東日本大震災と名づけられた未曾有の天災を検証していくと、次第に人災と見られる部分が露出してきた。
特にそれを端的に示したのが福島第一原発事故の対応における、国(行政府)なり企業なりの危機管理の失敗である。
危機管理の失敗は単に事故への初動の遅れや対応策の無力さと言う点にではなく、この危機に地域住民、更に国民が巻き込まれていながら、事故に関する情報開示が真摯に行われてこなかった、と言うことにある。
この情報開示に多大な責務を持つマスメディアが殆んど独自性を示すことなく、積極的にではないにしても隠蔽に加担してきたような印象を国民に与えたことは否定できないだろう。
やがて「原発推進」を国策としてきた一つの大きな利害共同体の姿が国民に見え始めた。その一端をになったのが「安全を連発する」科学者や、低放射線被曝の危険を軽視して積極的に国民に知らせようとしなかった高等研究機関に属する学界人であった。
いつしか彼らは「御用学者」のレッテルを貼られ、正確で十分な情報を与えられずいらいらしていた国民から非難の目で見られるようになった。
そんな中で原子力研究の分野で原発推進に懐疑的であり、その危険を察知して研究してきた、結果的に学界で「冷や飯」を食ってきた学者たちが、マスメディアではなくインターネットメディアを通して発信し始め、たちまち多くの国民の共感と信頼を獲得するようになった。
言わば3.11国家的危機の新しいヒーローの出現である。
とまあ、少し単純すぎるが、学者と言われている人たちの学術研究の意義が、この国家的危機に際して広く問われる局面を迎えたわけである。
科学者とは言え人間は様々な利害関係の中にあり、純粋に科学的知識の探求をやっているわけではない。政治や社会の枠組みの中で、又学内での人脈や昇進と言った関連で、研究の予算や優先順位の問題が個々人の科学者の良心を揺さぶるのである。
「御用学者」とは国民から見ると、国民の知る権利に鈍感で、政府や企業の利害に敏感な研究者たちであり、権力者の意向(空気)を読むのに長けた学者たちである。
彼らは科学者としての知的誠実と言う価値観を半ば放棄しても時の権力の意向に沿う専門的な意見を作り出すことに躍起となる。
その姿を国民は見せられてきた。
しかし科学者の中には意外や意外、結構良心的に研究し、国民が真に知るべき科学的知識を広めてくれる人たちが少なからずいることを国民は知るようになった。
放射能汚染に関して言えば、原発労働従事者や最も影響を受ける妊婦・胎児、幼児たちの健康に人一倍関心を払ってくれる科学者たちがいたのである。
やがて彼らはマスメディアでも取り上げられ、国会での参考人招致にも選ばれるようになった。
彼らは相対的に危機意識が強く、専門的な知識に関して高邁な自論を展開する傾向がなく、現下の危機に速やかに対応する対策や啓発に熱心であるのが特徴である。
彼らは社会における科学者の責任に関しても鋭い自覚を持っている。
大震災から間もなく5ヶ月。国民は「御用学者」と「国民の安全や安心に鋭い感覚を持つ良心的科学者」を見極める術を持ち始めている。
先日取り上げた、東京大学先端科学技術研究センター教授、東京大学アイソトープ総合センター長の児玉龍彦氏などがその好例である。
残念ながらまたもや児玉氏の識見はマスメディアでは今のところ無視されているが、インターネットでは草の根のように広がっている。
国民の感度とマスメディアの感度にはまだ相当のずれがあるようだ。
また放射線被曝の問題を広く疫学的に、又歴史的に長い射程で位置づけようとして、東大教授の島薗進教授が、そのための好著で今は絶版となっているらしい、
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