2010年11月18日木曜日

牧師の本音を語る?

先日「キリスト教放送局日本FEBC」から出演依頼が来た。
『この地に、牧師として生きる』と言う番組だ。
既に『先生の放送予定日』として、2011年8月15日(月)、と記されていた。
たまたまとは言え、終戦記念日ではないか。


『企画意図』のところに以下のように書かれていた。
随分昔になりますが、聴取者からいただきました手紙に「キリスト教の牧師さんは、本当に上手な話をするものだ。《たてまえ》は分かったから、牧師さん自身の《ほんね》を聞きたいものだ。」と言うのです。信仰告白や説教を単なる《たてまえ》と聞かれるのは淋し過ぎます。そこでいつも説教をしておられる先生方に、説教ではなくご自分が神様にどのようなお取り扱いを頂き、何が先生の本当の喜びであり、何が悲しみなのか。例えば先生にとってイエス様とはどなたか。なぜ牧師職になられ今牧師をされておられるのか等、お証し頂きたく存じます。
このシリーズは全国の牧師たちをカバーしてもう何順目かしているらしい。今回また東京圏だか、関東圏に戻って来るらしい。

とにかく、その送られてきた企画書、特に『企画意図』を読み直して、果たしてこの依頼を受けたものかどうか考えた。
一番引っかかったのは《ほんね》と言う部分だ。
しかし最後のところでは「お証し」と締めくくられている。

筆者は以前書いたように母方から数えて牧師三代目、父方からは二代目、所謂「牧師家庭」、また「教会」を最も身近な文化として育った人間である。
そのような者から言わせれば、「お証し」とはしばしば「クリスチャンらしく、行儀よく語られる」何ものかであり、何回も語るうちにパターンが出来上がった話である。
《たてまえ》とまでは言わないが、やはり本当の意味での《ほんね》とは少し乖離するもののように感じる。

もし引き受けるのであれば、どっちの線で行くのか・・・。
そんなことをあれこれ考えているうちに、担当者から確認の電話を頂いた。
その時点でしっかり踏ん切りがついていたわけではないが、「前向きに」みたいな政治家の表現のようなしゃべり方をして行くうちに、承諾することを伝えた。

他の「キリスト教の牧師さん」はどんな話をしているのか、早速ウェッブで聞ける範囲で聴いてみた。
どちらかと言うと「お証」かなー、と聴きながら思った。
自分の場合を想定して考えると、とてもこんな風には行かないだろうなー、と思いながら・・・。

そんなことがあってここしばらく「神の恩寵」を個人的にどう捉えているのか、特に現在のタイムラインでどうなのか、思い巡らしている。
アメージング・グレースの歌詞のように、一つの結論を見た感慨はない。
まだ途上での「神の恩寵」感である。
目下は特に強く感じることはない。
むしろ弱い感じである。
だから無理にでも「神の恩寵」を鼓舞したい気持ちになりそうなことがある。

牧師としての悩みは深いとは言えないが、苦労に対応する喜びが湧いてくるか、と言われれば、いや、ただ坦々とこなしながら、凌いでいる感じがしないでもない。

さて、録音日時が決まるのは今月末らしいが、来年になるだろうその時に、果たして自分の霊性は、「神の恩寵感」は、どうなっているだろうか。
出来るだけ「励まし」になるような良い「お証し」をお膳立てしようとするだろうか。
それとも出たとこ勝負で「本音をぶつける」ことになるだろうか。

まっ、その時を待ちながら、日々坦々と待ちます。

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