2011年1月1日(土) 午前10時30分
朗読箇所 使徒の働き 18:1-11
説 教 題 「ここに腰を据えて」
説 教 者 小嶋崇 牧師
2011年間標語聖句
ここに腰を据えて、使徒の働き18章11節(新改訳)
彼らの間で神のことばを教え続けた。
※2日の主日は礼拝をお休みします。今年の主日礼拝は9日からとなります。
巣鴨聖泉キリスト教会(日本聖泉キリスト教会連合)創立1965年。 大和郷の一角にある緑と花に囲まれた教会、隣には牧師の木工房。 静かに賛美と聖書の学び、そんな礼拝の時をお過ごしください。
ここに腰を据えて、使徒の働き18章11節(新改訳)
彼らの間で神のことばを教え続けた。
私がキリスト教信仰を持てない理由なのですが一度に回答できるとも、又回答し切れるとも思わないが、ジャブ程度のものは書いておこうと思う。
1.人間には「原罪」がある
2.それをキリストが贖って人類が救われた
1は理解できますが、2がどうしても私には腑に落ちないのです。
キリストが罪を贖ったというが、人間は依然として弱く、汚くあり続けているのにどこが救われたんだ・・・と思ってしまいます。
「救われた」と言ったって結局同じ罪人じゃない。 じゃ「キリストの救い」を信じるのと信じないのとで何の違いがあるのよ。と少し皮肉っぽく言えばそう言う事になるかもしれない。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」「ユダヤ人の王」としてお生まれになった方は、マタイによれば「ユダヤ人の王」として、ローマの十字架刑で処せられて死んだ。
また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである。」と書いた罪状書きを掲げた。この「ユダヤ人の王」は宮殿ではなく、旅籠の馬小屋の飼い葉桶で生まれ、十字架刑で死を迎えた。何と言う「ユダヤ人の王」だろうか。
それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。この王は傷み、散らされた羊たちを癒す方であった。そのようにして羊飼いの仕事をなされた。
また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。
「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。「王なる羊飼い」のメシヤ像は、上掲のイザヤの預言だけでなく、エゼキエルの「イスラエルの牧者」(あるいは「散らされた羊と非牧者」)を髣髴とさせる。
争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。
彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。
異邦人は彼の名に望みをかける。」
「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。「王なる羊飼い」の招きのことば
あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。
弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。
彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。
わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。
それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。
わたしは生きている、――神である主の御告げ。――わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。
それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。
神である主はこう仰せられる。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない。
まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。
牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。
わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。
わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。
わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ。――
わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。
(エゼキエル34:2-16)
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。「ナザレのイエス」は、今も私たちに近づき、助け、起こしてくださる。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
星をかぞえる夜
季節が過ぎゆく天には
秋がなみなみと満ちています
私はなんの心配もなく
秋の中の星たちをみな数えられそうです
胸の中にひとつふたつと刻まれた星を
もうみな数えられないのは
まもなく朝が来るためであり、
明日の晩が残っているためであり、
まだ私の青春が終わっていないためです。
星ひとつに思い出と
星ひとつに愛と
星ひとつに哀しみと
星ひとつに憧れと
星ひとつに詩と
星ひとつに母よ、母よ、
お母さん、私は星ひとつに美しい言葉を一言ずつつけてみます。
小学校の時に机をともにした子供たちの名前と、
ペ、ギョン、オク こんな異国の少女たちの名前と、
もう子の母となった娘っ子たちの名前と、
貧しい隣人たちの名前と、
はと、子犬、うさぎ、ろば、のろ、
フランシス・ジャム、ライナー・マリア・リルケ
そんな詩人の名前をつけてみます。
この人たちはあまりに遠くにいます。
星がはるか遠いように、
お母さん、
そしてあなたは遠く北間島にいらっしゃいます。
私はなんだかなつかしくて
このたくさんの星明りが降る丘の上に
私の名前の字を書いてみて、
土で覆ってしまいました。
なるほど夜を明かして泣く虫たちは
恥ずかしい名前を悲しんでいるわけです。
でも季節が過ぎて私の星にも春が来れば
墓の上に青い芝草が萌え出るように
私の名前の字を埋めた丘の上にも
誇らしく草が生い茂ることでしょう。
FROM DANIEL SEE
A man and his wife were having an argument about
who should brew the coffee each morning.
The wife said, 'You should do it, because you get up
first, and then we don't have to wait so long to get
our coffee'.
The husband said, 'You are in charge of the cooking
around here and you should do it, because that is
your job, and I can just wait for my coffee'.
Wife replies, 'No you should do it, and besides it is
in the Bible that the man should do the coffee'.
Husband replies, 'I can't believe that, show me'.
So she fetched the Bible, and opened the New
Testament and shows him at the top of the several
pages, that it indeed says.............'HEBREWS'.
測り綱は、私の好む所に落ちた。この「私への、すばらしいゆずりの地」が心にかかっている。
まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。
ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙っていてはいけない。どうしても「ジリ貧」を感じ消極的思考に負けそうになる。
わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。
この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。
そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。
沈黙の中で悲しみは「悲哀」に変容する。これは一種の愛情の形です。風のそよぎにも光の揺らぎにも大切な人の存在を感じる。そうなるともう寂しくない。これは、宗教人類学者、山形孝夫さんのことばだ。(朝日新聞夕刊、『語る人』、2010年12月6日)
ナイル川西岸の砂漠にエジプトのキリスト教徒コプトの修道院が点在しています。エジプト人が死者のクニと呼んできた荒野で、私は数ヵ月滞在し、修道士たち自身の物語の聞き取りをしていました。ある時、その修道院を抜け出して砂漠を歩いていました。周囲には何もない。聞こえるのは風の音だけ。そのとき、不意にだれかが私の名を呼んだ。オヤッと思いました。それが母の声だと気づいた瞬間、動けなくなりました。このことが契機となってその後自伝的エッセーを書く中でお母さんの記憶が次々と噴き出してきて、「書きながら涙が止まらな」くなったそうです。
悲しみは人間の成熟に大切な栄養剤です。その人らしさを形作るパーソナリティーの根幹になる。悲しみは新しい生き方に変化する。と言っています。
これまで、死と向き合うのは宗教の役割でした。現代日本で神の存在を信じるのは難しい。でも「祈り」の願望はむしろ大きくふくらんでいるのではないか。その問題にどう切り込むのかを考えています。筆者も近年その感を強くしています。
※ちょっときつい言い方かもしれないが、当初討論に招かれていたジョン・パイパー師が欠席し、代わりにトム・シュライナー師が相手を務めたのは残念である。私見ではライト師に対して最も強い反論をしているのはパイパー師であり、より聖書学者としての議論をするシュライナー師は、ライト師の相手としてはやや軽量、と言うか本当の論敵ではなかったような気がする。それに対しこのブログの著者が言っているように、明らかに二人の相手と対論する「敵陣」にちゃんと姿を見せたライト師は、「討論を厭わない」礼を尽くしたと言える。
“Only by close attention to Scriptural context can Scriptural doctrine be Scripturally understood,”次に、ライト師もコメントで加わった、デニス・バーク氏のブログ。N. T. Wright on Justification at ETS