2014年3月30日日曜日

(1)ひと区切り

北米留学が終わって帰国した翌年、1990年から非常勤で働いてきた「YMCA」をこの3月でついに卒業することになる。

振り返ると四半世紀に及ぶわけだ。

その間には1995年があり、9.11があり、3.11があった
教会外の方たちとこの出来事の意味をシェアすることが出来たことはよい副産物だった。

これからはまた一旦整理して、教会隣にある工房を足がかりにして「地域社会」との接点を探っていくことになるだろう。

また今年は60になる。

もう逆算して人生設計する時期だ。

キリスト教会の一牧師として何が自分の務めなのだろうか。
大きく言えば二つになる。

礼拝宣教だ。

大事なのはこの順序で、と言うことだ。
主イエス・キリストと、主イエスの父なる神と、聖霊なる神への礼拝が第一だ。

宣教は礼拝の延長と言える。
いやメシア・イエスを主として礼拝する行為そのものが、世界に対して「この方こそ世界の主である」と宣言しているのだ。

もちろん礼拝は信者にとって慰めの場、励ましの場、学びの場ともなるのだが。

この時代、この場所で、どのように宣教を展開してばいいのだろうか。
現代的宣教の文脈について考えている。

大きい文脈では「宣教」と言うことになるのだが、今目論んでいるのは一見「伝道」とは見えない「学習会」と言うインターフェイスだ。

自分の役割は

この「学習会」が教会に「囲い込むための網」としてではなく、

今社会の中で起こりつつある」動きと向き合った
「共同学習の場」となるようファシリテートして(世話役となって)
間接的に、あるいは媒介的に、
キリストの教会が託されている「キリスト資源」を、
提供(サーブ)することにある、
と見ている。

その際ファシリテーターとして自分が提供できる引き出しは何かと考えると、

①宗教社会学
②社会倫理
③英語

ではないかと思っている。
(比重は上からの順、但し①と②はほぼ同じ。専門性から言うと①の方がやや高いか・・・。)



教会としてキリスト教として前面に出せるもの(より宣教的文脈と外からも分かるもの)は、「○○○○キリスト教」みたいな断片的、教養的情報提供ではなく、「ナザレのイエス」を紹介することだろうと思う。

幸い2013年9月から今年3月にかけて、12回シリーズで行ったリチャード・ボウカム「イエス入門」読書会は、4名のキリスト者ではない方々をメンバーとして有益な学びが出来たと思っている。

(まもなくそのレポートを掲載する予定。)

今後も需要があれば、この読書会はまたやりたい。


それにプラスして、より一般向けの「学習会」の題材となるのは・・・。

構想は出来つつあるが、それはまたの機会に。


2014年3月29日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2014年3月30日(日) 午前10時30分


聖書
交読 詩篇67:1-7
朗読箇所 Ⅰテモテ 2:1-7 説 教 題 「すべての人」 説 教 者 小嶋崇 牧師
 
詩篇に沿って(2)
※ テーマやシリーズが決まっていない主日は、その時交読される詩篇から着想を得て、新約聖書から学びをします。(旧約聖書から新約聖書に橋を架けるようなイメージです。)

神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。
神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。
この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。
             (Ⅰテモテ2章4-6b節、新共同訳)

2014年3月28日金曜日

(3)MLJとJS、JSとBGのガチンコ

現在でも「福音主義の歴史」を語る時に忘れてならない人物がいる。

タイトルはその人物の頭文字であり、20世紀後半からの福音主義運動が世界的に拡がって行く役割を担った。

しかし大立者は時に指導権を競って厳しい対立もした。
ガチンコとはその3人の対立のことである。

先ずJSとは誰か。
既に故人となったジョン・ストット(1921-2011)である。


そして彼のガチンコ対決の相手は


マーチン・ロイドジョンズ(1899-1981)である。

次のようなエピソードが残っている。

1966年ロンドンでのとある会合で二人は教会論争で激しくぶつかった。
ロイドジョンズは神学的に雑多な人々が混じっている英国国教会を嫌い、福音派の人たちを引き連れて出よう、と言うようなことを主張した。

しかしそのすぐ後登壇したストットはその動きに抗議したのであった。
その抗議の仕方が表面ではロイドジョンズを称えるような言葉で実は彼を「貶した」のであった。

このようなキリスト者として少し疑問符がつくような手を使ってでも、ストットは福音主義運動がリベラルが混ざった英国国教会から分離して行くのを阻止したわけであった。

もう一つのガチンコの相手は誰であったか。
かの大伝道者ビリー・グラハムである。

グラハムがストットの協力を得て1974年に立ち上げたローザンヌ運動の方針を策定するべく、翌1975年、メキシコ市で5大陸から福音主義指導者たちを集めて会議が開かれた。

グラハムは「伝道(エバンジェリズム)」一本で推進しようとしたが、ストットはそれに反対した。
ストットは、ローザンヌ運動が「社会的行動」も含めたものとして進めるのでないなら、自分は辞める、と「圧力」をかけた。

声明発表文に「伝道」と「社会的行動」をどのように盛ったら良いか両者の間で息苦しい綱引きが続いた。
このような文章作成を大得意にしていたストットは主導権を取るため、散々書いては改め書いては改めの神経戦に持ち込んだ。
グラハムはくたびれはてて音を上げてしまい、伝道一本路線を別な形でやることとなった。


以上は、「ジョン・ストット」の学術的伝記を著した、アリスター・チャップマンをブロガーのトレヴィン・ワックスがインタヴューした記事からつまみ食いしただけのものである。


要するに権力を巡る対立において、ストットのような皆から尊敬されるようなキリスト者の指導者であっても、時に首を傾げるような策を使ってでも主導権を得ようとした、と言うことである。

「野心」の問題は、自分の光栄を求めるものなら空しいものだが、神の賜物を最高潮に用いて目的を遂げるのであれば・・・。

しかしその場合でも自己吟味の結果は苦い味も混じるものであることをストットは経験したようだ。

昨今のカルト牧師問題のようなパワハラ被害は権力の問題と言っても全く低レベルだが、福音の前進のために、と言う大義がかかった路線対立では、高度な倫理的問題となることを示唆している。

良心に照らして、権力や能力の行使に自覚的であればあるほど、成し遂げようとする過程においてそれは厳しい自己吟味を要求するものなのだろう。

イエスの荒野の誘惑ではないが、権力の行使における動機の複雑さに直面することは、霊的な自制・自省を高度に要求する、と言うことではないか。

そのような修羅場を潜らないと、本当の意味で「権力」の誘惑とはどのようなものかを知ることはないのかもしれない。


Godly Ambition: John Stott and the Evangelical Movement

2014年3月23日日曜日

(4)ジェンダー・イシューズ(性差問題)

北米福音派教会では、カルチャー・ウォーと呼ばれる価値観の対立を軸にした「保守対リベラルの二極化現象」が続いている。

今回取り上げるのは「ジェンダー・イシューズ(性差問題)」関連でここ数年熱く議論されている「男女の性差による役割分化」の問題だ。

どう言う対立かと言うと、
(保守)・・・男女は性差によって社会的に役割が異なる。その異なる同士は相互に助け合うことにやって社会の秩序が守られる。
(リベラル)・・・男女の性差は社会的役割分化を強制するものではない。(ちょっと控えめに言えば。)

保守の立場には『コンプリメンタリアン』 と言う語が使われ、リベラルな立場には『エガリタリアン』と言う語が用いられる。

背景となるのはキリスト教国家(一応そのように見立ててください。実質は結構複雑なので、どのような意味でか、と言う限定を加える必要があるのですが、そんなことしてたら投稿できないので・・・。)アメリカが次第に世俗化してキリスト教の影響力によって伝統的に守られてきた価値観が一つまた一つと社会的に支配的な立場から退場していく過程です。

ウーマンズリブ(女性解放運動)は1960年代位からだったでしょうか、最初にメインライン教会から浸透して行ったリベラルなジェンダーに対する価値観は、最近20年くらいのうちに(アバウトです)聖書の権威を高調する神学的 に保守的であった福音派教会の中にも浸透してきます。

今や福音派教会で「保守対リベラル」の対立が表面化してきました。
先ほども書いたように「熱く議論される」ようになってきたのはここ数年といってもいいと思います。

クリスチャニティー・トゥデー誌の報道によると、つい先日セダーヴィル大学の新学長となったトーマス・ホワイトは、「今後女性教員が教える『聖書コース』履修は女子生徒に限定する」、明らかに従来より保守な方、コンプリメンタリアンな方向に舵を切った、としています。

早速保守を代表する著名ブロガー(南部バプテスト)、デニー・バーク氏は「ホワイト学長よくやった!」と記事にしています。

一方どちらかと言うとこの「ジェンダー・イシューズ(性差問題)」に関してはリベラル(福音派内でのどちらかと言えばリベラルであることをお間違いなく)な立場を取るように見える、スコット・マクナイト(そうです、あの『福音の再発見』の著者です)氏は、ホワイト学長が主張する「聖書的な立場」に疑問符を投げかけます。リンク
(※記事自体はただクリスチャニティー・トゥデー誌報道を紹介しているだけですが、コメントセクションを見ると彼がどのような見方をしているのかが伺われます。)

今回の件で一番問題だと思われるのは、この方針転換を「聖書が言っていることをそのまま言うだけだ」とあたかも「解釈」抜きで「聖書の権威」を根拠にしていることです。
In his March 10 chapel talk, Thomas White discussed the concept of headship based on 1 Corinthians 11:2-16. “We operate with the presupposition of inerrancy. So what I tell you today is not something that I wrote, I made up, or I started,” he said. “I’m just going to preach to you what the text says.”
※学校の運営母体が保守路線を強めている南部バプテストの影響下に入ってきているのではないか・・・との見通しもあります。(ジーザス・クリードのコメント・セクション)

いずれにせよ、一連の福音派内における「カルチャー・ウォー」問題では、『聖書無誤論』と『聖書解釈の実際』との関連の問題がクローズアップしてきています。

既に本ブログでも紹介した、クリスチャン・スミスのThe Bible Made Impossible: Why Biblicism Is Not a Truly Evangelical Reading of Scriptureが、聖書の権威に訴えれば訴えるほど分裂が深まるのは社会学的な観察だけでなく、論理的にそうならざるをえない、と指摘するように聖書の「解釈」が問題であることを直視しないと、対立は深まるだろうと思います。

※「聖書主義(ビブリシズム)」、「聖書主義(ビブリシズム)続」参照。
※アンドリュー・ウィルソンのThe Biggest Theological Debate of the NextTwenty Yearsも有益。

2014年3月22日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2014年3月23日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヨナ書 1:17-
2:10
説 教 題 「救いは主のもの」
説 教 者 小嶋崇 牧師
 
ヨナ物語(2) 2章・・・魚の腹からの祈り

(3) 究極の超訳聖書? ツイブル

ネットをやっている方はツイッターをご存知だと思うのでそれを前提に書いていきます。

ちなみにこのブログは「巣鴨聖泉キリスト教会」のブログでもありますが、牧師である筆者の個人的な考えや思いつき等が結構多いです。

左側のサイドバーにツイッターが表示されていますが、このアカウント名は「筆者の名前」が表と言うか前面で、インターネット・アドレス(@)は教会名になっています。

さて本題です。

2009年秋、ジェナ・リースという女性の頭にあるアイデアが閃きました。
聖書の一章を1ツイート(140字)に要約し、聖書全部をこれでカバーしてみよう!
それで始められたのがツイブル、ツイッターとバイブルを足した造語です。

創世記1章は

Gは神、Godの頭文字。

その他にも男性・女性の記号を使ったり、とにかくどう内容を圧縮するか。
ユーモアも交えて1章のメッセージを伝えるか。

多分1ツイートを作るのに苦労したのではないかと思います。

(キリスト教の)聖書は「創世記」に始まり、「黙示録」で閉じます。

黙示録22章は

それでは聖書全体のメッセージを1節でまとめている、としてよく引用されるヨハネ3章16節がある章はどうなっているでしょう。
うーん、まっそんなにひねってはいないけど、後半にそれなりに現代版メッセージにしようと工夫しているかな。


てなわけで、ネット文化、ポップ・カルチャー、ユーモア、を意識した「新しい伝道ツール」へのサジェスチョンがあるような気がするのです。

誰か日本語でこれみたいなものを試みる人いないかなー。
なんだったらチームを組んでやってもいいかも。

ツイッターやっている若い人たちに届くためにもこういうアプローチは面白いと思うんだけど・・・。

日本において聖書やキリスト教には関心があるが、教会まで足運ぶのはどうも、と言う中でこのような取り組みはネットには限定されますが「公共圏文化」に参入するいい足がかりではないかと思う。

最近キリスト新聞社から発売された「バイブルマスター」が、一般のカードゲーム愛好者にも好評だと聞いている。

正面からの真面目な聖書やキリスト教への入門書の需要は依然として高いことは「ふしぎなキリスト教」も傍証していると思う。

しかしそのコンテンツをいかにパッケージングするか、つまり文化と言うかデザインのフィルターをかなりグレード上げないと、せっかくの内容も埋もれてしまうのではないかと思う。

そういう意味で日本のようなキリスト教がマイノリティーな環境では、プロデューサー、デザイナー、アーティストの持つ役割は大きいのではないかと思う。

※今回の記事はカタカナ語乱発になりました。失礼いたしました。

2014年3月21日金曜日

アルルのパン 私のおすすめ

巣鴨聖泉キリスト教会近辺を紹介する「地域紹介ラベル(サイドバー)」には現在12のエントリーがあるが、多分パン屋アルルは一番最初に取上げたのではなかったかな。

その記事のコメントのところに「パンG」が書いているように、毎回パンを注文して取りに行くのは筆者の父の仕事だ。

しかしこのところ体の方で色々来てしまって、筆者が一時代役をしている。


先日散歩の帰りに立ち寄って取りに行くとちょうどパンGがいた。
(パン作りは今は二代目が主にやっているみたいだが、パンGはネットも含む通販作業や広告など、色々忙しそうだ。)

顔が会うとすぐおしゃべりになり、しばしば長くなる。
特にパソコンやインターネット関係の話題が多いな。

そんなわけでふと思いついたのがブログネタ。
筆者が選ぶ「アルルのパン、ベスト3」を構想して、写真を撮ろうとパンを取りに行ったら、その日はそのうち2つが店頭に無かった。

と言うわけで画像はアルルのHPで見つかるものを使いながら紹介しよう。

先ず第3位かぼちゃパン(250円)。


結構ボリュームがあるのだが、食べ始めるとあれよあれよと言う間に食べ終ってしまう不思議なパン。

続くは第2位シナモンブレッド(360円)。


名前の通りシナモンの香りが何とも言えない。
パン自体がおいしい上に、少し甘さも加わって、パンと菓子パンの中間のような存在。

クリスマス・イブ礼拝のパーティーに出した時は、新来者の方がおいしい、おいしいと感激していたっけ。(それですぐアルルのお店の道順を教えて差し上げた。)

そして第1位カステラ(170円)。


パン屋なのになぜカステラが1位か。
うーん、パンがおいしいのはもう当たり前になっちゃっているからかな。

とにかくふわふわ、しっとり、上品な甘さ。
この値段で買えるショート・ケーキ(ないだろうけど)と比較すれば、その価値は歴然。
(そんな安いケーキと比較するのは失礼だが・・・。)

午後の紅茶と一緒に食べれば至福の時となるでしょう。

以上もし食べたくなったらお店へ行くか、通販でお試しください。
カステラは製造曜日限定なのでご注意を。

4月から消費税値上げで大変だね。
アルル頑張れ。

2014年3月17日月曜日

(3)この本欲しい

フェイスブックに「うーん、涎が垂れてきそう・・・。」と評した本がある。
「いいね」は一つしか付いていないけど。

と言うわけで、3巻ものの百科事典だ。
Encyclopedia of Ancient Christianity (Zondervan Academics, 2014)
発売は3月24日だ。

正価450ドルのところ、ディスカウントで256ドルとなっている。
それでも高いか。
3000ページを超えるとなっているが。

最初にこの本のことを知ったのは、スコット・マクナイトの「ジーザス・クリード」 ブログの書評記事を通してだ。

「古代キリスト教」だから、当然プロテスタント(近代キリスト教)以降に発展した概念で検索するには限定がある。
例えば『贖罪論(atonement)』。

しかし教父時代、特にコンスタンティン帝によるキリスト教国教化以降のシフトをある程度見定めることが出来そうだ。

と、マクナイトは指摘する。

N.T.ライト(フェイスブック上)読書会ではSurprised By Hopeを読んでいるが、
原始から初代キリスト教にかけて主流だった「身体の復活」に基づいた終末論が、現在大衆キリスト教に蔓延している「(死後魂となって)天国に行く(のが最終目的地)」と言う終末観に取って代わるのが①何時頃であり、②どのような「社会と思想の弁証法的関係のプロセス」を通してなのか、
はそれほど検証されていない。

その辺のことに当たりを付けるにも有用な資料かな、と思った次第。


ところで話のついでだが、こんな専門的(教父学をやっているような人しか関心無さそうな)本が、アマゾン・ベストセラー・リスト「キリスト教書」部門で12位に入っているというのにはたまげた。

こう言うリストを見るのも結構面白い。

結構古典と言うか古い本が100位以内に沢山入っているのだ。

コリー・テン・ブームのハイディング・プレースは3位だ!

十字架の聖ヨハネ著作集、エウセビオスの「教会史」、フォックスの「殉教者伝」、トルストイの「神の国は汝等の胸にあり」、聖テレサ著作集が50位以内に入っている。

余談だが、アリスター・マクグラスの4冊に対して、N.T.ライトは2冊だけ。
バート・アーマンが3冊入っているのには「あれあれ」と思ったが・・・。

2014年3月16日日曜日

(5)映画と神学1:ゼロ・グラビティ

 見てもいない映画について文章を書くのは「ツリー・オブ・ライフ」以来ですね。きっと。

先日の宮崎駿の「風立ちぬ」はあくまで英語圏ブログ紹介でしたから・・・。

 邦題はゼロが付いていますが、原題はただ「グラヴィティー(重力)」ですね。

 例の如く筆者が拾ってくるネタは英語サイトからが多いのですが、今回も。

 でも最初に映画の日本語オフィシャル・サイトにダーっとあるコメントのどれを見ても、この映画が「神学」に関係するようなものは皆無ですね。

 まっ少し哲学的とか、スピリチュアルっぽいのは無くはないですが。

 北米では筆者がうん十年前に神学校で学んでいた時既に「神学的文化批評」として、文学や映画などは題材にされていました。

 今回ご紹介するのはシカゴ大学神学部の博士課程の方が書いた映画批評です。

"Gravity" vs. Richard Dawkins

 要するにポイントはキュアロン監督がこの映画で描いている視点は「神論的」だ、そしてドーキンスの視点に対抗するものだ、という指摘です。
(キュアロン監督ってメキシコ出身なんですね。)

 評者のデーヴィド・ミハリフィー氏はサンドラ・ブロック演ずるライアン・ストーンは「地球帰還という物理的な旅」と「神の導きによって帰還する霊的再生」が並行的に描かれているのだ、と主張します。

 過去に娘を亡くすという不幸(adversity)に直面した時もドライに過ごしたライアンは、一人で地球に帰還しなくてはならない段になって「どうやって祈ればいいか何て教わってない」と吐露する場面があるそうな。

 映画のシーンの中で、蛙が横切り、海草のようなものが漂い、岸辺に昆虫、鳥がさえずる・・・のがあるそうです。
そこで、
As the script specifies, Stone “drags herself from the water, like the first amphibious life form crawling out of the primordial soup onto land.” After she stands, she looks around, and then, as the music swells in a major key, she tilts her head upward. The camera-shot from below emphasizes Stone staring into the heavens. Yes, evolution exists, Cuaron communicates, but when the odd phenomenon of life is comprehended by the life-form that has become sentient, the fact that there is life at all confirms the activity of a benevolent God.
つまり人類が神への感謝を覚える瞬間を表している(らしい)のだそうです。

 評者もNY Villege Voiceの映画評から引用するように、祈りと言う宗教的なモチーフが表現されているようです。
Stone continues to talk even after contact with home has been lost: Kowalski has reminded her that even though she can't hear Houston, Houston may be able to hear her, which is as apt and unsentimental a metaphor for prayer as I can think of. And so she takes us, if not some unseen and unheard God, into her confidence with her soliloquies

 まっ他にも幾つか「宗教的象徴」が仕掛けられている、と指摘しておりますが、作品というものは何層もの意味構造を持っていて、その人の世界観によって見えたり、見えなかったりするのでしょうね。

 このブロガーは
「宇宙の死の恐怖」をテーマとしているよりも、その恐怖との対比として「地球の生」を描きたかったんじゃないかと思う。
地球の水面に着水、神舟の ハッチを開き流れ込む水に翻弄されるライアン。この時の作中の音は「ライアンが水の中にいるときだけ音が消える」という宇宙空間と同じ演出なのだが、これ は水の存在=生を表現しているのだから意味合いは全く真逆の無音であるわけで、ライアンが水面まで泳ぎあがるシーンに移る一匹のカエル、なんとか岸まで泳ぎ着いたライアンが笑うような、泣くような複雑な顔で泥を握るシーン、ラスト5分で「地球という星の生命を育むすばらしさ」が表されているというか。そし てそこで初めて映画内初の「GRAVITY」……重力がライアンを包み込む。このシーンのためにあったんだよ、宇宙空間でのお話は!(リンク
としていますね。

 少なくとも日本では余り宗教的・神学的な解釈と言うのは見当たらないようですね。

※映画の脚本は、ここ
※キュアロン監督へのインタヴュー記事は、ここ

 では次回もう一つ映画を取上げます。
 (またもや見ていない。でも日本ではまもなく試写会が行なわれるという時期ですからいたし方ありませんね。)



2014年3月15日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2014年3月16日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 1:1-8
 

説 教 題 「福音とは、3」
説 教 者 小嶋崇 牧師

 
コロサイ人への手紙(4) 福音・・・恵み

2014年3月13日木曜日

(5)アダムの史実性、その後

大分前に
科学と人類の始祖アダムとイブ
アダムとイブの史実性の問題、追記
を書いたが、ここにきてまた関心を向けている。

先日、ゾンダーバン社のカウンターポイント・シリーズ(現下の様々な神学論争点を複数の著者間で議論させて、読者に『解釈の幅』を提示する)の中から「アダムの史実性」を取上げたものを購入した(キンドル)。リンク


まだ読み出してはいないのだが、Apologetics 315と言うサイトで簡単な書評が出ている。

実は面白いのは書評記事を書いたメリー・ルーさんの文章ではなく、コメント・セクションで紹介されている、ロン・チュンなる人物のまとめ方だ。

プリンストン神学校で博士論文を書いた、マレーシア出身の方のようだ。
とにかくコメントでは以下のようにチュン氏の見方がまとめられている。
Choong distinguishes between three Adams. The first is the initial homo sapien, who might be called the "biological Adam." Scripture might or might not speak to this individual depending on interpretation. The second is the first "'adam," who is the first individual depicted by the biblical term for person. The biblical term is much more than a biological category, so this would be the first individual endowed with spiritual awareness and in covenant relationship with God. The third Adam is the theological Adam, who is the biblical character that stands as our federal head and only receives minimal (yet significantly important) attention in Scripture.
どうもカウンター・ポイント・シリーズの著者たちより、少し「洗練の度」が進んでいるようだ。

とにかく先端科学が提供する情報を「聖書の権威」に立つ者たちがどう折り合いをつけるか、と言う問題だから、かなり追っかけっこの様相を呈しているように見える。

いち早く結論を出そうとするより、用語を発展させ整理しながら、「科学の記述」と「聖書の記述」との間にどのような橋を架けられるのか、皆でよく議論した方がいいと思う。

だから(読む前にこんなことを言うのもなんだが)このカウンター・ポイント・シリーズの本は、少し整理しただけ,程度に受け止めておいた方が良かろうと思う。

(筆者は特に理由もないのだが、「アダムとイブ」と併記することにしている。どうもこのトピックの場合殆んど「アダム」とされるのだが、この辺の神学的問題はどうなるのだろうか、と思ったりしている。)

2014年3月11日火曜日

レント追記

レントに入って7日目。

一応プログラムを辛うじて追っかけている。
(1日2日ビハインドになるけど。)

ところで
当教会では受難週の集会はなく、そういう意味ではキリスト教暦、教会暦に従った教会生活というのは余りない、非典礼的伝統の方である。
いや非典礼的伝統というのは正確ではないな、要するに歴史が浅いのだ。
そういうハイ・チャーチな文化が薄いと言おうか。
確かにメソジストの背景はあるのですが、リバイバリズムの影響の方が濃いわけですね。きっと。
と書いたが、たまたま目にしたサイトに、初期メソジストはレントを特に守ったわけではないことが書いてあった。(リンク

それによるとジョン・ウェスレーがアメリカのメソジストたちに残した「祈祷書・典礼書」にはレントの項目はなかったのだと。

聖公会祈祷書の主日毎の聖書箇所と祈祷文はそのままにしたが、主日の呼び方を変えたのだという。
例えばレントの最初の主日は「降誕節後第十一主日」とし、以降レント第5主日までは、「降誕節後第○○主日」と呼んだそうだ。
灰の水曜日も、聖木曜日も除外されたのだ。

なぜそうしたのか?

かすかに「適当な目的がないから」とだけ説明されていたのだ。

この記事を書いた人の推量では、要するに当時の(英国)メソジストたちは、レントのような教会暦で実践されるような事柄を、彼らの組会やソサエティーへ集会を通して十二分に実践していたからだ、と見る。

要するに二重になってしまうと言うことだ。

しかし今となっては初期メソジストたちが実践したような組会やソサエティーはなくなってしまった。
だから教会暦の伝統に従って灰の水曜日、レント、聖木曜日、グッド・フライデー、と守る需要が出てきたのだ。

うーん、少しなるほどと思った。



※この記事を書こうと思っているうちに、昨晩になってスェーデンのペンテコステ系メガチャーチの牧師がカトリックに改宗、と言うニュースが飛び込んできました。リンク①リンク②

どうもプロテスタントの新興教会は伝統が持つ安定や安心感に惹かれるようですね。


2014年3月8日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2014年3月9日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ローマ人への手紙 15:1-13
説 教 題 「人の霊と聖霊」
説 教 者 小嶋崇 牧師
 
説教シリーズ:キリスト者の交わり(3)
 
※礼拝後、昼食会

2014年3月7日金曜日

「福音の再発見」その後

サイドバーのラベルでは「キング・ジーザス・ゴスペル」で整理していますが、スコット・マクナイトの「福音の再発見(邦題)」の企画段階からの紹介は
「福音の再発見」応援サイト でしていました。

2013年5月発売後以降は、読者の反応を紹介するサイトとして
福音の再発見サイト
として継続しています。

発売後まだ1年経たないわけですが、昨年10月は以降は更新が滞っていました。

最近また少しずつ更新し始めましたので、ここでもそれ以降の記事のリンクを紹介しておきます。

『福音』とは

紹介・書評サイト

発売後の反応⑪

ちょっとひねった「福音の再発見」紹介記事

ある方から耳にしたことですが、ある教会団体の牧師たちの研修会で「福音の再発見」がテキストとして用いられたそうです。

一過性ではなく、絶えず「『福音』とは何か?」と言う問いかけは21世紀のキリスト教の将来を左右する大事なものだと思います。

今後も読者が増えることを願っています。

2014年3月5日水曜日

レント デイ1 灰の水曜日

当教会では受難週の集会はなく、そういう意味ではキリスト教暦、教会暦に従った教会生活というのは余りない、非典礼的伝統の方である。

いや非典礼的伝統というのは正確ではないな、要するに歴史が浅いのだ。
そういうハイ・チャーチな文化が薄いと言おうか。

確かにメソジストの背景はあるのですが、リバイバリズムの影響の方が濃いわけですね。きっと。

N.T.ライトを読むようになって、彼の聖書学や神学だけでなく、アングリカン(英国国教会)の影響も少しずつ感じるようになって来ました。

多分そんなこともあって今年初めて「レント」なるものと意識的に取り組むことにしました。

いえいえ何を制限する(断つ)か、なんてことはまだなのです。

人によってはチョコレートとか、コーヒーとか、何か嗜好品を一つ40日間「我慢する」のをよく聞きますが。

今のところは「取り組む」と言うの半分、野次馬根性半分です。

それでネットで「レント参加プログラム」を少し探して見ました。

一つはこれです。レント体験(英語サイトです)

これは自分で(幾つか簡単な質問に答えることによって)プログラム内容をカスタマイズできます。

次はこれです。レント・プロジェクト
北米カリフォルニア州にあるバイオラ大学提供です。

昨年も待降節プロジェクトがあり、音楽や絵画など視聴覚を取り入れた想像力に訴えるものでしたが、このレント・プロジェクトも期待できます。

次はサイドバーにある、以前「英語圏ブログ紹介」でも取上げた、Per Crucem ad Lucem で紹介されていた記事でしょうか。
灰の水曜日を思う



皆さんも良かったらどうぞ。

2014年3月1日土曜日

(3)英語圏ブログ紹介⑪

時々しかこのシリーズ更新しないので、毎回何回目だったか忘れてしまいます。

それでまたリストを作って確認。

① Chuck De Groat・・・ブログの新アドレスはこちら
② Rachel Held Evans 
③ Tim Gombis 
④ Larry Hurtado 
⑤ Andy Rowell 
⑥ Michael Gorman・・・リンク戻りました。 
⑦ Jason Goroncy
⑧ Andrew Jones・・・ブログの新アドレスはこちら
⑨ Chris Tilling
⑩ Nijay Gupta (Crux Sola) 

今回紹介するのはサイドバーにもある、Ben MyersのFaith and Theology。
今回取り上げたのは、最新記事が宮崎駿アニメ作品の寸評が出ているから。
Hayao Miyazaki In Praise Of Air 

宮崎監督を誰と比較しているかと言うと、
Lover of all that flies or that dreams of flight or that flies only in dreams! Of the four mythical elements, Tarkovsky made films out of Earth, Kubrick made them from Fire, Orson Welles from Water – but to you belongs the consummate artistry of Air.
と言うわけです。

原初世界は四元素からなっていた、と言う神話の世界を映画では
タルコフスキー・・・地
キューブリック・・・火
オーソン・ウェルズ・・・水
と来た後に
宮崎駿・・・空
となるのだそうです。

以下その記事で取り上げられている宮崎作品は
  1. 風の谷のナウシカ
  2. 天空の城ラピュタ
  3. となりのトトロ
  4. 魔女の宅急便
  5. もののけ姫
  6. 千と千尋の神隠し
  7. ハウルの動く城
  8. 崖の上のポニョ
  9. 風立ちぬ
となります。

どうやらバルトなど難しい神学書を読むベンが愛しているのはイマジネーションに溢れたアニメなのですかね。
少なくともベンは宮崎アニメファンのようです。

明日の礼拝案内

主日礼拝

3月2日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 16:5-15
説 教 題 「心に満ちた悲しみ」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《御霊の働き》2
※聖餐式があります。