元旦礼拝
2020年1月1日(水) 午前10時30分
朗読箇所 エペソ人への手紙 4:1-32
説 教 題 「キリスト者の召命と挑戦」
説 教 者 小嶋崇 牧師
またあなたがたが 心の霊において新しくされ。
(エペソ 4:23、新改訳)
巣鴨聖泉キリスト教会(日本聖泉キリスト教会連合)創立1965年。 大和郷の一角にある緑と花に囲まれた教会、隣には牧師の木工房。 静かに賛美と聖書の学び、そんな礼拝の時をお過ごしください。
2019年12月31日火曜日
2019年12月21日土曜日
クリスマスイブ礼拝案内
キャンドルライト礼拝
12月24日(火) 夕7時~
※礼拝は1時間弱。その後軽食パーティー。
※この礼拝が年内最終集会となります。
待降節第四主日 2019年12月22日(日)
降誕節第一主日 2019年12月29日(日)
は巣鴨聖泉キリスト教会での礼拝はありません。
は巣鴨聖泉キリスト教会での礼拝はありません。
新年は・・・
2020年1月1日(水)の元旦礼拝がスタートとなります。
時間は通常と同じ、10時30分~
時間は通常と同じ、10時30分~
以上年末年始の主日礼拝は不規則となりますのでご了承ください。
巣鴨聖泉キリスト教会
牧師 小嶋崇
巣鴨聖泉キリスト教会
牧師 小嶋崇
2019年12月14日土曜日
明日の礼拝案内
待降節第三主日 クリスマス礼拝
2019年12月15日(日) 午前10時30分
朗読箇所 ルカの福音書 19:1-11
説 教 題 「罪人の客として」
説 教 者 小嶋崇 牧師
これを見た人たちは皆つぶやいた。
「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
(ルカ19:7、新共同訳)
2019年12月15日(日) 午前10時30分
朗読箇所 ルカの福音書 19:1-11
説 教 題 「罪人の客として」
説 教 者 小嶋崇 牧師
これを見た人たちは皆つぶやいた。
「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
(ルカ19:7、新共同訳)
2019年12月7日土曜日
2019年11月30日土曜日
明日の礼拝案内
待降節第一主日礼拝
2019年12月1日(日) 午前10時30分
朗読箇所 マルコの福音書 1:1-11
説 教 題 「神の子と聖霊」
説 教 者 小嶋崇 牧師
※礼拝後、役員会があります。
2019年12月1日(日) 午前10時30分
朗読箇所 マルコの福音書 1:1-11
説 教 題 「神の子と聖霊」
説 教 者 小嶋崇 牧師
※礼拝後、役員会があります。
2019クリスマスフェア
2019年11月26日火曜日
礼拝案内 (2019年12月)
【礼拝】 【礼拝後】 【その他】
12/1 第一アドベント礼拝 役員会
/8 第二アドベント礼拝
/15 クリスマス礼拝 (クリスマスフェア11:30~16:00)
/24(火) イブ燭火礼拝 夕7:00~
「活水工房」でのクリスマスフェア2019は以下の通り。
12/14(土) 11:00~16:00
12/15(日) 11:30~16:00
※礼拝はいずれも10時30分からです。
※12月22日及び12月29日の「主日礼拝」はお休みとなります。
※2020年は、1月1日(水)元旦礼拝から開始します。時間は通常通り10時30分からです。
今日のツイート 2019/11/26
なんと一年以上ぶりの「今日のツイート」になります。
これはトランプのケースについての「聖書(の神)」を使った神学的誤用を衝いたツイートですね。
ぶら下がりコメントのうちBradさんが「誤用」の要因が、神学的に正しいポイントでも適正なボーダーラインを越えて使いだすと大怪我をする、という妥当な指摘をしていますね。
This is indeed one of the dangers of a deterministic Calvinist theology in which if it happens, God wills it. https://t.co/J9lruH9j1V— David Gushee (@dpgushee) November 25, 2019
これはトランプのケースについての「聖書(の神)」を使った神学的誤用を衝いたツイートですね。
ぶら下がりコメントのうちBradさんが「誤用」の要因が、神学的に正しいポイントでも適正なボーダーラインを越えて使いだすと大怪我をする、という妥当な指摘をしていますね。
2019年11月23日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
2019年11月17日(日) 午前10時30分
朗読箇所 エペソ 4:1-16
説 教 題 「成熟した人間になる」
説 教 者 小嶋 崇 牧師
エペソ書講解(21)
2019年11月17日(日) 午前10時30分
朗読箇所 エペソ 4:1-16
説 教 題 「成熟した人間になる」
説 教 者 小嶋 崇 牧師
エペソ書講解(21)
ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。(エペソ4:13、新共同訳)
The purpose of this is that we should all reach unity in our belief and loyalty, and in knowing God’s son. Then we shall reach the stature of the mature Man measured by the standards of the king’s fullness. (Kingdom New Testament)
2019年11月16日土曜日
明日の礼拝案内
収穫感謝礼拝
2019年11月17日(日) 午前10時30分
朗読箇所 使徒の働き 14:8-18
説 教 題 「世代間で『隣人』となる」
説 教 者 小嶋崇 牧師
※持寄り昼食会があります。
2019年11月17日(日) 午前10時30分
朗読箇所 使徒の働き 14:8-18
説 教 題 「世代間で『隣人』となる」
説 教 者 小嶋崇 牧師
※持寄り昼食会があります。
2019年11月13日水曜日
活水工房ティールーム
オープン日時
★毎週、水曜日、11:30~14:30
※年内(年始)の休み……12月11日、12月25日、1月1日、1月8日
メニュー
★コーヒー、100円(現在はBROOK'Sのドリップ式)
★お茶、50円(緑茶、玄米茶)
◆メニューに紅茶はありませんが、この空間を「ティールーム」と呼んでいます。
◆木工房に付属しているスペースなので、写真(最上)ほどいつもきれいにしているわけではありません。
◆その代わりと言っては何ですが、木の香り(特に杉)、木材、カンナなど工具が並べられているのを見るのも一興ではないかと思います。
お問い合わせ: 03-3946-8035
(メール) sugamo_seisen(*)yahoo.co.jp
ラベル:
お知らせ,
案内,
活水工房ティールーム,
地域紹介,
木工
2019年11月9日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
2019年11月10日(日) 午前10時30分
朗読箇所 ルカの福音書 2:22-52
説 教 題 「神と人とに愛される」
説 教 者 小嶋崇 牧師
※幼児祝福式があります。
2019年11月10日(日) 午前10時30分
朗読箇所 ルカの福音書 2:22-52
説 教 題 「神と人とに愛される」
説 教 者 小嶋崇 牧師
※幼児祝福式があります。
2019年11月5日火曜日
(3)「ルーツ」をどう捉えるか
先日の礼拝では「宗教改革」を記念した。
プロテスタントの教会だとある意味最もルーツと言える出来ごとかもしれない。
ただ「教会案内」を考えると、日本のような地域ではそれだけでは余り十分とは言えない。
更に昨今は「宗教不信」が以前より増してきたような観がある。
欧米では「Spiritual, Not Religious」などという。
要するに「組織(教会)としてのキリスト教」には関心ないが、「スピリチュアル(霊性)的なキリスト教の伝統・儀礼」にはそれなりに、という傾向である。
むかーし昔、当ブログで「・・・とは一切関係ありません。」という記事を書いたことがある。
「当教会は異端ではない(正統派だ)」という断り書きの文言で、まだまだ重宝されているようだ。
しかし昨今はそのようなレッテルで事が済むような時代ではなくなっている。所謂「カルト」呼ばわりが乱発される状況になっている。ネット時代になったこともそれに拍車をかけているだろう。
「自分たちが何であり、何でないか」を定義することは一筋縄ではいかない時代になっている、と感ずる次第である。
ただ「自分のルーツ」が何かという問題は、それを他人様にどう紹介するかということだけでなく、自己の存在根拠を正確に掴むために欠かせないものである。
これだけの偉そうな前置きを書いた上で、後に続くのが軽い文章で申し訳ないが、「ウェスレヤン・メソジスト」というルーツに関する記事等を紹介したい。
日本では「ホーリネス」とか「きよめ派」とか呼ばれるグループがある。巣鴨聖泉キリスト教会もその流れの中にあるのだが、最近この流れに関する本が著された。
著者の中村敏氏は「聖泉連合」と多少関わりがあり、当連合が今年50周年を迎えるにあたって企画した「研修会」(2020年2月)の講師でもある。
まさにドンピシャリのタイミング(と言っていいかどうか…)で、日本における「ホーリネスの一大潮流」を形成した人物である中田重治に焦点を当てた書物を著してくださったわけだ。
さて話は飛ぶが、「中田重治とその時代」はほぼ「20世紀」のことであるが、それから2世紀遡って「ジョン・ウェスレー(たち)」が始めたメソジスト運動(教会)についてのことになる。
北米には(合同)メソジスト公認の神学校が7つ8つあるが、その中でもプレスティージの高い学校がデューク大学(神学部)である。
今年ウェスレー研究者として著名なランディー・マドックス教授が退官されるというニュース(記事)を目にした。
特にウェスレー研究の大家であったアルバート・アウトラーとの対比でマドックスの主著Responsible Grace: John Wesley's Practical Theology (Kingswood Series) を紹介しているのだが、アウトラーとの継続性と共に、ウェスレー神学の総合的な分析としてアウトラーを凌ぐ点を挙げてまとめているのが目を引いた。
短い文章なので同じルーツの人は勿論、ウェスレーに関心のある方にも是非。
【パーソナル・ノート】
さいわいなことに、まだランディ・マドックスがいかなる人物かを知らないときに(多分もう10年位前のこと)、日本の書店(教文館?)でたまたま手にして(本のタイトルを判断材料にして)購入した。洋書なのになんと価格は4,710 1,500円であった。(我ながら目利きだなー。笑)
プロテスタントの教会だとある意味最もルーツと言える出来ごとかもしれない。
ただ「教会案内」を考えると、日本のような地域ではそれだけでは余り十分とは言えない。
更に昨今は「宗教不信」が以前より増してきたような観がある。
欧米では「Spiritual, Not Religious」などという。
要するに「組織(教会)としてのキリスト教」には関心ないが、「スピリチュアル(霊性)的なキリスト教の伝統・儀礼」にはそれなりに、という傾向である。
むかーし昔、当ブログで「・・・とは一切関係ありません。」という記事を書いたことがある。
「当教会は異端ではない(正統派だ)」という断り書きの文言で、まだまだ重宝されているようだ。
しかし昨今はそのようなレッテルで事が済むような時代ではなくなっている。所謂「カルト」呼ばわりが乱発される状況になっている。ネット時代になったこともそれに拍車をかけているだろう。
「自分たちが何であり、何でないか」を定義することは一筋縄ではいかない時代になっている、と感ずる次第である。
ただ「自分のルーツ」が何かという問題は、それを他人様にどう紹介するかということだけでなく、自己の存在根拠を正確に掴むために欠かせないものである。
これだけの偉そうな前置きを書いた上で、後に続くのが軽い文章で申し訳ないが、「ウェスレヤン・メソジスト」というルーツに関する記事等を紹介したい。
日本では「ホーリネス」とか「きよめ派」とか呼ばれるグループがある。巣鴨聖泉キリスト教会もその流れの中にあるのだが、最近この流れに関する本が著された。
著者の中村敏氏は「聖泉連合」と多少関わりがあり、当連合が今年50周年を迎えるにあたって企画した「研修会」(2020年2月)の講師でもある。
まさにドンピシャリのタイミング(と言っていいかどうか…)で、日本における「ホーリネスの一大潮流」を形成した人物である中田重治に焦点を当てた書物を著してくださったわけだ。
さて話は飛ぶが、「中田重治とその時代」はほぼ「20世紀」のことであるが、それから2世紀遡って「ジョン・ウェスレー(たち)」が始めたメソジスト運動(教会)についてのことになる。
北米には(合同)メソジスト公認の神学校が7つ8つあるが、その中でもプレスティージの高い学校がデューク大学(神学部)である。
今年ウェスレー研究者として著名なランディー・マドックス教授が退官されるというニュース(記事)を目にした。
マーク・ゴーマンという方がマドックス教授のウェスレー研究の意義を簡単に紹介している記事で、昨今ウェスレー研究には不案内な筆者にとっては大変ありがたいものである。
特にウェスレー研究の大家であったアルバート・アウトラーとの対比でマドックスの主著Responsible Grace: John Wesley's Practical Theology (Kingswood Series) を紹介しているのだが、アウトラーとの継続性と共に、ウェスレー神学の総合的な分析としてアウトラーを凌ぐ点を挙げてまとめているのが目を引いた。
短い文章なので同じルーツの人は勿論、ウェスレーに関心のある方にも是非。
【パーソナル・ノート】
さいわいなことに、まだランディ・マドックスがいかなる人物かを知らないときに(多分もう10年位前のこと)、日本の書店(教文館?)でたまたま手にして(本のタイトルを判断材料にして)購入した。洋書なのになんと価格は
2019年11月2日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
2019年11月3日(日) 午前10時30分
朗読箇所 コリント第一 15:20-28
説 教 題 「再び来られる主イエス」
説 教 者 小嶋崇 牧師
使徒信条考(15)
※聖餐式があります。
2019年11月3日(日) 午前10時30分
朗読箇所 コリント第一 15:20-28
説 教 題 「再び来られる主イエス」
説 教 者 小嶋崇 牧師
使徒信条考(15)
※聖餐式があります。
2019年10月28日月曜日
礼拝案内 (2019年11月)
2019年11月のスケジュールです。
【礼拝】 【礼拝後】 【その他】
11/3 聖餐礼拝 役員会
/10 フリースタイル礼拝
/17 収穫感謝礼拝 持寄り昼食会
/24 エペソ 21
【礼拝】 【礼拝後】 【その他】
11/3 聖餐礼拝 役員会
/10 フリースタイル礼拝
/17 収穫感謝礼拝 持寄り昼食会
/24 エペソ 21
※礼拝はいずれも10時30分からです。
※11月17日の 収穫感謝礼拝 にご参加くださる方は何か一つ「地の産物」(野菜・果物・穀物など)をお持ちください。
※11月17日の 収穫感謝礼拝 にご参加くださる方は何か一つ「地の産物」(野菜・果物・穀物など)をお持ちください。
2019年10月26日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
2019年10月27日(日) 午前10時30分
朗読箇所 ローマ人への手紙 14:1-23
説 教 題 「聖霊よらなければ」
説 教 者 小嶋崇 牧師
※「宗教改革記念」の礼拝です。
2019年10月27日(日) 午前10時30分
朗読箇所 ローマ人への手紙 14:1-23
説 教 題 「聖霊よらなければ」
説 教 者 小嶋崇 牧師
※「宗教改革記念」の礼拝です。
2019年10月19日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
2019年10月20日(日) 午前10時30分
朗読箇所 マルコの福音書 6:45-52
説 教 題 「安心しなさい。ともにおられる。」
説 教 者 小嶋崇 牧師
※礼拝後、昼食会があります。
2019年10月20日(日) 午前10時30分
朗読箇所 マルコの福音書 6:45-52
説 教 題 「安心しなさい。ともにおられる。」
説 教 者 小嶋崇 牧師
※礼拝後、昼食会があります。
2019年10月12日土曜日
2019年10月5日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
2019年10月6日(日) 午前10時30分
朗読箇所 使徒の働き 10:34-43
説 教 題 「さばき主イエス」
説 教 者 小嶋崇 牧師
使徒信条考(14)
※聖餐式があります。
2019年10月6日(日) 午前10時30分
朗読箇所 使徒の働き 10:34-43
説 教 題 「さばき主イエス」
説 教 者 小嶋崇 牧師
使徒信条考(14)
※聖餐式があります。
2019年9月28日土曜日
2019年9月21日土曜日
2019年9月19日木曜日
秋の催しのご案内
※台風19号の影響で予定を一部変更しました。
Autumn Flower Festival
と銘打った小さな催しのご案内です。
日時:
10月12日(土) 11時~17時
10月13日(日) 12時~17時
10月14日(月) 11時~14時
場所:巣鴨聖泉キリスト教会 (東京都豊島区巣鴨1-3-19)
お花と音楽と美味しいケーキで
秋のひとときをお楽しみください
★ピアノ演奏 随時
★ウクレレ演奏“レフア” 10月14日(月)14時
★菓子工房“ぐらこ”
Autumn Flower Festival
と銘打った小さな催しのご案内です。
日時:
10月13日(日) 12時~17時
10月14日(月) 11時~14時
場所:巣鴨聖泉キリスト教会 (東京都豊島区巣鴨1-3-19)
(問合せ◆03-3946-8035、メール◆sugamo_seisen@yahoo.co.jp)
秋のひとときをお楽しみください
★ピアノ演奏 随時
★ウクレレ演奏“レフア” 10月14日(月)14時
★菓子工房“ぐらこ”
2019年9月14日土曜日
2019年9月7日土曜日
2019年8月31日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
2019年9月1日(日) 午前10時30分
朗読箇所 マタイ 4:23-25、9:35-38
説 教 題 「伝道と牧会、救霊者と羊飼い」
説 教 者 小嶋崇 牧師
「聖泉連合創立50周年」を記念して(2)
2019年9月1日(日) 午前10時30分
朗読箇所 マタイ 4:23-25、9:35-38
説 教 題 「伝道と牧会、救霊者と羊飼い」
説 教 者 小嶋崇 牧師
「聖泉連合創立50周年」を記念して(2)
2019年8月24日土曜日
2019年8月17日土曜日
2019年8月15日木曜日
(4) 2019「終末論」ノート③
今年6月10日の日本福音主義神学会・東部部会研究会に端を発したフェイスブック上の意見交換が「終末論の勉強会」に発展した経緯を書いてきた。(2019「終末論」ノート①、(4) 2019「終末論」ノート②)
勉強会に参加したのは筆者も含め3人。7月25日(木)の午前中、約2時間をかけてなかなか中身の濃い学びができた。
焦点は「千年王国」であったが、それだけにこだわらずなるべく広く浅く「終末」に関わる疑問や関心を話し合った。
(※ちなみにこの三人はもともと同じ教会グルーブに属し、かつては何回か神学の勉強会をした仲である。)
さて今回の勉強会では「千年王国」に多大な関心を寄せるK氏にメインの発表をしてもらい(と言っても20分ほどの短いプレゼン)、筆者が応答するという形をとった。
この記事には内容の詳述も紹介もしない。
と言うのもK氏はもともと「携挙」やそれに伴う「レフト・ビハインド」のイメージにかなり影響を受けてきたのが、前述したとおり大きく改変中の最中である。
「罪から救われて後は天国行き」のような「あの世」的キリスト教のパラダイムで生きてきたのが、ライトのような「この世」で積極的に生きるキリスト教のパラダイムに転換しつつあり、その文脈の中で「千年王国」の重要性に気づいたという経緯がある。
しかし筆者の方はと言うと、前述したように(本末転倒したようなと思える)終末論諸説を忌避し距離を取ってきた。
つまり、両者とも終末論に関しての聖書知識にしても、神学的把握にしても浅薄な段階ではまともな議論は無理だと思うのである。
(終末論に関して)知るべきことのせいぜい2~3割程度の者たちが勉強会でできることと言えば、幾らかでも大胆に自分の無知さ加減や疑問を披歴し、有益な著作や情報源を交換し、そのようにして今後の研鑽を相互に促すことだろうと思う。
K氏に関しては現時点での「千年王国」に力点を置いた「終末論」を自身のブログに掲載しているのでそれを参照されたい。
筆者の方でここに提供しておきたい資料としては、
①G.B.ケアード、Jesus and the Jewish Nation.
以上でひとまず終了することとする。
勉強会に参加したのは筆者も含め3人。7月25日(木)の午前中、約2時間をかけてなかなか中身の濃い学びができた。
焦点は「千年王国」であったが、それだけにこだわらずなるべく広く浅く「終末」に関わる疑問や関心を話し合った。
(※ちなみにこの三人はもともと同じ教会グルーブに属し、かつては何回か神学の勉強会をした仲である。)
さて今回の勉強会では「千年王国」に多大な関心を寄せるK氏にメインの発表をしてもらい(と言っても20分ほどの短いプレゼン)、筆者が応答するという形をとった。
この記事には内容の詳述も紹介もしない。
と言うのもK氏はもともと「携挙」やそれに伴う「レフト・ビハインド」のイメージにかなり影響を受けてきたのが、前述したとおり大きく改変中の最中である。
「罪から救われて後は天国行き」のような「あの世」的キリスト教のパラダイムで生きてきたのが、ライトのような「この世」で積極的に生きるキリスト教のパラダイムに転換しつつあり、その文脈の中で「千年王国」の重要性に気づいたという経緯がある。
しかし筆者の方はと言うと、前述したように(本末転倒したようなと思える)終末論諸説を忌避し距離を取ってきた。
つまり、両者とも終末論に関しての聖書知識にしても、神学的把握にしても浅薄な段階ではまともな議論は無理だと思うのである。
(終末論に関して)知るべきことのせいぜい2~3割程度の者たちが勉強会でできることと言えば、幾らかでも大胆に自分の無知さ加減や疑問を披歴し、有益な著作や情報源を交換し、そのようにして今後の研鑽を相互に促すことだろうと思う。
K氏に関しては現時点での「千年王国」に力点を置いた「終末論」を自身のブログに掲載しているのでそれを参照されたい。
筆者の方でここに提供しておきたい資料としては、
①G.B.ケアード、Jesus and the Jewish Nation.
割合短い論文だが、イエスの神の国宣教がイスラエルという民族国家を対象にした迫りくる国難回避の一大キャンペーンの性格のものであったことを論証している。
②Oskar Skarsaune, “Jewish Christian Sources Used by
Justin Martyr and Some Other Greek and Latin Fathers.” P. 412. Ch. 13 of Oskar
Skarsaune and Reidar Hvalvik, eds. Jewish Believers in Jesus. Hendrickson,
2007
近年、初期キリスト教史における「ユダヤ人キリスト者の影響」研究が盛んになってきた。オスカー・スカルサウネは以下の様に「メシア王国」への期待がオリゲネスの時代以降にも生き残っていたことを例証している。
Having surveyed the material in Justin and Irenaeus in this brief fashion, it remains to add some words on the development of the millennial tradition more generally. I use “millennial” here in a rather loose sense, and should perhaps talk about “literal fulfillment of the messianic prophecies on this earth” as the topic of primary interest in our context. Whether this fulfillment is conceived to take place according to a one-step eschatological model (life eternal taking place on earth, and being inaugurated at Christ’s return), or a two-step model (a millennial period on earth prior to life eternal) is of less importance. According to both models, fulfillment of messianic prophecies is taken to be both literal and earthly, with a renewed (earthly) Jerusalem in its center.
From Origen onwards, this way of thinking about the realization of the biblical prophecies was branded “Jewish.” Such was the influence of Origen that most of the Fathers followed him in his denunciation of “Jewish” eschatology. “Millennialism” was gradually marginalized. It did not disappear, however, and may have been stronger “on the ground” than our rather selective sources will make us believe. ……In the latter half of the fourth century, Jerome quoted and combatted a strikingly Jewish interpretation of messianic prophecies that amounted to a remarkable millenarian scenario in which the millennium would be the messianic reign of Christ among a restored Jewish people in Jerusalem. Jerome’s unnamed source for this is probably Apollinaris of Syrian Laodicaea.
以上でひとまず終了することとする。
2019年8月13日火曜日
(4) 2019「終末論」ノート②
既にライトの『驚くべき希望』も読み、最近「終末」や「福音」についての理解が大きく変化してきたと言うK氏(フェイスブック友達でもある)。
「ではライトは『千年王国』についてはどういう位置づけなのか」、と言う問いを出された。
なるほどライトは(前回書いた「終末論の整理」でいうと)、(1)個人的終末論、と(3)宇宙的終末論の正しい関係については関心を示すが、(2)民族的終末論に関係する千年王国については『驚くべき希望』ではほとんど何も言及していない。
(※「千年王国/黙示録の解釈問題」は『神の子の復活(The Resurrection of the Son of God)』で多少扱われているのは確認した。)
最初はスルーしようかとも思ったのだが、改めて考えてみて「これは学びの良い機会」「終末論の整理の良い機会」になるのではと思い「『終末論』の勉強会」を企画することにした。
筆者は(日本の福音派の中で)ホーリネスと言う流れに属するが、実は「千年王国」に関しては殆ど関心を持たずに来てしまった。(そのことはフェイスブックにはコメントしておいた。)
だから「再臨」が「千年期」の前・後・無のどれになるのかの諸説については殆ど知ろうともしなかったし、ましてや「携挙」があるなし云々など考えるだに忌避していた。
ところが筆者の周りでは案外これらの諸説に関して熱っぽい関心を持っている方がいて「やれやれ」と思うことも多く、筆者が本末転倒と考えるこれらの終末論諸説のせいで終末論自体に長い間距離を取ってきたと言える。
1 「神の国」とメシア、福音書の意味の地平
忌避し距離を取ってきた「終末論」だが、礼拝の学びで「共観福音書」を講解するようになりそうも行かなくなった。(もうだいぶ前の話)
「神の国」とは何か。
初歩的なワードスタディでもがいているときにたまたま友人から寄贈されたG・B・ケアードの『新約聖書神学』が開眼を与えてくれ、さらにケアードの指導のもと博士論文を書いたN・T・ライトの特に『イエスと神の勝利(Jesus and the Victory of God)』が明確なアプローチを示してくれた。
(※このあたりの経緯については、自伝的「新約聖書学」最近研究状況レポート、 N・T・ライトを中心に、に書いた。)
さて質問をくれたK氏はかなり変わってきた自身の福音理解を現時点でパッケージにすると以下のようになるという。
今では、私の理解する福音は、1十字架での罪の赦し、2朽ちない体への蘇り、3キリストの来臨と悪の清算、4キリストのこの地上での千年間の統治、そして5新天新地の永遠の秩序、というパッケージです。これに対してまず筆者が思ったことは、(終末に起こるとされる様々な出来事を整合的に順序づけることよりも)いかにしてナザレのイエスによる「神の国」の福音が使徒たちの宣教に継続・展開していったかを知ることの方が大事ではないかということ。
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイの福音書28章18-20節、新共同訳)それは神学的にも歴史的にも「イエスの宣教」「使徒たちの宣教」を理解することであり、イエスのガリラヤ宣教から、使徒たちのユダヤ人伝道・異邦人伝道へと展開していく内在的論理を把握するということである。
すなわち「千年王国」というような「メシアの統治による王国」が、イエスの宣教においても、使徒たちの宣教においても、少なくとも表面上はバイパスされてユダヤ人伝道そして異邦人伝道へと継続・展開していったか、を理解することであった。
(このバイパス展開を示唆するものとして以下の箇所を掲げておく。)
さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。ご存知のようにメシアと期待したイエスがローマによって十字架刑死させられ、一旦は崩壊したと見えたイエスの神の国運動であった。イエス運動支持者たちの心中が端的にルカ24章のエマオ途上の弟子の一人によって表白されている。
イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒の働き1章6-8節、新共同訳)
わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。(ルカの福音書24章21節、新共同訳)すなわち、イースター後の弟子たちは依然として「イスラエル復興」への期待を保持しており、復活前にイエスによって予告されていた「旧約預言者たちが語っていた『神の国』の(隠された)ストーリー・ラインは、キリストの(十字架の)死と復活によって成就する」ことをまだ十分に理解していなかったのであった。
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」K氏の疑問である『千年王国』の「終末の歴史的位置付け」の問題は、単にライトによって回避されているだけでなく、「メシア王国の現世的・政治的実現」がイエスの宣教においても、また使徒たちへの宣教命令においても、表面上は一旦脇に置かれていることを確認する必要があるだろう。
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。 (ルカの福音書24章44-48節、新共同訳)
(共観)福音書が描く、一世紀当時顕在的・支配的であった『神の国』シナリオは、「メシア」がもたらす「イスラエルの民族的・国家的回復」として国際政治的文脈上に実現するはずのものであった。具体的にはローマによる支配からの脱却・解放であった。
おそらくイエスの弟子たちもこのシナリオの延長線上でイエスの「神の国」宣教を理解しようとしていたのであった。
しかしイエスはこのような顕在的支配的神の国のシナリオではなく、十字架と復活、聖霊と(ユダヤ人と異邦人による一つの)教会、という神の国の隠れた(アポカリプティックな)展開を聖書から読み取っていた、と筆者はそのように思うのである。
さて本論に入り始めたがとてもとても一回では書ききれなかった。次回に続けることにする。
2019年8月11日日曜日
(4) 2019「終末論」ノート①
今年になって数カ月に一回くらいの「(新)コンテンツ」掲載ペースだが、今回は最近の学びのことを取り上げてみたい。
学びのテーマは「終末論」。
※何回かに分けて連載することになるみたいだ。
1 「終末論」とは何か
「終末論」をまず簡単に説明してみよう。
「創造論」や「キリスト論」「救済論」「教会論」などがある《キリスト教(組織)神学》の一項目だ。
英語では"eschatology"「The Last Things(終わりの事柄)」についてのことだ。
トピックとしては「永遠のいのち」「最後のさばき」「天国と地獄」などが標準的であるが、「世の終り」や「ハルマゲドン」「携挙」「千年王国」など人によって関心の高いトピックも含む。
2 きっかけ
もう2か月前になるが、日本福音主義神学会・東部部会の研究会があった。その時のテーマが「キリスト者の希望」であった。
キリスト教神学で言う「終末論」に整理されるテーマであるが、新約聖書の表現でもあり又より平たい表現として「キリスト者の希望」と言うテーマで案内がされた。
この講演会が終わってから、今回の学びの背景ともなっているN・T・ライト『驚くべき希望』を出版したあめんどうのオブチさんがフェイスブックに小さなレポートを投稿した。
そのレポートを筆者が「シェア」して「コメント」したのがきっかけと言えばきっかけだ。
3 「終末論」の勉強会に発展
フェイスブックに載せた筆者のコメントでその後の勉強会に発展する元となったのが「終末論の整理」として掲げた、(1)個人的終末論、(2)民族的終末論、(3)宇宙的終末論であった。
6月10日の研究会ではライトの『驚くべき希望』が背景にあったにも関わらず、聴衆の関心は「個人的終末論」に終始していた感があった。(その要因は多少は論者の方にもあったように思う。)
つまり最初に「終末論の主要な範囲」として「個人的終末論」以外のものも視野に入れておかないと、長年の思考習慣でどうしても個人的終末論に終始してしまうようになることは予測しておかなければならなかったと思っている。
4 ライトの『驚くべき希望』のアプローチ
ライトが描く終末論は上に紹介した「終末論の主要な範囲」でいうと何よりも「(3)宇宙的終末論」の強調にあると言っていいだろう。
「キリスト者の(将来の)希望」である復活(使徒信条の「からだのよみがえり」)は個人的な救いの完成として完結するのではなく、あくまで宇宙的終末論である「新しい創造」のピースとして重要なのである。
『驚くべき希望』の《第Ⅱ部 神の将来の計画》5章「宇宙の将来・進歩、それとも絶望?」の導入でライトは以下の様に断っている。
ライトの終末論のチャレンジは、キリストの復活の意義を論ずるにあたって「救済論」の次元で終始してしまい、なかなか「認識論的・世界観的」意義にまで掘り下げていない状況へのチャレンジでもある。
(以下は4章「2.イースターと歴史」の「(2)認識論的・世界観的挑戦」における『新しい創造の挑戦』からの引用。)
さて前置きはそこまでにして、次回実際にどんな「『終末論』の勉強会」になったかレポートしてみたい。
学びのテーマは「終末論」。
※何回かに分けて連載することになるみたいだ。
1 「終末論」とは何か
「終末論」をまず簡単に説明してみよう。
「創造論」や「キリスト論」「救済論」「教会論」などがある《キリスト教(組織)神学》の一項目だ。
英語では"eschatology"「The Last Things(終わりの事柄)」についてのことだ。
トピックとしては「永遠のいのち」「最後のさばき」「天国と地獄」などが標準的であるが、「世の終り」や「ハルマゲドン」「携挙」「千年王国」など人によって関心の高いトピックも含む。
2 きっかけ
もう2か月前になるが、日本福音主義神学会・東部部会の研究会があった。その時のテーマが「キリスト者の希望」であった。
キリスト教神学で言う「終末論」に整理されるテーマであるが、新約聖書の表現でもあり又より平たい表現として「キリスト者の希望」と言うテーマで案内がされた。
この講演会が終わってから、今回の学びの背景ともなっているN・T・ライト『驚くべき希望』を出版したあめんどうのオブチさんがフェイスブックに小さなレポートを投稿した。
そのレポートを筆者が「シェア」して「コメント」したのがきっかけと言えばきっかけだ。
3 「終末論」の勉強会に発展
フェイスブックに載せた筆者のコメントでその後の勉強会に発展する元となったのが「終末論の整理」として掲げた、(1)個人的終末論、(2)民族的終末論、(3)宇宙的終末論であった。
6月10日の研究会ではライトの『驚くべき希望』が背景にあったにも関わらず、聴衆の関心は「個人的終末論」に終始していた感があった。(その要因は多少は論者の方にもあったように思う。)
つまり最初に「終末論の主要な範囲」として「個人的終末論」以外のものも視野に入れておかないと、長年の思考習慣でどうしても個人的終末論に終始してしまうようになることは予測しておかなければならなかったと思っている。
4 ライトの『驚くべき希望』のアプローチ
ライトが描く終末論は上に紹介した「終末論の主要な範囲」でいうと何よりも「(3)宇宙的終末論」の強調にあると言っていいだろう。
「キリスト者の(将来の)希望」である復活(使徒信条の「からだのよみがえり」)は個人的な救いの完成として完結するのではなく、あくまで宇宙的終末論である「新しい創造」のピースとして重要なのである。
『驚くべき希望』の《第Ⅱ部 神の将来の計画》5章「宇宙の将来・進歩、それとも絶望?」の導入でライトは以下の様に断っている。
このトピック【将来の希望・刷新】について議論する上で、私が適切だと思う順番で話を進めていく。ライトが「適切だと思う順番」とは、「(3)宇宙的終末論」の視野を確立し、そしてその視野の中で「(1)個人的終末論」を論ずること、と言えるだろう。
個人への約束を最初に取り上げ、そこから被造物の刷新へと進むのでなく、聖書的な将来の世界像、すなわち現在の宇宙が、創造主であり贖い主である神によって上から下まですべて刷新されるというヴィジョンから始めたい。イエスの「再臨」や、その後の体を伴う復活については、その文脈の中でこそ適切に語ることができるのだ。(152-3)
ライトの終末論のチャレンジは、キリストの復活の意義を論ずるにあたって「救済論」の次元で終始してしまい、なかなか「認識論的・世界観的」意義にまで掘り下げていない状況へのチャレンジでもある。
(以下は4章「2.イースターと歴史」の「(2)認識論的・世界観的挑戦」における『新しい創造の挑戦』からの引用。)
イエスの復活は、キリスト者や神学者にだけでなく、歴史を学ぶ者にも科学を学ぶ者にも、いまのこの世界で起こった非常に奇妙な出来事としてではなく、そこから始まった世界の特徴を現す、じつに典型的で基本的な事柄として差し出されているということだ。それは古い世界で起こった不合理な出来事ではなく、新しい世界の象徴であり出発点なのである。キリスト教内で推進された主張、すなわちナザレのイエスがもたらしたものは、単なる新しい宗教の可能性や新しい倫理や新しい救いの方法ではなく、新しい創造であるという主張は、それくらい重要なことだった。(134)ライトが主張する「聖書全体のナラティブ/ストーリー」の強調は、「キリスト者の希望」にしても、その根拠となる「イエスの復活」にしても、「創造から新創造」の宇宙論的文脈に位置付けることにあると言えるだろう。
さて前置きはそこまでにして、次回実際にどんな「『終末論』の勉強会」になったかレポートしてみたい。
2019年8月10日土曜日
明日の礼拝はお休みとなります
巣鴨聖泉キリスト教会での明日、
8月11日の主日礼拝
はお休みとなります。
どうぞお間違えありませんようにお願い申し上げます。
※(東京は)猛暑日が続き、暑さが厳しい日々です。熱中症等 健康にはくれぐれも留意してお過ごしください。
8月11日の主日礼拝
はお休みとなります。
どうぞお間違えありませんようにお願い申し上げます。
※(東京は)猛暑日が続き、暑さが厳しい日々です。熱中症等 健康にはくれぐれも留意してお過ごしください。
2019年8月3日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
2019年8月4日(日) 午前10時30分
朗読箇所 Ⅱテモテ 1:1-14
説 教 題 「委ねられた良いもの」
説 教 者 小嶋崇 牧師
「聖泉連合創立50周年」を記念して(1)
2019年8月4日(日) 午前10時30分
朗読箇所 Ⅱテモテ 1:1-14
説 教 題 「委ねられた良いもの」
説 教 者 小嶋崇 牧師
「聖泉連合創立50周年」を記念して(1)
2019年7月27日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
2019年7月28日(日) 午前10時30分
朗読箇所 ルカ福音書 24:44-49、
使徒の働き 1:3-11
説 教 題 「目をさまし、すべてを見分け」
説 教 者 小嶋崇 牧師
「終末論」の学び
2019年7月28日(日) 午前10時30分
朗読箇所 ルカ福音書 24:44-49、
使徒の働き 1:3-11
説 教 題 「目をさまし、すべてを見分け」
説 教 者 小嶋崇 牧師
「終末論」の学び
2019年7月20日土曜日
2019年7月13日土曜日
2019年7月6日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
2019年7月7日(日) 午前10時30分
朗読箇所 使徒の働き 5:27-32
説 教 題 「父の神の右に座すイエス」
説 教 者 小嶋崇 牧師
使徒信条考(13)
※聖餐式があります。
2019年7月7日(日) 午前10時30分
朗読箇所 使徒の働き 5:27-32
説 教 題 「父の神の右に座すイエス」
説 教 者 小嶋崇 牧師
使徒信条考(13)
※聖餐式があります。
2019年6月29日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
2019年6月30日(日) 午前10時30分
朗読箇所 テモテⅡ 3:15-16
説 教 題 「なぜ聖書を翻訳しつづけるのか」
説 教 者 島先克臣氏(日本聖書協会編集部主事)
※「礼拝」は10時30分~11時10分です。
聖書セミナー(3)「聖書と翻訳」
(※質疑応答の時間も用意しています。)
※「セミナー」は11時20分~12時10分です。
2019年6月30日(日) 午前10時30分
朗読箇所 テモテⅡ 3:15-16
説 教 題 「なぜ聖書を翻訳しつづけるのか」
説 教 者 島先克臣氏(日本聖書協会編集部主事)
※「礼拝」は10時30分~11時10分です。
聖書セミナー(3)「聖書と翻訳」
「聖書協会共同訳の背景と特徴」
講師 島先克臣氏(日本聖書協会編集部主事)
日本では、70パーセント以上のキリスト教会が日本聖書協会の聖書(口語訳、新共同訳)を使っています。この度、聖書協会は、31年ぶりに、新たに聖書を翻訳・出版しました。今までの新共同訳、あるいは新改訳2017と比べ、どのような特徴があるのでしょうか。(※質疑応答の時間も用意しています。)
※「セミナー」は11時20分~12時10分です。
2019年6月22日土曜日
2019年6月15日土曜日
2019年6月10日月曜日
特別聖書セミナー(案内)
永遠のベストセラーと呼ばれる「聖書」について学んでみませんか。
講師は、昨年、新しい翻訳聖書を出版したばかりの裏方さんです。
2019年度★特別聖書セミナー★
6月30日(日)、10時30~12時10分
1部(礼拝)「なぜ聖書を翻訳し続けるのか」
2部(セミナー)「聖書協会共同訳の背景と特徴」
講師:島先克臣氏
日本聖書協会編集部主事補
1954年生まれ。3児の父。牧師、宣教師(フィリピン)。
英国グロースターシャー大学にてヘブライ語言語学で博士号取得。
フィリピンのアジア神学大学院准教授を経て、聖書協会共同訳翻訳事業のコーディネーターとして責任を持った。
すでに終了した「聖書セミナー」ⅠとⅡもちょこっと紹介しておきます。
(1) 礼拝、10:30~11:10
「なぜ聖書を翻訳し続けるのか」
イスラム教などと違い、キリスト教は聖書を現地語にひたすら翻訳し続け、その翻訳聖書を「神の言葉」、聖典としています。それはなぜなのでしょうか。
(2) セミナー、11:20~12:10
「聖書協会共同訳の背景と特徴」
日本では、70パーセント以上のキリスト教会が日本聖書協会の聖書(口語訳、新共同訳)を使っています。この度、聖書協会は、31年ぶりに、新たに聖書を翻訳・出版しました。今までの新共同訳、あるいは新改訳2017と比べ、どのような特徴があるのでしょうか。(※質疑応答の時間も用意しています。)
2019/3/31 「聖書とストーリー」
キリスト教の正典である聖書には、全体を一つに括るナラティブがある。それは創造から新創造へと繋がるストーリーである。このストーリーの大部分は、中東のとある一家族の繁栄に焦点が当てられている。しかし一家族に特に関心が絞られているからといって、創造主である神が他の民族や世界に関心を失ったというのではない。むしろ、神はこの一家族を選び出して(世界を)救出に乗り出そうとしたのである。旧約聖書正典の最後にどの文書が置かれるかはさておき、このストーリーはいまだ結末に至っていない未完の物語である。……この未完のストーリーの最後が示しているのは、創造主の癒しをもたらすために選ばれた民自らが救出と回復を必要としているということである。(N・T・ライト、『聖書とストーリー』)聖書は様々な「ストーリー/物語り」で構成されています。
(1)創造者なる神が「一家族」を選び祝福するという「一つの大きなストーリー」
(2)この家族/民族は様々な困難に遭い救出を経て「約束の地」に入り王国を築く
(3)この王国の繁栄と分裂、帝国による侵攻・捕囚と帰還
旧約聖書に綴られたこの一家族/民族の大小様々なストーリーに見え隠れしながら現わされてきた「神の導き」が、イエス・キリストにおいて実現し、その目的と方向が示される(新約聖書)。
2019/5/26 聖書セミナー(2)
1879年、メソポタミアのバビロン(現在のイラク)で発見された「キュロスの円筒印章(The Cyrus
Cylinder)」と呼ばれる約25㎝の粘土で作られた円筒。この「円筒印章」には、バビロニアの楔形文字で、ペルシャのクロス王が(紀元前)539年にバビロンの神マルドゥクの導きによってバビロンを制圧し、人々をナボニドス王の圧政から解放したこと、そしてクロス王によって善政が行なわれることが布告されている。
このクロス王の大改革の一つがバビロンに捕囚されていたイスラエル民族を祖国に帰還させ神殿を再建させることであった。エズラ1:1-5、Ⅱ歴36:22-23
このような国際政治的出来事の背後に(バビロン神マルドゥクではなく)ヤハウェがいることを預言者イザヤが言及している。イザヤ44:28、45:1-7
2019年6月8日土曜日
明日の礼拝案内
ペンテコステ 主日礼拝
2019年6月9日(日) 午前10時30分
朗読箇所 使徒の働き 2:1-21
説 教 題 「聖霊のバプテスマ」
説 教 者 小嶋崇 牧師
※礼拝後、昼食会があります。
2019年6月9日(日) 午前10時30分
朗読箇所 使徒の働き 2:1-21
説 教 題 「聖霊のバプテスマ」
説 教 者 小嶋崇 牧師
※礼拝後、昼食会があります。
2019年6月1日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
2019年6月2日(日) 午前10時30分
朗読箇所 使徒の働き 1:1-14
説 教 題 「復活と昇天」
説 教 者 小嶋崇 牧師
使徒信条考(12)
※聖餐式があります。
2019年6月2日(日) 午前10時30分
朗読箇所 使徒の働き 1:1-14
説 教 題 「復活と昇天」
説 教 者 小嶋崇 牧師
使徒信条考(12)
※聖餐式があります。
2019年5月25日土曜日
2019年5月18日土曜日
2019 友の会バザー
友の会バザーご案内
場所☆巣鴨聖泉キリスト教会 豊島区巣鴨1-3-19
活水工房(教会隣り) 豊島区巣鴨1-3-20
※開始1時間前に「整理券」が配られます。
出品物:
* 友の会ならではの吟味された手作り食品
* 友の会ならではの吟味された手作り食品
* 丁寧に心をこめて作った、エプロン、布巾、ピロケース、鍋帽子
* 恒例の雑貨、中古衣料など
* 恒例の雑貨、中古衣料など
☆収益金の一部は被災地に寄付されます。
主催:東京第一友の会 文京方面
2019年5月15日水曜日
(4)レイチェル・ヘルド・エヴァンズ (1981-2019)
久しぶりの更新を「残念」な記事で行わなければならない。
この「大和郷にある教会」ブログで何度も取り上げたことのあるレイチェル・ヘルド・エヴァンズ[*]が5月4日テネシー州ナッシュヴィルの病院で亡くなった。37歳だった。
*以前「エバンス」と表記していたが他出の表記と出来るだけ統一するため変更した。
この4月にインフルエンザに罹り、(治療のため服用した?)抗生物質に激しいアレルギー反応を起こし、脳に原因不明の発作(シージャー)が続いた。やむなく医療的昏睡状態に置いて様子を見ていたが、適切な処置を見い出す前に容体が悪化して亡くなった。
筆者が知ったのは5月5日の日曜日の朝。ツイッターのTLに「R.I.P. RHE(安らかに眠れ、レイチェル・ヘルド・エヴァンズ)」のようなメッセージが次々と流れてきた。
深刻な状況にあるらしいことはある程度分かっていたが、敢えて彼女のブログに上げられていた(らしい)夫のダンが行っていた続報更新を見ていなかった。
37歳での突然の死の報に、やはり愕然とした。
TLに溢れる「RHE(レイチェル・ヘルド・エヴァンズ)」へのメッセージを読みながら、間もなく自分なりのユーロジーのようなメッセージをツイートした。
……と書いてから10日が過ぎてしまった。
米国(のキリスト教界)ではかなり大きな出来事として受け止められているが、日本においては殆ど話題にすらなっていないようだ。わざわざこのような記事にまとめる意義があるかどうかこころもとないが、ある意味「エポックメーキングな人物」として当ブログに登場していただいたこともあり「追悼」の意も込めてアップする。
1. (北米の)エヴァンジェリカリズムの殻の問題
5月4日のツイート(↑)で指摘したことについて少し書き足す。
バイブル・ベルトで育ったRHEは最初は判で押したような保守的な福音主義信仰の持ち主であったが、父親(大学教員)の影響もあってか、かなりアグレッシブに自己の信仰を問い詰めるようになって行った。
その過程で信仰内容と言うものは「変化していく(evolve)」ものであることを次第に受容していくことになる。
その成長過程を著したのが『モンキー・タウンで進化する(Evolving In Monkey Town)』である。
ブロガーとして著者として多くのフォロワーたちの相談相手となったりするうちに、RHEはネット上で注目度を高め、次第に福音派における若年層のオピニオン・リーダーとなっていく。
しかしその求心力は単に「意見や見方が同じ」とか「親近感」とかに留まらず、上手く自分の意見を言ったり理解してもらえないで孤立感を持っていた若者たちに「自分をオープンにすることができる広場」を提供するオーガナイザー・ファシリテーターとしての役割に負うところが大きかったように思う。
つまりRHEのファロワーとは、RHEの信仰的意見や生き方に共鳴したり同意しているからというよりも、そこ(主にブログ)に「自分を開く場所」「自分を受け入れてもらう場所」を得ているからなのだろうと思う。
そのような役回りを引き受けるにはRHE自身がくぐってきた「信仰進化(evolving faith)」の経験がやはり大きくものを言っているのだと思う。
フォロワーたちはそこに安心感を覚え信頼を寄せるのだろう。
成長期の若者が、正直に信仰その他について自分が抱いた疑問や不満を聞いてもらったり相談したり、また他人と意見交換したりというような環境がはたして「(北米の)エヴァンジェリカリズム」にあっただろうか、という問題が実は大きく横たわっていたように思う。
言ってみればそれら若者たちの心や頭の中でふつふつと湧き上がってくる悩みや疑問を受け止める柔軟性に「(北米の)エヴァンジェリカリズム」は大いに欠けていたきらいがある。
ともすると正統的信仰に対する「挑戦」「不信仰」「不従順」等ネガティブなものとして片付けられてしまう面が多分にあるように思う。
成長期の若者たちの信仰を仮に「新しいぶどう酒」にたとえると、「(北米の)エヴァンジェリカリズム」という「革袋」はやや古く固くなっていて、(彼らの疑問に柔軟に対応するよりも)裂けるのを抑えるのに必死、というような状態なのではないかと思う。
そういう状況でRHEがそのような傷つきやすい(vulnerable)若者たちの感性を受け止めて応対したからこそ、死後にあれほど多くのトリビュート・ツイートが発せられたのだと思う。
いずれにしても「(北米の)エヴァンジェリカリズムの殻の問題」をRHEほど鋭く指摘し追求した人物はいないのかもしれない。
2.世代間のずれは「意見の違い」なのか「感性のずれ」なのか
以下に参考までに「プログレッシブ福音主義なRHE」に対して「保守的な福音主義」の立場から「見解の相違」として書かれたふたつの記事を紹介したい。
一つはエド・ステッツァーでもう一つはロッド・ドレアーである。
エド・ステッツァー
Reflecting on Rachel: Why She Mattered
(以下の引用箇所にあるようにステッツァーにとってRHEはなかなか手ごわい相手であったようである。)
Blaspheming St. Rachel Held Evans
※この記事は「追悼」として書かれたのではなく、クリスチャニティ・トゥデー誌上でエド・ステッツァーの追悼記事の後に掲載され(そして批判を受けてすぐに削除され)た、ジョン・ストンストリートを擁護するとともに彼を非難したRHEシンパたちの「言論封殺」的な結果を憂慮する、といった感じで書かれたもののようである。
タイトルに「聖レイチェル」としているように、RHEの不慮の死後数日で批判めいた意見を含む追悼記事を書いたジョン・ストンストリートはそれほど批判されるべきだろうか、と保守派の論客ロッド・ドレアーの「プログレッシブ福音派」に牽制の意味が込められているようだ。
これらの記事を読んでみて思うのは、やはり福音派の保守(ジョン・ストンストリート)とプログレッシブ(RHEやジョンの追悼記事を非難した盟友のサラ・ベッシーなど)とのあいだには単なる見解の相違では済まない「世代的な感性のずれ」があるだろう。
それは一言でいうと「どちらが正しい意見を持っているか」に関心がある人と、「(どんな意見の人でも)受け入れる」ことに関心を向ける人、との感性の違い、と言うか人としての基本的態度の違いかなと思う。
たとい意見の相違が深刻であっても、それは置いておいて先ず受け入れようとする受容的態度が先行するのか、それとも原理原則に関することで自分と意見が異なる者には譲歩せず批判し拒否することを辞さない、ことを身上とするのか、と言うような違いである。
どうも保守派は往々にして「意見の正しさ」と言うことに対する(若者たちから見ると)過度の潔癖主義・完璧主義のようなものがあるようで、その雰囲気がひしひしと若者たちに伝わり、自分たちの疑問を心の中で押し殺す「(北米のエヴァンジェリカリズムの)殻」となっているのではないか。RHEは果敢にその殻を破ることで若者たちに「息つくスペース」を提供してきたのではないか。
RHEはこの「感性のずれ」が保守派が想像するよりはるかに大きな「福音主義者の文化」の問題であり、それらの総体のようなものが「(北米の)エヴァンジェリカリズムの殻」それも「固い殻」となって若者たちを息苦しくさせ、(殻を破るのをあきらめて)脱出させてきたのではないか、と指摘してきたのではないか。
この指摘を多少なりとも支持してくれそうな記事をランドル・ラウザーが書いている。
Christianity Today and its Ironic Tribute to Rachel Held Evans
この「大和郷にある教会」ブログで何度も取り上げたことのあるレイチェル・ヘルド・エヴァンズ[*]が5月4日テネシー州ナッシュヴィルの病院で亡くなった。37歳だった。
*以前「エバンス」と表記していたが他出の表記と出来るだけ統一するため変更した。
この4月にインフルエンザに罹り、(治療のため服用した?)抗生物質に激しいアレルギー反応を起こし、脳に原因不明の発作(シージャー)が続いた。やむなく医療的昏睡状態に置いて様子を見ていたが、適切な処置を見い出す前に容体が悪化して亡くなった。
筆者が知ったのは5月5日の日曜日の朝。ツイッターのTLに「R.I.P. RHE(安らかに眠れ、レイチェル・ヘルド・エヴァンズ)」のようなメッセージが次々と流れてきた。
深刻な状況にあるらしいことはある程度分かっていたが、敢えて彼女のブログに上げられていた(らしい)夫のダンが行っていた続報更新を見ていなかった。
37歳での突然の死の報に、やはり愕然とした。
TLに溢れる「RHE(レイチェル・ヘルド・エヴァンズ)」へのメッセージを読みながら、間もなく自分なりのユーロジーのようなメッセージをツイートした。
かなり深刻そうな病気だとは察せられたが…。— Takashi Kojima/小嶋崇 (@SugamoSeisen) 2019年5月4日
ブログや講演を通して(北米の)エヴァンジェリカリズムの殻の問題を指摘し、ディスカッションを導き、真摯な信仰を模索して勇敢に(ことばで)たたかった。短い生涯だったが良き働きをしたと思う。RIP、レイチェル・ヘルド・エバンス。
……と書いてから10日が過ぎてしまった。
米国(のキリスト教界)ではかなり大きな出来事として受け止められているが、日本においては殆ど話題にすらなっていないようだ。わざわざこのような記事にまとめる意義があるかどうかこころもとないが、ある意味「エポックメーキングな人物」として当ブログに登場していただいたこともあり「追悼」の意も込めてアップする。
1. (北米の)エヴァンジェリカリズムの殻の問題
5月4日のツイート(↑)で指摘したことについて少し書き足す。
バイブル・ベルトで育ったRHEは最初は判で押したような保守的な福音主義信仰の持ち主であったが、父親(大学教員)の影響もあってか、かなりアグレッシブに自己の信仰を問い詰めるようになって行った。
その過程で信仰内容と言うものは「変化していく(evolve)」ものであることを次第に受容していくことになる。
その成長過程を著したのが『モンキー・タウンで進化する(Evolving In Monkey Town)』である。
ブロガーとして著者として多くのフォロワーたちの相談相手となったりするうちに、RHEはネット上で注目度を高め、次第に福音派における若年層のオピニオン・リーダーとなっていく。
しかしその求心力は単に「意見や見方が同じ」とか「親近感」とかに留まらず、上手く自分の意見を言ったり理解してもらえないで孤立感を持っていた若者たちに「自分をオープンにすることができる広場」を提供するオーガナイザー・ファシリテーターとしての役割に負うところが大きかったように思う。
つまりRHEのファロワーとは、RHEの信仰的意見や生き方に共鳴したり同意しているからというよりも、そこ(主にブログ)に「自分を開く場所」「自分を受け入れてもらう場所」を得ているからなのだろうと思う。
そのような役回りを引き受けるにはRHE自身がくぐってきた「信仰進化(evolving faith)」の経験がやはり大きくものを言っているのだと思う。
フォロワーたちはそこに安心感を覚え信頼を寄せるのだろう。
成長期の若者が、正直に信仰その他について自分が抱いた疑問や不満を聞いてもらったり相談したり、また他人と意見交換したりというような環境がはたして「(北米の)エヴァンジェリカリズム」にあっただろうか、という問題が実は大きく横たわっていたように思う。
言ってみればそれら若者たちの心や頭の中でふつふつと湧き上がってくる悩みや疑問を受け止める柔軟性に「(北米の)エヴァンジェリカリズム」は大いに欠けていたきらいがある。
ともすると正統的信仰に対する「挑戦」「不信仰」「不従順」等ネガティブなものとして片付けられてしまう面が多分にあるように思う。
成長期の若者たちの信仰を仮に「新しいぶどう酒」にたとえると、「(北米の)エヴァンジェリカリズム」という「革袋」はやや古く固くなっていて、(彼らの疑問に柔軟に対応するよりも)裂けるのを抑えるのに必死、というような状態なのではないかと思う。
そういう状況でRHEがそのような傷つきやすい(vulnerable)若者たちの感性を受け止めて応対したからこそ、死後にあれほど多くのトリビュート・ツイートが発せられたのだと思う。
いずれにしても「(北米の)エヴァンジェリカリズムの殻の問題」をRHEほど鋭く指摘し追求した人物はいないのかもしれない。
2.世代間のずれは「意見の違い」なのか「感性のずれ」なのか
以下に参考までに「プログレッシブ福音主義なRHE」に対して「保守的な福音主義」の立場から「見解の相違」として書かれたふたつの記事を紹介したい。
一つはエド・ステッツァーでもう一つはロッド・ドレアーである。
エド・ステッツァー
Reflecting on Rachel: Why She Mattered
(以下の引用箇所にあるようにステッツァーにとってRHEはなかなか手ごわい相手であったようである。)
The problem is, failure to listen can make one tone deaf. Rachel was always trying to break into our echo chambers. I did not always like when and how she did it, but dismissing her in favor of the sounds of our own voices was not always the right choice.ロッド・ドレアー
But, Rachel was not satisfied with the evangelicalism of her youth, and our direct messages reflect that divergence. (Perhaps ironically, I started my faith journey in the Episcopal Church and ended up a conservative evangelical. She started as a conservative evangelical and ended up an Episcopalian.)
Blaspheming St. Rachel Held Evans
※この記事は「追悼」として書かれたのではなく、クリスチャニティ・トゥデー誌上でエド・ステッツァーの追悼記事の後に掲載され(そして批判を受けてすぐに削除され)た、ジョン・ストンストリートを擁護するとともに彼を非難したRHEシンパたちの「言論封殺」的な結果を憂慮する、といった感じで書かれたもののようである。
タイトルに「聖レイチェル」としているように、RHEの不慮の死後数日で批判めいた意見を含む追悼記事を書いたジョン・ストンストリートはそれほど批判されるべきだろうか、と保守派の論客ロッド・ドレアーの「プログレッシブ福音派」に牽制の意味が込められているようだ。
これらの記事を読んでみて思うのは、やはり福音派の保守(ジョン・ストンストリート)とプログレッシブ(RHEやジョンの追悼記事を非難した盟友のサラ・ベッシーなど)とのあいだには単なる見解の相違では済まない「世代的な感性のずれ」があるだろう。
それは一言でいうと「どちらが正しい意見を持っているか」に関心がある人と、「(どんな意見の人でも)受け入れる」ことに関心を向ける人、との感性の違い、と言うか人としての基本的態度の違いかなと思う。
たとい意見の相違が深刻であっても、それは置いておいて先ず受け入れようとする受容的態度が先行するのか、それとも原理原則に関することで自分と意見が異なる者には譲歩せず批判し拒否することを辞さない、ことを身上とするのか、と言うような違いである。
どうも保守派は往々にして「意見の正しさ」と言うことに対する(若者たちから見ると)過度の潔癖主義・完璧主義のようなものがあるようで、その雰囲気がひしひしと若者たちに伝わり、自分たちの疑問を心の中で押し殺す「(北米のエヴァンジェリカリズムの)殻」となっているのではないか。RHEは果敢にその殻を破ることで若者たちに「息つくスペース」を提供してきたのではないか。
RHEはこの「感性のずれ」が保守派が想像するよりはるかに大きな「福音主義者の文化」の問題であり、それらの総体のようなものが「(北米の)エヴァンジェリカリズムの殻」それも「固い殻」となって若者たちを息苦しくさせ、(殻を破るのをあきらめて)脱出させてきたのではないか、と指摘してきたのではないか。
この指摘を多少なりとも支持してくれそうな記事をランドル・ラウザーが書いている。
Christianity Today and its Ironic Tribute to Rachel Held Evans
Rachel Held Evans didn’t “usher the vulnerable into her doubts”. Rather, she gave them permission to be honest about the doubts they were already having. In a world where Christians like Mr. Stonestreet are ever ready to censure hard questions and honest doubts with the stentorian warning of “grave error”, Rachel Held Evans invited others to learn from her struggles so that they could work through their own.
2019年5月11日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
2019年5月12日(日) 午前10時30分
朗読箇所 使徒の働き 15:6-11
説 教 題 「母の胎と地の深み」
説 教 者 小嶋崇 牧師
※礼拝後、昼食会があります。
2019年5月12日(日) 午前10時30分
朗読箇所 使徒の働き 15:6-11
説 教 題 「母の胎と地の深み」
説 教 者 小嶋崇 牧師
あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。
秘められたところでわたしは造られ/深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
(詩篇139:13-15、新共同訳)
※礼拝後、昼食会があります。
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