2015年5月31日(日) 午前10時30分
朗読箇所 使徒の働き 17:22-31
説 教 題 「義をもって世界をさばく」
説 教 者 小嶋崇 牧師
教会史遡行(4)
メソジスト教会と教派主義(デノミネーショナリズム)
・・・フランシス・アズベリー(1745-1816)
(フランシス・アズベリー) |
(第2次信仰覚醒運動がスタートしたとされるケンタッキー州ケーン・リッジでの野外集会) |
巣鴨聖泉キリスト教会(日本聖泉キリスト教会連合)創立1965年。 大和郷の一角にある緑と花に囲まれた教会、隣には牧師の木工房。 静かに賛美と聖書の学び、そんな礼拝の時をお過ごしください。
朗読箇所: 使徒の働き2:1-13
説教題:「御霊が話させてくださるとおりに」
アウトライン:
I. 天が開け、家の扉が開かれ、口を開く
II. 言語と文化の壁
III. 証人と証言
注目聖句:
すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒言行録2:4、新共同訳)They were all filled with the holy spirit, and began to speak in other languages, as the spirit gave them the words to say. (KNT)
ペンテコステの出来事で「tongues」とあるのを、今までずーっと(ペンテコステ系の方々の言う)異言だと思っていました。この感想、つまりペンテコステ/カリスマ系の特徴とされる「異言体験」については実はそれほど意識していなかったので少し不意をつかれた気がした。
でも「外国語」、(離散のユダヤ人たちにとっての)「母国語」だったんですね。
虚偽に基づくいわれなき非難に対しては断固として反論し、国際社会への対外発信等を通じて、日本の名誉・国益を回復するために行動します。へー、自民党のウェブサイトはこうなっているのか・・・というのが感想。
Chapter 14. The Resurrection of the Body: Carnis resurrectionem (Roger E. van Ham, Exploring and Proclaiming the Apostles' Creed, pp.260-272)のようです。
※あるいはヘイズはこの時点では、N. T. ライトの、The Resurrection of the Son of God (2003)、はまだ読んでいなかったのかもしれません。
※ちなみに、この講演後の質疑応答でのことですが、復活の身体性についての質問と応答(ヘイズは第一コリント15章の『肉の体』と『霊の体』の対比も使って説明しようとしたが、通訳もポイントを拾いきれなかった印象)後、聴衆に向かって、Do you know N. T. Wright, his Surprised By Hope?と問いかけ、(ほぼ無反応の聴衆に向かって)It needs to be translated.とアッピールして、この辺の理解の混乱に関しては、ライトと彼の復活に関する本が必読であることを指摘した。
As soon as the generals and the politicosベリーのゲリラ的と言うか、対抗的と言うか、抵抗運動の実践を「復活行動化」と意味ありげに呼んでいるもののニュアンスを、ヘイズは以下のような『(復活と言う将来的なものを今に)体現化』するものとして:
can predict the motions of your mind,
lose it. Leave it as a sign
to mark the false trail, the way
you didn't go. Be like the fox
who makes more tracks than necessary,
some in the wrong direction.
Practice resurrection.
(清澄公園) |
(左手に中村高校、右手に大正記念館) |
(途中にある例のパン屋さんも閉まっていました。) |
「・・・清澄白河は私の好きな場所で、少し前まで「高橋」という場所に「いせ喜」というどじょうをたべさせてくれる老舗の料理屋さんがあり、一家で大好きになり、よく行っていました。今は立ち退いたかもしれません。・・・」・森下周辺「アド街天国 深川森下編」
「信仰のまなざしをもって聖書を読む:神学的釈義の実践」の前半部分。すなわち
「『神学的な釈義』とは何か?」と言うかなり『方法論』的な部分を含んだ解説を見てきた。
「『神学的な釈義』の実際」
In view of these exegetical findings, I would hazard the following conclusion: the "low" christology that modernist criticism has perceived in Luke's Gospel is an artificial construction achieved by excluding the hermeneutical relevance of the wider canonical witness, particularly the OT allusions in Luke's story.
It is precisely by attending more fully to the Old Testament allusions in Luke's Gospel that we gain a deeper and firmer grasp of the theological coherence between Luke's testimony and what the church's dogmatic tradition has affirmed about the identity of Jesus. (イタリックはヘイズ、下線は筆者)
[ このような釈義的な結論から見て、私は敢えて以下のような結論を申し述べたいと思います。近代の批評家がルカの福音の中に感じ取ってきた「低い」キリスト論は、より広い正典の証言、特にルカの物語の中に暗示されている旧約聖書の証言に耳を傾けるという解釈学的に適切な作業を締め出すことによって作り上げられた、人為的な構築物です。
わたしたちが、ルカの証言と、イエスがどなたであるかについて教会の教理の伝統が確かに語っていることとの神学的な首尾一貫性を、より深く、より確かに把握しようとするならば、それはまさに、ルカの福音の中に暗示されている旧約聖書に、より真摯に耳を傾けることによって実現するのです。]
Yet these passages at the very same time gesture towards a dramatic reshaping of Israel's national hope. The motifs selected by Jesus in his answer to John's disciples pointedly avoid images of military conquest. They focus instead on actions of healing and restoration.(強調は筆者)
[ しかしながら、まさに同時に、これらの文章は、イスラエル国民の希望が劇的に作り替えられることをほのめかすものでもあるのです。イエスによって選ばれ、ヨハネの弟子たちに対する答えの中で用いられたモチーフは、明らかに軍事的な征服の意味合いを回避するものです。代わりに、それらは癒しと回復の行為に焦点を当てています。]
というものです。conflict(紛争、対立)がギフトであり、平和へのプロセスとして扱っている良書です。
訳文がわかりにくい、ということを書いたのですが、具体的にいうと、こんな文章です。現状把握への記述的(descriptive)営みの中で、変革に気づ かせてくれるのは、私たち個々人は悪い意味でも良い意味でも、衝突によって影響を受けるということです。衝突は、私たちの肉体的な健康、自己の尊厳、感情 の安定、正しい洞察、全人的霊性の統合に影響を与えるのです。
処方的(prescriptive)視点で捉えるなら、変革とは、慎重に計画された干渉であり、それによって社会的紛争の破壊的な影響は最小限に抑えられ、個人の肉体、感情、霊的レベルで、成長する可能性が最大限に広げられます。(ジョン・ポール・レデラック著「敵対から共生へ」23頁)
From a descriptive perspective, transformation suggests that individuals are affected by conflict in both negative and positive ways.
For example, conflict affects our physical well-being, self-esteem, emotional stability, capacity to perceive accurately, and spiritual integrity.となっていますが、これは「対立」が関わる「状況」の『パーソナル』な側面についての説明で、以下『関係的』『構造的』『文化的』側面が挙げられ、それらの側面について一つ一つ、「記述的(descriptive)」と「処方的(prescriptive)」の両方からコメントされています。
Prescriptively, (i.e., relating to what one should do) transformation represents deliberate intervention to minimize the destructive effects of social conflict and maximize its potential for individual growth at physical, emotional, and spiritual levels.
次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。
まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。
あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。
それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。
(以上、新約聖書・コリント人への手紙第一、11章17節~20節、新共同訳。強調は筆者。)
オウム(麻原)は「身体性」と「霊性」の繋がりを巧みに用いてマインド・コントロールしたが、ちょっとでも「神経系統」から来る「身体性現象」への科学的知見や検証姿勢があれば、そうやすやすとは引っかからなかったのではないかの様なことを書いていて、以前書いたが、加藤周一のオウム真理教への視点として《科学/理性》対《宗教体験》、と対置していたことを思い出した。
【日時】2015年4月27日(月)午前10時半から午後4時までと説教塾の案内にあった。
【場所】キリスト品川教会
【講師】デューク大学神学部神学部長リチャード・ヘイズ教授
【聴講料】500円
【主催】東京説教塾
【講演題】午前「信仰のまなざしをもって聖書を読む:神学的釈義の実践」(仮訳)
午後「世界の逆転が起こった:復活を説教する」(仮訳)共有
1. 見える目の回復を目指して(イントロ)これに対して、近年(20年)英語圏の聖書学研究で定着してきたのが、「神学的な釈義」で、言わばこの行き詰まり状態を打開する形で登場してきた、・・・というナラティブにしている。
「信仰の目」と言うタイトルが取られた、マルコ8章22-26節を比喩的に用いて「近代批評的聖書学」における非神学的解釈論の不毛を指摘する。
2. 分岐点に立って。どちらに進むのか
過去200年の批評的聖書学がもたらした「負の遺産」についての部分で、講演では殆どカットされた。とにかく分岐の一方を近代聖書批評学の「負の遺産」として特徴づけ、後述する「神学的な釈義」に対して、「間違った」「傲慢」なアプローチであったとする。
コメントでは「aggressive, secular, rationalistic, reductionistic reading of the Bible」と形容していた。(特にブルトマン派の様式史批評、ジーザス・セミナーに代表されるようなものが念頭にあると思われるが)懐疑主義的で断片的な歴史研究の「行き詰まり」状態に帰結したことを指摘する。
※プラクティスはアラスデア・マッキンタイアが『美徳なき時代』 で描写しているように、行動の背景となる社会集団によって伝統された行動のこと。つまり聖書解釈者は、「教会」という「聖書」を一定の仕方で解釈してきた先行社会集団の文脈で解釈的実践を継承する、と言った感じですね。
※つまり単にテキストを解釈しっぱなし、ということがない。テキストに応対することが解釈者には求められる。聖書テキストはそのような性質のものだ、ということ。
※歴史研究はテキストに(外から)持ち込まれるのではなく、既に内在する性質のものである。
※聖書記者が書いた文書は、個々の文学的統一性が尊重され、それに即して解釈されるべきだ、ということ。
※しかし、聖書全体の「正典的整合性へ向けての読み」への努力は不断に目指されなければならない。
※聖書記者の証言性から目を離すな。彼らのテキストは解釈者の「手の中」で調理を待っているのではなく、既に一定方向に向けて書かれた(証言された)ものである。
※解釈時に心理学等のテキスト的には「外部」のものを持ち込んで、結果「置き換え」にならないように気を付けるべき事。
※むしろ、聖書自体のテキストが織り成す「複雑な間テキスト性」から「解釈の位置」を外さないこと。
※このポイントは「リチャード・ヘイズ日本講演」シリーズの3くらいになると思うが、ヘイズの最近著である四福音書の象徴的読解(Figural Reading)に関わるところで、簡単には説明できないので、別の機会に譲る。
※ポイント1に関連するが、神学的・教理学的伝統の中で、聖書解釈手法が備わっていく、ということ。
※しかし伝統的といっても単なる繰り返しではなく、「新しい読み」が産み出される余地が聖霊の働きによって作られる。
※(近代批評的聖書学の世俗的・還元主義的な解釈態度が傲慢であったのに対し) 、聖書テキストによって解釈者の方が整えられる。謙虚さと祈りをもって聖書と取り組むこと。
This rosy description had little factual basis. The government of Japan in the late 1920's was losingits interest in Zionism. The only Japanese who remained enthusiastic about the Jewish return to Palestine were Chrsitian evangelists who followed the developments in the Middle East through the eyeglasses of the biblical prophecies. (著作集、326ページ・・・グーグルブックスから)