2013年7月31日水曜日

(4)ジョン・ウォルトン、創世記1章

日本では殆んど話題にもならないが(その手の団体には申し訳ないが)、北米福音派では創世記1-2章の解釈を巡って結構盛んに論争がなされている。

「創造論」対「進化論」のような従来の対立構図に代わって、最近は「神論的進化説」みたいなものが大分出てきている。

この手の代表的なシンクタンクがBiologosだ。
今はやめてしまったが創立に貢献したのが「ゲノムと聖書」の著者、フランシス・コリンズだ。


コリンズのこの本に関しては当ブログでも記事にしている。これこれ

そのバイオ・ロゴス財団のサイトには筆者が注目してきたN.T.ライト教授も色々顔を出している。

その他にもホィートン大学の旧約学教授、ジョン・ウォルトンも貢献している。ここ

これでやっとイントロ(前置き)が出来た。

要するに何が言いたかったかと言うと、ジョン・ウォルトンの
The Lost World of Genesis One
をやっと今日入手した。アマゾン日本

実は筆者も関わるN.T.ライト・セミナー第2回N.T.ライト・セミナーで、ジョン・ウォルトンが指摘する「創造記述の背景には神殿がある」と言う、旧約聖書学では今や常識となりつつある「解釈フレーム」が、基調講演者の鎌野直人氏によって語られる運びとなり、そのリスポンデントである筆者(旧約聖書学の素人)が何とか一夜漬けでもカバーしておかなければ、と注文した本なのである。

あー長ったらしい文章になってしまった。失礼。

まっしかし当の鎌野氏によると、この本はあくまで入門で、Jon D. Levensonを読まないとダメらしい。

と言うことで、また彼の本を注文したところ。

あー、やれやれ。読む本が増えて大変だ。

もう明日から8月だ。読書の夏。

(5)今「頭にあること」をメモ

昨日は某キリスト教出版社で編集をしているFさんが主宰する読書会に出席。

毎月1回のペースでやっている。
過去にもこのブログで何回か取上げた。

昨晩は夏休み前と言うことで、早めに切り上げ、その後夕食を共にした。
参加者、筆者も含めて8名。

今読んでいる本は、チャールズ・リングマの『キャッチ・ザ・ウィンド』


ざっくり言うと、「教会刷新」についての本だ。
Changeと言う語が毎章タイトルに出てくる(全9章中8章)。

オランダ出身の方なので英語が母語ではない。
時折分かりにくい言い回しに遭遇し、皆でどう言う意味かを議論する。

昨日は第7章、The Vision For Change、の後半。
(念のため。英語の原書読書会ではない。主宰者のFさんが事前に訳して配布する。)

毎回思うのだが、社会学を結構読んでいる著者なので、そちら方面から来る教会や聖書への洞察は時に鋭いものがある。

しかし、「あるべき教会」の姿を(新約)聖書から提示しようと言う時に、しばしば著者にとって「こうあるべき」と言うフレームに合うように聖書箇所が抽出され、またそのモデルに合う様に解釈される傾向がある。(その点釈義的に物足りない感じを度々抱いてしまう。)

特に問題と感じるのは「制度的教会(institutional, structural)」をかなり固定的に捉える傾向があることだろうか。

「制度的教会」の問題点を指摘しようとする余り、たとえ理想とする「神の民」(すべての信徒が聖霊の賜物で相互に仕え合い、社会に対して開かれ奉仕できるような共同体)であっても、institutional, structuralな問題(例えば『人間関係に普遍的に絡みつく力・支配の問題』)が避け得ないことを見落としがちな印象を受ける。

ちょっと脱線するかもしれないが、リングマにとって「制度的教会」の重要な一側面である「職制」に関し、パウロの牧会書簡について挿入でこうコメントしている。
ただし牧会書簡を除く。それらは二、三世紀の特徴になっていった制度化の強調をすでに反映している。
ここで話題が所謂パウロ書簡の高等批評問題に脱線(でもないけど)。(擬似パウロ書簡参照)
参加者の多くは「福音派」で育っていて余りこの問題に慣れていない・・・云々みたいな話が結構続いた。
で新約聖書学を専攻しているメンバーによるミニ・レクチャーがなされた。

リングマは「より平準化した人間関係を示唆する教会」モデルを新約聖書から見ようとしているためこのような挿入コメントを付けて(牧会書簡を除外して)「新約聖書のモデル」としたいのだろうと思う。

しかし下手に首を突っ込むと「新約聖書正典問題」に入り込むことになるので挿入コメントに留めてそれ以上の言及を避けたのだろう。

ただこの「制度化(職制化)された教会」の問題を考えるには、牧会書簡の高等批評問題は避けられないのではないだろうか。

高等批評で「疑似パウロ」性を判定する「規準」が、牧会書簡の内容が「教会の制度化」を反映している、という見方がその一つだからだ。

福音派も「高等批評」に対してはアレルギーを持ってきたので、なかなかリングマが目指そうとしている「教会像」を取上げるにはこの点でも難しい面があるかもしれない。

ただ正典論や聖書解釈論等複雑な問題にも絡むことになるかもしれないが、リングマの「聖霊の賜物を根拠とした自立した信徒たちによる教会」、即ち彼が新約聖書から取り出そうとしている『ピープル・エンパワーメント』というのは面白い「教会刷新」アイデアではなかろうか、と思っている。

2013年7月27日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

7月28日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ピレモンへの手紙 1-25
説 教 題 「私の心そのもの」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(111)
コロサイ・ピレモン(14)

(4)「カトリックと聖書」④

何かのろのろとした連載ですが、ご寛容ください。

『信仰年』ーー聖書を取り戻した公会議  (2013年6月)聖書を敬遠していた教会」部分二回目の引用です。
(この前の部分は第二バチカン公会議前は信徒には聖書を勧めることは殆んどなかったことが述べられました。)
 なぜでしょうか。その背景には、聖書を強調するプロテスタントへの対抗意識がありました。中世のある時期、カトリック教会は聖職の売買などの腐敗や誤っ た教えがまん延し、恥ずべき状況におちいっていました。それを批判して立ち上がったルターら改革者たちは、教会当局と論争する中で、聖書に拠りどころを求めました。キリスト教の真理は、誤りにおちいった教会の指導者たちの教えの中にではなく、神のことばである聖書の中にある、というわけです。そこから、 「聖書のみ」を掲げるプロテスタントと、教皇たちの教えや過去の公会議の決定、その他祈りや典礼なども含めた「聖伝」との二本立て、つまり「聖書と聖伝」 を主張するカトリックとの立場の違いが鮮明になりました。
「カトリックの信徒が余り聖書を読む習慣がないまま来た」歴史的背景が述べられ始めます。
そしてその主要因がプロテスタント宗教改革に求められるだろうことを念頭に説き起こされます。

カトリックの「聖書と聖伝」と言う二つの並行する権威(厳密に言えば聖書を解釈する「教皇」「公会議」の具体的教導権が優先することになるだろうと思われますが)を取る立場に対し、プロテスタントは「聖書」だけに権威を一本化した、その立場の相違から説明が試みられます。

このブログの読者はプロテスタントが殆んどだと想定しますが、「聖書」と「聖伝」については余りご存じないのではないかと思います。
「聖伝」について、ここでまたCatholic Answersに登場して頂きましょう。
Sacred or apostolic tradition consists of the teachings that the apostles passed on orally through their preaching. These teachings largely (perhaps entirely) overlap with those contained in Scripture, but the mode of their transmission is different.
  They have been handed down and entrusted to the Church. It is necessary that Christians believe in and follow this tradition as well as the Bible (Luke 10:16). The truth of the faith has been given primarily to the leaders of the Church (Eph. 3:5), who, with Christ, form the foundation of the Church (Eph. 2:20).


 ここで目に付くのは、①私たちが手にする「本としての聖書」に先行して「口伝で伝承された教え」が存在したこと、②その「使徒的伝承」が主に教会指導者たちに委ねられた、とする理解です。

 つまり「聖書と言う本」が権威化する前に既に教会は存在し、使徒たちの教えを伝えてきた、と言う認識です。

 同様の認識は当然ながら「正教会」にも見られます。
 聖書という神の啓示の書は、「聖伝」の中にあります。聖書は「聖伝」の一部です。「聖伝」を、聖書に書かれていないその他の記録や伝承と見なしてはいけま せん。聖書と「聖伝」という二本の柱があるのではなく、「聖伝」という一本の柱の中に聖書は含まれているのです。聖書は「聖伝」から生み出されたもので す。これとこれが聖書である、と決めたのは「聖伝」です。いくつもの文書の中から聖書と認めた(「正典化」と言う)のは教会です。聖書が先にあって教会が 生まれたのではありません。しかしその聖書は、「聖伝」の中で最も重要であり、最も大きい位置付けがなされます。「聖伝」が生み出した聖書は、その後の 「聖伝」を基礎づけるものとなりました。つまり、ある教えや考えが「聖伝」として正しいか否かは、聖書という規準に基づいて、聖神の導きによって、合議の上、判断されます。(日本正教会「聖伝」
(歴史的に教会が聖書に先行するという事実と、「権威」として聖書(と公会議)が「聖伝」に対しても機能しうると言う弁証法的関係が述べられてバランスされ ているこの定義は、もともとの「伝統的な解釈」ではなく、もしかしたら多少近代化(プロテスタント化?)されたものかもしれませんが・・・。何はともあれ 正教会の「聖書観」はこのテーマの範囲を超えていますのであくまでサイドノート。)

さて引用の続きです。
 「聖書のみ」は聖書の自国語への翻訳とも相まって、人々の手に聖書を取り戻し、広くキリスト教の本質への意識を覚醒させ、教会の浄化にも大きな力を発揮 しました。しかしその一方で、聖書のさまざまな(中には新奇な)解釈が出現し、その対立がそのまま教会の分裂につながったりするなど、弊害もありました。 それゆえ、カトリック側には聖書を強調することへの警戒感が強かったのです。
 しかしその警戒感から聖書を敬遠し過ぎたため、近代においてはカトリックの聖書研究はプロテスタントに大幅に遅れをとるとともに、カトリック信者はほとんど聖書を見たことがないという、嘆かわしい状況になっていたのです。
ここに見る「人々の手に聖書を取り戻し」たと言うプロテスタント宗教改革の貢献は、カトリック教会が現在進めている刷新運動の一つである「人々=信徒も教会の大切な要素である」と言う教会観から見た時に言えるものなのではないかと思います。

 プロテスタントの「万人祭司」や「個人的聖書解釈権」ほどラディカルなものではないにしても、教導権に対しある意味で「平準化」の方向が出てくることが予感されなくもない。

 ただプロテスタントの負の遺産である「解釈の多元化による果てしない分裂」の状況を招くことだけは避けたいでしょうから、「信徒の手に取り戻された聖書」と、その「解釈の問題」についてはカトリック教会はきっちり区別して対応することと思われます。

(※次回に続く)

2013年7月25日木曜日

まな板削り

標準的な大きさと言うのだろうか、360(長さ)・210(巾)・30(厚さ)、のまな板を削ってくれるよう頼まれた。


一応柾目の桧のようである。


木目は僅かに途中で山のようになっている。
(片流れで行ってないのでちょっと面倒)。


それほどへこんではいないと思い削りだした。

2~3ミリ削ってもこんな感じである。
思った以上にへこみがある。


とにかくほぼ全体が平面になるまで削り込んだ。
その成果の鉋屑。


僅かに削り残しがあるが、これまでなくそうとすると、もう1~2ミリ削り込まなければならない。
しかしもう裏側を含め4ミリ近く削っている。


残念だがここまでにしておこう。(妥協)

と言う訳で面取りをして終了。

一汗かいた夏の午後。

2013年7月24日水曜日

(5)福音派のパラダイム・シフト⑦

さて、前回から「個人的所見」を述べ始めたが、一回で終わらすことが出来なかった。

今回この「個人的所見」の続きを読んでくださる読者がいるとすれば、その方は余程の問題意識の持ち主かもしれない。

予め断っておくが、難易度(5)には幾つか意味があってその一つが「書いてる先が見えないことを書く場合」と定義しておいたが、今回はまさにそんな記事だ。

途中で筆者と一緒に「神学の迷路」に迷い込むことにならなければ良いが・・・。

確認事項(2)
パラダイム・シフトの方向が、『回心体験』を個人主義的・縮小化された「救済」から、教会論的な側面を回復し、ホリスティックな「救済」へと向かっている、と言うことについて

念のためゴードン・T・スミスが「パラダイム・シフト」後の「回心と救い」の輪郭をスケッチしている文章を再掲する。

回心とは

conversion is a complex experience by which a person is initiated into a common life with the people of God who together seek the in-breaking of the kingdom, both in this life and in the world to come. This experience is mediated by the church and thus necessarily includes baptism as a rite of initiation. The power or energy of this experience is one of immediate encounter with the risen Christ—rather than principles or laws—and this experience is choreographed by the Spirit rather than evangelistic techniques. (下線は筆者)
ここから拾えるポイントは幾つかあるが、今回は3点に絞ろう。

①提示される福音の性格
The power or energy of this experience is one of immediate encounter with the risen Christ—rather than principles or laws—and this experience is choreographed by the Spirit rather than evangelistic techniques.
福音の提示は、「個人的罪からの赦し」(の方便)としての「十字架のキリスト」から、復活したメシア・主イエスを宣言することへとシフトされる。

 この辺のことは、スコット・マクナイト「福音の再発見」を読んで頂くのが良いと思うが・・・。

 19-20世紀にかけて制度化されたリバイバリズムにおける福音は、「救いの方法」(『四つの法則』の例のように「簡略化された救済論」)の提示になってしまっていて、本来の使徒的福音である「十字架に死んで復活し、今や『メシア』とも『主』ともされたイエスを告知する」行為であることから大分離れてしまった。

 パラダイム・シフトはその意味で使徒的福音提示の元々のフォーカスである「主イエス・キリスト」に原点回帰することを意味するだろう。
(リバイバリズムにおいては、救われる『私』にフォーカスが当たってしまっていた。)

②「終末の神の民である教会」へと加えられる、と言う共同体的側面の回復
a person is initiated into a common life with the people of God who together seek the in-breaking of the kingdom, both in this life and in the world to come.
 リバイバリズムにおいては「回心体験」は「個人的罪の赦しの体験」に留まってしまい、教会に加わることは、回心後のまるでオプショナルな扱いにされていた観があった。

 また別の角度から言えば、このパラダイム・シフト後の「回心」には、イスラエルのストーリーの回復がある。
 リバイバリズムにおける「救い」は、人々が「証し」として表現する時、それはしばしば「個人史的救済」ストーリーの域を出ない。
 しかしパラダイム・シフトが目指すのは、福音のフォーカスである「主イエス・キリスト」が旧約聖書のストーリーを完結する、成就するお方として提示され、そのお方を信ずることを通して、「新しくされた(renewed)神の民」の一員とされる「回心体験」なのだ。
 
 まとめて言えば、「個人的」に対して「共同体的(教会)」側面、「非歴史的(抽象的)」に対して「歴史的(旧約から新約へと更新された『神の民」)」側面が、新しいパラダイム・シフトのもとでの「回心」に求められる。

③「救済論」偏重によって脇に追いやられてしまった「教会論」の回復
 リバイバリズムは「バプテスマ典礼による新生(baptismal regeneration)」を変えてしまった。
 「救い」は「罪人の祈り」を祈ることで成立し、洗礼と言う「教会」の典礼から切り離されてしまった。

Evangelical Sacraments: Supporting Cast for the Sinner's Prayer

This attitude is tellingly reflected in common evangelical sacramental practice. Many evangelical traditions have managed to strip away even the ecclesial nature of these ecclesial signs in pursuing salvation evangelical style. They are now by and large seen in terms of evangelicalism's central speech-act: the "Sinner's Prayer." Reciting the Sinner's Prayer has generally taken the place of baptism as both the decisive moment of salvation and the normative rite of initiation (conveniently, as one can do it by oneself, anytime and anywhere: at a worship service, at an evangelistic rally, or even privately before a television or Gideon Bible).
Telford Work, "Reordering Salvation"
さて、まだ「神の国」と言う「終末的論」的側面の回復も一言するべきだろうが、このパラダイム・シフトに絡んでくる神学者たちは、スミスが列挙するよりはるかに多くバラエティーに富んでいることだけ指摘して終わろう。
(まだスコット・マクナイトやテルフォード・ワークに言及しただけだが・・・。)

 メソジストの神学者であるビリー・エイブラハム(ちょうど彼の「はじめてのウェスレー」が邦訳出版されたところだ)が、The Logic of Evangelism、で「回心」を次のように定義している。
What I am proposing calls for a fundamental reorientation in our thinking about Christian initiation. We begin by asking what it is to be initiated into the rule of God, which has been inaugurated in Jesus of Nazareth and in the work of the Holy Spirit at Pentecost and thereafter. From within this horizon we then proceed to articulate what it is to be initiated into the community of the kingdom, that is, the church. Logically speaking, this takes the primary focus away from external admittance into a particular organization and relocates it in the sweep of God's action in Christ and in the Holy Spirit. (P.98)
簡単に言えば、「回心」とは「(一地方)教会」と言う組織の一員となる(イニシエーション)前に、先ず「神の国」に入れられる、と言う事がある。

 神のご支配、神の救いのストーリーと言う大きな文脈の中に、伝道の働きがあり、教会と言う具体的文脈の中で人は回心(イニシエーション)を通して「神の民」である教会に加わっていくのだ、と言えるだろう。
(エイブラハムの文章はかなり密だが、先に挙げたスミスの文章よりも首尾一貫しているし、「回心」をめぐる神学的トピックに対し、より明確な展望・輪郭を示していると思う。)

 

2013年7月23日火曜日

久し振りに ゲスト・スピーカー

先ず最初に。

8月11日(日)の巣鴨聖泉キリスト教会での
主日礼拝はお休みです!!

その休みを用いて「『福音の再発見』ファン感謝デー・関西編(神戸三宮)」に出かけてまいります。

これは午後2-4時の集まりですが、朝の礼拝は、この集まりのホストである《ミーちゃんはーちゃん》さんが集う『芦屋恵キリスト集会』に出ています。

・聖餐式(礼拝)(10:20~11:00)
・聖書のお話(11:15~12:00)

こちらの「聖書のお話」の方で《スペシャルゲスト》としてお話しすることになっています。
ただのゲストではなくその上にスペシャルまで付けて頂いて恐縮です。

テーマは「決まりましたら・・・」となっていますが、「★いま★イエスに従うとは」みたいなことを話そうかと思っています。

と言うのもリチャード・ボウカム「イエス入門」が出て、これは一般向けの「キリスト教入門」の好著だと思い、これをテキストにして『イエスとは誰か』というクラスを企画しているところなのです。

同時にボウカム「イエス入門」は、キリスト者にとっても「イエス・キリストの弟子となる」ことに欠かせない「史的イエス」の問題への良き入門書でもあります。

そう言う訳で、「★いま★イエスに従うとは」と言うテーマは、筆者とは教会史的背景の異なる「ブレザレン」系の『集会』であっても有益なものではないかと思っています。

読者の皆さんの中に《芦屋》付近に住んでいる方があれば、どうぞこの集会への出席をお勧めいただければ幸いです。

 

2013年7月22日月曜日

散歩コースAとA´

最近スマホを買った。

いきなりだ。
携帯さえ持っていなかったのだから。

まだ良く使えていない。
今のところ一番便利にしているのは、アラーム、万歩計、そしてデジカメ。

今日は散歩について。

週4回くらいは散歩に出る。
三つのコースをローテーションで歩いている。

今日紹介するのはAコースと、それをちょっとアレンジしたA´コース。

先ず外に出て公園の時計で時間をチェックする。
左に、車の進行方向(一方通行)へまっすぐ進む。
JR駒込駅ちょい手前を染井通りに左折して入る。

有名なソメイヨシノ発祥の地。
まっすぐ歩いて行くと染井墓地に入る。


染井墓地を抜けて、右に折れ左に折れながら、旧東京外語大学前の前の通りに出る。






これを右折して道なり進むこと5分位で、東京ゲーテ記念館を通り過ぎる。





この辺りは『ゲーテの小径』と呼ばれている。
まもなくこの小径は明治通りにぶつかる。
左手には向かい側には飛鳥山公園の一端(駐車場)が見える。


右折して10分位歩くと右手に白い土塀となり、まもなく旧古河庭園の入り口が現れる。



この斜向かいは新しくなった滝野川会館。


まだ旧館の時(ざっとうん十年前)、日本聖泉基督教会連合の「総会聖会」を何度か持ったことがある。懐かしい光景!

ここを右折して本郷通りに入り、JR駒込駅へと向かう。
途中霜降銀座商店街の小さな入り口を過ぎる。







JR駒込駅が近づくと、最近出来たエキナカ施設のホテルメッツ駒込が見えてくる。


そうだ、 AとA´の違いを説明してなかった。

散歩コースAとはゲーテの小径に入らず、染井通商店街から道なりに霜降銀座商店街に入る、基本お買い物コースだ。

今日紹介したのはA´コースで散歩中心コースだ。
(時に飛鳥山公園まで足を伸ばすAダブルダッシュ・コースもある。)




2013年7月20日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

7月21日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ピレモンへの手紙 1-25
説 教 題 「役に立つ者となる」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(110)
コロサイ・ピレモン(13)

(1)国政選挙に「参加する」

最近選挙に行くのを悩ましく感じることが多い。

誰に投票していいか分かりにくいと言うことがある。

何しろ与党と野党がはっきり分かれていた頃は、善しにつけ悪しきにつけ、「どっちにするか」は選択肢の問題としては単純で難しくなかった。

しかし細川政権以降だろうか、政権再編がどんどん進み、最早昔の与党と野党の違いは殆んど意味をなさなくなったくらい、政治の構図が崩れてしまった。

まーこれはごく素人の悩みで、わざわざブログに取上げるほどのことでもないのだけど。

改めて「国民主権」のもとでの「民主主義」とその実現方法としての「代議員制民主主義」を考えてみる。そして「二院制」と「内閣」のことも考えてみる。

(そんな大それた事ではなく、ただ現下の民主主義体制の条件を羅列しただけだ。)

最も悩ましいのは何だろう。

それは「国民主権」と言いながら、例えば多くの国民が関心を持っている「原発問題」に対して国民の意思を反映させる制度的な手続きが殆んど与えられない、と言うことだ。

直接デモに訴えて、と言うこともあるが、日本の周りの国々ではデモが一定か、それ以上の成果を獲得しているのと比較すると、日本ではなぜかそれが直接国政に反映することがない。

もちろん「制度的には」複数政党が国政選挙の争点に取上げた先の衆議院選挙があったが、見事に討論未成熟のまま争点は崩壊し、今回の参院選ではかなり後退している。

原発(再稼動か否か)を問うだけでは不十分だ。
エネルギー政策を含め、国の経済の基本的あり方を問わなければならないと思うからだ。

核廃棄物と言う超危険物をどのように扱うのか。
「使用済み核燃料リサイクル処理システム」は最早破綻していないのか。
その厳然たる認識を今のうちにしておかなければ、子々孫々に多大な負の遺産としてこの問題を丸投げしてしまう「無責任」を今の有権者はしてしまうことにならないか。

しかし、そこまでのシナリオを具体的に描いて政治的選択肢を提供してくれる政党はあるだろうか。
何も専門家を集めて「最も経済効率が良く、しかも現実的な原発政策」を検討してくれ、と言っているのではない。

「使用済み核燃料リサイクル」問題を深刻に受け止めた、原発に対し「今」できる「長期的・総合的で、最も高度な価値判断・倫理的判断」を下す「意思決定手続き」を整備して欲しいのである。

それが見えないうちは、数多の近未来的政治選択肢は「その場しのぎ」の問題に見えてしまうのだ。
(確かに国の巨大赤字、年金問題、広がる経済格差、なとなど待った無しの問題は幾多もあるが、それはもっと長期的な国のあり方が決まってこなければ、場当たり的に処理されていく危険が高いと思う。)

最近の地方選挙では投票率の低さが問題になっている。
せっかく市民が立ち上がって政治に参加しようとしても、小平市の道路問題にしても、投票率の低さを理由に開票されず、「投票に参加した人の意思」は明らかにされないままにされた。

はたしてこれが「国民主権の民主主義」と言えるのか。

何はともあれ、「投票」だけでは「国政参加」は不満足な結果しか得られないだろう。
だからと言って「投票」にさえ参加しなければ、「国民主権の民主主義」の選択肢はもっと狭くなっていくではないかと危惧する。

今回の参議院選挙に投票しても「政治は余り変わらない」かもしれない。
しかし「投票」は「大衆民主主義」のせめてもの生命線である。

この権利さえ確保するには相当の戦いを必要としてきたわけだから(民主主義新興国の状況はメディアでよく目にしているではないか)、安直にそれを放棄してはならないだろう。

さて明日の投票。
「誰」に投票するのか・・・人柄か、年齢か、性別か、政策か、政党か、口コミやコネか。
どの「政党」に投票するのか・・・多数派形成力か、政策か、ブレなさ加減か。
「政治力学バランス」を計算して投票するのか・・・自民独裁阻止、少数政党の存在価値、

考えることは色々あるが、まずは投票に行こう。
投票に参加しながら、「今の政治に欠けているものを考え、次の政治に期待すべきものを考えよう。」

2013年7月19日金曜日

速報 King Jesus Gospelフリー

このブログでも何回となくご紹介した、
スコット・マクナイト「福音の再発見」は原書では

The King Jesus Gospel
 

ですが、どう言うわけかAmazon.co.jpサイトで、この原書の「キンドル版」がただで手に入るようです。

リンクはこちら


(4)「カトリックと聖書」③

難易度ランキングについて

では『信仰年』ーー聖書を取り戻した公会議  (2013年6月)イントロを終えた次の部分前半を引用します。

聖書を敬遠していた教会
 皆さんは教会で聖書の勉強会に誘われたり、神父さんから「普段から聖書に慣れ親しみましょう」などと言われたりしているでしょう。でもこれは、公会議以前には考えられなかったことでした。むしろ、信者は聖書を読んでも誤解するかもしれないから読まないように、とさえ言われていたのです。(下線は筆者)
(公会議とあるのは第二バチカン公会議のことですが)、へーそうなんだ、と改めて思わされます。

カトリック教会の《教職者》がカトリック教会の《信徒》に「聖書を読むこと、学ぶことを勧める」ことは、第二バチカン公会議以前には「考えられなかった」、とあるのに目が留まりますね。

これについては果たして事実関係はどうであったか、と言うことに興味がわきました。
①カトリック教会は信徒に聖書を読むことを禁じたのか、
②それとも、信徒が聖書を読むことをただ奨励しなかったのか・・・。
そこで、Did the pre-Vatican II Church prohibit the lay people to read the bible?でググってみました。

するとこのページが筆頭に来ました。

実はこの連載を書きながら参照しているカトリックの「何でも質問箱」のようなサイトがあるのです。、
Catholic Answers、と言うサイトなのですが、やはり筆頭に来たのはこの巨大カトリック・サイトだったというわけですね。

投稿されている意見と、そこでリンクされている情報などからすると、少なくともカトリック教会が正式に信徒に聖書を読むことを禁じた、と言うことはないようです。

むしろ間違った(異端的?)教えを排除するために積極的に聖書を用いる(読む)よう勧めている教皇の手紙の資料があるようです。(#3の方のコメントにあるリンクを参照ください。)

でも全体的傾向としては、「わざわざ信徒が聖書を読む」ことは推奨していなかったのは確かだろうと思います。

「むしろ、信者は聖書を読んでも誤解するかもしれないから読まないように、とさえ言われていたのです。」 ・・・は筆者が考えるには以下のような背景があるように思えます。

カトリックの信徒は、既にミサ(礼拝)に与る時に十分聖書に触れている。
それは礼拝の場に集まった個人が自分の聖書を読むのではなく、公同の礼拝で「神のことば」に共に与っている。

このことに関しては関連して読んだ(福音派からカトリックに「改宗」した方の) ブログに「カトリックとプロテスタントの礼拝での聖書利用率」を比較検討した興味深いWhy Don't Catholics Rread The Bible?と言う記事があります。その中にこういうくだりがあります。
Did you know that a survey was done to check the amount of Scripture used in the Catholic Mass? The Catholic service was almost 30% Scripture. When the same writer checked his local Bible-based Evangelical church he was surprised to find the total amount of Scripture read took just 3% of the service.(下線は筆者)
これを読みながら思ったのですが、聖書が占める位置、どの位聖書が大切にされているか、・・・についてカトリックとプロテスタントで簡単に比較は出来ないな、と言うことです。

確かにプロテスタントでは「聖書のみ」が原則であり、「聖書信仰」はよく言われますが、実態についてはタテマエ通りではないこともしばしばあると思います。

プロテスタントの信徒は自分の聖書を持ち、そして礼拝にその聖書を持って行くことはカトリックの信徒より多いかもしれません。

でも果たして一個のキリスト者として聖書を実際に読み、そして自分の信仰と生活にあてはめているだろうか・・・。

《聖書解釈》に関して言えば、プロテスタントの信徒も、多分に「牧師にお任せ」になっているのではないだろうか。

カトリックの側が信徒に「聖書を個人で読む」ことを勧めないのはそれなりの理由があると思います。
それはやはり《聖書解釈》の難しさがあるからだと思います。
それで《教職者》と《信徒》と言う、「教える側」と「教えられる側」に分かれた構図になるのだと思います。

プロテスタントにおいても殆んどの教会で給与が支払われる《教職者》を置くのはそういう理由が大きいと思います。

しかし第二バチカン公会議後、信徒にも積極的に聖書を読むことを勧めるようになったのは、間違った解釈のリスクを認識した上でもなお更なるメリットがあることを認めるようになったからでしょう。

むしろこの情報化社会、ネットでの検索力の飛躍的強化により、単なる聖書知識のことで言えば、牧師の方が不勉強だと「勉強する信徒」にどんどん追い越されてしまう時代になっています。

今回の引用部分から思わされるのは、《教職者》がするにしても、《信徒》がするにしても、そもそも「『聖書解釈』の意義は何か」と言う問いです。

今「聖書」に関し、カトリックとプロテスタントはかなり似た方向性を取っているように思います。
この「『聖書解釈』の意義は何か」と言う問いに対しても、一緒に考えることができるのではないか、そんな時代が訪れているように感じます。

(※次回に続く。) 

2013年7月18日木曜日

(5)福音派のパラダイム・シフト⑥

さてゴードン・T・スミスの『新しい回心』論文を要約・簡訳(簡略な訳)連載後に「個人的所見を述べる」とアナウンスしてきたので、それをここでやりたいのだが、難易度ランクを(5)としたように、かなり長い文章になるのではないか、と懸念している。

確認事項(1)
パラダイム・シフトの参照点が「リバイバリズム」であることについて

福音派のパラダイム・シフト①
スミスが「現在福音派に起こりつつあるパラダイム・シフト」を語る時、その念頭には(19世紀から20世紀にかけて大きな影響を持った)「リバイバリズム」を「参照点」としていることが分かる。

(「福音派はこの『リバイバリズム』を過去のものにしつつある」、がパラダイム・シフト論の基本的認識だ。)

実は『リバイバリズム』に(かっこ)して「信仰覚醒運動」と訳を入れたが、これがなかなか曲者だ。

スミスの念頭にあるのは「19世紀から20世紀にかけて発展・制度化したリバイバリズム」で、先行する17世紀ピューリタニズム、18世紀の(エドワーズやウェスレーらの)『大信仰覚醒運動(The Great Awakening)』とは区別されている。

区別されてはいるが、その歴史・社会的背景の変化には余り言及しないままになっている。
ここに先ずスミスの論述の言い足りない部分があるように思う。(辞典の方では言及しているのかもしれないが・・・。)

簡単にポイントを挙げよう。

17世紀ピューリタニズムは、英国国教会から逃れてきたキリスト者集団による、自覚的に、純粋に、キリスト教信仰を基盤とする共同体形成を目指した運動だった、と筆者は理解している。

このような歴史的文脈で、「回心」はあくまでも信仰共同体を形成するべき「まともなキリスト者」を育成することを念頭にしたものであったと言えるだろう。

宗教改革的に言えば、「教会のノーマリゼーション(本来あるべき姿に戻る)」の一環であり、未信者への伝道や海外宣教はまだまだその視野の中心には入っていなかったと言える。

18世紀の『大信仰覚醒運動』の時点では、ピューリタニズムの理想は崩れ始め、「中途半端な契約」が抱えていた「二世、三世キリスト者を、如何に契約共同体である(明確な回心体験を必要とする)教会員とするのか」という問題が背景になっていた。

その意味で信仰覚醒運動は起こるべくして起こった「教会の内発的運動」、と言う面がある。
20世紀のクルセードに見る様な、一般大衆を相手にした大々的伝道活動のような、(少し語弊があるかもしれないが)「人工的にプログラムされた運動」ではない、と言う点で趣を異にする。
(スミスはそのような歴史的文脈の相違を、それほど意識していないように思う。)

しかし、18世紀の『大信仰覚醒運動』は単に信仰を基盤とする信仰共同体内の問題だけではもちろんなかった。
教会外の社会経済的問題も当然背景にあった。

農業を中心とする第一次産業中心の伝統的社会から、次第に産業構造が変化し、「投機的商人」や「炭鉱労働者」など人口の流動化、大衆化が進み、教区教会(パリッシュ・チャーチ)の外に大量の未信者(unchurched people)を発生させた。

つまり「教会外伝道」と言う新しい伝道ニーズが生まれてきていた。

ジョン・ウェスレーの例を挙げれば、教会(という建物)の枠外にいる労働者大衆に対して、時の英国国教会は最初彼らを「キリスト者化する」する関心も態勢も取れていなかった。

しかし(ジョージ・ホィットフィールドの影響によって)この伝道ニーズに目覚めたウェスレーは、巡回伝道・街頭伝道という革新的働きを強力に推進した。

またウェスレーは、街頭での即興的伝道説教によって大量の「回心」者を作るだけでなく、「回心」した庶民を「組会」と言うスモール・グループのフォロー・アップシステムを通して「信仰の成長」を促し、「救いの完成」へと育成するシステムも開発していった。


またそのような育成システムは単に(霊的)信仰訓練に留まらず、識字教育、教養発展と言う今なら「成人教育」に類するようなものにまで導入・開発されたのである。(ウェスレーはただ回心者を生み出す伝道者ではなく、彼らをキリスト者として育成する牧会者でもあり、そのような育成の仕組みを作り出すオーガナイザーでもあったのである。)

と言う訳で、最初の懸念が当たったしまったようである。
既に長くなってしまった。
とても1回の所見では終わりそうもない。

今回の所見のポイント、「パラダイム・シフトの参照点が「リバイバリズム」であること」、を要約する。

スミスが念頭におく「リバイバリズム」、つまり20世紀に制度化され、普及した「『四つの法則』を用いるような簡略化され、矮小化された回心体験」は、先行する17世紀ピューリタニズム、18世紀の(エドワーズやウェスレーらの)『大信仰覚醒運動(The Great Awakening)』とは単に区別されるだけでなく、もう少し立ち入った比較検討が必要である

これら二つの「リバイバリズム」の比較検討において、
①回心体験の内容、
②回心体験を引き出す伝道(説教)
を取り巻く歴史的文脈に相当留意して「パラダイム・シフト」を主張すべきである。

「教会内vs教会外」の位相が時代を経るにつれて変化してきた問題にしても、教会外に発生した「未信者大衆」の歴史、社会的背景の相違にしても、二つの「リバイバリズム」では「回心体験」の文脈が異なることを視野に入れた「パラダイム・シフト」分析が必要ではないだろうか。

(※個人的所見は更に続く、と言うことになる。読者の皆様、もう少しこのシリーズにお付き合いください。)


2013年7月17日水曜日

母の召天から4年が

7月17日は母、小嶋寛子(旧姓山本)の召天日だ。

早いものでもう4年になる。

子供の頃は天真爛漫だった。(子供誰もみなそうかもしれないが。)

二度のガンの手術の後、最後は緩和病棟で息を引き取った。

最後の方の約1年は抗がん剤の副作用との格闘で大変だった。

やはりいつも傍にいる家族の者としては心理的負担が大きい。

(それが一因で筆者も心身のバランスを崩してしまい、今に至っている。)

筆者の子供の頃の思いでとしては、母に叱られた時のことが一番かな。

普段は温和で優しい表情の人だった。

垂れ目、垂れ眉、八時20分だ。
それが叱るとなると全く形相が変わる。(般若とまでは行かないが。)


子供心にその「表情の落差」にどう対応していいか戸惑ったこともあったと思う。

女学校止まりの教育だったが、聡明さを見て取ったのか、祖父(山本岩次郎)は母に(米国)留学をさせようと思ったことがあるとかないとか・・・。

よく言えば、好奇心旺盛、才気煥発。
しかしあれも手を出しこれも手を出し、最後には収拾がつかなくなる。

整理整頓は苦手だった。
筆者もそれに似て「ずぼら」「適当」「大雑把」。

天真爛漫の一面は、学校の宿題忘れても、あっけらかーんとして(小)学校に行ったという。
筆者もその傾向は丸ごと踏襲し、小学校時代にまともに宿題をやった覚えがないほどだ。

そもそも「宿題とはやるもの」と言う考えがなかったと思う。
少しは良心に痛みを感じたかもしれないが、過ぎれば簡単に忘れたので、毎日宿題をせず登校出来たのだろう。

最後はベッドの上で、改築中の「活水工房」のことを「あーした方がいい、こーしたらどうか」などとスケッチを描いたりしては話してくれた。

実は母がイメージしたもののうち一つはそうなった。工房側(16畳分スペース)長辺に見せ梁が通っているのだが、それが母の描いたスケッチと酷似していたのだ。
(もちろん設計士のアカデメイア今井俊介氏はそのことを丸っきり知らない。)


もう4年なのか、まだ4年なのか・・・。


2013年7月15日月曜日

(1)聖書講座とグルメ情報

巣鴨聖泉キリスト教会は会堂以外に応接室とか小さな部屋とか、そう言った少人数を相手にする施設(部屋)がない。

まー小さな教会だから贅沢は言えない。

以前は「牧師執務室兼書斎」が役員会などに使われていた。

しかし現在は、お隣の空き家を改造した工房(2009年完成)内のティールームが格好のスペースとして使われている。

(現在はこの写真では良く見えないがIKURU DESIGN
Kテーブル2台と、Kチェア6脚が完備している。)

実はこの建物は巣鴨教会のものではない。
と言うことは教会の働きである「役員会」や「聖書講座」などがただで提供されていることになる。

さて「活水工房・ティールーム」の話はそこまでにして、《聖書講座》の話に移ろう。

現在2名の方が受講されている。(個人講座なので2つの講座、と言うことになる。)

Kさんは昨年6月のバザー以来だからもう1年が過ぎた。
大体2~3週間に1回のペースでマタイの福音書をゆっくりと読んでいる。

Hさんとは今年3月から、ほぼ毎週1回、創世記を読んでいる。

ずーっと聖書の話をしているわけではない。
子育ての話や人間関係の話など、実に様々だ。

そんな中で定番は筆者も興味があるのでそう言う話になるのかもしれないが、巣鴨近辺のグルメ情報だ。
Hさんとは毎回情報交換している。

何と言ってもグルメ情報は口コミが信頼できる。

このお二人のグルメ情報には出てこなかったが、筆者がフェィスブックで話題にした鶏肉専門店の「上総屋」

が閉店になってしまった。
あーあ、ここの(鶏ひき肉の)メンチカツ、衣が新鮮でさくっと揚がってておいしかったのに・・・。
残念。


そんな残念な情報に替わって、この前Kさんから最近出来たラーメン店の情報を頂いた。
なんでも行列ができているそうな。
塩ラーメンがお勧めとのこと。


まだ試していないので極秘情報としておくことにしよう。
(試食したらこのブログで紹介するかもしれない。おいしかったらの話だけど・・・。)


と言う訳で、うまく「聖書講座」と「グルメ情報」がマッチできただろうか。


「難しい!」、とよく言われるので、たまにはこんな記事もありかなと思う。


ところでご案内している「福音の再発見読者イベント」、この上の写真にあるティールームが会場となります。
木々に囲まれたコージーな空間です。
是非お越しください。

8月25日(日)、午後2-4時です。
(※一応予約制となっていますので、お早めにお座席確保なさってください。詳細は上のリンクをクリック。)

2013年7月14日日曜日

(4)「カトリックと聖書」②

お待たせしました、いよいよ本論に入ります。

しかし先ず前置き。

このシリーズを最初からお読みでない方は、こちらからお読みください。 
「カトリックと聖書」連載予告
(1)「カトリックと聖書」①

では以下のリンクから引用してまいります。
『信仰年』ーー聖書を取り戻した公会議
 
全文引用掲載許可を頂いたのですが、何回かに区切って《引用》→《コメント》して行きます。
最初はイントロの部分だけ、
 信仰年にちなみ、この連載では、五〇年前に開催された第二バチカン公会議を振り返っています。
 これまで、この公会議がカトリック教会にとって大転換点だったということをいろいろな側面から見てきました。まとめの前にあと二回、大きく変わった点についてもう少し見ていきましょう。今回は、聖書についてです。(下線は筆者)
まず目に付くのは『信仰年』と言うことばだ。

カトリック大司教区「東京教区ニュース」の新連載『信仰年』--信仰年に向けて(2012年5月号)にも説明されているが、「信仰年」は第二バチカン公会議 (1962-65) で導入された「改革方向」を堅持するために教皇からの呼びかけとしてなされたもののようである。

今回2回目となる「信仰年」の呼びかけは、第二バチカン公会議開催50周年を記念してのもの、ということだそうだ。その意義は50年を経て、公会議の存在やその意義を知らない者たちが増えてきた、と言うことが背景の一つにあるのかもしれない。


筆者は特別「カトリック・ウォッチャー」と言うことではないが、間接的にはカトリック内部での「保守派」と「改革派」の綱引きのような力学が働いていて、「第二バチカン公会議開催50周年を記念する」と言うことは、恐らく「改革派」が第二バチカン公会議で導入された路線を風化させない、推進させる・・・と言う意思が働いているのではないかと勝手に想像する。

カトリック教会の近代化路線が次第に忘れられ、その遺産を封印しようと言う勢力(空気)が支配的になりつつある、と感じているグループもあるようだ。
With the passage of time, and now at the fiftieth anniversary of the years of the Council, there is a widespread feeling that the Vatican II legacy is being lost. Even to speak positively about the Council is to incur suspicion in some quarters.Vatican II Voice of the Church HPからの引用)

さてプロテスタントである筆者が注目したのは、当然のことながら、第二バチカン公会議が「聖書」を改革の柱の一つとした点である。
世古編集長の解説がこの後続くのだが、既に1回分の記事分量に達してしまっているようなので、次回へとする。

2013年7月13日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

7月14日(日) 午前10時30分

朗読箇所 マルコの福音書 10:32-45
説 教 題 「贖いの代価」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《キリストの十字架》⑥

※昼食会があります。
※夏時間(通常より10分短縮)です。

2013年7月12日金曜日

福音の再発見、読者イベント

福音の再発見ファンサイトからの転載です。)

 一部の皆様からの熱きご要望にお応えして、関東と関西でイベントを開催します。

福音の発見」をお読みいただいた方(まだ読んでない方も、これから読む予定の方も)集まって「福音の発見」よもやま話トーク(お茶飲み話)しませんか。

いや、私たちは、皆様からの直接のお声を聴きたいです。
ぜひ教えてください。

ところで、発売からまもなく2ヶ月。
予想を超えて多くの方に購入頂き、また色々なところから反応を寄せて頂いています。
誠にありがとうございます。
この場をお借りして、こころよりの御礼を申し上げます。

また、さる6月23日には訳者の中村佐知さんの来日に合わせて、御茶ノ水CLC書店で「出版トークイベント」を出版企画に携わった者たちが中心になり実施いたしました。

今回はイベントとしてはちょっとこじんまりしたミニイベントですが、お読みいただいた皆様、あるいはまだ読んでないけど、ちょっと話してみたい、という皆様とのお茶飲み話大会(いえ、意見交換)の場を設けたいと思います。

今回のイベントの主役は「福音の発見」買ってくださり、読んでくださった皆様でございます。
一応、話のきっかけとしてのミニトーク(10分)もありますけど。

日曜の午後で出にくい時間帯とは存じますが、時間とエネルギーに余裕がある方は是非ご参加くださいますように。

開催会場および時間

1. 神戸三宮の集い
 とき: 2013年8月11日)午後2-4時
     (時間中出入り自由)
 ところ: 神戸市勤労会館 応接会議室 (10名) 

 会名称: スコット・マクナイト研究会
       神戸市勤労会館はこちら
       ミント神戸の東、サンパルの南、中央区役所の隣(三ノ宮駅から徒歩5分)

 ミニトーク::巣鴨聖泉キリスト教会のタカ牧師
          タイトル「福音の再発見」で大事なのは「どこから始めるか」です。
  ホスト::  :ミーちゃんはーちゃん

 お茶飲み話
   その後はお茶を飲みながら自由にチャットチャット(福音の発見関連のお茶飲み話)
   お茶と紙コップ類、簡単なスナックはこちらで用意します。

 ※参加費 一人200円+自由献金(箱入れ形式)
 ※お問合せ kawamukaihajime*gmail.com 

               (*マークを半角の@に変えてください)
          TEL 090-1246-7027 (かわむかい)

2. 巣鴨の集い
 とき: 2013年8月25日)午後2-4時
     (時間中出入り自由)
 ところ: 木工房活水・ティールーム(8名)

       巣鴨聖泉キリスト教会 隣接
 アクセスはこちら

 なにするの: 
  ミニトーク:巣鴨聖泉キリスト教会のタカ牧師
          タイトル「福音の再発見」で大事なのは「どこから始めるか」です。
 
   お茶飲み話
   その後はお茶(持込)を飲みながら自由にチャットチャット(福音の発見関連のお茶飲み話)
 ※参加費、一人500円(お茶とお菓子を用意しております)
 ※お問合せ、sugamo_seisen*yahoo.co.jp

           (*マークを半角の@に変えてください)
        電話03-3946-8035
 
 なおスペースの関係上、1、2、いずれの集いも、準備の関係もございますので、前日までに「出席します」と一声お名前(メールの場合、お名前の読み方のカナ表記)、メールでお知らせいただけると誠に助かります。
ご無理な方はお電話にて承ります。

2013年7月9日火曜日

(3)福音派のパラダイム・シフト⑤

難易度ランキング」導入後6番目の記事です。


(5)福音主義と古代キリスト教の遺産を回復する

現代リバイバリズムに疑問を投げかけたのはキリスト教史家たちだ。
福音主義者たちは自ら進んでキリスト教の全遺産(中世から16世紀スペイン神秘主義も含む)から学ぼうと努めてきた。
あるキリスト教史家たち(リチャード・ラブレイス、マーク・ノル、ブルース・ヒンドゥマーシュ、等)は リバイバリズム前史、特に18世紀信仰覚醒運動に着目した。
トーマス・オーデンやロバート・ウェバーらは、原初期キリスト教会が用いた典礼やカテキズム、使徒教父たちの知恵からもっと学ぶべきだと主張した。

《結語》
これら(1)~(5)に挙げた要素がベースとなって、福音主義者は「回心と救済」を深く再考するようになってきた。

しかしその中でも特筆すべきはレスリー・ニュービギンの存在である。

インドへの宣教師であり司教でもあったニュービギンの神学的思索は、西洋と東洋の交差するところに形成されたものである。

彼は回心とは実に複雑な体験で、単に頭のことだけでなく、倫理や共同体も視野に入れたものであり、精神の一大変革、キリストの支配、洗礼と聖餐による信仰共同体への参与なくしてはあり得ない、と主張する。

ニュービギンの最も根本的な洞察と確信、それは「教会」とは宗教的な商品やサービスの提供者ではなく、「宣教する民」なのだ、ということだ。

集合体としての教会は能動的ディサイプルシップを通して神の国を体現し、神の国の存在を証しする。

だから教会は自己膨張に多大な関心を払うのではなく、教会が置かれた社会や文化と言う具体的状況の中で福音を生きることを目指し、そのようにして神の国を中心に据える。

なぜそのような思考になれるのか。
ニュービギンの考えでは、人はその棲息する共同体の中から得られた特定の理性の伝統を身に着ける、からである。

福音的なキリスト者とは、未だ神を知らず回心していない者たちが、悔い改めと信仰によってキリスト・イエスの許に来ることを熱望する者たちである。

私がここまで語ってきた「大きな変革のうねり」は、何らこのビジョンとコミットメントを変えるものではない。

しかし大事なのは、たとえ“この確信”は変わらないにしても、「四つの法則」、「どうすれば天国に行けるか」を導く質問シート、「これらの証拠は評決を要請する(筆者注:ジョシュ・マクドウェルの有名な伝道メッセージ書)」でさえも、人々が真に回心する決定的ファクターではない、ということだ。
人々が回心するのは、復活して神の右の御座に挙げられた主と出会い、神の恵みを体験することによるのだ。

果たして私たち福音主義者はそのような心の促しに耳を傾け、キリスト中心の礼拝と神の国を目指した宣教に専念できるだろうか。

神の時、神のわざを本当に信頼できるだろうか。

もしそうなら、私たちはより聖霊に信頼するだろう。

恵みの真の手段であり、人を回心に導く「宣べられた」神のことばである聖書に信頼する教会となるだろう。



だから、「どのような教会になるべきか」がとても重要になる。

今まで述べてきた「回心と救済」に関するパラダイム・シフトに直面している福音主義は、今大事な岐路に立たされている。

主にある「会衆」とは一体何か、がとてつもなく重要な問題となっている。

三位一体なる神、神の恵みの手段(聖霊と聖書)、そして「神の国」を目指す宣教論、それらを背景とした《ダイナミックな教会論》を編み出せるか否かが、この一大変革の海を航海する福音主義者たちの進路を決定する鍵となる。

※以上で「福音のパラダイム・シフト」と題して簡略に訳してきたスミスの論文紹介は終わりである。次回、個人的所見を述べて最終回とする。
 

2013年7月8日月曜日

「カトリックと聖書」過去記事に追記

追記した記事は以下のものです。

「カトリックと聖書」連載予告

以上よろしくお願いします。

(1)「カトリックと聖書」①

難易度ランキング」導入後5番目の記事です。

『信仰年』ーー聖書を取り戻した公会議 
とのインターアクションに入る前に、そもそもなぜこの文章と出会ったのか、について書いておこう。

筆者はカトリック大司教区の「東京教区ニュース」(リンク)をたまに覗くことはあっても、別に紙媒体で購読しているわけではない。

実は知人にカトリックの教会員がいて、東京教区ニュースや、その他カトリック教会の印刷物(週報、チラシ、etc.)を、何かで会う時にくださったり、そうでなくても近くを通りかかった時に、ポストにさりげなく入れておいたりしてくれるのだ。

そんな習慣は大分前から続いていて、プロテスタントの牧師である筆者が、通常であればカトリック教会の動向については疎いはずであるのだが、カトリック教会について幾らか明るいのはそのためである。

そんなことで、ネメシェギ神父の講演会に一緒に行ったり、カトリックの神父が書く文章に感銘を受けたりするのであろう。

そういう意味で知人による「カトリック啓蒙活動」の功績は大きいと言える。

先日、6月23日午後、御茶ノ水のCLC書店で持たれた「福音の再発見」出版記念トークイベントに、忙しい中この知人が友人を伴って参加してくれた。

その時例によってカトリック関連の印刷物をまとめてドサッとくださった。

その後しばらく忙しかったのでそれらの印刷物はバッグに入ったままであった。


ようやく少し暇になったので(失礼!)、その印刷物の中から先ず「東京教区ニュース」を取り出して読み出した。

すぐ『信仰年』ーー聖書を取り戻した公会議が面白い、と思った。(何が「面白かったか」についてはこの後の記事をお待ちください。)

とにかくなぜこの文章と出会ったのか、について言えば殆んど「偶然」なのである。

そのまま読まずにいたかもしれない。
もし『信仰年』の別な記事だったら余り興味を惹かなかったかもしれない。

いや偶然で済ますのは乱暴か・・・。

その6月23日のトークイベントに、「『信仰年』ーー聖書を取り戻した公会議」の掲載された最新号である「東京教区ニュース」6月号を持ってくることは、やはり何かの縁なのであろう。(キリスト者的には「神の配剤」とでも言っておけばいいものを・・・。)

更に付け足せば、確かにたまたま目を通して興味を惹いた「『信仰年』ーー聖書を取り戻した公会議」を何かの脈絡でブログで言及することはあったかもしれない。

しかし「全文引用のための掲載許可」を得るために、この文章を書いた「真生会館研究員・同機関誌Vital編集長」の世古淳さんと連絡を取ろうと思いつかなかったら、果たしてこのような運びになっていただろうか・・・。

文章と出会っただけでなく、それを書いた人と出会わなかったら(今のところまだメールを通してであるが)、この「カトリックと聖書」シリーズは生まれていなかっただろう。

※気を揉ませてすみません。ようやく次回から本題に入ります。  

 

2013年7月7日日曜日

(4)リチャード・ボウカム「イエス入門」書評

難易度ランキング」導入後4番目の記事です。もう少し読者の方が慣れるまでこの断り書きを入れます。

既にこの本の2章まで読んだ時点での、「紹介」と「推薦」の文章を書いた。(リンク) 

一応読了した時点で「アマゾン」のカスタマー・レビューに投稿したが1週間以上経っても表示されないので、不採用になったか、撥ねられたのだと思う。(撥ねられたとしたら文章が長すぎたのかもしれない。一応最高1万字までいいはずなのだが・・・。)

と言う訳でその書評をここに掲載することにした。
(いくらか教会関係者向けに、幾分簡略にした書評は「本のひろば」に掲載されることになるだろう。)

****************


 リチャード・ボウカム教授は単なる(狭義の)新約聖書学者ではない。
(狭義の、とは福音書なり何なりのある新約聖書文書だけを微に入り細に入り研究しているような学者の意。)

 キリスト教神学の最重要問題であるキリスト論や宣教論など、広範囲に、そして旺盛に、著作を続けているまことにスケールの大きなワールドクラスの学者である。今回のボウカム教授の来日講演でもその片鱗は遺憾なく発揮されたことは多くの方の認めるところと思う。

 親しみやすい人柄もまた著者の優れた資質で、本書でも初学者に対して平易で丁寧な解説に努めている。


 このコンパクトな「史的イエス」及び「福音書」研究の入門書に貫かれているのはボウカム教授の「歴史家」としての視点ではないかと思う。

 従来の「イエス入門」であれば(と言ってもそれほど類書を読んでいるわけではないが)、「奇跡物語」「たとえ話」「山上の垂訓」と言った項目にまとめられることが多いと思うのだが、この入門書は各章のタイトルを見ていただけば分かるように、「神の王国」の宣教という視点の下にイエスの言行録が納められている。

 つまりナザレのイエスと言う人物の「言葉と行い」を導いた「神の王国」と言うテーマがどのように展開され、最後には彼の死に至ったのか、と言う歴史的出来事の内的論理展開を明らかにしようと努めている様に思う。

 その意味で「なぜイエスはあのような形で死に至る歴史的必然性があったのか」、更になぜそのような死を遂げた「自称」メシアの死後、キリスト教と言うイエスの弟子たちによる運動が成立しえたのか、と言う非常に大きな歴史的問題を射程に入れた、ある意味高度な入門書と言えなくもない。

 (ユダヤ教の一派からキリスト教へと展開するに過程において「復活のキリスト」と「史的イエス」とを明確に区別した上で統合することがかなり決定的に重要であったことを、「目撃者証言」パラダイムから福音書を読む意義として指摘している。179-80ページ)

 この辺読者の方にもそれなりの歴史に対するセンスと言うか関心が共有される必要があるように思う。


 二、三この入門書の興味深い点を挙げてみたい。いずれも彼の専門的研究の成果が反映されているポイントである。

①イエスの死・埋葬・復活(Ⅰコリント15章によれば使徒的福音伝承の最重要事項)に関し、女弟子たちが果たした「目撃者証言」としての重要性をクローズアップしている。

②一世紀パレスチナに生きた「ユダヤ人イエス」を再構成するに当たっての福音書の歴史資料としての信頼性を支持する考古学的・地理情報的資料を(小さな入門書という制約の中で)駆使している。

 最後に一点だけ「日本の読者」に興味深いこととして挙げれば、178ページに遠藤周作の『イエスの生涯』に言及している。復活に懐疑的な立場から、「弟子たちがイエスは復活した」と信ずるには、何かとても衝撃的な体験があったに違いない…と言うアプローチの一例としてであるが。


 さて最後に簡単に本書の推薦を。

 総合的には大変優れたイエス入門書と言えるだろう。

 どこぞの国では「○○○なキリスト教」などと言う本が30万部を越す売れ行きだったとのこと。しかも一部の教会やミッション系学校ではこの本が「キリスト教入門」だか「キリスト教概論」だか、そんなクラスの教科書に選ばれたのだと言う。(もしそうだとしたら、何とも嘆かわしい状況、と個人的には思わざるをえない。)

 「キリスト教入門」の王道は、やはり歴史のイエスと真正面から立ち向かい、イエスの(公)生涯における宣教と、イエスの十字架の死と復活の出来事の意義とを、その後のキリスト教が歴史的に成立していく根拠として見定めることではないかと思う。

 本書は簡潔ながらその課題に応え、読者を更なる探求へと誘うだろう。

 冒頭の「日本の読者へ」には、本書が初学者にも上級者にも読めるように配慮した旨が書かれている。

 しかし筆者の実感では、初学者にとっても、たとえ教会に通う敬虔なキリスト信者にとっても(むしろそのことの故にかもしれないが)、このような歴史家による大胆な太い線と時折見せる詳細な線による「イエスの素描」は、しっかり腰を据えて読まないと消化できないのではないか、と思われる。

 読者の集中力が要請される。
 しかし見返りは大きい。それは上級者にも当てはまる。

 タイトルから「この本は簡単な入門書」と誤解しない方がいい。価格は1,995円だが、たっぷりおつりが来るほどの専門的な情報・洞察がちりばめられており、(分かる人が読めば)読みながら、まるで宝物探しをしている感がするだろう。

 キリスト教には関係ない、と思っている一般読者には特にお勧めである。

 この本は適当に書かれたイエス入門でも、キリスト教入門でもない。語り口は穏やかで、文章の調子は抑制が利いているが、世界一級の聖書学者、原始キリスト教史学者がイエスについて、キリスト教について投げ込んだ直球である。しっかりと受け取ってみて欲しい。

 ボウカム教授はフルスペックの大変整ったご自身のHPをお持ちである。
 是非参照して欲しい。
 

2013年7月6日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

7月7日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 14:15-31
説 教 題 「慰めと力」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。
※夏時間に入ります。(通常より10分短縮)

2013年7月5日金曜日

「カトリックと聖書」連載予告

カトリック大司教区の「東京教区ニュース」(リンク)に『信仰年』についての連載があります。

たまたま知人から「聖書を取り戻した公会議」掲載号を頂き、興味深かったのでブログで取上げようと思いました。

文章を書いた、 世古 淳(きよし)さん《プロフィール》と、世古さんを通して「東京教区ニュース」の編集担当の神父さんから全文掲載許可を頂いたので、『信仰年』ーー聖書を取り戻した公会議  (2013年6月)について何回かに分けてインターアクションしたいと思います。

聖書に関すること以外も、第二バチカン公会議をめぐるカトリック教会内の動向や変化は、カトリック以外の、例えばプロテスタントの方々にとっても知ることは大変有益だと思いますので、どうぞご覧ください。

リンクをまとめておきました。各月号とも全部の記事が同じページに掲載されていますので、左側コラムから『信仰年』の見出しを見つけてクリックしてください。


『信仰年』はじまる (2012年11月)
『信仰年』ーー古くて新しい教会理解1 (2012年12月)
『信仰年』ーー古くて新しい教会理解2 (2013年1・2月)
『信仰年』ーー第二バチカン公会議とマリア (2013年3月)
『信仰年』ーー「ひとつのキリスト教」にむけて (2013年4月)
『信仰年』--他宗教に向きあう教会 (2013年5月)
『信仰年』ーー聖書を取り戻した公会議  (2013年6月)
『信仰年』ーー世界とともに悩む教会 (2013年7月)


世古淳さんから(筆者が)見落としていた連載の前部分がある、と言うことで《追記》させていただきます。(「たぶん、プロテスタントの方から見たら面白い(?)記事かもしれないので、よろしかったらそちらもご覧ください。」とは真正会館・機関誌、Vitalの世古編集長の言。)

『信仰年』ーー第二バチカン公会議とは? (2012年8月)
『信仰年』ーー50年前に変わったミサ (2012年9・10月)

(以上、追記分は2013年7月8日)

では来週から開始します。
ご期待ください。

2013年7月4日木曜日

(5)ポストモダンと教会

難易度ランキング」導入後3番目の記事です。もう最高難度が出てきちゃいました。 

ポストモダンって何?

というところからスタートしなければならない方は余り深入りしない方がいいかもしれません。
大変ややこしい(モダンとそれ以後の)線引き問題が絡んできます。

筆者としては「ポストモダン」とはそもそもなんぞや・・・みたいな「ポストモダン入門」は余りお勧めできません。かなりおつむをこき使うことになると思うからです。

それよりも身の回りの状況がどうなっているか、一応「近代(モダン)の指標」で反省してみることが有効ではないかと思います。

近代の指標:啓蒙主義の理念(自由・平等・博愛)、理性主義、合理主義、資本主義、民主主義、などなど。

今日紹介するのは、「教会にとって『ポストモダン』とはどのようなチャレンジなのか」を一神学者がどのように把握し、どのように解決の糸口を模索し、その一つ解決案を提案しているか、という論文(ブログ記事)です。

結構長い文章なので、ある程度英語を読み慣れている人でも、そして神学的蓄積がある人でも、一気に読み通すには少し忍耐が必要かと思います。

と言うことで先ずリンクをば。

Robert W. Jenson, "How The World Lost Its Story"

後は筆者がアンダーラインした場所を引用していきます。
引用だけです。

また余裕が出た時、コメントを残したいと思います。あしからず。
The story the Bible tells is asserted to be the story of God with His creatures; that is, it is both assumed and explicitly asserted that there is a true story about the universe because there is a universal novelist/historian. Modernity was defined by the attempt to live in a universal story without a universal storyteller.

The obvious answer is that if the church does not find her hearers antecedently inhabiting a narratable world, then the church must herself be that world.

[t]he church had to save her converts by offering herself as the narratable world within which life could be lived with dramatic coherence.

[t]he first step: it must recover the classic liturgy of the church, in all its dramatic density, sensual actuality, and brutal realism, and make this the one exclusive center of its life.

If the church is not herself a real, substantial, living world to which the gospel can be true, faith is quite simply impossible.
Protestantism has been modernity’s specific form of Christianity. Protestantism supposed that addressees of the gospel already inhabited the narratable world in which stories like the gospel could be believed, and that we therefore could dismantle the gospel’s own liturgical world, which earlier times of the church had created.


What is said and enacted in the church must be with the greatest exactitude and faithfulness and exclusivity the story of creation and redemption by the God of Israel and Father of the risen Christ.

Therefore, when hope in progress has been discredited, modernity has no resource either for renewing it or for acquiring any other sort of hope. The mere negation of faith in progress is sheer lack of hope; and hopelessness is the very definition of postmodernism.

The assembly of believers must therefore itself be the event in which we may behold what is to come.
 

[i]t is precisely a promised chief mark of the Eschaton that accurate hearing will then be accompanied by glorious sight. And in this age, the church must be the place where beatific vision is anticipated and trained.
 

If we are in our time rightly to apprehend the eschatological reality of the gospel promise, we have to hear it with Christ the risen Lord visibly looming over our heads and with His living and dead saints visibly gathered around us. Above all, the church must celebrate the Eucharist as the dramatic depiction, and as the succession of tableaux, that it intrinsically is.
と言ったところです。

お暇があったら、そしてこのトピックに関心があったら味わってみてください。

(3)福音派のパラダイム・シフト④

難易度ランキング」導入後2番目の記事です。

引き続き、ゴードン・T・スミスの論文、 The New Conversion: Why We 'Become Christians' Differently Today から要約・抄訳します。

(3)他の神学的伝統との相互受粉効果

福音主義に立つ神学者たちが異なる神学的伝統や立場に立つ神学者たちと、積極的かつ批判的に対話するようになってきた。
それによって「回心」、「救済」理解の幅が格段に広がった。

そのような変化をもたらすことに影響の大きかった神学者たち:
正教会・・・アレクサンダー・シュミーマン(Alexander Schmemmann のスペルはAlexander Schmemannの間違い。)、ジョン・ジズーラス
ローマ・カトリック・・・イブ・コンガー、カール・ラーナー、ハンス・ウルス・バルタザール、バーナード・ロナーガン、バーナード・ハーリング、ローズマリー・ホウトン(Rosemary Haughton
プロテスタント主流派・・・カール・バルト、ディートリッヒ・ボンヘッファー、ジョージ・リンドベック、他多数


(4)グローバル化とカリスマ派の伸張

福音主義は今やグローバル化し、マジョリティーは西洋外世界で占められている。
その中でも20世紀に起こったペンテコステ派/カリスマ派運動から派生したグループが顕著である。

クラーク・ピノックのようなカリスマ派に理解のある神学者は、聖霊の働きを重視するグループの活躍は、回心理解の再考とともに教会のいのちと宣教理解にも大きく関わってくると指摘する。

福音主義のグローバルな広がりによって、回心体験は社会的、経済的、エコロジー的問題とも関連されるようになった。「真正な回心体験」を目指す聖書神学は今やこれらの要素と取り組まざるを得ない。

回心体験は、単に個人的で主観的なものに終始せず、平和や正義の問題、貧困問題など社会と具体的に関わる文脈でも表現されなければならない。

※以上。個人的所見は最終回に譲るが、(3)で挙がった神学者の名前は殆んどは著名だが一部はまだ良く紹介されているとは言えない。

名前を列挙されるだけでは、彼らの神学のどこが「回心」と「救済」理解再考に関わってくるのかはよく分からない。


  

2013年7月3日水曜日

ブログ開設3周年

7月3日はこのブログの定点観測の日だ。
今年も過ぎし一年を振り返ってみたい。

昨年と比較すると投稿数は多少減った。
昨年末からの「冬眠」の影響が大きい。
4月過ぎになって冬眠明けになり、ここに来て大分挽回している。

現在は書くテーマはいろいろあっておっつかないほどだ。

「主に神学ブログ」は相変わらず適当なものを探すのが難しい。
我慢強く探し続けるしかない。

さて軽く数字でのまとめをしておこう。

①総ページビュー・・・83,800を越えたところ。
この一年で28,400増えたわけだ。
(昨年の増加数と比較すると5000位減少。冬眠の影響が大きい。)

月平均で2,367、日平均78は結構少ないなー。
ただ6月は4,500越え。過去月間最高だ。

②人気投稿
昨年は二位に『牧師と言う職業』だったが、佐藤優『キリスト教神学概論』が抜いた。

左の表示では、10位が『福音の再発見発売』となっているが、『ハーメニューティックス』の方が多いので表示に間違いがあるようだ。

最近の投稿では『リチャード・ボウカム「イエス入門」』がほぼ300でもしかしたら10位に近くなるかも。

さあ、また新たな一年が始まるわけだが、現在のエネルギー・レベルを保てれば何とか継続できるだろう。

『難易度ランキング』を導入したが、それだけではダメだ、との声も聞いている。
もっと読みやすくせよとの叱咤も受けている。

曰くもっと対話的な文章。
読者と対話しているような文章。

要求は高い・・・。(苦笑)

2013年7月1日月曜日

(1)相互理解するためのコトバ



難易度ランキング」導入後初投稿記事です。
なるべく簡単なものをと思って、昔筆者が勤める(現在も勤めています)東京YMCA山手コミュニティセンターの「わいわいニュース」に書いたものを引っ張り出して、ここに紹介しましょう。

世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとってわたしは外国人であり、わたしにとってその話し手も外国人であることになります。…しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。(コリント第二14:10,11,19、新共同訳)



パウロが手紙を出したコリントというギリシャ都市にあった教会には「異言」の才能に恵まれた者が多かったようだ。「異言」についてはやれ人間離れした天使の言葉のことだ、とか、今で言うマルチリンガルのような状況だ、とか諸説があるが今はそれは置く。
とにかくこの「異言」によってコリントの教会の人間関係に波風が立っていた。人間恵まれすぎても問題は起こる。特に「言葉・コミュニケーション」に端を発して「よそ者意識」が芽生えるような問題はやっかいなものである。
英語で「コミュニケーション」と共同体を表す「コミュニティー」とは同じ語根を持つように、パウロには言葉による意志の疎通は単なる情報伝達だけでなく、心が通い合うような共同体の形成にまで影響してくるものだ、という洞察が含まれていた。
外国語学習者にとっても単なる「ペラペラ」(「異言能力者」)を目標にするより、もっと違った到達点が「五つの言葉を語る方」にはあるのではないか、と思わされる。

以上、果たして「難易度」判定を(1)としたが、(2)くらいに感じられた方もおられるかもしれない。