2015年5月30日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年5月31日(日) 午前10時30分
朗読箇所 使徒の働き 17:22-31
説 教 題 「義をもって世界をさばく」
説 教 者 小嶋崇 牧師

教会史遡行(4)
 メソジスト教会と教派主義(デノミネーショナリズム)

  ・・・フランシス・アズベリー(1745-1816)

(フランシス・アズベリー) 
 
(第2次信仰覚醒運動がスタートしたとされるケンタッキー州ケーン・リッジでの野外集会)

2015年5月29日金曜日

(5)『アポカリプス(黙示)』と『終末』

今年2回目のライト読書会(案内ガイド1ガイド2)のテーマがアポカリプス、と言うことで少しランダムにあれこれ書いてみます。


課題論文は"Apocalypse Now?"(1999年)となっていますが、アポカリプスはご存知ヨハネの『黙示録』のギリシャ語名ですね。

フランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』(1979年)の原題 Apocalypse Nowにかけているわけでしょうね。


課題論文"Apocalypse Now?"は「千年紀末」を迎えて「世の終わり」っぽい言説に溢れてきたところで書かれたものです。

何しろ元はと言えば聖書が出展となっていることですから、聖書学者としては放置できない、と言うことでしょう。


Apocalypse Now?からピックアップすべき点を二つほど挙げてみます。

(1)『リタラル(文字通りな)』と『メタフォリカル(比喩的な)』の区別
※カタカナ表記では『リテラル』とするらしいが

 一応の説明はガイド1を見ていただくとして、「what is literal and what is metaphorical」と言うことなのですが、これがなかなか説明するのがやっかいなのです。

 アポカリプティックに関する例で言えば、「空中で主と会う」(第一テサロニケ4章17節)や、黙示録の「千年王国」が挙げられます。

 リタラル/メタフォリカルの区別はあくまで解釈における第一段階で、実際はもっと複雑な考察が必要とされると思いますが。

 ビブリシズムの問題とも絡みますが、単に文学的表現としてのリタラル/メタフォリカルの区別の問題を越えた「大きな聖書解釈枠」の影響があると思います。

 神の啓示の書としての聖書は、その「普遍的真理性」の前提から、リタラルで常識的な解釈が優先される傾向があること。

 このある意味「決め付け」傾向は、聖書と言う複雑な言語・文学表象を持つリアリティーを「平板に」(そして一律に)解釈する方向に行きやすい。

 換言すれば聖書の文学的複雑性、言語表現の多様性を犠牲にしても、信じ従うべき(命題的)真理形式に置き換えられやすい、と言う問題を生む。

 この「決め付け」傾向の問題に一層拍車をかけたと思われるのが、啓蒙主義以降の「合理主義」との対決。

 人間の「理性」に対抗して「聖書の権威」を強調することによって、必要以上に「科学」に対する聖書の「エピステモロジカル」な優位性を主張することになった。(「特別啓示と一般啓示」の立場から、「信仰対科学」に変わって行った。)

 「創造論」対「進化論」における「六日創造」説は、文学的表現としてのリタラル/メタフォリカルの区別と言うよりも、科学説に対抗するために押し付け(結果歪め)られた「解釈枠」と見ることも可能と思われる。 
 
(2)『黙示(表現・文学)』と『終末論』との混同

 先ず認識に挙げておくべきは「黙示」と「終末」は同じことではない、と言うことではないかと思います。

 黙示(英語はrevelation)とは、端的には、「今まで隠されていたものが明らかにされる」ことです。

 簡単に言えば、新約聖書は旧約聖書が「終わりの日」に起こるであろうと預言していた事柄が、イエス・キリストにおいて実現したことを主張(宣言)するものです。

 その意味で最も中核的な「黙示」的出来事は、イエスの十字架の死と復活、昇天・占座、聖霊降臨、と言えるでしょう。

 しかし、これら一連の出来事は(旧約)聖書の視点からはみな「終末」に属するものでありながら、ナザレのイエスに特定した歴史的出来事としてはその終末性が多くのユダヤ人には明らかではなかった。

 「メシヤの死」がある意味逆理的に「神の義」を啓示した、と主張するのがロマ書であり、その他のパウロ書簡も含め、使徒書簡は「イエス・キリストの出来事」の終末性を噛み砕いて明らかにするもの、と言うことが出来るでしょう。

 しかし、「新天新地」「万物の更新」、つまり「終末」の事柄のうち、「未だ(Not Yet)」に属する事柄、まだ将来に残されている「終末」の事柄があります。

 ここに所謂「キリストの再臨」とそれに伴う事柄が関わってきます。

 上掲、(1)『リタラル』と『メタフォリカル』の区別、の例で挙げた「携挙」や「千年王国」です。

 ところが、再臨、携挙、千年王国、は既に成就した終末の出来事である「イエス・キリスト」の死と復活に「碇を繋」いで展望すべき事柄なのに、どうも「預言/予言の成就」式に「世界史の動向(特にイスラエル国家)」と絡めて追尾し、一喜一憂する傾向が後を立たないようなのです。

 (と、これはかなり個人的な見解かもしれませんが。)

 例えばヨハネの黙示録の破滅的なシナリオを「世の終わり」の出来事として(一方的に)強調する傾向は、ライトが指摘するように、新約聖書を出展としますが、新約聖書の世界観とは異なるものです。

 いわゆる「アポカリプティシズム」は、多分に悲観主義、二元論的思考に影響された逃避主義に特徴付けられ、一つの世界観として整理されうるものです。



《附記ー個人的な回想と感想》

 筆者の属する教会は中田重治が牽引した「日本ホーリネス運動」の流れにあるが、その神学的遺産である『再臨(四重の福音)』や前期千年王国説的歴史的展望や関心(イスラエル国家)とは余り関わりがなかった。

 しかし間接的に「再臨近し」的な言説は聞かれたこともあった。

 昨年ある会話で、「最近、教会内で再臨のことが取りざたされることが殆ど無くなった印象を受けるのだが、どうだろう」と持ちかけたことがあった。

 知人の中にはディスペンセーショナリズムの影響下にあった者たちも結構多い。

 と言うことは日本の教会では、アポカリプティシズムがもたらす影響は現象的には表舞台から姿を消しているように見えるが、そのような「世界観」の要素が消えたわけではない。

 世間では依然として「アポカリプティック・サウンド」とか「世の終わり」とかの「世紀末」を匂わせたり、煽ったりするようなものがサブカル的にも流通しているようである。

※[追記・・・2015/5/30] 適当にサブカルと書いたが殆ど詳しいことは分からないのだが、今日たまたまこんな記事をヒットした。ここまで来るともう何と言ってよいのやら・・・唖然。これだと牧師自らが仕掛け人になっている。これこそもう「世の○○り」みたいなものではないか。

 つまり、「終末」に関する整理されたクリアーな思考との取り組みが始まったわけでも無さそうである。

 今度のライト読書会は、そう言う意味で、「健全な神学(終末論)」を目指す藪漕ぎのようなものではないかと思っている。

2015年5月25日月曜日

(3)昨日の説教からーペンテコストと異言

昨日、5月24日は、今年のペンテコストでした。

(※昨今の多文化主義のマナーで言うとシャブゥオトも。)

朗読箇所: 使徒の働き2:1-13
説教題:「御霊が話させてくださるとおりに」
アウトライン:
 I. 天が開け、家の扉が開かれ、口を開く
 II. 言語と文化の壁
 III. 証人と証言
注目聖句:

 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒言行録2:4、新共同訳)

 They were all filled with the holy spirit, and began to speak in other languages, as the spirit gave them the words to say. (KNT)

といった概要なのですが、礼拝後の会話でこんな感想を聞くことができました。
ペンテコステの出来事で「tongues」とあるのを、今までずーっと(ペンテコステ系の方々の言う)異言だと思っていました。
でも「外国語」、(離散のユダヤ人たちにとっての)「母国語」だったんですね。
この感想、つまりペンテコステ/カリスマ系の特徴とされる「異言体験」については実はそれほど意識していなかったので少し不意をつかれた気がした。

それで少し会話をした。

共に「異言体験」を持っていない同士なので、そもそもペンテコステ/カリスマ系の方々が主張する「異言体験」と、ペンテコステの出来事とが、どう密接に関わるかどうかはさておいて以下の二点を確認した。

(1)ペンテコストの日に弟子たちがしゃべった言語は、その日五旬節に集まっていた離散のユダヤ人たちにとっては「母国語」であり、弟子たちにとっては「外国語」であった。どちらにしても「分かる言葉」であって(「異言体験」を持たない者が想像する)「意味の分からない音の羅列」としてのイゲンではなかった。

(2) 新約聖書(特に使徒の働きとコリント第一)の視点から言うと「異言」は否定すべきではないが、(集会の意味で)教会においては「秩序」と「理解」に従う賜物である。

筆者の中では一応整理が付いていることなのだが、結構長い信仰暦のある方が今頃になって「開眼」したかのように話されたことで、改めて聖書を読む時の「規制枠」(既成枠といってもいい)の問題を思った。


ついでに付言すると、この日はメソジスト運動の始祖ジョン・ウェスレーがアルダスゲート街集会で「福音的回心」体験をした日でした。

説教では、キリスト者としての信仰が他のキリスト者によって信仰が補強されることを通して「証人」として整えられる生きた例として
 (1)アポロ
 (2)ジョン・ウェスレー
を取り上げました。

アポロは信徒伝道者プリスキラとアクラによって(使徒18章24節以降)、ジョン・ウェスレーは「モラヴィア派」と「ルター」によって、それまでの信仰が補強され、その後の伝道に結実しました。


今朝、以上のことを受けて、「聖霊のバプテスマと異言」と言うテーマで少し思索を始めたところです。



2015年5月23日土曜日

明日の礼拝案内

ペンテコステ主日礼拝
 
2015年5月24日(日) 午前10時30分


朗読箇所 使徒の働き 2:1-13
説 教 題 「御霊が話させてくださるとおりに」
説 教 者 小嶋崇 牧師

2015年5月22日金曜日

(5)タカ牧師のセブン-2

シリーズ最初のセブンからしばらく経ちました。

まだしばらくは「フォルダ」にたまったものが中心になると思います。

と言うことは前回ほどではないですが、少し古い記事もあると思います。

そんな前置きで始めます。


1. The 10 Most Influential Churches of Last Century
  『最近100年の教会トレンド・トップ10』

 CT誌が、過去百年、教会の中での「目立った動き」を10選び出して解説しています。

 時系列で見る教会史よりも、ざっくりトピカルに概観できるので、英語が苦手な人にも読みやすいかと思います。
 スコフィールド聖書、ヨイド純福音、カルバリー・チャペルなどが入っています。

2. Is the Gap Between Pulpit and Pew Narrowing?
  『聖職者と信徒の溝は埋まってきたのか』

 仕事の意義を語る説教によって、信徒はどれだけ自分たちの職業を積極的に見れるようになっているか、をリサーチして記事にしています。

3. 7 Thoughts From A Chronically Unhappy Person
  『常習うつ人間が思った七つのこと』

 作家さんらしい女性が、常駐するうつ症状を報告しながら、対症療法やアドバイスについてエッセイ風に書いています。

4. 「クリスマスと正月が同居する日本」に世界の宗教家が注目! 寛容の精神に見る、宗教の本質とは

 TEDxkyotoの読み物版。京都の僧侶が、日本の混淆宗教事情を「寛容の精神」、と逆手にとって「世界に発信しよう」と頑張っています。

 「8時だよ! 神さま仏さま」と言うラジオ番組も宣伝しています。

 最近はテレビ朝日の「ぶっちゃけ寺」も話題になっていますね。

5. ドイツ哲学者三島憲一氏「東電に骨抜きにされた日本国民」

 筆者の関心領域から言うと、ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスの著書を翻訳していることで有名な三島氏。

 福島第一原発事故後まもなく、独ツァイト紙に発表された記事をこのブロガーがボランティアで翻訳したもの。

6. On Not Being Funny In Japan
  『日本ではなかなかジョークが通じない』

 文化の違いでもジョークは難しいものの一つ。どのようなジョークがどの程度通じるか、分析しながらアドバイスしています。

 読み方によっては、日本人の気質についての文化論入門みたいなものか・・・。

7. I Ghostwrote Hundreds of Chinese Students' Ivy-league Admissions Essays
  『私は中国人留学生のアイビー校入学審査用論文を何百と代筆しました』

 本当だとすると、何かひどいですね。「裏口」からコソコソと言うより、お金にまかせてガンガン中央突破、といった印象を持ちます。

 経済格差の問題も背景にはありそうなので、現代の縮図として読めるでしょう。


以上でした。


2015年5月21日木曜日

(5)中野晃一教授講演会

こう言うタイプのものは、どんどん記憶から失われるので、早いとこアップしなきゃと思って・・・。

そう言うわけで内容については「旬」がいのちと思ってください。


中野晃一教授は現在上智大学に所属。

専門は政治で、現在は日本に集中しているようだ。


東大での公開講演会は英語で行われたもので、多分40人くらいはいたと思う。

New Right Japan: The Neoliberal Path to Illiberal Politics
『日本のニュー・ライト新自由主義から非自由な政治へ』

と訳してみたが専門用語は知らないのであくまでいい加減。


大体が二つの理由でこの講演に行ってみることにしたのだ。

一つは、英語でなされる講演ということで、日本人の教授がどの程度の英語を操るのか興味があった。

二つ目に、聴衆はほぼネイティブだろうと予測して、よりフランクな内容を期待できると思った。

以上の二つの期待とも満たされた。


 (1)戦後レジーム(1955年体制)の崩壊過程を3段階に分けて現在の「ニューライト」まで辿る『大きなピクチャー』を提示し、キーワードを使って大づかみな分析。

 (2)詳細をQ&Aで補う。

と言う形式で、ほぼ1時間半近くを費やした。

短時間だが実入りのいい講演会だった。


中野教授の英語は専門用語だけでなく、普通の表現もレベルの高いものを苦もなく操っていて、十分ニュアンスを出していた。

分析内容においては、専門家からは「データ分析に基づくトレンド分析が足りないのではないか」的なことを言われていたが、やはり大きなピクチャーを軸に現在の政治動向(右傾化とその性格)を指摘していただく方が、素人には分かりやすかった。


講演のアウトラインは専門用語も含むので簡単に書いても間違うだろうから省略する。

Q&Aの部分も含め、素人なりに拾えたポイントを幾つか挙げてみると:

 ・「インタレスト・ポリティックス」から「アイデンティテイー・ポリティックス」へのシフト

 ・1955年体制以降の政治分析で重用されてきた(加州大バークリー校だと思う)チャルマーズ・ジョンソンが最早効かなくなってきた、みたいなこと。

 ・日本会議がスタートした1997年は重要

 ・二大政党制の失敗や総評、日教組などの無力化、政治家の世襲化、などが合わさって政治が寡頭政化し、権力のチェックが出来ない危ない状況が出来つつある。

 ・戦争できる体制作りは、憲法を骨抜きにするいわばクーデター的に出来つつある。

 ・ライバル政党のいない状況で、メディアは長期政権を批判しにくい、官僚は法案を通す千載一遇のチャンス・・・と協同的な態勢が出来てしまう状況。

この他、「特定ヒミツ保護法」や「慰安婦」「ヘイトスピーチ・嫌中国・嫌韓書籍が公然と並べられる書店」など、現在の右傾化の状況についてコメントがなされた。


いやー、あっという間の1時間半だった。

《追記》
思い出した。せっかくだから書き足しておこう。

「ネットウヨ/ヘイトスピーチ」関連の質問への回答で。
質問は「年齢層」に関してのものだったが、社会科学的な統計に基づくリサーチが足りない現状を指摘していた。

「民主党の失敗」
がもたらした二大政党制と言う「実験」へのダメージを、何度か「トラウマ」と言う表現を使って指摘していた。官僚に与えた影響の大きさ。

「慰安婦問題」
質問の細かなニュアンスは忘れたが、2014衆院選時の自民党のマニフェストに記載されている文言が「クマラスワミ報告」を受けてのものであるだろうことを指摘していた。

今朝になってそのことを思い出し、検索してみたがこれのことのようである。

虚偽に基づくいわれなき非難に対しては断固として反論し、国際社会への対外発信等を通じて、日本の名誉・国益を回復するために行動します。
へー、自民党のウェブサイトはこうなっているのか・・・というのが感想。

2015年5月17日日曜日

(5)リチャード・ヘイズ日本講演、3

最初に整理しておきます。

東京説教塾が主催した、2015年4月27日(月)に、キリスト品川教会で持たれた、デューク大学神学部神学部長リチャード・ヘイズ教授の二回の講演についての報告をしています。

今回で東京説教塾分が終わり、その後立教大学キリスト教学研究科での公開講演を報告します。

※講演後に知ったのだが、リチャード・B・ヘイズは、来年神学部長を辞し、サバティカル休暇後教授に戻るとのこと。デューク大学ウェスレー/メソジスト研究者マドックス教授が次期学部長選対委員会を率いる。(デューク大学広報


ヘイズ日本講演、1・・・「信仰のまなざしをもって聖書を読む: 神学的釈義の実践」の前半
ヘイズ日本講演、2・・・「信仰のまなざしをもって聖書を読む: 神学的釈義の実践」の後半

そして、今回「日本講演、3」は、「この世界を覆す:よみがえりを説教する(Turning the World Upside Down: Preaching Resurrection.)」について報告します。

どうやら下になっているテキストは、
Chapter 14. The Resurrection of the Body: Carnis resurrectionem (Roger E. van Ham, Exploring and Proclaiming the Apostles' Creed, pp.260-272)
のようです。

タイトルから分かるように、使徒信条についての本です。

目次を「グーグル・ブックス」でご覧くださると分かりますが、信条の各項目ごとに寄稿者が「解説」と「説教」を書いています。

ヘイズは「からだのよみがえり」の「解説」の方を担当したわけです。

出版年は2004年ですから、少し古いですが、今回のテキストはそれを大きく2点改変しているようです。

(1)「からだのよみがえり」の理解を困難にする「復活」の概念を解説する部分がイラストレーションを入れたりして拡張しています。


上掲書では、By raising the man Jesus、で始まりますが、今回のテキストにはテッド・ウィリアムスと言う有名な野球選手が遺書に残したと言う、「死後身体蘇生」についてのエピソードが冒頭に置かれています。
(ヘイズが言及したボストン・グローブの記事ではありませんが、それから10年後のこの記事にも遺体の冷凍保存などについての経緯が書かれています。)

実際にテキストがないので比較はできませんが、「復活」概念に対する理解の混乱は、
 (A)一方でキリスト教会の中に連綿として受け継がれてきた「死んで天国へ行く」式の非身体的(たましいだけの)永世観があり、
 (B)もう一方では科学的世界観から来る「物質主義」の影響がある、
と指摘します。

※あるいはヘイズはこの時点では、N. T. ライトの、The Resurrection of the Son of God (2003)、はまだ読んでいなかったのかもしれません。

※ちなみに、この講演後の質疑応答でのことですが、復活の身体性についての質問と応答(ヘイズは第一コリント15章の『肉の体』と『霊の体』の対比も使って説明しようとしたが、通訳もポイントを拾いきれなかった印象)後、聴衆に向かって、Do you know N. T. Wright, his Surprised By Hope?と問いかけ、(ほぼ無反応の聴衆に向かって)It needs to be translated.とアッピールして、この辺の理解の混乱に関しては、ライトと彼の復活に関する本が必読であることを指摘した。 

(2)復活の行動化
上掲書は「説教」が別に組まれているので、「解説」までで終わっているようだが、今回のテキストは「実践」として「復活」を教会としてどのように「行動化」するか、と言う課題と取り組んでいる。

最初にウェンデル・ベリーの「Manifesto: The Mad Farmer Liberation Front」と言う詩の最後の部分を引用する。
As soon as the generals and the politicos
can predict the motions of your mind,
lose it. Leave it as a sign
to mark the false trail, the way
you didn't go. Be like the fox
who makes more tracks than necessary,
some in the wrong direction.
Practice resurrection.
ベリーのゲリラ的と言うか、対抗的と言うか、抵抗運動の実践を「復活行動化」と意味ありげに呼んでいるもののニュアンスを、ヘイズは以下のような『(復活と言う将来的なものを今に)体現化』するものとして:
 1. 平和作り
 2. 持ち物の共有
 3. 和解の食卓
を提案する。


これらの復活に基づく(規範習慣的)行動(practices)は、(主に)使徒の働きのナラティブから、「対抗的共同体」の性格として位置づけられる。

論述しないが、ジョン・H・ヨーダーの『社会を動かす礼拝共同体』倫理学に、ライトの「新創造」を付加したような味わい、と言った印象のものだ。


まだまだ「試論」あるいは「素描」の印象だが、(恐らく)ヨーダーやハウアーワスらの倫理学的洞察を透過しながら提示されたこれらのシンプルな「習慣」が、復活を体現する教会としてのアイデンティーティー・マーカーとして『現実』に切り込んで行く時に、その真価を発揮する・・・ということのようだ。 



余り助けにもならない報告かもしれないが、今回はここまで。 

2015年5月16日土曜日

(1)小嶋家のルーツを探るー2

 小嶋家のルーツを探るー1では、旧小嶋商店跡と小嶋荘跡のことを書きました。

 こちらはほぼ一時間ほどで目的達成。

 少々あっさり終わってしまい、まだ昼飯まで時間があると言うことで、近所の清澄公園/庭園に立ち寄ることに。

(清澄公園)
清澄庭園は間に一本道を挟んで清澄公園と分かれていて、最初公園の方に入ったのだが、この日は陽射しも結構きつく、暑くも感じ、木陰が欲しくなる感じでした。

(左手に中村高校、右手に大正記念館)

 庭に入るとすぐこの大きな建物があります。大正記念館といって、父の思い出としては改革派の記念集会の会場となったそうな。



 清澄庭園は、六義園と同様、岩崎弥太郎が造ったもので、特に清澄庭園の方は「全国から集めた名石」が置かれています。

 なんでも曽祖父の亀松はこの岩崎弥太郎を尊敬していて、それが縁で石を愛好し、それで自分も庭石を置くようになったのだとか。

 おかげで筆者もそんなこと知らずに石好きになりました。現在も玄関アプローチ周辺にその片鱗が残っています。

(2)深川めしを食べること
 ところで、この日は月曜日だっのですが、第2の目的である「深川めしを食べること」が事前に調べて難しいことが分かりました。
  
 それで代わりに選んだ店に行ったところ、何とこちらも閉まっていました。

(途中にある例のパン屋さんも閉まっていました。)

 もう御腹も減っていたし、父も少しくたびれているようだし、今から店を選んでいる余裕はない・・・と言うことで道の向こうにあった蕎麦屋に入りました。


 ちょうどよく、深川めし(ミニ丼)とそばセットにありつけました。


 一応御腹一杯になって、もう帰ろうかどうしようか様子を聞いてみたら、コーヒーを飲みに行く元気があるということなので、次の目的地に。



(3)ブルーボトル・コーヒーを飲むこと
 場所は蕎麦屋から歩いて近いところだったので助かりました。

 それにしてもかなり住宅は密集しているのに、ホント静かでした。往来を歩く人の姿が少なかったのはどうしてなんでしょ・・・。


 入店すると、この奥にあるカウンターで好みのコーヒーを注文します。
 客の殆どはペーパーカップで注文していましたが、店でちゃんと飲もうと思い、「ガラスのカップで」ブレンドを注文しました。


 一人ひとりの注文に従って一杯ずつドリップします。


 酸味が感じられるスッキリ味でした。とにかくたっぷり飲めるのは良かった。


 と言うわけで、グルメも兼ねたルーツ探訪小旅行は無事終了。


 ところで、知っている方々にこの「小嶋家ルーツの旅」記事を案内したら、幾つか感想が寄せられました。


 特にグルメ情報として以下に付記します。

伊せ喜(残念ながら閉店した模様・・・未確認)
「・・・清澄白河は私の好きな場所で、少し前まで「高橋」という場所に「いせ喜」というどじょうをたべさせてくれる老舗の料理屋さんがあり、一家で大好きになり、よく行っていました。今は立ち退いたかもしれません。・・・」
・森下周辺「アド街天国 深川森下編

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年5月17日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 1:9-23
説 教 題 「あなたがたは、かつて」
説 教 者 小嶋崇 牧師

コロサイ(17)/パウロ書簡の学び(134)

2015年5月15日金曜日

N. T. ライト関連、二大できごと

最近は、もっぱらN.T.ライト読書会ブログでライト関連記事をアップするようになったので、こちらではそれらの記事リンクを貼る程度になってしまった。

しかし、今回は二つ重要な発展があったので、こちらにも掲載したい。


(1)『クリスチャンであるとは』がついに発売!!
 待ちに待った、Simply Christian、の邦訳完成です。



『クリスチャンであるとは』(原題:Simply Christian)
 ーーN・T・ライトによるキリスト教入門ーー
 著者 N・T・ライト
 訳者 上沼昌雄
 四六版 並製 344頁
 定価 2,700円(2,500円+税)

 先ず、購入に関してお願いしたいこと。

 おいおい、アマゾン・ジャパンからも購入できるようになると思いますが、できるだけ出版するあめんどう社の直販を使っていただきたいのです。

 小さな出版社であるあめんどうがリスクを負い、読みやすい日本語にするために(出版が遅れるのを犠牲にして)編集に力を入れ、長年愛読されるキリスト教書籍になるよう手塩をかけた、(しかし購入しやすいよう価格を泣く泣く抑えたのが)、この本です。

ぜひ読んでください。

そして友人・知人にオススメください。

お金に余裕ある人はプレゼントしてください。

自分の教会の牧師にもオススメください。

スタディー・グループや読書会でテキストにお選びください。

 予約発売までしばらくお待ちください

(2)第4回 N.T.ライト・セミナー開催
 こちらはそれほど重大ではありませんが、『クリスチャンであるとは』出版を受け、いよいよ「ライト元年」がスタートか、と勝手にアドバルーンを掲げていた筆者にとっては相乗効果を期待する催しです。

日時: 2015年10月5日(月) 13時30分~16時30分
場所: お茶の水クリスチャンセンター・416号室(50名収容)

 
 詳細はN.T.ライト・セミナーでご覧ください。

2015 友の会バザー

友の会バザーのご案内☆

日時☆2015年6月4日(木)午前11時~12時20
場所☆巣鴨聖泉キリスト教会 豊島区巣鴨1-3-19
     活水工房(教会隣り) 豊島区巣鴨1-3-20

出品物:
* 友の会ならではの吟味された・・・手作りのパウンドケーキ、マドレーヌ、ごませんべい
* 丁寧に心をこめて作った・・・エプロン、布巾、ピロケース、鍋帽子、恒例の雑貨
* 中古衣料など
 
☆収益金の一部は被災地に寄付されます。
 
主催:東京第一友の会 文京方面(雑誌「婦人之友」愛読者の集まり)
 
 
 

2015年5月12日火曜日

(1)小嶋家のルーツを探るー1

父、彬夫が先週ふと「深川清澄」のことを口にした。

たまーに口にすることはあるのだが、

そして以前何年か前に「深川清澄」の地を訪ねて来たことは言っていたのだが。

さすがに今年87歳になって、一人で出かけるのもなんだし、子供に伝えておきたいこともあったのだろうと考え、同行と言うか、「連れて行く」ことにしました。


「深川清澄」とは、東京都江東区清澄のことで、筆者にとっては曾祖父さんとなる「小嶋亀松」の始めた「小嶋商店」があった場所のことなのです。

長く東京にいながら、そして「本籍地」であったにもかかわらず、筆者は今まで一度も行った事がありませんでした。

それで急遽、天気も良さそうなので、「深川清澄へ、小嶋家のルーツを探る小旅行」を計画しました。5月11日。


目的は三つ。
 (1)小嶋商店跡を確認すること
 (2)深川めしを食べること
 (3)ブルーボトル・コーヒーを飲むこと


(1)小嶋商店跡
 都営新宿線森下駅を降りて(出口を出たら潮風の匂いがプーンと)、隅田川方向に歩き始め、左折して「万年橋」を目指しました。


 この辺は「松尾芭蕉」ゆかりの地で、「芭蕉記念館」や「芭蕉稲荷神社」などがありました。

 小嶋商店は、茨城の鹿島(現稲敷郡)出身の亀松が、親戚の醸造元の醤油を関東一円に販売するのを目指して興されたのだそうです。

 その頃は商品流通は船だったらしく、それで川っぺりに店を構えたそうです。


 店があった「万年橋」の向こう側には、地図で有名な「昭文社」があります。


 さて店があったのは現在「㈱国際空輸」社屋が建っている場所で、「清澄一丁目8-4」となります。


 当時は二階建ての店と倉庫が三つ、このくらいの土地にあったそうです。(この写真はグーグル・アース提供)

 父の話を総合すると、はっきりとした時期は分からないそうですが(明治の終わりか大正の初めくらい?)、茨城の同郷の親戚で臼田と言う方が醤油を製造し、亀松が東京で醤油問屋を開いてそれを売る、ということになったそうです。

 その頃はまだ全国区の醤油はなかったそうで、千葉の野田のキッコーマンやヤマサなどが関東一円に手広く売っていたそうですが、後発の臼田・小嶋連合軍の「万代(登録商標)醤油」もそれらを追っかけて、ピークには一度位売り上げトップになったこともあったんだとか・・・。

 その後関東大震災があって、店は二代目(筆者にとっては祖父にあたる)八郎が切り盛りしたのだとか。

 この八郎爺さんは、アタラシモノ好きで小嶋商店とどう繋がるのか分かりませんが、ここからほんの少し離れたところに、当時では(江東区付近では?)初となる水洗便所の付いた文化住宅(アパート)のようなものを三軒建てたそうです。

 一階はそれぞれ食堂、乾物屋、床屋で住人の便を図ったそうな。

 ところがこちらは近くと言っても探しあぐねて、ぐるぐるぐるぐる。


 おかげで北の湖部屋のお相撲さんを入れた写真をパチリ。

 しょうがないので近所の人に聞いたところ、ほんの少し前に、それまで住んでいた小嶋商店の元番頭さんの家族が引越され、引き払った後は更地になったのだとか。

  
 帰ってからグーグルアースで確認したら、以前の建物が写っていました。


 と言うわけで、約一時間ほどで最初の目的である旧小嶋商店跡と、文化住宅跡を確認することができました。

 ※㈱国際空輸ビルで清掃していたおじさん、跡地のことは区役所にある昔の地図で照合できることを教えてくださりありがとうございました。

 ※旧小嶋商店跡の向かいの家の方、戦後の変遷の様子を教えてくださりありがとうございました。


 次回は、(2)深川めしと、(3)ブルーボトル・コーヒーについて書きます。

2015年5月11日月曜日

(4)タカ牧師のセブン-1

またまた性懲りもなく新しいシリーズをば始めます。

シリーズ名はトレヴィン・ワックスのTrevin's Seven/TGCからのパクリです。


近頃まとまった文章を書くのが面倒くさくなりました。

かと言って読んだものを紹介したい気持ちはあります。

簡単な紹介コメント程度で、幾つかまとめて、アップ・・・方式はやりやすいと思って採用します。


英語ものが多いと思いますが、限りません。

ジャンルも神学関係が多いと思いますが、限りません。


記念すべき1回目ですが、特にこれと言うわけではありません。

では前口上はその辺にして・・・。


1. 10 Things I Wish Everyone Knew About Jesus
  『イエスについて、これだけは知ってて欲しい10のこと』
  ジェームズ・マーチン神父による、史的イエス超入門(2014年11月)

2. The Good News Hasn't Changed But How We Proclaim It Must
  『福音が変わるのではなく、伝え方が変わるのだ』
  ジェームズ・スミス(カルヴィン大学哲学科教授)のによる「テイラーの読み方一例 」
  ポスト世俗化の宗教は『何を』ではなく『どのように信じるか』が問題だ。伝道、牧会の専門家たちは、テイラーのこの診断を見過ごしにすべきではない。(2014年11月)

3. The Backward Culture
  『退行する文化』
  福音の土着化によって、キリスト教文化が出来上がってきたのに、今やネイティヴィティーがパブリックから排除されたりしている。何と言う反キリスト教文化の動き・・・。とカトリックの方が嘆いておられます。 (2013年4月)

4. Christocentric Hermeneutic Part 1: Against Principlizing
  『キリスト中心的解釈論、パート1 原則化に抗する』
  女性ブロガーのレスリー・キーニーさんが、クリスチャン・スミスの『The Bible Made Impossible』が標的にしたビブリシズムの問題・・・即ち聖書をあたかも「真理体系のマニュアル」が如きものとみなして行ってしまう“科学主義”的な聖書解釈アプローチ。それへの修正案・対案として「キリスト中心的解釈論」を提示するにあたっての緒論・試論的な考察。(2011年11月)

5. Christocentric Hermeneutic Part 2: Can A Narrative Be Authoritative
  『キリスト中心的解釈論、パート2 ナラティブは権威となるか』
  キーニーさんの「キリスト中心的解釈論」を提示するにあたっての緒論・試論的な考察のパート2。ナラティブとしての聖書は「権威」として機能しうるか、の問題を論じる。(2012年1月)

6. 外国人に話しかけられた時の衝撃の一言
  ぐっと趣向が変わって、笑いもの。(Naverまとめ)(2012年5月)

7. [東京版2015年] 美味しいワンコインランチ特集 [秋葉原編/食べログ]
  食べる方も一つ。場所に関してはオススメと言うわけではありませんが。とにかくワンコインの魅力で。


  

2015年5月10日日曜日

(5)リチャード・ヘイズ日本講演、2

さて、GWもあけました。何とか続きをば・・・。


ヘイズ日本講演、1では、東京聖書塾での午前中の講演であった
「信仰のまなざしをもって聖書を読む:神学的釈義の実践」
の前半部分。すなわち
「『神学的な釈義』とは何か?」 
と言うかなり『方法論』的な部分を含んだ解説を見てきた。 

(前半を『理論・方法論』部分とすれば)今回は、その後半部分である『実技』部分を見ることにする。
「『神学的な釈義』の実際」 

イントロではマイネアの『信仰の目』と言うタイトルが取られた《マルコ8章22-26節》を比喩的に用いたが、後半、実技部分では、釈義における「目が開けられる」と言うことがどう言う事かを《ルカ7章18-23節の「牢にある洗礼者ヨハネがイエスに遣わした弟子の問い」、のエピソードを用いて明らかにして行く。
 
(※以下は翻訳された論文は東京聖書塾から入手可能と思うので、逐一説明はしない。主要な議論にコメントを加えることで雰囲気を味わって頂ければ、と思う。)


(1)ルカ福音書の「低いキリスト論」は、「神学的な釈義」を排除することで成立する議論。

 最初に、キリスト論における「高い」とか、「低い」とかをごく簡単に説明しておこう。

 キリストは「神」であると同時に、また「人」でもある、と言う「神性」と「人性」が(人間的な論理では矛盾に思えてしまうが)同等に肯定された教会の信条が5世紀くらいまでに確立した。

 その後、啓蒙主義の時代に歴史批評的聖書研究が興隆すると、イエス・キリストの「人性」を専ら強調するようになる。

 そのような近代聖書学の歴史的背景を持った論争を念頭に、「ルカ福音書のキリスト論の性格」について、ヘイズは持論を展開しているわけです。


 四つの福音書の中では、ヨハネ福音書は冒頭のロゴス論にあるように、「神性」が明示されている、と言うことで「高いキリスト論を持つ福音書」と多くの研究者は認めています。

 しかし、ルカ福音書は、そのような神学的主張の殆どない、キリストの「人性」を強調する「低いキリスト論」だとされるのが主流のようです。

 ヘイズはルカ7章18-23節のテキストにとって「間テキスト性」を持つ、詩篇118篇、イザヤ書35章、61章を、該当箇所の単なる「暗示」に終わらせず、より深いテキスト同士の「呼応性」を論証することによって、「ヤハウェとイエス自身とが同一である」ことを暗示する、と示唆します。

In view of these exegetical findings, I would hazard the following conclusion: the "low" christology that modernist criticism has perceived in Luke's Gospel is an artificial construction achieved by excluding the hermeneutical relevance of the wider canonical witness, particularly the OT allusions in Luke's story.
It is precisely by attending more fully to the Old Testament allusions in Luke's Gospel that we gain a deeper and firmer grasp of the theological coherence between Luke's testimony and what the church's dogmatic tradition has affirmed about the identity of Jesus. (イタリックはヘイズ、下線は筆者)

[ このような釈義的な結論から見て、私は敢えて以下のような結論を申し述べたいと思います。近代の批評家がルカの福音の中に感じ取ってきた「低い」キリスト論は、より広い正典の証言、特にルカの物語の中に暗示されている旧約聖書の証言に耳を傾けるという解釈学的に適切な作業を締め出すことによって作り上げられた、人為的な構築物です。
 わたしたちが、ルカの証言と、イエスがどなたであるかについて教会の教理の伝統が確かに語っていることとの神学的な首尾一貫性を、より深く、より確かに把握しようとするならば、それはまさに、ルカの福音の中に暗示されている旧約聖書に、より真摯に耳を傾けることによって実現するのです。]

ヘイズ日本講演、1で見たように、懐疑主義的な近代聖書批評学を乗り越えるアプローチとして、「信仰の目」を持って聖書を読む「神学的な釈義」が提唱されてきました。

ヘイズはその一つの例証として、ルカ福音書の「キリスト論」を取り上げます。

ルカ福音書の「キリスト論」の性格を、「低いキリスト論」と理解するのか、「高いキリスト論」と理解するのか、それを決するのは、福音書テキストにどのように向き合うか、という「解釈アプローチ」の違いに帰結するのだ、とヘイズは論証しているわけです。

背景となる旧約聖書の暗示表現をどこまで遡るのか、どこまで広げるのか、はある意味(1)解釈者の信仰の有無に影響され、(2)それはまた、その解釈者がどこまで「教会の伝統」として正典的聖書解釈を取り入れるか、に左右される、とも言えます。

ですから、「神学的な釈義」のポイント「5」や「10」がこのキリスト論問題に関わっていると言えます。
 
※この「イエスとは誰か(The Identity of Jesus)」についてはSeeking the Identity of Jesusでもヘイズがガベンタ(現ベイラー大学)教授と共同編集した論文集が2008年に刊行されていますが、盟友としてかなり緊密に研究を切磋琢磨してきたN. T. ライトと方法論的に激しくぶつかった問題です。こちらの記事にその経緯を少し書いていますので、余裕があればどうぞお読みください。

※もう一つ取り上げたいポイント(ルカ4章16-21節、とイザヤ35章、61章の関連)があったのですが、詳論する暇が無さそうなので、その箇所を引用だけしておきます。
 Yet these passages at the very same time gesture towards a dramatic reshaping of Israel's national hope. The motifs selected by Jesus in his answer to John's disciples pointedly avoid images of military conquest. They focus instead on actions of healing and restoration.(強調は筆者)
[ しかしながら、まさに同時に、これらの文章は、イスラエル国民の希望が劇的に作り替えられることをほのめかすものでもあるのです。イエスによって選ばれ、ヨハネの弟子たちに対する答えの中で用いられたモチーフは、明らかに軍事的な征服の意味合いを回避するものです。代わりに、それらは癒しと回復の行為に焦点を当てています。]

このポイントは「神学的な釈義」のポイント「9」に関わってくると思いますが、metalepsisの問題とも絡まって、論述するのはかなり骨が折れそうです。


 
 

2015年5月9日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年5月10日(日) 午前10時30分

朗読箇所 テモテ第一 4:1-5
説 教 題 「完成途上の世界で」
説 教 者 小嶋崇 牧師


《現代キリスト教入門》5、現代人の渇望④「美」

2015年5月6日水曜日

(4)神学遍歴⑫

さてさて、最近このブログの更新ペースが急進しているが、あくまでたまたまです。

すぐペースダウンするでしょう。


前回神学遍歴の記事を書いたのは、1年以上も前のこと。大分時が経ってしまいました。

Graduate Theological Union 時代のこれが3回目の記事になるようです。


(1)宗教社会学

 既に『神学遍歴⑩』でも書いたが、筆者が入ったのは「第IV領域」と呼ばれる、《社会倫理》と《社会理論》を専門とする分野だった。

 前回は「社会倫理」部門のコアコースである「西方教会社会倫理教説史」を紹介した。

 もう一つの部門「社会理論」は、主に「宗教社会学」入門のような形で入って行くものだった。

 現在は宗教社会学というと、社会学の“一分野”とみなされることが殆どだと思う。

 しかし社会学の祖として挙げられる3人、カール・マルクス、エミール・デュルケーム、そしてマックス・ヴェーバーは(マルクスを除いて)いずれも「社会の中心に宗教をおいて」社会の近代化を分析した。

 つまりデュルケームやヴェーバーにとっては、宗教社会学が社会理論の中核にあった、といえる。


 1980年代前半当時、神学校で「宗教社会学入門」コースに使われたテキストを紹介しておこう。

 教授はイエズス会士で、加大バークリー校のべラー教授の下で博士をやった人であった。

 記憶に残っているテキストは、
  ・Gregory Baum, Religion and Alienation: A Theological Reading of Sociology.
  ・David Martin, A General Theory of Secularization
  ・Andrew Greeley, Unsecular Man: The Persistence of Religion.

あたりかな。

(2) 学術会議(アカデミック)的なこと

 博士課程の学生は学業だけやっていればいい、だけではないことを間もなく知った。

 前回も、「第IV領域」のコア文献確定作業について書いた。

 教授も学生も一緒になって、「自分たちの専門領域の性格と範囲」を、「誰の」「どの文献」を重要とするかを検討しながら、形作る作業をしていたわけだ。

 その他の事案としてよく覚えているのは、博士課程の入学志願者選定作業だ。

 それは教授の専権事項、と思いきや、志願者の履歴・実績・希望等を、学生も教授たちと一緒に討論するのだ。

 もちろん最終選定には学生は関与しないが、色々意見は求められた。

 たまたまその年(筆者が入学してから2年目か3年目)は、候補者の中に日本人学生が入っていたが、TOEFLのスコアが少し低く、学業が成り立つかどうか、意見を求められた。

 一人の人の将来に関わることなので、緊張して意見を述べたことを思い出す。(その後日本人の学生はなかったので、もしかしたらだめだったのかもしれない。)


宗教社会学関連、という事で思い出したことを書いておこう。

鹿児島ナザレン教会の久保木牧師が

ジョン・ポール・レデラック著『敵対から共生へ』を読んで、紛争に向き合う勇気をいただきました..
という記事で以下のようなことを書いていた。
conflict(紛争、対立)がギフトであり、平和へのプロセスとして扱っている
良書です。

訳文がわかりにくい、ということを書いたのですが、
具体的にいうと、こんな文章です。
現状把握への記述的(descriptive)営みの中で、変革に気づ かせてくれるのは、私たち個々人は悪い意味でも良い意味でも、衝突によって影響を受けるということです。衝突は、私たちの肉体的な健康、自己の尊厳、感情 の安定、正しい洞察、全人的霊性の統合に影響を与えるのです。

処方的(prescriptive)視点で捉えるなら、変革とは、慎重に計画された干渉であり、それによって社会的紛争の破壊的な影響は最小限に抑えられ、個人の肉体、感情、霊的レベルで、成長する可能性が最大限に広げられます。
(ジョン・ポール・レデラック著「敵対から共生へ」23頁)
というものです。

以前この記事を読んだ時、記憶に残って、そのうち何か書こうかな・・・と思ったのは「記述的(descriptive)」と「処方的(prescriptive)」との違いと関連についてでした。

おおよそのことは類推がつきましたが、だからと言って言葉/概念の説明だけではイマイチ分からないだろーな、と思ったのでした。

今回「宗教社会学」について書いたことで、この「記述的(descriptive)」と「処方的(prescriptive)」のことを改めて思い出しました。

それは社会学(宗教社会学も含む)と言うものが辿った歴史と関連付けて、少し比喩的にですが、説明できるものではないかと・・・。

経済学もそうですが、社会学は道徳哲学から分岐独立した学問です。
※プラトンの『国家』やアリストテレスの『ニコマコス倫理学』 が社会学の(古典)テキストとして読まれているかどうかで、その社会学の「被写界深度」も測れよう、というもんです。

その後自然科学との対比で、「科学」としての自立性・自律性を獲得するために、《記述的性格》と《予測可能性》と言う科学と呼ばれるに相応しい二つの性格を追求します。

まあここで話題にした《記述的》と言うことが出てくるわけですが・・・。

科学的なステータスを獲得するには「客観性」を証明しなければならない。

そのために「(主観的とされる)価値判断を入り込ませない」と言う原則を方法論的に確立しなければならない。

そのようにして、社会学的事象を「(因果関係で説明できる)法則的な関連」で叙述することを目指したわけですね。

言わば自然科学に似せて、社会学の観察対象を客観的に「記述」できる事象とみなしたわけです。


ここまで書いて、かなり「脱線」したように思います。
(風呂敷を広げすぎたので中断。 )

要するに「記述的(descriptive)」と「処方的(prescriptive)」と言う違いは、ある事象・対象への「対応の2モード」だ、と言うことを社会学を例にして説明しようと思ったのです。

「記述的」・・・とは「観察モード」であり、観察した事象を(できるだけ客観的に、あるがままに)記述する方の対応の仕方です。

「処方的」・・・とは「介入モード」であり、観察した事象を一定方向に「変化させる」ための助言・指示をする時の対応の仕方です。

社会学では「処方的」の代わりに「規範的(normative)」とよく言いますが、健全な社会のあり方を「基準」として持っていることによって、社会を観察し、様々な社会問題を「症例」に分類・整理して「診断」し、それへの対応策を「処方」する・・・とかなり強引に「病理学的」社会学の機能をたとえると、そう言うイメージになります。


さて、レデラックの本ですが、筆者はこの本読んでもいないし、持ってもいないので、それ以上のことを言うにはちょっと憚られると思ったので、ネットで見てみたら、本の要約を掲げたサイトが見つかりました。

一通り目を通してみたのですが、どうも「関係対立診断及び処方(conflict management)」とも言うべき、「知識とスキル」が「対立」と言う実際局面に集中して寄せ集められた「現代的専門家」然としていますね。

レデラックはさらに、そのようなまだ発展途上の「知識とスキル」の集合体に、メノナイトの「平和の神学と実践」を繋げて、独自に理論展開しているようです。

このサイトに要約されていることは、殆ど「概念的な理論構築」に終始しています。

その真価は「個別具体ケース」に適用されて判断され、さらに理論にフィードバックされて精度向上を増すべきものと見えます。

先ほどの久保木牧師の引用の原文は
From a descriptive perspective, transformation suggests that individuals are affected by conflict in both negative and positive ways.
For example, conflict affects our physical well-being, self-esteem, emotional stability, capacity to perceive accurately, and spiritual integrity.

Prescriptively, (i.e., relating to what one should do) transformation represents deliberate intervention to minimize the destructive effects of social conflict and maximize its potential for individual growth at physical, emotional, and spiritual levels.
となっていますが、これは「対立」が関わる「状況」の『パーソナル』な側面についての説明で、以下『関係的』『構造的』『文化的』側面が挙げられ、それらの側面について一つ一つ、「記述的(descriptive)」と「処方的(prescriptive)」の両方からコメントされています。

「対立」 を単に「管理する(マネージメント)」のではなく、「変革する(トランスフォーム)」視点から捉えるのは、メノナイトの平和構築神学からは真っ当なものだとは思うのです。

このサイトでは「聖書的」「神学的」洞察からくるものは殆ど明示されていないようです。

もし(例えば)牧師が「変革的なヴィジョン」としてこのような「実践的な理論」を援用するのであれば、やはりキリスト教的、神学的「人間論」そして「教会論」としっかり繋いで行く必要はあるように思います。

そうしないと、何が「ミニマイズ」すべき「社会的対立から来る破壊的影響」なのか、あるいは何が「マキシマイズ」すべき「個人的成長への潜在的要素」なのか、判断が明瞭にならないのではないでしょうか。
次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。

まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。

あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。

それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。
(以上、新約聖書・コリント人への手紙第一、11章17節~20節、新共同訳。強調は筆者。)


2015年5月3日日曜日

(3)オウム真理教ノート 2015/5/3

前回、オウム真理教ノート 2015/3/3からちょうど二ヶ月となる。

『地下鉄サリン事件から20年』も過ぎた。

前回の記事で出さなかったが、この間テレビとかネット雑誌のようなものとか、とにかくオウム真理教関係はよく目にするので、なるべく視る/読むようにしている。


先ずは、伊東乾の『サイレント・ネイビー:地下鉄に乗った同級生』

 さすがに内容の殆どは忘れてしまったが、貴重なポイントとしてオウムと第二次大戦との並行・関連が幾つか挙げられていた。

 例えば、オウムはイニシエーションにドラッグを使用していたと言うことだが、第二次大戦の特攻戦士に(死の恐怖を緩和するための)ドラッグが用いられていた、というようなこと。

 マインド・コントロールや総動員態勢、のような点も「オウムと第二次大戦」の並行として挙げられていたと思う。

 その他、クンダリニーに関してだったか、
オウム(麻原)は「身体性」と「霊性」の繋がりを巧みに用いてマインド・コントロールしたが、ちょっとでも「神経系統」から来る「身体性現象」への科学的知見や検証姿勢があれば、そうやすやすとは引っかからなかったのではないか
の様なことを書いていて、以前書いたが、加藤周一のオウム真理教への視点として《科学/理性》対《宗教体験》、と対置していたことを思い出した。

 ※ところで、この本を著作する動機として、サリン実行犯の一人豊田亨が伊東の友人であったことは覚えておかなければならない。そして、タイトルが暗示する「事件に関する黙秘」が卑怯なものではなく、豊田自身の鋭い自覚から来る責任の取り方ではあっても、真相が明らかにされないことで、結局は歴史の間違いが繰り返されてしまうのならば、残念なことである、と指摘していた。 


 次は、宗形真紀子『二十歳からの20年間:“オウムの青春”の魔境を越えて』

 元オウム信者の手記、という事で既に書いた《高橋》や《野田》の本と共通する。

 宗形の回顧で一番面白く読んだのは、オウム真理教に引き込まれる宗教性として挙げていた「霊的感覚」と、それに対する答えを提供してくれない「青年時までの生育環境」とのギャップについて。

 宗教に関する教育環境は個人差が激しい、とは言えるが、やはり日本における「宗教教育環境の不足」は戦後の反動という面があるのではないだろうか。

 自民党政権下、「道徳教育」や「愛国心」的教育の導入を推進しようとするが、なかなか難しい。オウム真理教の問題は、そのような「霊性的空白」を衝くカルト問題とも関わっているであろう。

 もう一つ宗形の手記の面白いところは、教団内での修行による階層上昇と自己肯定(感)との関わりを、割合丹念に叙述していることだろうか。

 それによって「マインド・コントロールの被害者」として自己把握するだけでなく、宗教による自己肯定という能動的な側面にも光を当てている。


以上は「2015/3/3」以前に読んでいた本。

これ以降は「3.20」近辺のこともあり、テレビ番組の特集などを視た。

 『オウム20年目の真実~暴走の原点と幻の核武装計画』(テレビ朝日、ここ

 多少期待感を持って見たのだが、残念な内容。

 一応頑張って追跡し続けていますよ、とアッピールしたいのだろうが、それはどちらかと言うと「清田記者」個人、という感じが強い。

 synodos】高橋克也被告裁判・証言草稿──地下鉄サリン事件20年に際して/大田俊寛

 「オウム真理教ノート」には度々登場いただく、今やオウムに関する宗教学者としては代表的コメンテーターの大田先生の文章だ。

 一貫して「思想史」的アプローチからのまとめ、と宗教学者としての反省、という二本柱になっている。

 オウムの全体像を概観するには一番入りやすいし説得力がある。

 しかし、サリン事件は「なぜ」、そして「どのように」起こったのか、という問いに答えるには何か迫力に欠ける観は否めないだろう。

 鎌田東二『「呪い」を解く』は思いの外面白かった。

 その一端は鎌田氏自身の宗教実践者としての洞察によっていると思う。

 普通「客観性」とは「宗教的体験」と言う主観の外側にいることによって確保されると思われるわけだが、しかしそれは「門外漢」という面も負わされることになる。

 「宗教的実践」経験のない観察者に対して、それを持つ観察者は自己の経験からある程度類推する視点を持っている、ということは鎌田氏に関して言うと有利と思われる。

 さらに「呪い」の考察や、鈴木大拙の「日本の霊性」との比較、など筆者が今までお目にかからなかった論考を盛り込んでいて色々参考になることが多かった。



・・・と、今回はここまでといたしましょう。

  

2015年5月2日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年5月3日(日) 午前10時30分

 
朗読箇所 Ⅰコリント 11:17-34
説 教 題 「主から受けたこと」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

(5)リチャード・ヘイズ日本講演、1

(下手に『序』などとやると「まだかー」と急かされるので注意が必要だ。)

最初に参加した講演は、説教塾の4月例会であった。


幸いなことに、N.T.ライトFB読書会のメンバーの方が教えてくださった。
※現在136名登録しているこの読書会のウォールで共有される情報はその幅広さから言うとなかなかのものではないかと思う。
【日時】2015年4月27日(月)午前10時半から午後4時まで
【場所】キリスト品川教会
【講師】デューク大学神学部神学部長リチャード・ヘイズ教授
【聴講料】500円
【主催】東京説教塾
【講演題】午前「信仰のまなざしをもって聖書を読む:神学的釈義の実践」(仮訳)
     午後「世界の逆転が起こった:復活を説教する」(仮訳)共有
と説教塾の案内にあった。

今回は、この午前中の方の講演について報告しようと思う。


「信仰のまなざしをもって聖書を読む:
神学的釈義の実践」

は、Reading the Bible with Eyes of Faith: The Practice of Theological Exegesis、と言う、Journal of Theological Interpretation, vol. 1、に掲載された論文を短くしたもの、という注が付いている。




講演は用意されたテキストをヘイズが読み上げ、その翻訳テキストを通訳者が読み上げる、と言うスタイルで行われた。(参加者はそれら二つのテキストを与えられているので、なんとも時間がもったいない感じもした。時折テキスト外の説明やらコメントが入るが、これにはまた別の通訳が入ると言う・・・。

最初に(A4全13ページ)講演テキストの「入り(約4ページ分)」を紹介しておく。

1. 見える目の回復を目指して(イントロ

 「信仰の目」と言うタイトルが取られた、マルコ8章22-26節を比喩的に用いて「近代批評的聖書学」における非神学的解釈論の不毛を指摘する。

2. 分岐点に立って。どちらに進むのか
 過去200年の批評的聖書学がもたらした「負の遺産」についての部分で、講演では殆どカットされた。とにかく分岐の一方を近代聖書批評学の「負の遺産」として特徴づけ、後述する「神学的な釈義」に対して、「間違った」「傲慢」なアプローチであったとする。

 コメントでは「aggressive, secular, rationalistic, reductionistic reading of the Bible」と形容していた。(特にブルトマン派の様式史批評、ジーザス・セミナーに代表されるようなものが念頭にあると思われるが)懐疑主義的で断片的な歴史研究の「行き詰まり」状態に帰結したことを指摘する。
 これに対して、近年(20年)英語圏の聖書学研究で定着してきたのが、「神学的な釈義」で、言わばこの行き詰まり状態を打開する形で登場してきた、・・・というナラティブにしている。


どんな学者たちがこの「神学的な釈義」を復興させることに寄与しているかというと、まあ筆者が知っている範囲を何名か越えているが、関心ある方は「脚注14」をご覧ください。(もちろんN.T.ライトもその中に入っています。)



以上がまあ大きい意味での「講演」のイントロですね。

III. What Is "Theological Exegesis"?
と講演テキストにあるように、やはり「神学的な釈義」とは何か、がこの講演の最も肝要な命題であったと思います。

以下、ヘイズが「神学的な釈義」を12ポイントで素描しますが、全部はコメントしませんが、挙げるだけ挙げてみます。(英文で勘弁。強調は筆者。)
この英文は自分で書き写すのを省略するため、別の方の書評で引用されたのを借用したものです。実際の講演テキストは、変更・修正・付加が加えられています。


1. Theological exegesis is a practice of and for the church. These texts have been passed onto us by the church's tradition as the distinctive and irreplaceable testimony to events in which God has acted for our salvation. As such they are to be regarded at the outset as Scripture, not merely as a collection of ancient writings whose content is of historical interest. These texts are to be normative for the community.


※プラクティスはアラスデア・マッキンタイアが『美徳なき時代』 で描写しているように、行動の背景となる社会集団によって伝統された行動のこと。
 つまり聖書解釈者は、「教会」という「聖書」を一定の仕方で解釈してきた先行社会集団の文脈で解釈的実践を継承する、と言った感じですね。
2. Theological exegesis is self-involving discourse. Interpreters themselves are addressed and claimed by the word of God that is spoken in the text, and we are answerable to that word. As a result theological exegesis will frequently contain pronouns in the first and second person. Such readings are closely interwoven with worship.


※つまり単にテキストを解釈しっぱなし、ということがない。テキストに応対することが解釈者には求められる。聖書テキストはそのような性質のものだ、ということ。
3. At the same time, historical study is internal to the practice of theological exegesis. The reasons for this are theological: God has created the material world, and God has acted for the redemption of that world through the incarnation of the Son in the historical person of Jesus of Nazareth.


※歴史研究はテキストに(外から)持ち込まれるのではなく、既に内在する性質のものである。
4. Theological exegesis attends to the literary wholeness of the individual scriptural witnesses. The Bible must be read neither as an anthology of disconnected theological sound bites nor, on the other hand, as a single undifferentiated story. Rather, the Bible contains a chorus of different voices, and the distinctive integrity of each part in the chorus is essential to its polyphonic performance (cf. the fourfold Gospels).


※聖書記者が書いた文書は、個々の文学的統一性が尊重され、それに即して解釈されるべきだ、ということ。
5. The fifth point is the dialectical converse of the previous one: theological exegesis can never be content only to describe the theological perspectives of the individual biblical authors; instead, it always presses forward to the synthetic question of canonical coherence. We must seek the big picture, asking how any particular text fits into the larger biblical story of God's gracious action.


※しかし、聖書全体の「正典的整合性へ向けての読み」への努力は不断に目指されなければならない。
6. Theological exegesis does not focus chiefly on the hypothetical history behind the biblical texts, nor does it attend primarily to the meaning of texts as self-contained works of literature; rather, it focuses on these texts as testimony. This means we need to learn to stand where these witnesses stand and look where they point in order to learn to see as they see. In this way we will find our vision trained anew.


※聖書記者の証言性から目を離すな。彼らのテキストは解釈者の「手の中」で調理を待っているのではなく、既に一定方向に向けて書かれた(証言された)ものである。 
7. The language of theological exegesis is intratextual in character, i.e. we should remain close to the primary language of the witnesses rather than moving away from the particularity of the biblical testimony to a language of second-order abstraction that seeks to "translate" the biblical imagery into some other conceptual register.


※解釈時に心理学等のテキスト的には「外部」のものを持ち込んで、結果「置き換え」にならないように気を付けるべき事。
8. Theological exegesis, insofar as it stays close to the language and conceptions of the NT witnesses, will find itself drawn into the Bible's complex web of intertextuality. This includes citations, allusions as well as typological correspondences between the testaments.


※むしろ、聖書自体のテキストが織り成す「複雑な間テキスト性」から「解釈の位置」を外さないこと。
9. Theological exegesis thereby is committed to the discovery and exposition of multiple senses in biblical texts. [筆者注。これ以下も実際の講演テキストのまま] Old Testament texts, when read in conjunction with the story of Jesus, take on new and unexpected resonances as they prefigure events far beyond the historical horizon of their authors and original readers. The NT's stories of Jesus, when understood as mysterious fulfillments of long-ago promises, assume a depth beyond their literal sense as reports of events of the recent past. Texts have multiple layers of meaning that are disclosed by the Holy Spirit to faithful and patient readers.


※このポイントは「リチャード・ヘイズ日本講演」シリーズの3くらいになると思うが、ヘイズの最近著である四福音書の象徴的読解(Figural Reading)に関わるところで、簡単には説明できないので、別の機会に譲る。
10. Learning to read the texts with the eyes of faith is a skill for which we are trained by the Christian tradition. Consequently, we can never approach the Bible as if we were the first ones to read it - or the first to read it appropriately. Theological exegesis will find hermeneutical aid, not hindrance, in the church's doctrinal traditions.


※ポイント1に関連するが、神学的・教理学的伝統の中で、聖書解釈手法が備わっていく、ということ。
11. Theological exegesis, however, goes beyond repeating traditional interpretations; rather, instructed by the example of traditional readings, theological interpreters will produce fresh readings that encounter the texts anew with eyes of faith and see the ways that the Holy Spirit continues to speak to the churches through the same ancient texts that the tradition has handed on to us.


※しかし伝統的といっても単なる繰り返しではなく、「新しい読み」が産み出される余地が聖霊の働きによって作られる。
12. Finally, we must always remember that we are not speaking about our own clever readings and constructions of the text but, rather, of the way that God, working through the text, is reshaping us (cf. Hebrews 4:12). This means that theological exegesis must always be done from a posture of prayer and humility before the word.

(近代批評的聖書学の世俗的・還元主義的な解釈態度が傲慢であったのに対し) 、聖書テキストによって解釈者の方が整えられる。謙虚さと祈りをもって聖書と取り組むこと。


以上かなり意訳的なコメントをくっつけてみました。

今回はここまで。

次回はこの講演テキストの「実技」部分から。



 


2015年5月1日金曜日

(4)『教会史遡行』から落穂拾い、1

巣鴨聖泉キリスト教会の「前史」 (※まだ読んでいない方はからどうぞ) として2回でまとめたのは、「日本ホーリネス運動」について。

切のいいところで、第二次大戦後のインマヌエル綜合伝道団の創立を初代総理、蔦田二雄を軸に、それから、「1900年から」として日本ホーリネス教会の展開を、中田重治を軸に、回顧した。

1. 蔦田二雄/インマヌエル綜合伝道団

 ネットからなので目ぼしい資料は余り見つけられなかった。

 主にウィキペディアのホーリネス運動や、中田重治の記事を参照した。

 インマヌエルの歴史・沿革ページ、所属する別府キリスト教会サイトにある年表、同じく中目黒教会のサイトにある教団前史部分の要約、を参照した。

 少し関心を持った「リバイバル・リーグ」と「ホーリネス教会弾圧事件」に連なる具体的な歴史関係情報は諸リンク等を辿ってみたが、得られなかった。

2. 中田重治/日本ホーリネス運動

 上記のウィキ記事の他、英語でもいくつかウィキペディア記事を参照した。Holiness Movement
Keswick Convention



・・・とこう言う風に書いてくると、この記事は簡単な「説教準備ノート」のように見えるが、そんな大層なものではない。

何しろネットで入手可能な材料でお茶を濁しているくらいだから。

そう言うわけで、『落穂拾い』とは、説教に組み込めなかった「残部」と言う意味だけでなく、単に本格的な研究がなされている畑に『落っこちている麦穂』を拾ってきただけ、と言う意味でもある。

「説教準備中の逸話」と言う感じで個人的に面白く読んだデータとしては:

1. 蔦田二雄が中田重治の『聖書より見たる日本』を訳したらしいこと
 
脚注を見ると、tr. David T. Tsutada、とある。
David G. Goodman, Masanori Miyazawa, Jews in the Japanese Mind: The History and Uses of a Cultural Stereotype.(グーグルブックスから)


もう一つはベン=アミー・シロニーのCollected Writingsにある、Japan's Support of Zionism after the First World War(『第一次大戦後の日本のシオニズム支持』)と言う論文に、中田らの“貢献”が取り上げられている。

実際には当時、日本の国としてのシオニズム支持は衰退する中であったが、中田ら聖書の預言を大事にした伝道者だけがシオニズムを強く支援し続けたことを以下のように書いている。
 This rosy description had little factual basis. The government of Japan in the late 1920's was losingits interest in Zionism. The only Japanese who remained enthusiastic about the Jewish return to Palestine were Chrsitian evangelists who followed the developments in the Middle East through the eyeglasses of the biblical prophecies. (著作集、326ページ・・・グーグルブックスから)

  
以上、本当はもう少し調べたかった「中田監督とイスラエル問題」だが、ネットでもいくらかは資料が見つかることを発見できたことは良かったと思う。