2011年8月19日金曜日

佐藤優「キリスト教神学概論」③

毎度断り書きをしていますが、軽いジャブ程度の扱いで、ちゃんとした神学的論評ではありません。
ゆるーく読んでください。

今回は、
第7回 「日本キリスト教の精神的伝統 (1)」
第8回 「日本キリスト教の精神的伝統 (2)」
第9回 「日本キリスト教の精神的伝統(3)」
第10回 「日本キリスト教の精神的伝統(4)」
をカバーします。
(ウェッブサイトはここ。後はページ末の「次へ」をクリック。)

さて、ここまで佐藤氏の「キリスト教神学概論」を2回に渡って見てきたわけだが、非常に個人的な切り口で、それなりにユニークに(余りキリスト教に縁がない人にも分かりやすく・・・ある意味かなり単純化して)、キリスト教への取っ掛かりを提供してきた。
所謂キリスト教「神学」には(ここまでのところ)余り触れないで、入口を広げて書いて来た様に思う。

彼は既にキリスト教を「個人的救済宗教」、それも多分に主観的なものとして描写してきた。
この後どう展開するのかと思っていたら、急に今回のような主題を持ち出してきた。
筆者はこれをとても唐突に感じた。

これまでの読者へのサービス精神に溢れたキリスト教の説明から(一般的な視点からではなく、彼独自の視点からだが)、一挙に(恐らく)彼個人の神学的課題、問題意識へと読者を導こうとしているように見えるからだ。
(これは筆者の推測だが、彼の出た同志社神学部は多分にこのような問題意識が強く支配する神学教育環境なのだろう。)

これまでは一応キリスト教をどう捉えたらよいのかと言う一つの「説明」を試みてきたのだが、今回から「キリスト教の土着化」を歴史的に神学的に思索すると言う「一神学的試み」に入り込んでしまうと言う方向転換を図ったように見える。
更に言えば、彼のつけたテーマは「キリスト教神学概論」だが、内容的にはここまでの所多分に「キリスト教概論」であった。

キリスト教が一枚岩ではなく、歴史的に多くの類型に分化してきたことを指摘した後で、このようなキリスト教類型学を歴史社会的に分析したトレルチやゼーベルクの名を挙げ、次のように今回の急展開の意義を述べる。
 むしろ、キリスト教には、いくつかの類型(タイプ)があるのが現実です。キリスト教を類型としてとらえていこうとすることを19世紀の終わりからR・ゼーベルク、E・トレルチなどが真剣に考えました。
●魚木忠一の神学的遺産
ここで重要になるのは、ゼーベルクの考え方を更に発展させて、キリスト教の日本類型について真剣に考えた魚木忠一(うおきただいち 1892~1954)です。魚木は、1941年に『日本基督教の精神的伝統』(基督教思想叢書刊行会)を上梓し、日本人でありかつキリスト教徒であるということの意味を徹底して考えました。
と言うわけで、佐藤優の「キリスト教神学概論」は、キリスト教概論的講義から一転、日本の神学者魚木忠一の『日本基督教の精神的伝統』と言う一神学的試論に入っていってしまったのです。

まあこれはこれで面白い取り組みだとは思いますが、自分で立てた課題からはそれてしまった。概論、しかもまだ神学概論もやっていないのに、いきなり一神学者の神学的課題と言う限定された領域へと主題を過激に絞り込んでしまったわけです。

「日本キリスト教の精神的伝統」についての連載は4回続きますが、そこで彼の「キリスト教神学概論」は頓挫し、この方向性をあきらめてそれ以後(余り面白くない)伝統的、(西洋)キリスト教組織神学のなぞりに変更してしまいます。

さて、今回は佐藤の連載の急展開について主に論評して来ましたが、魚木忠一の『日本基督教の精神的伝統』については何も言及していません。最後に一言二言述べて終わりにします。

先ず連載の(8)(9)(10)からポイントとなる文章を引用してみます。(強調は筆者)

魚木は、キリスト教を精神的宗教であると規定します。これは、霊的宗教と言い換えてもよいと思います。魚木自身は優れた歴史神学者ですが、神学的教義や宗教哲学はキリスト教の本質とは関係ないと考えるのです。
魚木は、仏教、儒教と比較した場合に、キリスト教は精神的宗教であることを強調しますが、ここでいう精神とはヘーゲルや京都学派の高山岩男が『世界史の哲学』で強調するような、歴史を動かす精神ではありません。

魚木がいう精神とは、人間の救済を可能にする神からの作用です。キリスト教は三一(三位一体)論を基本教義にします。三一神とは、父、子、聖霊からなる神ですが、ここでいう聖霊こそが魚木が考える精神なのです

霊とは、命を与える風を意味します。神は土から人間を創りますが、そこに風を吹き込むことによって命、すなわち精神が生まれるのです。ユダヤ教、キリスト教の人間観では、神が人間に息を吹き込んだことにより、人間は他の動植物がもたない精神という特権をもつようになったのです。
「使徒言行録」によれば、聖霊は、イエス・キリストが復活した後、40日間、地上を歩きました。その後、一旦、天に昇ります。さらに10日間経ってから、通算50日目に天から地上に再び降りてくるのです。
魚木が日本の宗教的土壌である仏教や儒教に対して「キリスト教が精神的宗教だ」とした主張と、キリスト教の本質が神学的教義や宗教哲学とは関係ない、としたことについてはもしかしたら「日本におけるキリスト教の土着化」と言う課題が魚木を突き動かしていたかと推測します。

魚木が言う「精神」が聖書思想全般における「霊」、あるいは新約聖書における「父なる神と、天に挙げられたイエスのもとから遣わされた『聖霊』」なのか、それとも「三位一体論における聖霊」という西洋神学の発展形を指すのか、この短い引用だけでは何とも整理がつかない。

最後の引用において佐藤がまとめている文章では、神学的人間論から見た「被造物の中でのユニークさを示す霊的存在」と言うことと、「イエス・キリストの出来事」に関連する「聖霊」と言う終末論的展開がどう関係するのかさっぱり分からない。
また文章の後半で「史的イエス」と「聖霊」がどう関係しどう区別されているのか、更に判然としない。

と言うわけで、ここまで彼の「概論」を追ってきた読者は大いに困惑したのではないか。
文章は至って短く論理は粗雑である。
これまでのそれなりに未熟な読者を配慮した文章と比べると、いかにも飛躍の連続ではないか。
佐藤が魚木の著作に感銘を受けているのは良いとして、もっと丁寧に「キリスト教概論」として咀嚼できるような足がかりを幾つも用意しなければやはり読者は消化不良に陥らざるを得なかっただろう。

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