2010年10月31日日曜日

教理的ケアー

先日ポストした「聖書と教理」、当教会の「宗教改革記念セミナー」のテーマであると紹介し、準備中の『舞台裏』の様子を紹介しました。

その後どうなったのか。
今日当日を迎え、先日のポスト内容とは大分趣向を変えてセミナーを行いました。

一読者から「ブログで紹介して」との要請もあり、ポスト内容とも大分変った結果ともなったので、その経緯も少し含めて、今日のポストといたします。

先日のポストでは、「如何に『聖書』と『教理』とを区別するのか」「なぜ区別するのか」に苦心している様子を書きました。
その後考えを進めて行くうちに、その読者のコメントを読みつつ、「なるべくシンプルに行こう」と思い直しました。

ある程度問題意識を共有しているのでなければ、こちら(牧師)側が説明に終始してしまう、と危惧したからです。言葉を尽くして説明したとしても、あまり理解してもらえないような内容であれば建設的ではない、と考え直したわけです。

それで、宗教改革時の「聖書と教理」の問題はバイパスして、礼拝では使徒の働きから、原始教会での「教え」の側面に注意を向けました。

導入は、ギリシャ語「エクレシヤ」が日本語で「教会」と訳されるようになるについての一くだり。
字義からは、教会は「教える会」、つまり「何かを教えそれを学ぶ集まり」と言うことになります。
明治期の宣教師がChurch をそう訳したのでしょうか。Churchと言う語はチュートン系民族に共通していて、ギリシャ語の「ギリヤコン」あるいは「キリヤコン」に源を持つようです。その意は「主の家」。建物を意味する語だったようです。
新約聖書では、教会は「エクレシヤ」、ギリシャ語で「集会」の意ですが、キリスト教的には「主に召集された『神の民』」です。
ここでは、日本語で「教会」が“教えを中心とした集まり”との印象を与えやすいのではないか、と指摘しました。
対照的に原始教会はどうであったかを、次に考察しようとしました。
使徒の働きでは、ペンテコステに聖霊が降臨し、主の弟子たちに加わった信者たちの様子が映し出されています。簡潔な描写から垣間見られる原始エクレシヤの姿は「主イエス・キリストに対する信仰を基盤にした〝生活共同体〟」。まだ神殿が破壊される前でしたから、「神殿」での礼拝と、共同体の生活における信仰生活とが、一体となっていた様です。
つまり「教える」と言う面は、ペンテコステ後の教会、「信仰と生活が一体となった共同体」の一側面であったことを指摘しました。

次に「教える」と言う働きはどのようなものであったかを考察してみました。
それは筆者の表現では、使徒たちによる、新しく加わったキリスト者たちへの〝教理的ケアー〟(使徒の働き2:42)ではないか、と指摘しました。
どんな教理的ケアーだったのでしょうか。
既にバプテスマを受けた信者たちですから、メシヤ・イエスに対する信仰告白の基礎に立つ「教え」であったでしょう。ペンテコステ説教の内容から逆に推測しますと、メシヤ・イエスが、聖書に証しされている通り、神の御心に従って受難と復活を通して贖いを成就されたこと、そしてその成就の上に、約束された「罪の赦し」と「御霊の賜物」が信者たちに受領されていること、を確認させる堅くする確信させるものであったと思われます。

と言うわけで、従来の「教理」と言うと何かお堅い学び、既に決まった内容のものを暗記する(教理問答書)、ようなイメージに傾きやすいのですが、そうではなく、教理的教えとは、もっと牧会的な配慮から出てくるものなのだ、と言うことを確認しました。

筆者にとって教理を教えると言うことは、信者の信仰育成ケアーなのだ、と言うのが今回の学びでの“新たな気付き”になった感じがします。


(その後の「学び」では、皆さんが「聖書」からの学びと、「教理的な教え」をどう整理されているかをお話してもらいました。筆者はひたすら聞く側に回りました。)

2 件のコメント:

  1. 小嶋先生

    ミーちゃんはーちゃんことかわむかい でございます。

    大変、示唆にあふれるご紹介の記事、ありがとうございました。教理を考え、それを伝えていくこと、信者の健全な成長の糧とする、ということを改めて感じたように思います。

    小嶋先生が、公団からの教理の一方通行での伝達に終わらない傾聴の姿勢をとっておられる姿を見ながら、こういう作業をうちの教会でもしてみたいなぁ、と思いました。自由な発言ができる雰囲気が形成されている姿が目に浮かぶようです。

    ますます、貴教会をご訪問してみたいと思うようになりました。

    大変貴重なご投稿、ありがとうございました。

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  2. かわむかいさん、コメントありがとうございます。

    >講壇からの教理の一方通行での伝達に終わらない傾聴の姿勢をとっておられる・・・

    とのことですが、「説教」の場面ではなかなかこうは行かないものです。実際礼拝後の「学び(シェアリング、分かち合い)」での皆さんの発言聞きながら、まだまだ一方的な面があるなー、と思わされました。
    最近の教会だとオーバーヘッド・プロジェクターとかパソコンと繋いだプロジェクターでビジュアルに説明することも出来るのでしょうが、当教会ではもっぱら「耳で聴く」に依存しています。
    ですから聞く側の負担は多いと思います。
    その一方通行性を相殺するために、「セミナー」と称する学びの時は、「分かち合い」と言って皆さんに発言してもらうようにしています。そうするとどの程度「講壇から語っている」ことが聴く者に届いているか、多少なりとも知ることが出来るので有意義だと思っています。
    でも「牧師の説教は難しい」と言う印象はなかなか拭えませんね・・・。まだまたです。

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