2018年8月31日金曜日

今日のツイート 2018/8/31

ちょっと内容的には一般的ではないが・・・


ちょうど「「次世代教会」を展望して、5」で教会史の学びの重要性、必要を訴えたところなのでドンピシャリという感じ。

「次世代教会」を展望して、6
で少し膨らまして見たいと思う。

2018年8月28日火曜日

(3)「次世代教会」を展望して、5

さて今回は「教会史」の学びをどう取り入れるか、について書いてみる。

小グループの信徒伝道者の神学教育で恐らく最も重点がかかるのは「聖書」ではないかと思う。

しかしその次に実際的に必要になるのは(神学ではなく)「教会史」ではないか。そして教会史の学びの中に「神学」、つまり様々なキリスト教グループが存在するようになった理由の一つとして「教理」や「神学」の違いを理解する必要に迫られるのではないかと思う。

ざっくり言って「プロテスタント諸派(教派、デノミネーション)」宣教師団体が、第二次大戦後日本で伝道を展開し(いわゆるキリスト教ブーム)、その後の「高度経済成長期」に合わせて順調に「教勢」を伸ばし、特に1960年代終わりから1970年代にかけて「福音派」が 新改訳聖書や日本福音同盟(JEA)、日本福音主義神学会などを立ち上げて「成長」していた時期(せいぜい1980年代までか・・・?)を過ぎると、全体に停滞から徐々に退潮へ向かって行き、そして21世紀に入ってしばらくするとシリーズ1でも指摘されたように明確な「頭打ち」傾向、「閉塞状況」が意識されるようになった。

ざっくりと書いたが、要するに「今の文脈」を捉えるとき、一つの傾向として「教派」の比重が軽くなったことを指摘したい。

教派間の競合が減っただけではなく、「自由派対福音派」の対立さえも先行き困難な諸教団にとってはかなり意味合いが変わってきた印象がある。

 「困難な日本の伝道をどうするか」、
 「どうやって教会が生き延びるのか」、
という大きな課題の前には優先順位が低くなってきた観がある。

この流動的状況が、今後小グループの信徒伝道者・指導者に及ぼす影響を考えるとメリットとデメリットがそれぞれあると思う。

《メリット》
 教派主義が相対的になり、自由派対福音派の対立を余り意識しなくなることによって神学教育のための「教材選択」がかなり自由になる。つまりテキストの著者の教派的・教理的背景に左右されて選択肢が狭くなる状況は減るだろう。内容が良いテキストを幅広く選べるようになる。
《デメリット》
 反対に「教派的違い」や「教理的特色」に対する、つまり「歴史的キリスト教」に対する意識がなくなり、神学教育のテキスト選択、教材選択の基準がはっきりしなくなる可能性が強まる。

フラットでネット空間のコンタクトから小グループが形成されるようなシナリオを想定すると、集ったキリスト者の相互理解がどのようになされるのか、極めて興味深い状況となるのではないか。

なるべくシンプルな「キリスト教信仰」を志向する機会が増えると同時に、「歴史的キリスト教」の無知無関心の故、かなり偏った聖書解釈や信仰理解に引っ張られていく可能性もある。(ネット情報にはその辺のことを解決してくれる信頼できるリソースがどれくらいあるか。日本語の場合はそもそもキリスト教情報が少なすぎるのでかなり限られているように思う。)

以上の理由で、小グループの信徒伝道者の神学教育で「聖書」の次に重要になるのは「教会史」ではないかと思う。

しかしこの学びをどのように進めるかに関しては工夫が必要だろう。
よく「歴史」を学ぶのに「現代史」から始める意義が言われるが、教会史の場合もそれで良いように思う。
つまり上にざっくり書いた「第二次大戦後の日本のキリスト教、特にプロテスタント史」を軸にして進めて行くのでいいのではないか。

その時さらに強調点として加えると、(教派色が後退しつつある)現代のキリスト者として、(1)「自分のルーツを掘り下げる」方向の学びと、(2)「(分裂・分離を繰り返して)キリスト信者のグループが拡散したのを追跡する」方向の学びと、両睨みの関心を維持することが大事ではないか。

両方とも「少しずつ」深めていけばよい。避けたいのは「タコツボ」にいることに無知な状態てはなかろうか。


(1)ルーツ掘り下げ型
 簡単に言えば、自らがキリスト者になった《経緯・経路》を特定したり、自分の信仰的理解や神学的理解がどのようなキリスト教の歴史的影響のもとにあるのかを見て行く学びである。
 実際は様々な要素が複雑に絡んだことではあるだろうが、たとえば戦後のキリスト教の代表的人物や関心ある著作家の伝記などを通して目ぼしい「運動」「出来事」「人物」など《指標/マーカー》を増やしていけばよいのではないか。そのプロセスで自分に絡んだ事柄が一つや二つ出てくるだろう。




(2)拡散追跡型
 ※本当は「エキュメニカル」を使いたいところだが、「リベラル対エヴァンジェリカル」対立の名残がまだ尾を引いていると思うので、ここでは使わないことにする。

 歴史を学びながら、自らの信仰生活で使用する「言語」や「習慣」にいくらかでも自覚的になり、そのうちの幾つかは「キリスト者に広く用いられている」ものと、そのうちの幾つかは「キリスト者の特定のグループに特徴的である」もの、というふうに「共通点と相違点」にどれだけ敏感になれるかが大事だと思う。
 ただものによってはニュアンスの違いが微妙すぎて「なぜそんな違いに拘泥したのか」みたいなこともあるだろう。つまり「カトリックとプロテスタントの違い」も良く知らない人のレベルからスタートすることになるわけで、「違い」を面白がり知りたがることが大事ではないか。(分散した状態であることをよしとする意味ではないことはもちろんである。)
 これは小グループで集ったキリスト者間での「相互理解」という面で実際的な知識になるだろう。 

以上、次回に続く。

2018年8月25日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年8月26日(日) 午前10時30分


朗読箇所 伝道者の書 7:1-29
説 教 題 「順境の日と逆境の日」
説 教 者 小嶋崇 牧師


聖書に見る人生観、伝道者の書(7)

2018年8月23日木曜日

(3)「次世代教会」を展望して、4

今回は「今日のツイート」みたいな感じで始めたい。



既にご存知の方も多いと思うが、米国ペンシルバニア州大陪審の調査によって当地のカトリック教会の司教・司祭たちによる長年の児童・青少年性虐待が明るみに出た。(カトリック中央協議会

その事態を受けてこのツイートになっている。

まだ日本語で読めるものではこのカトリック教会の一大不祥事(というような表現ではとても収まらない深刻なものに思われるが)の波紋がどの程度のものかは殆ど分からない。

しかし英語で検索すれば事態の深刻さは充分うかがい知れる。
この問題はローカルなものではなく、今後の展開ではおそらく全米各地にその波紋が広がり新たな報告や追及が続いて出てくると思われる。

問題は構造的であり、ヒエラルキー的教会政治構造・独身司祭制度に関わるため「膿を出す」とか「改革を継続する」ような認識で果たして済むのか予測するのが難しい。

かなりの迅速さで改革が進まないと信徒の脱会に歯止めがかからなくなる恐れは充分にあるだろう。

さて今回は「米国ペンシルバニア州大陪審調査報告」に関するものではないので、カトリック教会のことはそこまでにする。

(1)教会の聖化
このツイート主が指摘したポイントは的を射ている。
福音宣教プログラムが充実し、大勢教会に人が来ても、教会が罪にまみれたままなら「ざるで水を掬う」ようなものに違いない。

ホーリネス(聖化)は教会にとって本質的問題であり、いまや窮地に立つカトリック教会だけでなく、新興宗教然の多くのプロテスタントの教会でも苦難に喘いでいる問題である。

(2)「キリスト者の成長」を視野に入れたグループ形成
前回、小グループ指導者として、(1)(キリスト者の)召命、(2)柱となる活動についてヒントとなる聖書箇所を提示した。

詳細は置くが、伝道の困難な時代にあって既存の教団・教会が衰退している中、「次世代教会」が果たさなければならない役割はやはり「宣教(ミッション)」であると思う。単なる生き残りでは「継続の目的」として不十分と言わざるを得ない。

ただ「不振の時代」になってこそ注目が集まるのは「信徒による伝道」や「フラットな人間関係構築とネットワーク形成」、そしてそれを助ける「インターネット環境」であり、それらの要素をヒントにした「信徒指導者のための神学教育」のようなものを今このシリーズで少しずつ考えているわけだ。

最初にカトリック教会という歴史的にも世界的にも巨大な組織にとって、「聖化」の問題がいかに難しいかに注目した。しかし考え違いをしないようにしたい。

教会の歴史で腐敗した(母)教会から分離して新しいグループを形成すれば、その反省を生かして「聖化」の問題をクリアーできるかと言うと、そう簡単ではない。

「聖化」の問題は教会が「巨大」かどうか、「組織的・制度的」かどうか、「教会権威構造がヒエラルキー的」かどうかでは収まらないものであり、キリスト者であることの本質的なことに関わるものであることを肝に銘じておきたい。

ここでもやはり「召命」が問題を捉えるスタートラインだ。

ただ「聖化」を「道徳的純潔」の面だけで捉えると、「世からの分離」に拍車がかかり、「世に出て行く」宣教的姿勢が鈍る傾向がある。

たまたま筆者のフェイスブック友達が「音楽ジャンル」としてロック(特にヘビー・メタルのような)をどう考えるか、みたいな話題を挙げてそれに多くの方がコメントしていた。

悪魔崇拝やドラッグ・カルチャーのような悪影響から教会音楽を守るため排除した方がいいのか。
若者(に限らないかもしれないが)文化の中に入り、クリスチャン・ロックというメディアを作って行く事によって、福音を文化の内側から浸透させる方法もありうるのか。
そんな問題である。

この辺の問題は「聖俗二元論(永遠vs世俗=テンポラル/temporal)」という視点で長年考究されてきた問題で、それこそ教会史を貫くものであり、どっちを選ぶかといったような簡単に片付くものではない。

脱線してしまったが、「聖化」の問題はキリスト者の「召命の『完成』」に関わる問題であり、新約聖書の書簡が繰り返し具体的に取り上げている問題であることをまず認識しておきたいと思う。

ということで小グループ指導者の「神学教育」として、「宣教(アウトリーチ)」と「教会の聖化」は両輪として視野に入れて学ぶべきではなかろうか。
すこし欲張りだが「宣教」的視点から聖書を学ぶことや、「聖化」の視点から新約聖書書簡を学ぶ、みたいな焦点を絞ったコースがあってもいいのではないかと思う。

(続く)


2018年8月21日火曜日

(3)「次世代教会」を展望して、3

前回、「次世代神学教育」みたいなことを話し始めました。

少し続けます。

既に2回引用した中にあった「次世代教会」の形態として
 (1)小グループ、家庭集会型
 (2)専門職を置かない自給型
がラフな特徴として言えると思います。

かなり簡単・曖昧なイメージですが、しばらくこれで引っ張ってみます。

このようなタイプが「次世代教会」の主流になるかどうかは別にして、制度的教会が弱体化し、ネット文化によりますますフラット志向に社会が動けば、このような形態のキリスト者のグループが増えて行くことは充分考えられます。

既に米国その他の地域で、制度的教会に対抗する教会のあり方として「イマージェント」と呼ばれる、いわば草の根運動が1990年代辺りから起こりました。
※ 「イマージェント」については過去の記事で簡単に説明した
 彼らはキリスト教会の様々な制度面に対し否定的態度を取る傾向が強い。
スモールグループで、集会や聖書研究を行い、自分たち自身のキリスト教表現に忠実であろうとする傾向が強い。さらに、「社会正義」「環境問題」など保守的福音派が余り正面から取り組んで来なかった問題に関心が強い。
「イマージェント」のような場合、小グループ型「次世代教会」の指導者になるよう「召命」や「志し」を持つ方は既成の教会に対する幻滅や批判を通して小グループを始める、と言うケースが多いと思います。

そのような小グループから会衆が増え、会堂を取得し、専門ワーカーを雇って「教会」のようになるケースも出てくるかもしれませんが、(日本の場合は殆ど考えにくいので)あくまで小グループのまま存続することを前提して、そのようなグループ指導者となる方に相応しい神学教育はどんなものかを考えて行きたいと思います。

(1)(理想的には)召命(Call)を意識
現実にはなかなか難しいかもしれませんが、(筆者が影響を受けているN.T.ライトさんの主張を活かせば)そのような指導者は「福音」と「召命」を出来る限り明確に意識していることが望ましいと思います。
主イエス・キリストの福音が宣言されるとき、聖霊の自由な働きによって「召命(call)」がなされ、それに応答する「信仰の従順」を出発点とする。
キリスト者のグループはどんなタイプのものであれ、「召命(calling)」に基づいて形成されるのが望ましいと思います。その際「召命(calling)」は教会のために働く専門職に就くという意味での召命ではなく、福音によって「呼び出された者たち」すべてに適用されるものです。

換言すれば、小グループ指導者は、仲間のキリスト者たちと共に、「召命」に対する自覚と理解を深め、「召命」に相応しく生活することを継続的に集って学ぶよう励ますことが出来るよう訓練する必要があると思います。

(2)グループの「柱となる活動」への理解
小グループと云うのは多分に自然な流れで形成される「仲間」のような傾向が強くなるのではないか。アットホーム、くだけた、ナチュラル、親しみやすさ、などグループ形成に多いに長所となる反面、中心となるもの、そもそもなぜ集るのかという目的や使命がいつのまにか曖昧になりやすい。そのバランスが崩れないように敏感にグループダイナミクスの方向を察知し、「中心に戻す」能力が指導者には求められると思います。

つまり、一にも二にも「召命を受けた者たち」のアイデンティティを自らもそして仲間も保持するだけの粘り強さが肝心かと・・・。

そういう意味では活動として中心になるだろう「共同聖書研究」で使徒の働きを読むことが相応しいのではないかと思う。

先ず「グループの柱となる活動」については、使徒の働き2章41~47節を時間をかけてじっくり学ぶことがいい。

次に「アイデンティティ保持」に関しては、使徒の働き20章のパウロの決別説教から多くの示唆を受けることが出来るだろう。

2018年8月18日土曜日

(5)タカ牧師のRR 2018/8/18

多分今度で3回目の「タカ牧師のRR」です。
(RRとは、Recommended Reading、の略です。)

前回、2回目はNYT(ニューヨーク・タイムズ)のコラムニスト、デーヴィッド・ブルックス青年教育のチグハグ(Mis-Educating the Young)(2017年6月25日)を選びました。


今回はかなり長い記事で、趣向も今までとかなり異なりますが、読み応えがあっていいかと思い選びました。


The un-celebrity president
Jimmy Carter shuns riches, lives modestly in his Georgia hometown

(2018年8月17日、ワシントンポスト)
 

「セレブリティ」という語が使われていますが、米国の歴代大統領の中でそれほど評価が高くなかったカーター大統領が「いま」注目されている資質は「品格」的なものです。

それほど「大統領」のイメージは金まみれでセレブ的になり、米国の庶民からかけ離れてきた、と云う感慨が背景にあるようです。

「カーター大統領」が(ある意味)レジェンド扱いされるほど、等身大の人間が大統領になるのが難しくなってきているのでしょうか・・・。
比較は難しいですが、日本で言えば「村山富市首相」に似た感じですかね・・・。

 
記事は長いですが、(父・子)ブッシュ、レーガン、クリントン、オバマ、と最近の大統領やその前の大統領の「人となり」を例に出しながら綴ったわりあい読みやすい文章です。
長いのが大変な人には、2~3回に分けて読めば攻略できるでしょう。


良かったら皆さんもどうぞ。

総ワード数: 2700
英語レベル: 中(5段階の2~3)

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年8月19日(日) 午前10時30分


朗読箇所 エペソ 2:1-10
説 教 題 「豊かな恵みを現す」
説 教 者 小嶋崇 牧師


エペソ書講解(8)

2018年8月16日木曜日

(3)「次世代教会」を展望して、2

さてどの辺りからトピックを立てて行こうか・・・。

ざっと言うと今念頭にあるのは、(恐らく小グループの)信仰共同体をリードする「牧師」にせよ「信徒」にせよ指導者の「神学教育」はどのようになされるのか、と云う課題。

前回紹介したあるブログ記事の引用からスタートします。
既存の教会制度が崩壊していく中で、間違いなく主流になっていくのは、一人一人の信者の自発的な働きによる、ホームチャーチや小グループです。
ネット環境さえあれば、いくらでも聴けるメッセージがあります。何十人、何百人も集めようとしなければ、個人宅で十分です。
一つの教会で、一人の専任の牧師を置くというこれまでのあり方をやめて、自給伝道を中心にしていくならば、経済的な負担も、比較にならないほどに軽減されます。
インターラクティブ・ラーニング

上記の引用で集会のときに聞くメッセージはネットから・・・ということが言われています。
恐らく既に牧師が常駐していない「小さな教会」や「伝道所」そして「家庭集会」のような集会ではそのような方式が取られているのだろうと思います。

しかし問題は「現状の日本の教会が縮小して行く過程でどう対応するか」ではなく、「次世代教会のリーダーシップをどうやって作るのか」という課題です。

簡単に言えば、教団立の神学校でさえ尻すぼみになっている現状でどうしたら神学教育を現代文脈に沿った方で整備できるのかと云う二重の問題です。

一つは日本の神学校の神学教育の現状は「伝統的科目」をこなすことさえ人員・資料/図書館的に不十分・追いついていない、ということです。(日本の神学校で教育を受けたわけではなく、また神学教育に携わったわけでもないので、伝え聞くところと間接的な観察によるところとの印象でものをいっています。)

もう一つより重要なことは「次世代」の教会が担うべき神学的課題をどう把握しどうアプローチするか、という「神学的リーダーシップ・イニシャティブ・イノベーション」が神学教育に携わっている層からまだまだ出てきていないように見受けることです。

そんな中でネット社会が急速に進み、キリスト教界でも「動画を用いたオンライン神学教育」を開発する動きが出てきました。

自前の神学校施設を持たずとも、ネット環境を使ってよりインターラクティブな教育にシフトして行くのではないか、と思います。

神学コース・カリキュラム
せっかくの機会(危機でもあり機会でもある)ですので、伝統的神学教育科目(聖書学・組織神学・実践神学)を「次世代」の視点から再構築するようなアプローチが求められるのではないでしょうか。(いつか考えてみたいトピックです。)

神学リソースと教材
ここでも思うのですが、英語で得られるリソースを組み入れられるのならかなり豊富になるのですが・・・。

読書会
N.T.ライト読書会をリアルでもフェイスブックでも主宰してきた経験から言うのですが、現時点で日本語でのインターラクティブ・ラーニングはやはり「きっかけ」や「入門」の域を出るのは難しいと思います。

もし「次世代」の「リーダーシップ」層を発掘し・コーチするとなるとやはり実際に顔を合わせて「テキストを読み」「ディスカッションする」ことができる「定期的小グループ・ミーティング」を構築する必要があると思います。

おそらく「次世代」というテーマがプルとなって更なる「学習トピックや領域」が見えてくるのではないかと思います。



以上「次世代神学教育」はこんな感じじゃないかなーとおぼろげながら見ていることの輪郭の一部をご紹介しました。

2018年8月14日火曜日

(3)パウロと“ユダヤ教”

2017年に新改訳聖書の新しい訳が出版された。
筆者が購入したのはそれより大分遅れて今年の7月だった。
それ以降「聖書通読」の時にはこの新改訳2017を使っている。

訳文にはかなり大幅な改訂がほどこされた(ような)ことを聞いていたので(かえって)期待して読んでいるのだが、「これは!」と思う箇所は(残念ながら)あまりない。

さて今朝の通読箇所でガラテヤ1章を読んだ。
新鮮に目に入ったのは13、14節だった。
1:13 ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。
1:14 また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。(新改訳2017)
1:13 以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。
1:14 また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。(新改訳)
何が新鮮だったか、と云うと引用で強調したように「ユダヤ教」という語が用いられていることだった。
それで旧を見てみると「ユダヤ教徒」とはあるが基本的には変わっていない。

つまり自分の方の受け取り方に従来とは違うものがあったことに気がついた。

端的に言えば、「えっ当時『ユダヤ教』という呼び名が通用するほど一つの宗教としてのまとまり・個別の輪郭を持っていたっけ・・・」という疑問であった。

つまり、使徒パウロの「回心前」と「回心後」の違いを、「パウロとユダヤ教」の関係で表すとどうなるか、と云う問題でもある。

図式化すると大体3通りになる。
(1)回心前=ユダヤ教、回心後=キリスト教
(2)回心前=ユダヤ教、回心後=キリスト教、とユダヤ教
(3)回心前=ユダヤ教、回心後=ユダヤ教、とキリスト教

これでは細かなニュアンスが表せないが、要するに回心後のパウロにとってユダヤ教はどうなっていたのか、という問いである。

「キリストにある」素晴らしさのゆえに、ユダヤ教を誇りに思っていたことはすべて無価値となり、律法も含めて否定したのか・・・。

キリスト者となった後も、自身はユダヤ人として行動したが、異邦人キリスト者にはユダヤ教は必要ないと教えたのか・・・。

そんなパウロ自身の「アイデンティティ」にも関わる問題であり、当然ガラテヤ書やロマ書の理解に大きな影響を及ぼす問いでもある。

英語では、最近 Paul Within Judaism という視点が大分取り上げられるようになってきた。簡単に言うと、パウロは回心後もユダヤ教から出ていない、という見方だ。

興味深いので新改訳2017だけでなく、N.T.ライトの個人訳新約聖書であるKNT(Kingdom New Testament)の訳文を引用しておこう。
13 You heard, didn’t you, the way I behaved when I was still within ‘Judaism’. I persecuted the church of God violently, and ravaged it. 14 I advanced in Judaism beyond many of my own age and people; I was extremely zealous for my ancestral traditions.
[2018/8/14 追加]
※N.T.ライト読書会ブログに「Paul within Judaism」をアップしました。
この記事で書いたことのアカデミック版のようなものです。ほぼすべて英語ですが、ネットで読める関連記事を色々紹介しています。

《関連記事》

(4)宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ(続き2)


2018年8月13日月曜日

(3)「次世代教会」を展望して、1

今年に入って更新回数がめっきり減ってしまった。

お世話している読書会や読書会関係の働きもお休み中だ。

そんな状況なので「『次世代教会』を展望して」を連載してみようと思っているが極めてランブリング(rambling)なものになること請け合いだ。

しかしやろうと思うだけの切実な状況はひしひしと感じている。

「『次世代教会』を展望して」これまで考えてきたことをどれだけ整理して一回一回の記事にアウトプットできるかはもう出たとこ勝負でやることにしよう。

しばらく右往左往トピックが変遷するかも分からないが、筆者の頭の中ではそれら乱雑なトピックも一応繋がっているのだろうな、と云う希望的観測の元に読み進めてほしい。

発端はどの辺りに?

 時系列的に見て近い方では以下の三つの記事が今回「『次世代教会』を展望して」を連載することに関わってきます。

隠れキリシタンになる前に 20年後(?)の日本の教会を見据えて(2017/2/19)
隠れキリシタンになる前に 余波1(2017/2/22)
隠れキリシタンになる前に 余波1(続)(2017/3/1)

この最初の記事で取り上げた「某教団の聖職者」が一年経ってあるプロジェクトを開始し、先日その報告のための会を開いた。
詳しいことは書けないが、そのプロジェクトは記事で書いたものとは大分様相が違っていた。
日本全国の教会の現状を現場に赴いてリサーチしそれをまとめる、と云う段階をスキップして、むしろ「次世代教会」のモデル構築に具体的に着手したわけである。

次世代教会とは何か?

 それは一定数の信徒を集め、彼らの献金によって専門ワーカー(牧師とか伝道者とか)が施設(教会堂/牧師館)に定住して宣教する…という《従来型》に対し、農業に従事する共同体を形成して伝道する…という《自給型》だ、と云う説明であった。

 その話を聞きながら「勇気あるなー」「開拓者精神がすばらしい」と心の中で思いながらも釈然としないものも多く残った。

 会の後半の質疑応答で「釈然としないもの」の中の一つは語ったが、もはや問題はその方のプロジェクトの是々非々ではなく、現在日本で伝道に従事している「我々一人一人」がどう「次世代」の教会の課題を引き受けたらいいのか、ということだと思った。

あるブログ記事


 日本基督教団の将来を予測してそれを「2030年問題」として捉え、どのように対応したらいいか、ということをある方が書いています。
 その中で以下のような展望を掲げています。
既存の教会制度が崩壊していく中で、間違いなく主流になっていくのは、一人一人の信者の自発的な働きによる、ホームチャーチや小グループです。
ネット環境さえあれば、いくらでも聴けるメッセージがあります。何十人、何百人も集めようとしなければ、個人宅で十分です。
一つの教会で、一人の専任の牧師を置くというこれまでのあり方をやめて、自給伝道を中心にしていくならば、経済的な負担も、比較にならないほどに軽減されます。
すでに・隠れキリシタンになる前に 20年後(?)の日本の教会を見据えて(2017/2/19)で書いたように、日本の人口動態予測や少子高齢化社会等、構造的変化を見据えればある意味現実的な対応と言えるかもしれません。

ただまだまだ議論の中心に見えてこないのは将来的にキリスト教グループが日本社会に生き延びるとしても、そもそも「何のために生き延びるのか」。生き延びるだけの「使命・ミッションは何なのか」が問われていないように思うのだが・・・。


まずはそんな切り口で始めて行きたいと思います。

2018年8月11日土曜日

明日の礼拝はお休みとなります

巣鴨聖泉キリスト教会での明日、

8月12日の主日礼拝

はお休みとなります。

どうぞお間違えありませんようにお願い申し上げます。


※例年になく厳しい暑さの日々ですが、熱中症等 健康にはくれぐれも留意してお過ごしください。

2018年8月4日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年8月5日(日) 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 10:1-33

説 教 題 「キリストは和解の礎」
説 教 者 小嶋崇 牧師

「かなめ石」考 (8)
 エペソ書の学び(16)、パウロ書簡(178)