あいにくご本人は海外滞在中で参加がかなわなかったけれども、コヴァレーニンさんが、「村上さんはいないけれど、私たちが、まるでそこにいるようにのことを話すことで、いるのと同じことになったんですよ。これこそまさに村上ワールドです!」と言い、みな納得顔で頷いた。(302ページ)
と言うところで(実際したわけではないが )ひざを打った。

 この「彼」を「イエス・キリスト」に置き換えれば、それはまさに礼拝であり、キリスト者生活であり、伝道・証じゃないか、と。

 
 
 

2015年6月16日火曜日

(3)集団的自衛権と日米安保

安倍政権が進める様々な「事態」に対しての法整備が国会で議論されている。

焦点はそれらの「集団的自衛権」に基づく「法制」が合憲か違憲か、にある・・・とされている。

最近では憲法学者が引っ張り出されて「憲法の法解釈」でどれだけ政府の解釈に妥当性があるか、で論議がなされている。

それによると「違憲」の意見が圧倒的である。(6月15日の朝日の報道ステーション)

一介の牧師としては、重要法案であることは認識しているのだが、「一連の法整備」に関し、それなりの流れがあるのに、その政治的文脈が示されていない議論になっているように思われ、違和感と煮え切らなさとを覚えている。


以下は、「国際政治文脈」を読み込むために少しネット検索した初期報告です。

「アーミテージ報告」から読み解く日米同盟の今後(藤重博美)
と言う文書が日本国際研究所(外務省の外郭らしき、また財界とのコネも強そうなシンクタンク)から出ている。

同文書によれば、アーミテージ報告には、報告1(2000年版)と報告2(2007年版)があって、
報告1は
・・・日米同盟の強化を一層推し進めなければならないという信念と停滞する現実の落差に対する危機感を前面に出し、日米同盟の強化は未だその道半ばであることを強く訴えかけた。執筆者たちは、米国にとってのアジア地域と日米同盟の重要性を改めて強調するとともに、沖縄の基地問題や日本側の集団的自衛権に関する制約を同盟関係の阻害要因として指摘し、これらの解決に向けて一層の努力をするよう、強く求めたのである。・・・
のだそうだ。(日米同盟関係を強化するには、日本側の(憲法にある?)集団的自衛権を制約する要素を何とか排除する工夫をして欲しい、ということになるのだろう。)


これに関し「集団的自衛権問題は、憲法改正にも関わる政治的に極めてデリケートな問題」なので日本側にそれなりの反発があった・・・と文書は続けている。

この報告を書いた藤重氏は、これに関し次のように脚注(1)で説明している。
 集団的自衛権の行使禁止は憲法に明示されているものではなく、1956年、政府が国会答弁の中で示した解釈によるものである。それによると、わが国は集団的自衛権、つまり
「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されてないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」を保持しているにも関わらず、その行使は必要最小限の自衛の範囲を超えるものであり、憲法上許されていない
とされた。
 この解釈は今日にいたるまで維持されているが、明確な憲法による禁止ではない以上、手続き的には、政府がこの解釈を変更すれば日本は集団的自衛権を行使することは不可能ではない。しかし、集団的自衛権を行使できるようにするためには憲法改正が必要との意見も根強いため、現在までのところ政府は1956年当時の解釈を変更していない
 しかし、安倍首相が、 就任後、集団的自衛権に関する個別事例研究を開始したことで、解釈が変更される可能性が高まっている。」
となっている。

一読すると、集団的自衛権と憲法との解釈上の関係が分かりやすく叙述されていると思う。

特に「自国が直接攻撃されてないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」・・・つまり集団的自衛権は、自衛権と言う「権利の枠組み」の中に置かれているが、法的に上である憲法に照らせば「必要最小の自衛」と言う制限に触れてしまう、ということですね。
ではなぜ安倍総理が憲法の自衛権制限を越えるかもしれないのに、集団的自衛権行使にこだわるのか、と言えば、やはりアーミテージ氏らが要求する日米同盟強化の要請が強いのであろう、とその「政治的文脈」を読み込まざるを得ない。

だがそれは一方的なものだけだろうか。
日本側にもそれなりに日米同盟強化の理由があるのではないだろうか。
特に安倍氏個人に何らかの強い動機付けがあるのではないか・・・。


その辺りの疑問にある程度ヒントを与えている本を最近読んでいるので、以下ご紹介。

春原(すのはら)剛『日本版NSCとは何か』は、安倍氏が小泉政権時代の官房長官時代、アーミテージやシーファーらが、日米同盟体制が十二分に機能するためには「日米同盟の機関化(institutionalization)」が必要だとの認識を示したのを強く受け止めていただろう、としている。

そしてこの機関化を実現するものとして「NSC(安全保障会議)」の設置をアーミテージらが進言していたのだとする。

安倍官房長官が「NSC(安全保障会議)」の必要を「痛切に感じたであろう事件が発生したのは、官房長官の職にあったときです。2006年7月、北朝鮮は二箇所の発射場から日本海に向けてテポドンなどを発射し、日本に底知れぬ恐怖を与えました。この際、首相官邸で官房長官として日本の危機対応の実質的なコントロール・タワーとなったのが安倍氏でした。」と
春原氏は指摘しています。(以上は41ページ)


さてどうなんでしょう。

「政治的文脈」を素人が読み込むにはある程度の輪郭は掴めますが、輪郭線の太い細いや、濃淡など、詳細については殆ど分かりませんので、今のところは「うっすら感」で次の視角(パースペクティブ)を探してみることにいたしましょう。

2015年6月14日日曜日

(5)現代の英語圏神学者②、クリスチャン・ワイマン

『英語圏神学者』シリーズの名誉ある(?)トップバッターにスタンリー・ハウアーワスを選んでからもう3ヶ月が過ぎました。

実際はその後、余録、と余録・続(完)、をアップしているので「開店いきなり休業」ではなかったのですが・・・。


今回選んだクリスチャン・ワイマン、Christian Wiman(1966- )は、「神学者」と言うカテゴリーには当てはまらないかもしれません。

だから「番外」でもいいのかもしれない。

しかし、問題はこれから紹介するワイマンのインタヴュー記事での発言にあるように、「現代」に神学(的なこと)を語れる資質として「詩人」の持つ意義は大きいのではないかと考えます。それでワイマンを2番目に持ってきました。

(実はごく最近彼のことを知りました。)


現代と言う時代

早速宣伝になって申し訳ありませんが、ようやっと出版に漕ぎ着けたN. T. ライトの『クリスチャンであるとは』の第1部は、ライトの「キリスト教入門」の文化的文脈である、ポスト・クリスチャンポスト世俗ポストモダンを分析しています。

その上でキリスト教とのフレッシュな接点を探っていると思います。(このポイントについての簡単な紹介はこちらの記事をお読みください。)

現代の「霊性」の課題とは、特に西洋圏では、聞き慣れた「キリスト教言語・シンボル」を過去のもの(ポスト・クリスチャン)として現代を漂流する人たちが、その霊性の渇き(ポスト世俗)をどのように満たして行くのか(ポストモダン)・・・、とまとめることが出来るかと思います。

キリスト教圏の宗教遍歴

余り風呂敷を広げるのもなんですから、極近い例で言いますと、筆者が米国遊学中に学んだ先生たちの中で典型的なのは、「保守キリスト教信仰」→「信仰喪失」→「潜り抜けた信仰回復」のパターンです。

「潜り抜けた」とは上手い表現がないので暫定ですが、英語で言うとseasonedやweatheredと言うことばが少ししっくり来るように思います。要するに人生の波風にさらされて試されそれを乗り越えてきた信仰、といった感じです。


信仰を持つ者が「疑い」を抱え込み、苦闘の末一旦は信仰を放棄するが、別な経路から啓示や示唆を受けて新たに信仰に目覚める、と言うパターンです。


大事なのは、信仰を持つことによって抱え込むことになる「疑い」と真摯に向き合い、信仰内容に様々な問いを発しながら納得のいく回答を得ようと「議論した(reasoned)」過程の上で新たに信仰に目覚める、というダイアレクティック(弁証法的)な「信仰の軌跡」を刻まれていることです。

これは「最初の確信」をそのまま(殆ど疑問もなく)維持するスタティックな信仰とは対照的です。


具体例①・・・ロバート・ベラー(1927-2013)の場合は、途中マルクス主義に転向した後聖公会に回心します。(Beyond Beliefの序を参照。)


具体例②・・・レイチェル・ヘルド・エバンスの場合は、神学や教会の伝統を柔軟な形で受け止めるやり方で信仰回復し、今はやはり聖公会の信者になっています。

※もちろん信仰回復しない例(バート・イァーマンとか)や、他宗教へ改宗する例も沢山あるでしょう。(断定すると「沢山挙げてください」と言われると困るので。笑)

クリスチャン・ワイマンの場合



この動画ではワイマン自身の『回心体験』を(18分過ぎから)語っています。

バイブル・ベルトでほぼ100%宗教的な環境で育ち、大学以降文学と深く親しむ中で様々な「無神論・懐疑主義」と接する中でたましいの遍歴があったようです。

そしてある種の「回心」に導かれると言う経過を語っています。

ワイマンのケースは典型的ではないかもしれませんが、ある程度、「保守キリスト教信仰」→「信仰喪失」(ここの詳細は不明)→「潜り抜けた信仰回復」のようなたましいの軌跡であったように思います。

そう言う意味でワイマンは以下のように言えるのだと思います。
“I have no illusions about adding to sophisticated theological thinking. But I think there are a ton of people out there who are what you might call unbelieving believers, people whose consciousness is completely modern and yet who have this strong spiritual hunger in them. I would like to say something helpful to those people.”

「信じていない(と思っている)実は信仰者」への神学者として詩やエッセイを書いて行くワイマンに注目したいと思います。

では次は誰を選ぼうか・・・。(乞うご期待。)

[追加、2015/06/15]
※ワイマンがビル・モイヤーの番組で自身の(白血病の一種)ガンについても語っています。




[追加、2016/04/22]
※「信仰遍歴」についても語るインタヴュー記事

2015年6月13日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年6月14日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コリント第一 8:1-13

説 教 題 「父なる唯一の神」
説 教 者 小嶋崇 牧師


《現代キリスト教入門》6、神とこの世界

2015年6月12日金曜日

(4)『教会史遡行』から落穂拾い、2

前回、落穂拾い、1、では「日本ホーリネス運動史」について幾つか拾いました。


今回は、その前史として選んだ「19世紀(中・後)リバイバリズム」を取り上げます。


目玉として選んだ人物は、Dwight L. Moody(1837-1899)、ドワイト・ムーディー(ウィキ)。


ムーディーに関して「余録」として残すとすれば、彼の「回心体験」の背景となる『日曜学校』についでしょうか。


ムーディーは17歳で回心したのですが、その下地を作ったのは『日曜学校』だったと思います。

彼は故郷を離れボストンで叔父さんのところで働かせてもらう条件となったのが、教会と教会学校に通うことだったんです。

そして彼を回心に導いたのは、日曜学校の教師であったエドワード・キンボールでした。

ムーディーが働いていた靴屋に出向き、店の前でしばらく躊躇の末入店し、カウンター越しに一言二言会話を交わした後、「決心("Will you not give your heart to Jesus?")」を迫ったんです。

ムーディーはこれに応答し「回心」しました。

とそう言う経緯です。


日曜学校は、英国に起源(1780年)を持ち、米国でも19世紀初頭から、各教派が勢力を伸ばす中で取り入れられていきました。(アメリカ日曜学校協会が設立されたのが1825年)
しかし、その始まりが「私設」であったように、「教会のプログラム」として組み入れられるまでは暫く時間がかかったようです。

当初の日曜学校は宗教的な方面では「カテキズム」が教えられたそうですが、しかし(ここからは殆ど詳細を言うのは難しいですが)19世紀に入ってリバイバリズム運動が強まっていく中で、日曜学校のカリキュラム自体も「聖書を教え、明確な宗教体験を植えつける」ものとして整備されていったようです。

と言うことで、ムーディーが日曜学校で学ぶようになった時には、教会学校を通して「回心体験」を得る流れは出来上がっていたことが推測されます。(そのあたりの経緯はこの記事が簡潔にまとめています。)


次に興味深いことは、ムーディーの「回心体験記」には出てきませんが、聖書を用いて「回心体験」に導くマニュアルのようなものが、この時にはもう出来上がっていたのではないか、ということです。

多くの人がご存知の『四つの法則』は20世紀版といえるか知れませんが、これから紹介する教会の伝統ではそれは『救いの計画』として、『救いまでの5段階』として開発され、代々受け継がれていたのだそうです。


下から順に「救いまでの5段階」が積み上げられています。



そして各段階には証明聖句というか、対応する聖書のことばが決まっていて、これが会堂の壁に貼り付けられているのだそうです。

少し、その例となる紹介記事を引用します。
It’s just a Church of Christ thing, right? The “Plan of Salvation,” also called the “Five Steps of Salvation,” is unique to us, I think. And those of us who were raised in and by the Churches of Christ know them well: Hear, Believe, Repent, Confess, Baptism. In that order. As a kid in the ’70s, this was drilled into me by my Sunday school teachers in Bible class, by the preachers from the pulpits, by the youth ministers at the devotionals and rallies, and by the Open Bible Study my dad walked me through when I reached the “age of accountability.” The five steps were plastered on bulletin boards in the church hallways, illustrated by charts and diagrams on mimeographed handouts, and splashed across banners promoting the next Gospel meeting. These were the five steps, always accompanied by supporting verses of Scripture, that necessarily had to be followed — again, in order! — for one to be saved.(Five Steps To Salvation、強調は筆者)
「キリストの教会」と言う教派ですね。日本ではそれほど多くないようです。

実は強調したところは意味があって、「この5ステップの順序に従って」信ずるならば回心が得られる(何と言うのか、これも信仰ですかね)という『原理』とともに普及したようなのです。

この記事を書いた方は、この「救いの計画」のような「原理に従って人間が応答すれば、体験が得られる(はずだ)、と言う理詰めなアプローチ」はアレクサンダー・キャンベル(1788-1866)らの「聖書復帰運動」に遡る、と見ています。

Historians point back to our movement’s focus on rational thought and enlightenment thinking that characterized the mainstream culture of America at the turn of the 19th century when Stone and Campbell and others were attempting to “restore” God’s Church. It was all about scientific reasoning and empirical evidence and deductive problem-solving. Society at this time was convinced that there were undeniable patterns, unalterable designs in nature and in the world that, if learned and applied, held the keys to everlasting peace and joy.
「救いの計画は」、スコット・マクナイト『福音の再発見』でお馴染みなのですが、改めてその影響の深さと、その理性主義的背景を思いました。

ところで、たまたま、「キリストの教会」の方が『福音の再発見』を読んで自派の『救いの計画』を振り返っているブログ記事が見つかりましたので紹介しておきます。
One of the reasons I wanted to review Scot's book is that I'd like, as might many of you, to use the label soterian from time to time to describe how many Christian think.

Again, the crux of Scot's argument is that the Plan of Salvation isn't the gospel. No doubt they are related. And Scot discusses their relationship in the book. But they aren't the same. The "Good News" isn't the Steps of Salvation. In my tradition these Steps were as follows: 1) Hear, 2) Believe, 3) Repent, 4) Confess, and 5) Be Baptized (for the remission of your sins). Your tradition might have a different list of Steps. Still, at Scot points out, these Steps aren't the gospel.


この辺のことは「教会史」と「世俗の歴史」と重なり合うことですので、ちゃんと調べてみないとならないですが、何かしら調べてみるべき分野やトピックを提示する端緒にはなったかな、と思います。


※もう一つついでですが、「キリストの教会」関係の教会史はなかなか部外者には難しい。やはりその派の人が整理してくれているものを読むのでないと分かりにくい面があります。

その点このめじろ台キリストの教会がまとめてくれた文章は助けになります。 

今日のツイート 2015/6/12

今日のツイート①

2年前、四国・高松を旅行した時は、この松田牧師の「うどん情報」ツイートを参考にしました。

実際その時は「うどんばか一代」で食事し、その後松田牧師にお会いしてお話しすることが出来ました。


今日のツイート②

当教会はこのような説教題を掲げる立派な看板を持っていませんが、もし持っている教会があれば“いろんな意味で”(波及も含めて)効果があるみたいですよ。

RT(リツイート)数をご覧ください。

2015年6月10日水曜日

(5)タカ牧師のセブン-3

これで3回目になります。

もう少し続けば慣れてくるかな。

では今回は日本語も3本です。

1. Adela Collins: Overcoming Obstacles to Shed Important Light on the Bible
  『アデラ・コリンズ:女性聖書学者、壁を乗り越え聖書学の前進に貢献』
  最近ではこのブログでも何度か取り上げたと思いますが、エイミー-ジル・レヴィン(ヴァンダービルト大)やベヴァリー・ガベンタ(ベイラー大)など性別に 関係なく尊敬されている学者が出てきています。いわばそのパイオニア的存在のアデラ・コリンズ教授(イェール大神学部引退教授)の紹介記事。

2. Interview: Elizabeth E. Shively
  『エリザベス・E・シブリー教授インタヴュー』
  Women Biblical Scholarsというサイトです。その名の通り、女性の聖書学者をフィーチャーしたサイトです。シブリー教授などは第3世代ということになるのでしょうね。

3. Why Sermons Often Bore
  『なぜ説教がつまらなくなってしまうのか』
  ニューヨークの有名牧師、ティム・ケラーの説教ワークショップに参加した方のレポートです。TGC(ザ・ゴスペル・コーリション)という改革派の人たち中心のグループなので、どっちかと言うと「頭でっかち」な説教してしまうのに対し、もっと「ココロ」に語りかけましょう、と言う方向をオススメしているようだ。

4. Best and Worst Graduate Degrees for Jobs in 2015
  『修士・博士学位別将来収入ベスト/ワースト2015年』(フォーチューン誌)
  学位獲得後の収入を学位別で調べた結果を報告している。収入が良いのは統計学やコンピューター関係。良くないのはばらばらだが、神学はワースト11位だって。これが日本だったら・・・。

5. 集団的自衛権はコスパが悪い
  今国会で論戦たけなわの話題に関する記事です。少し古いですが。元防衛官僚の目から見た政府案の疑問点を具体的に取り上げています。

6. 祝!国際アンデルセン賞受賞。担当編集者が語る上橋菜穂子(前編)
  読んでそのままの記事です。結構読み応えあります。たまたまフェイスブックでR大卒と知ってから読み始めたのですが、上橋さん、なかなか面白い人だと思います。

7. 後編
  一つズルした感じになりますが。ごめん。


以上です。

2015年6月6日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年6月7日(日) 午前10時30分


朗読箇所 Ⅰコリント 11:17-34
説 教 題 「主の晩餐を食べること」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2015年6月1日月曜日

(5)リチャード・ヘイズ日本講演、4

これがシリーズ最終となります。

Did Moses Write about Jesus?

The Challenges of Figural Reading

モーセはイエスについて書いたのか?

比喩的読解の挑戦

は、4月28日、立教大学(キリスト教学研究科主催)を会場に行われた講演です。
講演については主催者サイトで以下のように説明されています。
 本講演は、四福音書の著者たちが、イスラエルの聖書をイエスのアイデンティティーに関する証言として解釈した、その驚くべき仕方について例証し、探求することを目的とする。
 内容的には、最近のヘイズ氏の著作である "Reading Backwards: Figural Christology and the Fourfold Gospel Witness, Waco: Baylor University Press 2014"で探求された、いくつかの解釈学的提案について要約的に報告し、省察を加える予定である。
となっている。

Reading Backwardsに関してはこちらのサイトで簡単にライトの推薦文を紹介しておいた。

With his characteristic blend of biblical and literary scholarship, Hays opens new and striking vistas on texts we thought we knew--and, particularly, on the early church's remarkable belief in Jesus as the embodiment of Israel's God."
--N.T. Wright, Professor of New Testament and Early Christianity, University of St Andrews

講演を通訳した河野師は英語テキストの翻訳もしてくれて参加者に配られた。今回の講演三つともまるで英日両語テキストを比較しながら聞くようなインターリニヤー状態でした。(笑)

ではアウトラインだけ英語のまま掲載します。

I. Introduction: The Evangelists as Retrospective Scriptural Interpreters
 A. The Multivocality of the Gospels
 B. Mark: Figuring the Mystery of the Kingdom
 C. Matthew: Torah Transfigured
 D. Luke: The Story of Israel's Redemption
 E. John: Refiguration of Israel's Temple and Worship
 F. The Challenges of Diversity
II. Gospel-Shaped Hermeneutics?
多分以下の部分を引用するだけでも輪郭がうっすらと感じられると思います。
...the four canonical Gospels are hermeneutically intertwined with the Scriptures of Israel. The more closely I have studied this phenomenon, the more I have been drawn to the conclusion that the OT teaches us how to read the Gospels and that--at the same time--the Gospels teach us how to read the OT. The hermeneutical key to this intertextual dialectic is the practice of figural reading: the discernment of unexpected patterns of correspondence between earlier and later events or persons within a continuous temporal stream.
四つの正典福音書がイスラエルの聖典と解釈学的に絡み合っている仕方について、・・・私は、この現象についてより詳細に研究すればするほど、旧約が私たちにどのように福音書を読むべきかを教えている、との結論へと導かれてきました。この間テクスト的弁証法に対する解釈学的な鍵は、比喩的読解( figural reading) の実践にあります。それはつまり、連続する時間的な流れの中における、先の出来事と後の出来事、あるいは先の人物と後の人物との間の、予期せぬ対応関係のパターンを識別するということです。
比喩的読解についてエリッヒ・アウエルバッハの考察をベースにしているのですが、その部分を続いて以下に(日本語翻訳だけ)引用します。
比喩的解釈においては、間テクスト的な意味論上の効果は、双方向に流れることができます。つまり、先のテクストが後のテクストを照らすとともに、その逆もある、ということです。しかし、ある比喩的対応関係の二つの極の、時間的に秩序付けられた連結は、その比喩の把握(the comprehension of the figure)ーーエリッヒ・アウエルバッハが intellectus spiritualis (霊的洞察)として描写した理解の行為ーーが、回顧的 (retrospective) でなければならないことを要求します。特に、この講演の主題との関連で言えば、旧約の比喩的・キリスト論的読解は、イエスの生、死、および復活の光において、ただ回顧的にのみ可能である、ということです。したがって、律法と預言者はイエスの生涯における出来事を意図的に予告している (predicting) 、といった読み方は、比喩的解釈の視点からすれば、解釈学的な大失敗ということになるでしょう。(強調は筆者)

ここでヘイズによって主張されていることを少し強引に説明してみます。

「旧約(預言)は新約のイエスにおいて成就した」と言う時の単純な《時間的関係》での《意味関係》を、解釈学的な関係で捉え直せば、実はそのような理解は回顧的解釈によって可能になることなのだ、と言うことだと思います。

少し体験的な例を用いて説明してみましょう。

ルカ24章に以下のような箇所があります。
さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。(24:44-47、新共同訳)
昔ここの箇所を読んで、「次のように書いてあります」とあるので、旧約聖書のどの箇所だろう、などと思ったことがあります。

実際にはダイレクトにそのように言及されている箇所はない(と言うのが筆者の理解です)が、何箇所かそれに近いような箇所はあります。

《キリストの受難》で言うと有名なのが、イザヤ書53章の『苦難の僕』です。

昔は聖書の真理性を説明するのに、「ほらここにはキリストの苦難の予言が書いてあるでしょう。これは何とそのことが起こる600年前に既に書かれていたのですよ」みたいな使い方があったようです。

これだと、《時間的関係》で先(古い)のものが、後に来るものの意味を明示(予告)していた、と言うかなりダイレクトな対応関係となります。

一般の聖書読者は「聖書預言」をそのようなダイレクトな対応関係のパターンとして理解しているのではないかと思います。

しかし、ヘイズは(預言に限らず)むしろ「予期せぬ」ものであったり、「逆であったり」する間テクスト関係が(四福音書と旧約聖書の間に)成り立つことを論証しているわけですね。

特に「イエス・キリスト」と言う歴史の出来事と旧約聖書(と言う書かれたテクスト)との間に成り立つ関係で言うと、福音書の中で度々弟子たちの「無理解」や「戸惑い」で例証されるように、目の前でイエスが行っている出来事の意味や意義は、その時点では明らかでなかったが、イエスの死と復活の後に「ああ、そう言うことだったのか」と言う風に理解されるパターン、がそうであったということです。

例えばこの箇所が最もよくその点を指摘していると思います。
イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。
イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。 (ヨハネ福音書2:19-22、新共同訳)
また、イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入場した出来事も同様に解説されています。
イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」
弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。 (ヨハネ福音書12:14-16、新共同訳)
これらは言ってみれば福音書記者(弟子の視点)のそっと挿入された自画像的説明で、読者への解釈法的ヒントにもなるものです。

ヘイズはこのような解釈視点を、エリッヒ・アウエルバッハの文学理論的洞察を援用しながらシステマティックにやっているのだと思います。


ではここで、ヘイズ日本講演、1で説明を延期した「神学的な解釈」の第9ポイントに少し触れます。
9. Theological exegesis thereby is committed to the discovery and exposition of multiple senses in biblical texts. Old Testament texts, when read in conjunction with the story of Jesus, take on new and unexpected resonances as they prefigure events far beyond the historical horizon of their authors and original readers. The NT's stories of Jesus, when understood as mysterious fulfillments of long-ago promises, assume a depth beyond their literal sense as reports of events of the recent past. Texts have multiple layers of meaning that are disclosed by the Holy Spirit to faithful and patient readers. 
ここで言われる、multiple sensesmultiple layers of meaningを聖霊の啓示によって発見して行くのが神学的な解釈であり、それを四福音書の読解で実践しているのが、Reading Backwards、あるいはそのダイジェスト版報告であるこの講演、と言うことになるかと思います。


かなり洗練された内容の講演の報告ですので、本当に本の一部しか言及できませんでしたが、Reading Backwardsを購入して読んでいただくか、または下記の動画で各福音書について講演したものがあるので、それを参照して頂くとよいかと思います。

1. Torah Reconfigured (マタイ福音書)