その後どうなったのか。
今日当日を迎え、先日のポスト内容とは大分趣向を変えてセミナーを行いました。
一読者から「ブログで紹介して」との要請もあり、ポスト内容とも大分変った結果ともなったので、その経緯も少し含めて、今日のポストといたします。
先日のポストでは、「如何に『聖書』と『教理』とを区別するのか」「なぜ区別するのか」に苦心している様子を書きました。
その後考えを進めて行くうちに、その読者のコメントを読みつつ、「なるべくシンプルに行こう」と思い直しました。
ある程度問題意識を共有しているのでなければ、こちら(牧師)側が説明に終始してしまう、と危惧したからです。言葉を尽くして説明したとしても、あまり理解してもらえないような内容であれば建設的ではない、と考え直したわけです。
それで、宗教改革時の「聖書と教理」の問題はバイパスして、礼拝では使徒の働きから、原始教会での「教え」の側面に注意を向けました。
導入は、ギリシャ語「エクレシヤ」が日本語で「教会」と訳されるようになるについての一くだり。
字義からは、教会は「教える会」、つまり「何かを教えそれを学ぶ集まり」と言うことになります。ここでは、日本語で「教会」が“教えを中心とした集まり”との印象を与えやすいのではないか、と指摘しました。
明治期の宣教師がChurch をそう訳したのでしょうか。Churchと言う語はチュートン系民族に共通していて、ギリシャ語の「ギリヤコン」あるいは「キリヤコン」に源を持つようです。その意は「主の家」。建物を意味する語だったようです。
新約聖書では、教会は「エクレシヤ」、ギリシャ語で「集会」の意ですが、キリスト教的には「主に召集された『神の民』」です。
対照的に原始教会はどうであったかを、次に考察しようとしました。
使徒の働きでは、ペンテコステに聖霊が降臨し、主の弟子たちに加わった信者たちの様子が映し出されています。簡潔な描写から垣間見られる原始エクレシヤの姿は「主イエス・キリストに対する信仰を基盤にした〝生活共同体〟」。まだ神殿が破壊される前でしたから、「神殿」での礼拝と、共同体の生活における信仰生活とが、一体となっていた様です。つまり「教える」と言う面は、ペンテコステ後の教会、「信仰と生活が一体となった共同体」の一側面であったことを指摘しました。
次に「教える」と言う働きはどのようなものであったかを考察してみました。
それは筆者の表現では、使徒たちによる、新しく加わったキリスト者たちへの〝教理的ケアー〟(使徒の働き2:42)ではないか、と指摘しました。
どんな教理的ケアーだったのでしょうか。
既にバプテスマを受けた信者たちですから、メシヤ・イエスに対する信仰告白の基礎に立つ「教え」であったでしょう。ペンテコステ説教の内容から逆に推測しますと、メシヤ・イエスが、聖書に証しされている通り、神の御心に従って受難と復活を通して贖いを成就されたこと、そしてその成就の上に、約束された「罪の赦し」と「御霊の賜物」が信者たちに受領されていること、を確認させる、堅くする、確信させるものであったと思われます。
と言うわけで、従来の「教理」と言うと何かお堅い学び、既に決まった内容のものを暗記する(教理問答書)、ようなイメージに傾きやすいのですが、そうではなく、教理的教えとは、もっと牧会的な配慮から出てくるものなのだ、と言うことを確認しました。
筆者にとって教理を教えると言うことは、信者の信仰育成ケアーなのだ、と言うのが今回の学びでの“新たな気付き”になった感じがします。
(その後の「学び」では、皆さんが「聖書」からの学びと、「教理的な教え」をどう整理されているかをお話してもらいました。筆者はひたすら聞く側に回りました。)