今日は英国留学中で帰国中のY兄と神学も含めた四方山話をした。
断片的になるが適当に並べてみよう。
①N.T.ライトの「キリスト教起源シリーズ」の四巻目「パウロ神学」の本は来年出版されるかどうか。
本当は既に出版されているはずであったのが延び延びになっている。
昨年のホィートンでの神学会議では2011年と言われていたが、間もなく2012年とされた。
しかしY兄によると同時に執筆中の本が5-6冊あるようで、2012年も無理かもしれない。なぜならライト博士のパウロ研究に対する思い入れもあり、絶えず新しい資料を渉猟したり、新しい視点や領域を抱合しようとしているので、なかなか本にまとまらないのではないかとのこと。
まだ一年以上も待たねばならないと言うのは残念だが、それだけ分厚い研究成果を見せてくれるのだろう。そっちの方を期待してよしとするか。
②ポストモダンの教会の退潮傾向英国国教会は衰退している。
一部の教会はそうでもないかもしれないが全体的に見れば退潮傾向は明らかだ。
英国国教会の牧師の給料も意外と低い。
総じてポストモダンに突入している地域ではキリスト教会は停滞か衰退している。
米国の福音主義教会もメガチャーチに目を奪われがちだが、主流派教会は減少傾向にある。
日本もポストモダン圏にあると位置づけられるが、高齢化など将来衰退するのは避けられないだろう。
③大教会の牧師は大変だ。伝統のある教会の牧師も大変だ。少人数の会衆の教会で牧師が出来ればいい。
そう言えば著名な新約学者、C.K.Barrettが亡くなって、オビチュアリーをどこかのブログで読んだ。彼はメソジストの巡回説教者として20-40人位の教会で説教をしていたそうだが、誰も彼を大新約学者とは知らないで説教を聞いていたそうだ。
(これを書いている時点でそのブログを見つけました。新進気鋭の新約学者、ニジェイ・ガプタのブログです。多分「英語圏ブログ紹介」シリーズで今後取り上げるかもしれません。C.K.バレット訃報)
④今新約聖書学をやるとしたらどこか。
最近はオックスフォードやケンブリッジには目玉になる教授がいないね。
ダーラムかセント・アンドリュースだろうね。
神学だったらエディンバーグもいいけどね。
英国の学風は深く落ち着いた雰囲気があるけど、アメリカはどうかね。基本的には浅く広くという印象がある。
リチャード・ヘイズのいるデュークはいいね。
と言ったようなことをあれこれおしゃべりした。
標題の「日本の牧師は勉強しているか?」については、どんな話の流れで出てきたかと言うと、依然として日本の神学や神学校教育は英語圏のものを翻訳して移入しているが、どうなんだろう。
本格的「日本の神学」を目指すような必要はあるだろうか。
いや、やはり聖書学で言うと英語圏の業績が量的にも質的にも圧倒的だ。まだまだ学ぶ必要はある。
そうなると英語で読まない限り翻訳に頼ることになるけど、日本のキリスト教出版事情では読者数が限られているからどうしても一定の神学者や定評のある本に限られてしまう。
そうすると翻訳された時点で20年、30年遅れてしまうことになる。
確かに日本の牧師は牧会や何やらに時間が取られていて勉強する時間が限られている。
説教の勉強と言ってもバイブル・ソフトを使ったりして釈義の細かいことはやるけれど、もっと広い聖書学の研究、例えば第二神殿期ユダヤ教についての学びなどをやっていないのでは。
例えば旧約聖書外典偽典なんかちゃんと読んでいないのじゃないか。
たまたま死海文書を邦訳で探してみたけれど見つからない。もしまだ邦訳されていないとすると、第一次資料のレベルで英語圏とは差をつけられてしまう。
まっ牧師が一人でこつこつ勉強するのもいいけど、読書会のような相互に刺激し合う場があると、もっと勉強するようになるのじゃないか・・・。
と言ったような話を二時間ほどしてお別れした。
巣鴨聖泉キリスト教会(日本聖泉キリスト教会連合)創立1965年。 大和郷の一角にある緑と花に囲まれた教会、隣には牧師の木工房。 静かに賛美と聖書の学び、そんな礼拝の時をお過ごしください。
2011年8月31日水曜日
2011年8月29日月曜日
英語圏ブログ紹介②
先日はこのタイトルではなかったが、「牧師という職業」で筆者が回覧している英語圏ブログの一つを紹介した。
今回二回目は既に紹介したことのある、レイチェル・ヘルド・エバンスのブログを紹介しよう。
「アメリカの新世代キリスト者①」、や「ディスペンセーショナリズム」で彼女のことについては、その著書「モンキー・タウンで進化する(Evolving In Monkey Town)」 などについて触れたので、ここでは彼女のブログの面白さや日本語圏のブログと比較した時の特徴などについても書いてみようと思う。
先ず彼女に限らず英語圏の筋金入りのブロガーはかなりの購読者数を抱えており、ブログは一種の個人で発刊する雑誌並みの企画や内容、分量を持っている。
レイチェルのブログは常に新しい試みを行っていて、最近のものでは、「インタヴュー」記事シリーズが読み応えがある。
自分のブログに得意の分野の専門家を招いてインタヴューを掲載する、と言うのはよく見られるものであるが、彼女のものはそれをもう一ひねりしている。
レイチェル自身が狭い保守的なキリスト教理解で青年期を迎え、信仰遍歴するようになったが、そんな背景もあって、レイチェルは自分とは異なる立場のものの見方を理解しよう、と言う点で旺盛である。
そんな態度を反映したのがこのシリーズである。ちょっと英語になってしまうが書き出すと、
「アメリカの新世代キリスト者」でも少し触れたが、この世代のキリスト者は自分たちの抱合するキリスト教が政治的立場や思想的相違で、むやみやたらに対立し、生産的な討論を出来ない硬直化した信仰者になってしまっていることを憂いている。
それでこのインタヴュー・シリーズではブログの読者たちに質問したいことを聞いて集めるわけだが、何よりもインタヴューされる人がどんな考えを持っているかを知ることを最優先している。
だから論争を吹っかけるような質問や、相手の立場にいちゃもんをつけるような質問は避けるように、と要請する。
そうして集めた質問の中からレイチェルが幾つか適切なものを選び、それを相手に回答してもらう、と言うスタイルを取っている。
現在北米の福音主義は、自分と神学的理解が異なる者を排除しようとするどちらかと言うと「狭い福音主義」に走る傾向と、神学的立場や意見がかなり異なっていても、概ね歴史的福音主義の中心を外さない者たちならば受け入れるべきだ、とする「広い福音主義(ビッグ・テントと表現したりする)」とがせめぎあっているように見える。
レイチェルのブログでのこのような試みは、福音主義が狭い殻に閉じこもってしまわないように、周囲の異なる世界観や立場の人たちを尊重する態度を育もうとするスピリットを感じる。
レイチェルのブログは支持者を増やし、投稿された記事には大抵100以上のコメントが寄せられる。そう言う意味では、レイチェルのブログは多様な視点や意見を柔軟に交錯させようとするプラットフォームを提供しているのだと思う。
彼女はまだまだ若く、好奇心に富み、何よりも学習意欲が旺盛で、向上心に溢れている。今後も注目すべきホットなブログだと思う。
今回二回目は既に紹介したことのある、レイチェル・ヘルド・エバンスのブログを紹介しよう。
「アメリカの新世代キリスト者①」、や「ディスペンセーショナリズム」で彼女のことについては、その著書「モンキー・タウンで進化する(Evolving In Monkey Town)」 などについて触れたので、ここでは彼女のブログの面白さや日本語圏のブログと比較した時の特徴などについても書いてみようと思う。
先ず彼女に限らず英語圏の筋金入りのブロガーはかなりの購読者数を抱えており、ブログは一種の個人で発刊する雑誌並みの企画や内容、分量を持っている。
レイチェルのブログは常に新しい試みを行っていて、最近のものでは、「インタヴュー」記事シリーズが読み応えがある。
自分のブログに得意の分野の専門家を招いてインタヴューを掲載する、と言うのはよく見られるものであるが、彼女のものはそれをもう一ひねりしている。
レイチェル自身が狭い保守的なキリスト教理解で青年期を迎え、信仰遍歴するようになったが、そんな背景もあって、レイチェルは自分とは異なる立場のものの見方を理解しよう、と言う点で旺盛である。
そんな態度を反映したのがこのシリーズである。ちょっと英語になってしまうが書き出すと、
Ask an Atheistレイチェルはなかなか人脈を作るのも上手なようで、ブログ上でか、色々な講演会での触れ合いからか、上に掲載した様々な立場の人たちをインタヴューするくらい先ず友達になってしまうようなのである。
Ask a Catholic
Ask an Orthodox Jew
Ask a Humanitarian
Ask a Mormon
Ask a Mennonite
Ask an Evolutionary Creationist
「アメリカの新世代キリスト者」でも少し触れたが、この世代のキリスト者は自分たちの抱合するキリスト教が政治的立場や思想的相違で、むやみやたらに対立し、生産的な討論を出来ない硬直化した信仰者になってしまっていることを憂いている。
それでこのインタヴュー・シリーズではブログの読者たちに質問したいことを聞いて集めるわけだが、何よりもインタヴューされる人がどんな考えを持っているかを知ることを最優先している。
だから論争を吹っかけるような質問や、相手の立場にいちゃもんをつけるような質問は避けるように、と要請する。
そうして集めた質問の中からレイチェルが幾つか適切なものを選び、それを相手に回答してもらう、と言うスタイルを取っている。
現在北米の福音主義は、自分と神学的理解が異なる者を排除しようとするどちらかと言うと「狭い福音主義」に走る傾向と、神学的立場や意見がかなり異なっていても、概ね歴史的福音主義の中心を外さない者たちならば受け入れるべきだ、とする「広い福音主義(ビッグ・テントと表現したりする)」とがせめぎあっているように見える。
レイチェルのブログでのこのような試みは、福音主義が狭い殻に閉じこもってしまわないように、周囲の異なる世界観や立場の人たちを尊重する態度を育もうとするスピリットを感じる。
レイチェルのブログは支持者を増やし、投稿された記事には大抵100以上のコメントが寄せられる。そう言う意味では、レイチェルのブログは多様な視点や意見を柔軟に交錯させようとするプラットフォームを提供しているのだと思う。
彼女はまだまだ若く、好奇心に富み、何よりも学習意欲が旺盛で、向上心に溢れている。今後も注目すべきホットなブログだと思う。
2011年8月27日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
8月28日 午前10時30分
朗読箇所 マタイの福音書 10:28-31
説教箇所 マタイの福音書 10:28-31
説 教 題 「恐れるな(Don't be afraid.)」
説 教 者 ケン・テイラー宣教師
II. ゴスペル・ワークショップ(45分)
指導 ケン・テイラー宣教師
歌う曲 ①Oh, Happy Day! ②Praise The Lord With Me
※12時までにはすべて終わる予定です。
8月28日 午前10時30分
朗読箇所 マタイの福音書 10:28-31
説教箇所 マタイの福音書 10:28-31
説 教 題 「恐れるな(Don't be afraid.)」
説 教 者 ケン・テイラー宣教師
II. ゴスペル・ワークショップ(45分)
指導 ケン・テイラー宣教師
歌う曲 ①Oh, Happy Day! ②Praise The Lord With Me
※12時までにはすべて終わる予定です。
2011年8月26日金曜日
「ホットスポット巣鴨」のその後
先日「巣鴨がホットスポット?」と言う記事をポストした。
その後豊島区や調査結果を発表した「放射能防御プロジェクト」の代表(だと思う)の方とメールで連絡した。その経緯をここに報告しておこう。
何しろ心配している方も多いだろうから(逆にまだ知らない方も結構多いのかもしれないが・・・)。
先ずこの「首都圏土壌調査結果」を豊島区が把握しているかどうか問い合わせてみたところ
しかし放射能防御プロジェクトから反応がない、と言うことなのでちょっと心配になった。
もし発表された結果が事実なら除染なり何なりの対策が必要であろうと思われたが、区の方にその場所を報告してないのはどうしてだろうか、と訝しく思ったのだ。
それで今度は代表者の木下黄太氏にメールで連絡してみた。
木下氏のブログから、氏は怪我をしていて大変多忙であることが想像できたので果たして返事が来るかどうか期待半分であった。
すると木下氏からも早速簡単な返答があった。
発表でもまたツイッターやネットでも「巣鴨」がホットスポットであることがセンセーショナルに取り上げられているのに、その個別情報を公開できないとは一体どう言う事か、と情報内容についても、採取方法についても少し疑念を感じた。
それでその旨を木下氏に伝えたがそれには回答が来なかった。
その後暫く、豊島区と放射能防御プロジェクト間で情報交換が進展することを期待して数日間何もせず見守っていた。
しかしどちらからも連絡がなかったので、今回は豊島区の方へその後の進展について問い合わせてみた。
そうしたら以下のような回答を頂いた。
確かに「地上5cmの空間放射線量率測定」は良心的な測定態度だと思うが、問題は土壌調査結果の方なのだろうと思うので、区の方でも独自に土壌サンプルを適切に複数採取して結果を公開してもらいたいものである。
読者の皆さんには、首都圏が放射能で汚染されている事実は動かし難いので、そのことはよく肝に銘じておくのがよろしいかと付言させて頂く。
前の記事で小出裕章助教の反応を引用しておいたが、ここでもう一度。
その後豊島区や調査結果を発表した「放射能防御プロジェクト」の代表(だと思う)の方とメールで連絡した。その経緯をここに報告しておこう。
何しろ心配している方も多いだろうから(逆にまだ知らない方も結構多いのかもしれないが・・・)。
先ずこの「首都圏土壌調査結果」を豊島区が把握しているかどうか問い合わせてみたところ
との回答を頂いた。早速の回答だったので好感を持てた。区は、会見の翌日にインターネットにて当該調査結果を把握しました。 調査結果には大変驚いていると同時に、事実ならば行政としても対策を講じる必要があると考えております 。 インターネット上では、「豊島区巣鴨」の「道路脇の砂」しか情報がないため、8月9日より放射能防御プロジェクトに対し て要求をしておりますが、 いまだ詳細な場所等の情報を提供していただいておりません。 区では、詳細な場所が判明し次第、当該場所及びその周辺の調査も含めて、 必要に応じた対策を講じることを検討しております。 今後とも区政にご理解とご協力を賜りますようお願いいたします。清掃環境部環境課長 長戸 明≪お問合せ先≫環境課環境保全係電話:3981-2405A0015003@city.toshima.lg.jp
しかし放射能防御プロジェクトから反応がない、と言うことなのでちょっと心配になった。
もし発表された結果が事実なら除染なり何なりの対策が必要であろうと思われたが、区の方にその場所を報告してないのはどうしてだろうか、と訝しく思ったのだ。
それで今度は代表者の木下黄太氏にメールで連絡してみた。
木下氏のブログから、氏は怪我をしていて大変多忙であることが想像できたので果たして返事が来るかどうか期待半分であった。
すると木下氏からも早速簡単な返答があった。
お気持ちはわかります。この回答は少し意外だった。
要請のあった自治体のうち、
三郷市には伝えていますが、
巣鴨は、個別事情があり、難しいです。
木下
発表でもまたツイッターやネットでも「巣鴨」がホットスポットであることがセンセーショナルに取り上げられているのに、その個別情報を公開できないとは一体どう言う事か、と情報内容についても、採取方法についても少し疑念を感じた。
それでその旨を木下氏に伝えたがそれには回答が来なかった。
その後暫く、豊島区と放射能防御プロジェクト間で情報交換が進展することを期待して数日間何もせず見守っていた。
しかしどちらからも連絡がなかったので、今回は豊島区の方へその後の進展について問い合わせてみた。
そうしたら以下のような回答を頂いた。
その後、放射能防御プロジェクトに対し再三問い合せています。採取者に対して、「場所を教えていただければ、当該場所及びその周辺の調査を含めて、必要に応じた対策を講じることを検討する」ことを伝えていただくようお願いしているところです。豊島区と放射能防御プロジェクトの間に情報交換があったことは良かったが、まだ安心はできない。
これに対して、放射能防御プロジェクトから口頭ですが「教える必要があれば採取者本人から区に連絡があるでしょう」という回答がありました。試料採取日5月14日以降道路脇の砂は飛散した可能性がありますが、7月に巣鴨、西巣鴨の施設9か所で実施した地上5cmの空間放射線量率測定では、高い測定値は出ていません。
引き続き、放射能防御プロジェクトと連絡を取りつつ、正確な情報の提供をお願いしてまいります。
今後とも区政にご理解ご協力を賜りますようお願いいたします。
清掃環境部環境課長 長戸 明
≪お問合せ先≫
環境課環境保全係
電話:3981-2405
A0015003@city.toshima.lg.jp
確かに「地上5cmの空間放射線量率測定」は良心的な測定態度だと思うが、問題は土壌調査結果の方なのだろうと思うので、区の方でも独自に土壌サンプルを適切に複数採取して結果を公開してもらいたいものである。
読者の皆さんには、首都圏が放射能で汚染されている事実は動かし難いので、そのことはよく肝に銘じておくのがよろしいかと付言させて頂く。
前の記事で小出裕章助教の反応を引用しておいたが、ここでもう一度。
ごく一般の場所が、放射線管理区域以上に放射性物質で汚染されてしまいました。行政に対して市民側がもっと働きかけていかなければならないことは、日本国政府の情報公開の経緯を見ても大事な点だろうと思う。
被曝を規制するための多くの法令も意味を失い、私たちは変わってしまった世界で生きる以外にありません。
人々が生活する際、ごく容易に接触する場所で試料を集めることが大切ですし、行政にそうした調査を求めるべきと思います。
2011年8月25日木曜日
ご案内
8月28日(日)の礼拝の案内です。
時間:午前10時30分~12時
場所:巣鴨聖泉キリスト教会
特別プログラム、と言うことで少し案内をさせていただきます。
I. 礼拝(45分)
説教箇所 マタイの福音書10章28-31節
説教題 「恐れるな(Don't be afraid.)」
説教者 ケン・テイラー宣教師
II. ゴスペル・ワークショップ(45分)
指導 ケン・テイラー宣教師
歌う曲 ①Oh, Happy Day! ②Praise The Lord With Me
時間:午前10時30分~12時
場所:巣鴨聖泉キリスト教会
特別プログラム、と言うことで少し案内をさせていただきます。
I. 礼拝(45分)
説教箇所 マタイの福音書10章28-31節
説教題 「恐れるな(Don't be afraid.)」
説教者 ケン・テイラー宣教師
II. ゴスペル・ワークショップ(45分)
指導 ケン・テイラー宣教師
歌う曲 ①Oh, Happy Day! ②Praise The Lord With Me
2011年8月24日水曜日
日本人のキリスト教リタラシー
題だけは論文みたいに聞こえるけど記事の中身は至って軽い。
要するに今日たまたまツイッターで目にした「キリスト教」に関連する日本人の一般的知識がどれほどのものか、を想像させる二件。
① "the gospel truth"
毎日jp(毎日新聞)の「英語クイズ」にこんなのが出てきた。
英語クイズなのに、聖書(神学)的な理解でアプローチしたのがまずかったなー。
ちなみにネット辞書で調べたら、
新約聖書神学的には、ただ今「ゴスペル」自体が何を指すかが論議の対象になっています。その視点からは問題は「ゴスペル」の中身で、それが定まってからその真理性とはいかなるものか、と言う問題が出てくるのだと思います。
②「ふしぎなキリスト教」 (講談社現代新書) [新書]、橋爪 大三郎 (著), 大澤 真幸 (著)
が今話題になっています。
と言うかここ一年位の間に雑誌なんかで「キリスト教特集」のようなものがブームになっているようです。この流れに乗じて企画・出版されたのかもしれませんね。
筆者はもちろん手にとって読んだことはありませんが、ツイッターでフォローしている、@synodos、が「『ふしぎなキリスト教』のレビューがえらいことになってるな。」でリンクを見てみました。
そうしたらたら、アマゾン・ブックスのカスタマー・レヴューでその本の内容のお粗末さ、特にキリスト教の基本的知識さえ怪しいレベルで適当に対論をやっている、と手厳しい批判を浴びています。
で、思ったのですが、所謂知識人とされる大学教員同士でも、キリスト教に関する言説がかなり粗雑な知識で討論されたものが公刊される、と言うことは、一般大衆が求めている「キリスト教知識」にある程度親和しているのかなー、と。
キリスト教関係図書がプチブームな時に残念ですが、発想を変えて言えば、キリスト者側から一般大衆に発する「キリスト教入門書」が欠けているのかな、と。
と言うわけで「日本人のキリスト教リタラシー」は、もしかしたら今のような時こそ底上げする機会なのかも知れませんね。
要するに今日たまたまツイッターで目にした「キリスト教」に関連する日本人の一般的知識がどれほどのものか、を想像させる二件。
① "the gospel truth"
毎日jp(毎日新聞)の「英語クイズ」にこんなのが出てきた。
Questionで筆者は「絶対的真理」では余りにも素直なので、少しひねって二番目の「真実の愛」を選択した。で、回答を見たら、
ゴスペルミュージックは教会で耳にする音楽。では「gospel truth」の意味は?
- 絶対的真理
- 真実の愛
- 奉仕活動
Answerと言うことで、慣用表現としての"the gospel truth"に関しては筆者は無知であった、と言うこと。
× 真実の愛
回答:【絶対的真理】
例文:He said his story was the gospel truth, but I didn't believe it.
gospel truth は「毎日ウィークリー」8月20日号15面の星占いに出てきました。今週の運勢をチェックしながら、英語も勉強しよう!
正解率 49.1 %
英語クイズなのに、聖書(神学)的な理解でアプローチしたのがまずかったなー。
ちなみにネット辞書で調べたら、
Idioms & Phrases
gospel truth
Something that is unquestionably true. For example, Every word he uttered was the gospel truth . The word gospel , which comes from the Old English god spel , "good news," has been used to describe something that is thought to be as true as the biblical gospel (that is, undeniably true) since the 13th century. The current idiom originated in the 1600s, when it referred to biblical truths, and has been applied to truth of a more general nature since the late 1800s. Also see take as gospel.まあキリスト教文化圏で「聖書の真理」が絶対的に見られる環境の中で、それが「gospel truth」と表現されるようになり、更に一般的な言い方として用いられるようになった。と言うことなんですね。
The American Heritage® Dictionary of Idioms by Christine Ammer.
Copyright © 1997. Published by Houghton Mifflin.
新約聖書神学的には、ただ今「ゴスペル」自体が何を指すかが論議の対象になっています。その視点からは問題は「ゴスペル」の中身で、それが定まってからその真理性とはいかなるものか、と言う問題が出てくるのだと思います。
②「ふしぎなキリスト教」 (講談社現代新書) [新書]、橋爪 大三郎 (著), 大澤 真幸 (著)
が今話題になっています。
と言うかここ一年位の間に雑誌なんかで「キリスト教特集」のようなものがブームになっているようです。この流れに乗じて企画・出版されたのかもしれませんね。
筆者はもちろん手にとって読んだことはありませんが、ツイッターでフォローしている、@synodos、が「『ふしぎなキリスト教』のレビューがえらいことになってるな。」でリンクを見てみました。
そうしたらたら、アマゾン・ブックスのカスタマー・レヴューでその本の内容のお粗末さ、特にキリスト教の基本的知識さえ怪しいレベルで適当に対論をやっている、と手厳しい批判を浴びています。
で、思ったのですが、所謂知識人とされる大学教員同士でも、キリスト教に関する言説がかなり粗雑な知識で討論されたものが公刊される、と言うことは、一般大衆が求めている「キリスト教知識」にある程度親和しているのかなー、と。
キリスト教関係図書がプチブームな時に残念ですが、発想を変えて言えば、キリスト者側から一般大衆に発する「キリスト教入門書」が欠けているのかな、と。
と言うわけで「日本人のキリスト教リタラシー」は、もしかしたら今のような時こそ底上げする機会なのかも知れませんね。
2011年8月22日月曜日
趣味?副業?
筆者の趣味と言うか副業(になるほどまでやっていないが)は木工です。
教会の隣に一戸建て平屋の工房を持っています。
端っこの方とは言え「高級住宅街」と言われる大和郷に、約20畳位の床面積の工房です。
贅沢な話です。(顰蹙をかいそうです。)
今日頼まれている壁面棚(システム収納のような家具の組み合わせ)の打ち合わせがありました。
実は頼まれたのはもう一年以上も前。
「(完成は)いつでもいいから」と言うことなので引き受けたのですが、ずーっと放っぽりぱなでした。
先日「牧師という職業」でうつの話題が出ましたが、筆者もここ2年ほど軽いうつ症状で、なかなか余計な仕事をやる気力が出てこない感じでした。
それでもようやく腰を挙げてデザインをまとめ材料を切り出そう、と言うところまで来たわけでした。
今の状態になる前は結構木工に時間を割いていました。
鉋や鑿で木と戯れている時は本当に時間を忘れるほど夢中になっていたものです。
筆者の木工は手工具で仕上げる時間のかかる作業で、工作のプロセスを楽しむ、その意味ではいい趣味です。
いい仕事をするためには切れる刃物が必要です。
そのために必須なのが刃を砥ぐ作業です。
これがまた没頭してしまうのです。一時間や二時間平気で砥いでいました。
今はなかなかそこまで行きませんが復調してきたらまた没頭するほど木工にはまりたいと思っています。
そう言えば、「ブログ仲間」と呼んでもいいのか、何回か紹介したことのある「はちことぼぼるの日記」のはちこさんが日本に来られた時、筆者のところにも寄られて工房を写真に収めていきました。(フェイスブックの方に載せてあります。)
そう言えば今日筆者の教会が属するグループの他の教会の方から「端材送るよー」と電話がかかってきましたっけ。
うまく行ったらその材料で、9月18日にやる「オープン・チャーチ・カフェ」の時道端に出店する作品を何か作れるかもしれないな。
では最後に木のクイズ。皆さんは次に挙げる樹種をどの位知っていますか。
欅、檜、杉、楡、エンジュ、白樫、赤樫、タモ、楢、桂、栗、桜、胡桃、スプルース、シナ、ネズコ、唐松、ポプラ、黒檀、チーク、花梨、紫檀、楓、ヤマナラシ、松、ブラック・ウォールナット、ヒッコリー、米杉、青森ヒバ、米ヒバ、ピーラー(米松)、・・・まあまだ使った材はその他にもあるけどこの辺でやめておこう。
教会の隣に一戸建て平屋の工房を持っています。
端っこの方とは言え「高級住宅街」と言われる大和郷に、約20畳位の床面積の工房です。
贅沢な話です。(顰蹙をかいそうです。)
今日頼まれている壁面棚(システム収納のような家具の組み合わせ)の打ち合わせがありました。
実は頼まれたのはもう一年以上も前。
「(完成は)いつでもいいから」と言うことなので引き受けたのですが、ずーっと放っぽりぱなでした。
先日「牧師という職業」でうつの話題が出ましたが、筆者もここ2年ほど軽いうつ症状で、なかなか余計な仕事をやる気力が出てこない感じでした。
それでもようやく腰を挙げてデザインをまとめ材料を切り出そう、と言うところまで来たわけでした。
今の状態になる前は結構木工に時間を割いていました。
鉋や鑿で木と戯れている時は本当に時間を忘れるほど夢中になっていたものです。
筆者の木工は手工具で仕上げる時間のかかる作業で、工作のプロセスを楽しむ、その意味ではいい趣味です。
いい仕事をするためには切れる刃物が必要です。
そのために必須なのが刃を砥ぐ作業です。
これがまた没頭してしまうのです。一時間や二時間平気で砥いでいました。
今はなかなかそこまで行きませんが復調してきたらまた没頭するほど木工にはまりたいと思っています。
そう言えば、「ブログ仲間」と呼んでもいいのか、何回か紹介したことのある「はちことぼぼるの日記」のはちこさんが日本に来られた時、筆者のところにも寄られて工房を写真に収めていきました。(フェイスブックの方に載せてあります。)
そう言えば今日筆者の教会が属するグループの他の教会の方から「端材送るよー」と電話がかかってきましたっけ。
うまく行ったらその材料で、9月18日にやる「オープン・チャーチ・カフェ」の時道端に出店する作品を何か作れるかもしれないな。
では最後に木のクイズ。皆さんは次に挙げる樹種をどの位知っていますか。
欅、檜、杉、楡、エンジュ、白樫、赤樫、タモ、楢、桂、栗、桜、胡桃、スプルース、シナ、ネズコ、唐松、ポプラ、黒檀、チーク、花梨、紫檀、楓、ヤマナラシ、松、ブラック・ウォールナット、ヒッコリー、米杉、青森ヒバ、米ヒバ、ピーラー(米松)、・・・まあまだ使った材はその他にもあるけどこの辺でやめておこう。
2011年8月20日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
8月21日 午前10時30分
朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:1-31
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 4:16-18
説 教 題 「交わりの修復」
説 教 者 小嶋崇 牧師
《講解メモ》
パウロ書簡の学び(66)
ガラテヤ人への手紙(54)
・4:8-20 訴えかけるパウロ
※8月28日「ゴスペル礼拝・ワークショップ」。
講師ケン・テイラー師(プロファイル・・・英語)
8月21日 午前10時30分
朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:1-31
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 4:16-18
説 教 題 「交わりの修復」
説 教 者 小嶋崇 牧師
《講解メモ》
パウロ書簡の学び(66)
ガラテヤ人への手紙(54)
・4:8-20 訴えかけるパウロ
※8月28日「ゴスペル礼拝・ワークショップ」。
講師ケン・テイラー師(プロファイル・・・英語)
2011年8月19日金曜日
佐藤優「キリスト教神学概論」③
毎度断り書きをしていますが、軽いジャブ程度の扱いで、ちゃんとした神学的論評ではありません。
ゆるーく読んでください。
今回は、
第7回 「日本キリスト教の精神的伝統 (1)」
第8回 「日本キリスト教の精神的伝統 (2)」
第9回 「日本キリスト教の精神的伝統(3)」
第10回 「日本キリスト教の精神的伝統(4)」
をカバーします。
(ウェッブサイトはここ。後はページ末の「次へ」をクリック。)
さて、ここまで佐藤氏の「キリスト教神学概論」を2回に渡って見てきたわけだが、非常に個人的な切り口で、それなりにユニークに(余りキリスト教に縁がない人にも分かりやすく・・・ある意味かなり単純化して)、キリスト教への取っ掛かりを提供してきた。
所謂キリスト教「神学」には(ここまでのところ)余り触れないで、入口を広げて書いて来た様に思う。
彼は既にキリスト教を「個人的救済宗教」、それも多分に主観的なものとして描写してきた。
この後どう展開するのかと思っていたら、急に今回のような主題を持ち出してきた。
筆者はこれをとても唐突に感じた。
これまでの読者へのサービス精神に溢れたキリスト教の説明から(一般的な視点からではなく、彼独自の視点からだが)、一挙に(恐らく)彼個人の神学的課題、問題意識へと読者を導こうとしているように見えるからだ。
(これは筆者の推測だが、彼の出た同志社神学部は多分にこのような問題意識が強く支配する神学教育環境なのだろう。)
これまでは一応キリスト教をどう捉えたらよいのかと言う一つの「説明」を試みてきたのだが、今回から「キリスト教の土着化」を歴史的に神学的に思索すると言う「一神学的試み」に入り込んでしまうと言う方向転換を図ったように見える。
更に言えば、彼のつけたテーマは「キリスト教神学概論」だが、内容的にはここまでの所多分に「キリスト教概論」であった。
キリスト教が一枚岩ではなく、歴史的に多くの類型に分化してきたことを指摘した後で、このようなキリスト教類型学を歴史社会的に分析したトレルチやゼーベルクの名を挙げ、次のように今回の急展開の意義を述べる。
まあこれはこれで面白い取り組みだとは思いますが、自分で立てた課題からはそれてしまった。概論、しかもまだ神学概論もやっていないのに、いきなり一神学者の神学的課題と言う限定された領域へと主題を過激に絞り込んでしまったわけです。
「日本キリスト教の精神的伝統」についての連載は4回続きますが、そこで彼の「キリスト教神学概論」は頓挫し、この方向性をあきらめてそれ以後(余り面白くない)伝統的、(西洋)キリスト教組織神学のなぞりに変更してしまいます。
さて、今回は佐藤の連載の急展開について主に論評して来ましたが、魚木忠一の『日本基督教の精神的伝統』については何も言及していません。最後に一言二言述べて終わりにします。
先ず連載の(8)(9)(10)からポイントとなる文章を引用してみます。(強調は筆者)
魚木が言う「精神」が聖書思想全般における「霊」、あるいは新約聖書における「父なる神と、天に挙げられたイエスのもとから遣わされた『聖霊』」なのか、それとも「三位一体論における聖霊」という西洋神学の発展形を指すのか、この短い引用だけでは何とも整理がつかない。
最後の引用において佐藤がまとめている文章では、神学的人間論から見た「被造物の中でのユニークさを示す霊的存在」と言うことと、「イエス・キリストの出来事」に関連する「聖霊」と言う終末論的展開がどう関係するのかさっぱり分からない。
また文章の後半で「史的イエス」と「聖霊」がどう関係しどう区別されているのか、更に判然としない。
と言うわけで、ここまで彼の「概論」を追ってきた読者は大いに困惑したのではないか。
文章は至って短く論理は粗雑である。
これまでのそれなりに未熟な読者を配慮した文章と比べると、いかにも飛躍の連続ではないか。
佐藤が魚木の著作に感銘を受けているのは良いとして、もっと丁寧に「キリスト教概論」として咀嚼できるような足がかりを幾つも用意しなければやはり読者は消化不良に陥らざるを得なかっただろう。
ゆるーく読んでください。
今回は、
第7回 「日本キリスト教の精神的伝統 (1)」
第8回 「日本キリスト教の精神的伝統 (2)」
第9回 「日本キリスト教の精神的伝統(3)」
第10回 「日本キリスト教の精神的伝統(4)」
をカバーします。
(ウェッブサイトはここ。後はページ末の「次へ」をクリック。)
さて、ここまで佐藤氏の「キリスト教神学概論」を2回に渡って見てきたわけだが、非常に個人的な切り口で、それなりにユニークに(余りキリスト教に縁がない人にも分かりやすく・・・ある意味かなり単純化して)、キリスト教への取っ掛かりを提供してきた。
所謂キリスト教「神学」には(ここまでのところ)余り触れないで、入口を広げて書いて来た様に思う。
彼は既にキリスト教を「個人的救済宗教」、それも多分に主観的なものとして描写してきた。
この後どう展開するのかと思っていたら、急に今回のような主題を持ち出してきた。
筆者はこれをとても唐突に感じた。
これまでの読者へのサービス精神に溢れたキリスト教の説明から(一般的な視点からではなく、彼独自の視点からだが)、一挙に(恐らく)彼個人の神学的課題、問題意識へと読者を導こうとしているように見えるからだ。
(これは筆者の推測だが、彼の出た同志社神学部は多分にこのような問題意識が強く支配する神学教育環境なのだろう。)
これまでは一応キリスト教をどう捉えたらよいのかと言う一つの「説明」を試みてきたのだが、今回から「キリスト教の土着化」を歴史的に神学的に思索すると言う「一神学的試み」に入り込んでしまうと言う方向転換を図ったように見える。
更に言えば、彼のつけたテーマは「キリスト教神学概論」だが、内容的にはここまでの所多分に「キリスト教概論」であった。
キリスト教が一枚岩ではなく、歴史的に多くの類型に分化してきたことを指摘した後で、このようなキリスト教類型学を歴史社会的に分析したトレルチやゼーベルクの名を挙げ、次のように今回の急展開の意義を述べる。
むしろ、キリスト教には、いくつかの類型(タイプ)があるのが現実です。キリスト教を類型としてとらえていこうとすることを19世紀の終わりからR・ゼーベルク、E・トレルチなどが真剣に考えました。と言うわけで、佐藤優の「キリスト教神学概論」は、キリスト教概論的講義から一転、日本の神学者魚木忠一の『日本基督教の精神的伝統』と言う一神学的試論に入っていってしまったのです。
●魚木忠一の神学的遺産
ここで重要になるのは、ゼーベルクの考え方を更に発展させて、キリスト教の日本類型について真剣に考えた魚木忠一(うおきただいち 1892~1954)です。魚木は、1941年に『日本基督教の精神的伝統』(基督教思想叢書刊行会)を上梓し、日本人でありかつキリスト教徒であるということの意味を徹底して考えました。
まあこれはこれで面白い取り組みだとは思いますが、自分で立てた課題からはそれてしまった。概論、しかもまだ神学概論もやっていないのに、いきなり一神学者の神学的課題と言う限定された領域へと主題を過激に絞り込んでしまったわけです。
「日本キリスト教の精神的伝統」についての連載は4回続きますが、そこで彼の「キリスト教神学概論」は頓挫し、この方向性をあきらめてそれ以後(余り面白くない)伝統的、(西洋)キリスト教組織神学のなぞりに変更してしまいます。
さて、今回は佐藤の連載の急展開について主に論評して来ましたが、魚木忠一の『日本基督教の精神的伝統』については何も言及していません。最後に一言二言述べて終わりにします。
先ず連載の(8)(9)(10)からポイントとなる文章を引用してみます。(強調は筆者)
魚木は、キリスト教を精神的宗教であると規定します。これは、霊的宗教と言い換えてもよいと思います。魚木自身は優れた歴史神学者ですが、神学的教義や宗教哲学はキリスト教の本質とは関係ないと考えるのです。魚木が日本の宗教的土壌である仏教や儒教に対して「キリスト教が精神的宗教だ」とした主張と、キリスト教の本質が神学的教義や宗教哲学とは関係ない、としたことについてはもしかしたら「日本におけるキリスト教の土着化」と言う課題が魚木を突き動かしていたかと推測します。
魚木は、仏教、儒教と比較した場合に、キリスト教は精神的宗教であることを強調しますが、ここでいう精神とはヘーゲルや京都学派の高山岩男が『世界史の哲学』で強調するような、歴史を動かす精神ではありません。
魚木がいう精神とは、人間の救済を可能にする神からの作用です。キリスト教は三一(三位一体)論を基本教義にします。三一神とは、父、子、聖霊からなる神ですが、ここでいう聖霊こそが魚木が考える精神なのです。
霊とは、命を与える風を意味します。神は土から人間を創りますが、そこに風を吹き込むことによって命、すなわち精神が生まれるのです。ユダヤ教、キリスト教の人間観では、神が人間に息を吹き込んだことにより、人間は他の動植物がもたない精神という特権をもつようになったのです。
「使徒言行録」によれば、聖霊は、イエス・キリストが復活した後、40日間、地上を歩きました。その後、一旦、天に昇ります。さらに10日間経ってから、通算50日目に天から地上に再び降りてくるのです。
魚木が言う「精神」が聖書思想全般における「霊」、あるいは新約聖書における「父なる神と、天に挙げられたイエスのもとから遣わされた『聖霊』」なのか、それとも「三位一体論における聖霊」という西洋神学の発展形を指すのか、この短い引用だけでは何とも整理がつかない。
最後の引用において佐藤がまとめている文章では、神学的人間論から見た「被造物の中でのユニークさを示す霊的存在」と言うことと、「イエス・キリストの出来事」に関連する「聖霊」と言う終末論的展開がどう関係するのかさっぱり分からない。
また文章の後半で「史的イエス」と「聖霊」がどう関係しどう区別されているのか、更に判然としない。
と言うわけで、ここまで彼の「概論」を追ってきた読者は大いに困惑したのではないか。
文章は至って短く論理は粗雑である。
これまでのそれなりに未熟な読者を配慮した文章と比べると、いかにも飛躍の連続ではないか。
佐藤が魚木の著作に感銘を受けているのは良いとして、もっと丁寧に「キリスト教概論」として咀嚼できるような足がかりを幾つも用意しなければやはり読者は消化不良に陥らざるを得なかっただろう。
2011年8月16日火曜日
牧師と言う職業
エッセイとは日本では「随筆」を指す。
米国に長い間遊学した筆者の印象では、essayとは何かの主題について構想を練って書かれた小論のことを指す。組み立てが論理的になるのは言うまでもない。
この英語圏でのessayは「随筆」と訳される日本語のエッセイとは大分趣が異なる。そしてそのまま英語圏のブログ文章の特徴にも当てはまると思う。
とまあ余計に思われるかも知れないが、以上の前置きで今日は筆者が回覧する英語ブログを一つ紹介しようと思う。
Dr. Chuck DeGroat、の、the NEW EXODUS: the Reflections Along the Wilderness Way
は心理学で博士号を取ったらしいサンフランシスコ在住の牧師さんのブログだ。
更新はそんなに頻繁ではないが、英語圏で言うエッセイのような文章をブログに書いている。
職業柄、牧会心理学に関連する分野のトピックが多いように思う。
最新の「クリスチャンの偽善」シリーズも面白いが、今回はその前に投稿された「牧師とうつ」からちょっと紹介しよう。
「最近鬱にかかっている三人の牧師と話した。」で始まる文章なのだが、標題に関わるデータを集めた三つの機関(Barna、Focus on the Family、フラー神学校)から次のような調査結果を紹介している。
残りの文章は特に「牧師のうつ」の問題に焦点を当て、どう対処したらいいか提案している。
教会歴史からの一洞察として、16世紀神秘思想家「聖十字架のヨハネ」や、アビラのテレサ、を例に取り、彼らの「魂の夜の闇」のような体験が、多くの牧師たちの「うつ」に対する示唆を持っているのではないかと文章を続ける。
「魂の夜の闇」は必ずしも否定的自己像で終わるのではなく、却ってより深い自己把握や信仰理解に導く。
北米のような文化において、職業における成功が短絡的に捉えやすい傾向が、「うつ」のような症状を否定的に感じる引き金となっている、と指摘し、霊的枯渇を感じる時、無理やりそれを克服しようと努力するのではなく、むしろ神との深い関わりを体験するきっかけとして捉えるのが大切なのではないか、と指摘する。
さて日本の牧師たちの状況はどうだろうか。
最近「牧会塾」とか、「霊的深まりのセミナー」が需要を見せているところを見ると、このような傾向は北米文化に特徴的なことと限定できないのではないか。
程度の差こそあれ、やはり牧師も一個の人間として自己の全体像を捉えることが大事ではないか。落ち込んだ時、牧師としての自分を「霊的」評価で偏った見方をしてバランスを崩すのではなく、様々な弱さや心理的傾向を持った統体として落ち着いて自己を見つめることが出来るようになることが大切なのではなかろうか。
以上北米英語圏ブログの紹介でした。
つれづれなるまゝに、有名な兼好法師の「徒然草」の冒頭だが、「随想」的に記述する文章はそのまま日本語のブログの特長でもあると思う。
日ぐらし硯に向かひて、
心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば・・・
米国に長い間遊学した筆者の印象では、essayとは何かの主題について構想を練って書かれた小論のことを指す。組み立てが論理的になるのは言うまでもない。
この英語圏でのessayは「随筆」と訳される日本語のエッセイとは大分趣が異なる。そしてそのまま英語圏のブログ文章の特徴にも当てはまると思う。
とまあ余計に思われるかも知れないが、以上の前置きで今日は筆者が回覧する英語ブログを一つ紹介しようと思う。
Dr. Chuck DeGroat、の、the NEW EXODUS: the Reflections Along the Wilderness Way
は心理学で博士号を取ったらしいサンフランシスコ在住の牧師さんのブログだ。
更新はそんなに頻繁ではないが、英語圏で言うエッセイのような文章をブログに書いている。
職業柄、牧会心理学に関連する分野のトピックが多いように思う。
最新の「クリスチャンの偽善」シリーズも面白いが、今回はその前に投稿された「牧師とうつ」からちょっと紹介しよう。
「最近鬱にかかっている三人の牧師と話した。」で始まる文章なのだが、標題に関わるデータを集めた三つの機関(Barna、Focus on the Family、フラー神学校)から次のような調査結果を紹介している。
- 毎月1500人の牧師が辞めていく。理由は道徳的失態、霊的枯渇、教会内での対立など。
- 結婚した牧師のうち半数は離婚に至っている。
- 牧師のうち8割は自信喪失や失望を感じている。
- 5割の牧師は失望して職を辞したいと考えるが、代わりに生計を立てる職の見込みはない。
- 神学校、聖書学校卒業生で牧師になった者のうち8割は、最初の5年以内に職を去る。
- 7割の牧師たちは鬱を抱えている。
- 約4割近い牧師が牧師になって以降不倫を経験している。
残りの文章は特に「牧師のうつ」の問題に焦点を当て、どう対処したらいいか提案している。
教会歴史からの一洞察として、16世紀神秘思想家「聖十字架のヨハネ」や、アビラのテレサ、を例に取り、彼らの「魂の夜の闇」のような体験が、多くの牧師たちの「うつ」に対する示唆を持っているのではないかと文章を続ける。
「魂の夜の闇」は必ずしも否定的自己像で終わるのではなく、却ってより深い自己把握や信仰理解に導く。
北米のような文化において、職業における成功が短絡的に捉えやすい傾向が、「うつ」のような症状を否定的に感じる引き金となっている、と指摘し、霊的枯渇を感じる時、無理やりそれを克服しようと努力するのではなく、むしろ神との深い関わりを体験するきっかけとして捉えるのが大切なのではないか、と指摘する。
さて日本の牧師たちの状況はどうだろうか。
最近「牧会塾」とか、「霊的深まりのセミナー」が需要を見せているところを見ると、このような傾向は北米文化に特徴的なことと限定できないのではないか。
程度の差こそあれ、やはり牧師も一個の人間として自己の全体像を捉えることが大事ではないか。落ち込んだ時、牧師としての自分を「霊的」評価で偏った見方をしてバランスを崩すのではなく、様々な弱さや心理的傾向を持った統体として落ち着いて自己を見つめることが出来るようになることが大切なのではなかろうか。
以上北米英語圏ブログの紹介でした。
2011年8月13日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
8月14日 午前10時30分
朗読箇所 使徒の働き 3:1-16
説 教 「聖霊と教会」シリーズ(4)
説 教 題 「ナザレのイエス・キリストの名によって」
説 教 者 小嶋崇 牧師
※「ゴスペル・セミナー」、8月28日です。講師ケン・テイラー師(プロファイル・・・英語)
8月14日 午前10時30分
朗読箇所 使徒の働き 3:1-16
説 教 「聖霊と教会」シリーズ(4)
説 教 題 「ナザレのイエス・キリストの名によって」
説 教 者 小嶋崇 牧師
※「ゴスペル・セミナー」、8月28日です。講師ケン・テイラー師(プロファイル・・・英語)
2011年8月12日金曜日
FEBC番組出演 ご案内
以前(昨年11月) 「牧師の本音を語る?」、でキリスト教放送局(と言っていいんでしょうね)FEBCの
と言う番組出演に関してグダグダ書いたことがあった。
牧師の《本音》を語って欲しい、と言う要望と、「この地で、牧師として生きるーー今あるは神の恵み」の型にはまりやすい《証し》と言う番組構成との間で、何かちぐはぐさを感じて引き受けようか辞退しようか思案した過程を書き連ねたのだった。
まっ結局出演することにしたわけだが、他の牧師たちの放送を聞きながら(2011年3月までは20分枠番組)、「長ったらしいなー」とか「原稿の棒読みみたい」とか自分に置き換えて注意しなければならない点など考えていた。
まっ、自分だったら通常の説教の時のようにせいぜいアウトラインかメモ書き程度の準備で、聴取者に直接語りかけるようにしよう、などとシミュレーションしていた。
ただ内容に関しては上記ブログ記事でも触れたが、余り「証し」的に整った内容ではない、どちらかでいうと「ぶっちゃけ風」位でやってみようかと思っていた。
さて収録日は今年の3月10日。
そう東日本大震災の前日となった日、吉祥寺にあるスタジオに出かけた。
大体時間的目安で13-4分。
目の前にあるタイマーを目の端で確認しながらマイクに向かってしゃべった。
自分の頭の中では整理されていると思ったことも、本番で語りだすと時間が足りなくなっていくのを感じた。
しまった導入に時間を取りすぎた。
でも語りたかったことは言えたぞ。
終わってからダメ出しが入り、「救われた時」のことをもう少し詳しく話してくれ、と言う要望。
自分としてはそれはメインじゃなくその後がハイライトしたかったことなんだけど・・・。
でも要請に応じて追加した。(要するに追加分が編集されて出来たわけ。)
「結構です。」
やれやれこれで一つ荷が降りた。
気分が楽になったところでディレクターと短くおしゃべりして帰宅した。
インターネットでは8月15日から聞くことが出来ますが、既に出来上がった録音CDを聞いた感じでは、流れはまあまあだけど、内容的にはピンと来る人は少ないかなー、と。
依然「証し」に聞きなれた耳には、「今あるは神の恵み」の筋立てが浮き立っていないと感じるでしょうね。
無理ありません。他の牧師たちのを聞いてみると何かしらドラマ性を持った、人生のかかった証しを語っているわけですから。
筆者が語るものの中にはそのようなドラマ性、「人生の苦難や悩み」は殆んどないし、またこの番組に出演している多くの牧師二世三世たちものと比較しても彼らのドラマ性とも結構異なるみたいですから。
要するに筆者がメインとしたのは、《クリスチャンとなった後》での回心体験のようなものなのです。そしてそれは継続的でもあるのです。
詳しく語って、と言われた「福音体験」は実は世界観的枠組みに無自覚なものでした。
キリスト者として、この福音的体験を一旦解体し、再構築されたキリスト教世界観的福音信仰への脱皮を指摘しようと思ったのですが、どこまで伝わった(伝わる)でしょうかねー。
まっ、前口上はその辺にして、ご興味おありの方は、FEBCのトップページから、上の画像を参考に探してクリックしてみてください。
※アップロードされている期間は、8/15から2週間です。
2011年8月10日水曜日
巣鴨がホットスポット?
先記事で「追記」として載せた情報を再考する。
先ず「首都圏土壌調査結果」から引用しますと、
明日で大震災から5ヶ月となるが、東京電力福島第一原発事故後の水蒸気爆発(3月15日)で多量の放射性物質が拡散した事実は既に知られていることなのに、このような土壌汚染調査を、しかも市民団体による調査を待たなければならなかった、と言うところに行政の無策がある。
この調査結果はフェイスブックの「福島第一原発を考えます」で共有され、メンバー等のツイッターなどで拡散されているが、まだ大手メディアは取り上げていない。
日刊ゲンダイのウェッブ版では「首都圏もチェルノブイリ並みに汚染されている」と言う見出しで記事になって読めるようになっているがまだまだマイナーな扱いだ。
この調査結果に小出裕章助教は次のようにコメント(リンク)を寄せている。
筆者は「巣鴨」が特筆されたので前者だが。
さてこの由々しき事態をどう受け止めて行ったらよいのか。
結果を理解するのにもう少し時間をかけたほうが良さそうな気もするし、小出助教が提案するように行政に更に細かい調査を要請することも必要だと思う。
ただ先ずはこの調査結果をもっと多くの人に共有してもらうことが必要だろうと思う。
先ず「首都圏土壌調査結果」から引用しますと、
都内でも、とても高い数値が検出されましたと言う結果であり、チェルノブイリの放射能汚染管理を例に取ると、不必要な被ばくを防止するために設けられる区域、「第4放射線管理区域」となる。
131(注、地点番号)
2011.05.14(注、サンプル採取日)
道路脇の砂
東京都豊島区巣鴨
(注、ヨウ素131)・・・0(Bq/kg)
(注、セシウム134)・・・28256(Bq/kg)
(注、セシウム137)・・・33457(Bq/kg)
(注、セシウム合計)・・・61713(Bq/kg)
道路の縁石沿いに溜まっていた土砂を5/14頃に取り除いたものです。(事故以来一度も掃除していなかった場所)葉っぱやゴミ、小石等を除き、処分せずに保管していたものです。
明日で大震災から5ヶ月となるが、東京電力福島第一原発事故後の水蒸気爆発(3月15日)で多量の放射性物質が拡散した事実は既に知られていることなのに、このような土壌汚染調査を、しかも市民団体による調査を待たなければならなかった、と言うところに行政の無策がある。
この調査結果はフェイスブックの「福島第一原発を考えます」で共有され、メンバー等のツイッターなどで拡散されているが、まだ大手メディアは取り上げていない。
日刊ゲンダイのウェッブ版では「首都圏もチェルノブイリ並みに汚染されている」と言う見出しで記事になって読めるようになっているがまだまだマイナーな扱いだ。
この調査結果に小出裕章助教は次のようにコメント(リンク)を寄せている。
お送りくださった調査結果、拝見しました。ツイッターでの反応を見ると、結果に非常にショックを受けた人と、予想していた(悪い)結果であると納得している人と、大体二種類のように見える。
当たり前のこととは言え、すごいですね。
ごく一般の場所が、放射線管理区域以上に放射性物質で汚染されてしまいました。
被曝を規制するための多くの法令も意味を失い、私たちは変わってしまった世界で生きる以外にありません。
人々が生活する際、ごく容易に接触する場所で試料を集めることが大切ですし、行政にそうした調査を求めるべきと思います。
筆者は「巣鴨」が特筆されたので前者だが。
さてこの由々しき事態をどう受け止めて行ったらよいのか。
結果を理解するのにもう少し時間をかけたほうが良さそうな気もするし、小出助教が提案するように行政に更に細かい調査を要請することも必要だと思う。
ただ先ずはこの調査結果をもっと多くの人に共有してもらうことが必要だろうと思う。
2011年8月8日月曜日
トイレのないマンション
「脱原発と言ってもねー。今までのライフスタイルを急に変えることできるかしら。」
「エアコンも、パソコンも、色々我慢しなければならなくなるよねー。」
「電気の消費を抑制すると言うことは、工場の稼動も抑えられ、消費活動も減少し、結局経済が低迷することになるんじゃないかしら。」
「汚染された肉や魚を捨てるなんてもったいない。多少の汚染だったら食べちゃうわよ。(発ガンする頃にはどうせ死んでるかも知れないんだし。)」
礼拝後の皆さんの会話から「原発関連の話題」は消えない。
それもそうだ。東京電力福島第一原発事故以来、様々な放射能汚染に関する情報が次々と提供されているのだから。
ボキャブラリーも大分増えた。最近ではホットスポットとか・・・。
今日の誰かさんのツイートでは「東京都豊島区巣鴨の土壌検査でセシウムが6万ベクレル出てます。東京都の東側半分は汚染度も高いです。」ってのが出てきた。根拠は示されていないが、民間で自分たちの住んでいる場所の土壌汚染測定を進めている人たちがいるのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
追記:
この調査結果は市民団体によるもので、昨日、8月8日に記者会見とともに発表されました。
以下のリンクで会見の模様や資料がご覧になれます。
①「首都圏150ヶ所 放射能土壌調査会見」
②「汚染の実態 首都圏土壌調査の結果」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
で、「脱原発」の話題になるわけですが、
皆さんご承知のように、「トイレのないマンション」と言う間抜けた喩えは、使用済核燃料最終処分対策が確立していないのに原発を推進している姿を描写するために度々使われてきた表現です。
立派なマンションだが建設してからトイレがないのにはたと気付いた。
いやそうではなく、先ず原発推進があり、トイレ設計はなかなかいい案がないので後回しになった、と言うことでしょう。
東京電力福島第一原発事故以来、「反原発」「脱原発」は世論としては圧倒的だと思うのですが、現実問題として突きつけられるのが、代替エネルギーをどうするのか、電気のない生活をどの程度我慢するのか、高コストの自然エネルギーを受け入れられるのか、と言ったことです。
また多くの人たちは大気や水や食物など生活圏に忍び寄る放射能汚染を理由にして「反原発」「脱原発」を提唱する人たちも結構います。
またある人たちはそもそも地震列島である日本に原発は無理だ、と言う論拠に重きをおく人もいます。
それぞれもっともな議論だと思いますが、筆者はやはり「使用済核燃料」問題が原理的に原発と言う技術を根底から否定すると思います。
放射能汚染が低かろうが、地震に耐えられる原発が建設できようが、使用済核燃料という問題を解決できない以上、原発技術は根本的にアウトだと思います。
使用済核燃料を地下300メートルに保管できたとしても、責任もって保管できるのはせいぜい100年程度のものでしょう。しかし高度に汚染された放射性廃棄物は10万年単位でないとなくならないという事実。
つまり原発を続ける限り人類はどんな処理施設を作ったとしても、子々孫々にこのゴミを残してしまうことになり、どう逆立ちしてもそれは責任を取ったことにはならないでしょう。
大手の新聞も大分「脱原発」に舵取りしてきているようです。
次は経済界と政治が決断出るかどうか、と言う大きな問題が残っています。
利権構造にがんじがらめになって英断が出来ない、優柔不断な政治・経済を脱原発の方に世論が誘導して行く時代ですね。
「エアコンも、パソコンも、色々我慢しなければならなくなるよねー。」
「電気の消費を抑制すると言うことは、工場の稼動も抑えられ、消費活動も減少し、結局経済が低迷することになるんじゃないかしら。」
「汚染された肉や魚を捨てるなんてもったいない。多少の汚染だったら食べちゃうわよ。(発ガンする頃にはどうせ死んでるかも知れないんだし。)」
礼拝後の皆さんの会話から「原発関連の話題」は消えない。
それもそうだ。東京電力福島第一原発事故以来、様々な放射能汚染に関する情報が次々と提供されているのだから。
ボキャブラリーも大分増えた。最近ではホットスポットとか・・・。
今日の誰かさんのツイートでは「東京都豊島区巣鴨の土壌検査でセシウムが6万ベクレル出てます。東京都の東側半分は汚染度も高いです。」ってのが出てきた。根拠は示されていないが、民間で自分たちの住んでいる場所の土壌汚染測定を進めている人たちがいるのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
追記:
この調査結果は市民団体によるもので、昨日、8月8日に記者会見とともに発表されました。
以下のリンクで会見の模様や資料がご覧になれます。
①「首都圏150ヶ所 放射能土壌調査会見」
②「汚染の実態 首都圏土壌調査の結果」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
で、「脱原発」の話題になるわけですが、
皆さんご承知のように、「トイレのないマンション」と言う間抜けた喩えは、使用済核燃料最終処分対策が確立していないのに原発を推進している姿を描写するために度々使われてきた表現です。
立派なマンションだが建設してからトイレがないのにはたと気付いた。
いやそうではなく、先ず原発推進があり、トイレ設計はなかなかいい案がないので後回しになった、と言うことでしょう。
東京電力福島第一原発事故以来、「反原発」「脱原発」は世論としては圧倒的だと思うのですが、現実問題として突きつけられるのが、代替エネルギーをどうするのか、電気のない生活をどの程度我慢するのか、高コストの自然エネルギーを受け入れられるのか、と言ったことです。
また多くの人たちは大気や水や食物など生活圏に忍び寄る放射能汚染を理由にして「反原発」「脱原発」を提唱する人たちも結構います。
またある人たちはそもそも地震列島である日本に原発は無理だ、と言う論拠に重きをおく人もいます。
それぞれもっともな議論だと思いますが、筆者はやはり「使用済核燃料」問題が原理的に原発と言う技術を根底から否定すると思います。
放射能汚染が低かろうが、地震に耐えられる原発が建設できようが、使用済核燃料という問題を解決できない以上、原発技術は根本的にアウトだと思います。
使用済核燃料を地下300メートルに保管できたとしても、責任もって保管できるのはせいぜい100年程度のものでしょう。しかし高度に汚染された放射性廃棄物は10万年単位でないとなくならないという事実。
つまり原発を続ける限り人類はどんな処理施設を作ったとしても、子々孫々にこのゴミを残してしまうことになり、どう逆立ちしてもそれは責任を取ったことにはならないでしょう。
大手の新聞も大分「脱原発」に舵取りしてきているようです。
次は経済界と政治が決断出るかどうか、と言う大きな問題が残っています。
利権構造にがんじがらめになって英断が出来ない、優柔不断な政治・経済を脱原発の方に世論が誘導して行く時代ですね。
2011年8月6日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
8月7日 午前10時30分
朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:1-31
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 4:13-15
説 教 題 「私を迎えてくれました」
説 教 者 小嶋崇 牧師
《講解メモ》
パウロ書簡の学び(65)
ガラテヤ人への手紙(53)
・4:8-20 訴えかけるパウロ
8月7日 午前10時30分
朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:1-31
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 4:13-15
説 教 題 「私を迎えてくれました」
説 教 者 小嶋崇 牧師
《講解メモ》
パウロ書簡の学び(65)
ガラテヤ人への手紙(53)
・4:8-20 訴えかけるパウロ
2011年8月4日木曜日
御用学者
3.11以降日本は動乱の時代を迎えているように見える。
東日本大震災と名づけられた未曾有の天災を検証していくと、次第に人災と見られる部分が露出してきた。
特にそれを端的に示したのが福島第一原発事故の対応における、国(行政府)なり企業なりの危機管理の失敗である。
危機管理の失敗は単に事故への初動の遅れや対応策の無力さと言う点にではなく、この危機に地域住民、更に国民が巻き込まれていながら、事故に関する情報開示が真摯に行われてこなかった、と言うことにある。
この情報開示に多大な責務を持つマスメディアが殆んど独自性を示すことなく、積極的にではないにしても隠蔽に加担してきたような印象を国民に与えたことは否定できないだろう。
やがて「原発推進」を国策としてきた一つの大きな利害共同体の姿が国民に見え始めた。その一端をになったのが「安全を連発する」科学者や、低放射線被曝の危険を軽視して積極的に国民に知らせようとしなかった高等研究機関に属する学界人であった。
いつしか彼らは「御用学者」のレッテルを貼られ、正確で十分な情報を与えられずいらいらしていた国民から非難の目で見られるようになった。
そんな中で原子力研究の分野で原発推進に懐疑的であり、その危険を察知して研究してきた、結果的に学界で「冷や飯」を食ってきた学者たちが、マスメディアではなくインターネットメディアを通して発信し始め、たちまち多くの国民の共感と信頼を獲得するようになった。
言わば3.11国家的危機の新しいヒーローの出現である。
とまあ、少し単純すぎるが、学者と言われている人たちの学術研究の意義が、この国家的危機に際して広く問われる局面を迎えたわけである。
科学者とは言え人間は様々な利害関係の中にあり、純粋に科学的知識の探求をやっているわけではない。政治や社会の枠組みの中で、又学内での人脈や昇進と言った関連で、研究の予算や優先順位の問題が個々人の科学者の良心を揺さぶるのである。
「御用学者」とは国民から見ると、国民の知る権利に鈍感で、政府や企業の利害に敏感な研究者たちであり、権力者の意向(空気)を読むのに長けた学者たちである。
彼らは科学者としての知的誠実と言う価値観を半ば放棄しても時の権力の意向に沿う専門的な意見を作り出すことに躍起となる。
その姿を国民は見せられてきた。
しかし科学者の中には意外や意外、結構良心的に研究し、国民が真に知るべき科学的知識を広めてくれる人たちが少なからずいることを国民は知るようになった。
放射能汚染に関して言えば、原発労働従事者や最も影響を受ける妊婦・胎児、幼児たちの健康に人一倍関心を払ってくれる科学者たちがいたのである。
やがて彼らはマスメディアでも取り上げられ、国会での参考人招致にも選ばれるようになった。
彼らは相対的に危機意識が強く、専門的な知識に関して高邁な自論を展開する傾向がなく、現下の危機に速やかに対応する対策や啓発に熱心であるのが特徴である。
彼らは社会における科学者の責任に関しても鋭い自覚を持っている。
大震災から間もなく5ヶ月。国民は「御用学者」と「国民の安全や安心に鋭い感覚を持つ良心的科学者」を見極める術を持ち始めている。
先日取り上げた、東京大学先端科学技術研究センター教授、東京大学アイソトープ総合センター長の児玉龍彦氏などがその好例である。
残念ながらまたもや児玉氏の識見はマスメディアでは今のところ無視されているが、インターネットでは草の根のように広がっている。
国民の感度とマスメディアの感度にはまだ相当のずれがあるようだ。
また放射線被曝の問題を広く疫学的に、又歴史的に長い射程で位置づけようとして、東大教授の島薗進教授が、そのための好著で今は絶版となっているらしい、
東日本大震災と名づけられた未曾有の天災を検証していくと、次第に人災と見られる部分が露出してきた。
特にそれを端的に示したのが福島第一原発事故の対応における、国(行政府)なり企業なりの危機管理の失敗である。
危機管理の失敗は単に事故への初動の遅れや対応策の無力さと言う点にではなく、この危機に地域住民、更に国民が巻き込まれていながら、事故に関する情報開示が真摯に行われてこなかった、と言うことにある。
この情報開示に多大な責務を持つマスメディアが殆んど独自性を示すことなく、積極的にではないにしても隠蔽に加担してきたような印象を国民に与えたことは否定できないだろう。
やがて「原発推進」を国策としてきた一つの大きな利害共同体の姿が国民に見え始めた。その一端をになったのが「安全を連発する」科学者や、低放射線被曝の危険を軽視して積極的に国民に知らせようとしなかった高等研究機関に属する学界人であった。
いつしか彼らは「御用学者」のレッテルを貼られ、正確で十分な情報を与えられずいらいらしていた国民から非難の目で見られるようになった。
そんな中で原子力研究の分野で原発推進に懐疑的であり、その危険を察知して研究してきた、結果的に学界で「冷や飯」を食ってきた学者たちが、マスメディアではなくインターネットメディアを通して発信し始め、たちまち多くの国民の共感と信頼を獲得するようになった。
言わば3.11国家的危機の新しいヒーローの出現である。
とまあ、少し単純すぎるが、学者と言われている人たちの学術研究の意義が、この国家的危機に際して広く問われる局面を迎えたわけである。
科学者とは言え人間は様々な利害関係の中にあり、純粋に科学的知識の探求をやっているわけではない。政治や社会の枠組みの中で、又学内での人脈や昇進と言った関連で、研究の予算や優先順位の問題が個々人の科学者の良心を揺さぶるのである。
「御用学者」とは国民から見ると、国民の知る権利に鈍感で、政府や企業の利害に敏感な研究者たちであり、権力者の意向(空気)を読むのに長けた学者たちである。
彼らは科学者としての知的誠実と言う価値観を半ば放棄しても時の権力の意向に沿う専門的な意見を作り出すことに躍起となる。
その姿を国民は見せられてきた。
しかし科学者の中には意外や意外、結構良心的に研究し、国民が真に知るべき科学的知識を広めてくれる人たちが少なからずいることを国民は知るようになった。
放射能汚染に関して言えば、原発労働従事者や最も影響を受ける妊婦・胎児、幼児たちの健康に人一倍関心を払ってくれる科学者たちがいたのである。
やがて彼らはマスメディアでも取り上げられ、国会での参考人招致にも選ばれるようになった。
彼らは相対的に危機意識が強く、専門的な知識に関して高邁な自論を展開する傾向がなく、現下の危機に速やかに対応する対策や啓発に熱心であるのが特徴である。
彼らは社会における科学者の責任に関しても鋭い自覚を持っている。
大震災から間もなく5ヶ月。国民は「御用学者」と「国民の安全や安心に鋭い感覚を持つ良心的科学者」を見極める術を持ち始めている。
先日取り上げた、東京大学先端科学技術研究センター教授、東京大学アイソトープ総合センター長の児玉龍彦氏などがその好例である。
残念ながらまたもや児玉氏の識見はマスメディアでは今のところ無視されているが、インターネットでは草の根のように広がっている。
国民の感度とマスメディアの感度にはまだ相当のずれがあるようだ。
また放射線被曝の問題を広く疫学的に、又歴史的に長い射程で位置づけようとして、東大教授の島薗進教授が、そのための好著で今は絶版となっているらしい、
中川保雄『放射線被曝の歴史』
をご自分のブログで要約し、紹介してくださっている。(その①、その②)
日本国民にとって「放射線被曝」とは、これまでも、又原発を維持する限りこれから先何十年、何百年にも渡って付き合っていかなければならない問題である。一過性ではない問題であることをよく認識し、必要な知識とその枠組みを構築していくためにも、熟読をお勧めする。島薗教授の労に感謝。
2011年8月2日火曜日
身辺雑記
身辺雑記、と言っても個人的なことではない。
一つはもう10日前になるが、「N.T.ライト読書会」のこと。
ちゃんとしたレポートを書く気力がないので「雑記」と言うことに。
最初は二人で始めた読書会。
去年からフラー神学校を卒業したばかりのG夫婦が加わるようになった。
年2-3回のペースでやっているが、今年二回目の読書会はいっぺんに倍の人数(8名)になってしまった。
それと言うのもあるきっかけで筆者が、ジョン・ハワード・ヨーダーの『イエスの政治』の読書会(毎月一回)に6月から参加するようになり、その読書会のメンバーが新たに加わったためであった。
ヨーダーの方の読書会は一章ごと、テキストを適当に区切って先ず読み、その後疑問点や感想などを分かち合うオーソドックスなもの。
それに対してライト読書会は翻訳がないので英文のものを読んでくるので、余りテキストには深く入らず、適当に参加者の問題関心に沿って感想を言い合うスタイル。
しかし今回はヨーダー読書会のメンバーが4名もやって来たので二つの異なるスタイルの中庸を取った感じになった。
午前10時から自己紹介に始まり時にディスカッションが熱を帯びることもあったのでそれなりに盛会だった。
選んだテキストは、Creation and Covenant。
ライトのパウロ神学の入門書のような感じの本である、Paul: In Fresh Perspective. London: SPCK; Minneapolis: Fortress, 2005の第二章である。
パウロ神学の土台となっている旧約聖書のバックボーンとなる思想である「創造」と「契約」をラフスケッチし、そのナレーティブを視点に代表的箇所として、コロサイ、Ⅰコリント、ロマ書を簡単に概観した文章である。
読書会後は一緒に近くのレストランで昼食しながら更に発展した話題で時を過ごした。
もう一つは昨日のこと。
会堂を建替えて10年目となるので色々と修繕の必要な箇所などを総合チェックするために設計士に来て頂いた。
コンクリート打ち放しの壁の状態や、玄関部分の鉄製屋根の錆具合、床、戸などの内装など一通りチェックした。
新しいと思っていても10年と言う年月はやはり長い。細かく見るとちゃんとそれなりの経年劣化が見て取れる。逆に床などは最初の頃より表面に油分が出て来ていい色に変わってきた。
とまあ、そんな身辺雑記でした。
一つはもう10日前になるが、「N.T.ライト読書会」のこと。
ちゃんとしたレポートを書く気力がないので「雑記」と言うことに。
最初は二人で始めた読書会。
去年からフラー神学校を卒業したばかりのG夫婦が加わるようになった。
年2-3回のペースでやっているが、今年二回目の読書会はいっぺんに倍の人数(8名)になってしまった。
それと言うのもあるきっかけで筆者が、ジョン・ハワード・ヨーダーの『イエスの政治』の読書会(毎月一回)に6月から参加するようになり、その読書会のメンバーが新たに加わったためであった。
ヨーダーの方の読書会は一章ごと、テキストを適当に区切って先ず読み、その後疑問点や感想などを分かち合うオーソドックスなもの。
それに対してライト読書会は翻訳がないので英文のものを読んでくるので、余りテキストには深く入らず、適当に参加者の問題関心に沿って感想を言い合うスタイル。
しかし今回はヨーダー読書会のメンバーが4名もやって来たので二つの異なるスタイルの中庸を取った感じになった。
午前10時から自己紹介に始まり時にディスカッションが熱を帯びることもあったのでそれなりに盛会だった。
選んだテキストは、Creation and Covenant。
ライトのパウロ神学の入門書のような感じの本である、Paul: In Fresh Perspective. London: SPCK; Minneapolis: Fortress, 2005の第二章である。
パウロ神学の土台となっている旧約聖書のバックボーンとなる思想である「創造」と「契約」をラフスケッチし、そのナレーティブを視点に代表的箇所として、コロサイ、Ⅰコリント、ロマ書を簡単に概観した文章である。
読書会後は一緒に近くのレストランで昼食しながら更に発展した話題で時を過ごした。
もう一つは昨日のこと。
会堂を建替えて10年目となるので色々と修繕の必要な箇所などを総合チェックするために設計士に来て頂いた。
コンクリート打ち放しの壁の状態や、玄関部分の鉄製屋根の錆具合、床、戸などの内装など一通りチェックした。
新しいと思っていても10年と言う年月はやはり長い。細かく見るとちゃんとそれなりの経年劣化が見て取れる。逆に床などは最初の頃より表面に油分が出て来ていい色に変わってきた。
とまあ、そんな身辺雑記でした。
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