2016年12月31日土曜日

明日の礼拝案内

元旦 主日礼拝

2017年1月1日(日) 午前10時30分


朗読箇所 コロサイ 3:1-17
説 教 題 「キリストの言葉が宿る」
説 教 者 小嶋崇 牧師

キリストの言葉があなたがたの内に
    豊かに宿るようにしなさい。

     (コロサイ 3:16、新共同訳)

2016年12月29日木曜日

(5)オープン神論サイドノート③

2016年4月、7月、にそれぞれをアップしたわけですが、暫く経ちました。

このシリーズ不定期であることは既にお断りしているので、別に暫くぶりでのアップだからといって前置きなど要らないとは思うのですが・・・。


たまたまですが、ブロガーのロジャー・オルソン氏が
An Excellent Arminian Book on Divine Providence
という記事をアップしていて、本の推薦をしているわけです。

※(ウェスレアン)アルミニアンという神学的立場をご存じない方はこちらの記事を参照していただくとして
推薦されたのは・・・Bruce ReichenbachのDivine Providence:God's Love and Human Freedom、という本です。
※この記事を書こうと思い立ったのは、何のことはない、この本がキンドル版で「$8.71」となっていて「安いかな、オススメかな」と思ったからです。
で、オルソンの「オススメ」口上ですが以下のようになっています。
If you are a person who wants a thorough, comprehensive, coherent, sophisticated but readable one volume treatment of divine providence in all its aspects that is also evangelical in ethos and completely consistent with classical Arminianism, here it is: Divine Providence: God’s Love and Human Freedom by Bruce R. Reichenbach (Cascade Books, 2016).
著者が、そしてこの本が「アルミニアン」かどうか、については以下のように断っています。
Now, ironically the words “Arminian” and “Arminianism” and the name “Arminius” appears nowhere in the book. I am not claiming that Reichenbach is an Arminian; I am only saying that this book is thoroughly consistent with classical Arminianism—which is not to claim either that every Arminian will agree with it in every detail.
また「オープン神論」との関わりでは次のように言っています。
His chapters on the “problem of evil” are simply outstanding. I found very little with which to disagree in the book. I will only say that I am not convinced that his critical (but generous) treatment of open theism really answers the questions it raises about the traditional view of God’s foreknowledge. (But his answers are the best I could come up with, too, without adopting open theism.)
関心のある方は購入を考えてみてはいかがでしょう。


※蛇足ながら「摂理」に関しては筆者も過去にこんなことや、こんなことを書いていました。




2016年12月28日水曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、7

久し振りの今回は・・・

「5 理性の時代の聖書信仰」(74-85ページ) 、となります。


 本書は時代の進行に沿って概観されています。

 前章4章は「プリンストン神学の時代」でした。大体19世紀後半です。

 一章先を見ると6章は「ファンダメンタリズム論争」を扱います。1920年代です。

 この時代的移行の前に17世紀のデカルトから発する「基礎づけ主義(「我思う故に我あり」で有名ですがこのリンク先の説明も参考になるかも)」やスコットランド常識哲学という保守的聖書論に影響を与えた「哲学的前提」を5章で扱っているわけです。
※ この辺の事情を保守派・福音派(アブラハムやグレンツなど)が自己批判的に分析できるようになったのが「ここ20-30年の動き」ということなのだろうと思います。


 「プリンストン神学の聖書観の背後にある哲学的前提、あるいは思想的潮流」

 (A)基礎づけ主義
 十九世紀を振り返ると、リベラル神学も保守主義も同じようにこうした「基礎づけ」 的認識論の上に成り立っていたことが分かる。リベラル神学は、当初、教会が作り上げた神学という建物を一旦脇にどけて、近代聖書学を土台としたキリスト教真理を再構築しようとする。・・・保守主義は、デカルト的土台を無誤であると信じる聖書に求めた。(75ページ)
 (B)スコットランド常識哲学と理性主義

 こうして、本来カルヴァンによる、「聖書が神の言葉であることは、聖霊が信仰者の心の中に与える証しによる」という神秘的・心的・主観的側面は影を潜め、聖書の無誤性が客観的事実であることを論証するという理性的側面の強調へと聖書信仰が方向を転じたことになる。(78ページ)
[脚注] 宇田も同様に論じる。本来の改革派の神学は、聖書の無謬性を信仰者が聖霊の内的証しによって悟るものと考えてきた。ところが、スコットランド常識哲学の影響により、聖霊の内的証明は「あらゆる外的な証拠をとおして」人々のうちに確信を与える、という証拠の積み上げによる確信へと変化した、と。



 以上19世紀後半に展開されたプリンストン神学 を支えた「哲学的前提」が聖書解釈を理性主義的な方向に導いた、という部分を引用してみました。

この章の部分を読んで記事にしようと書き始めて大分時間が経ちました。色々逡巡しました。一つの理由は「詳論がないことに関してコメントを書くのは難しい」ということです。

しかし、著者の見識を差し置いて、「プリンストン神学」周辺のことをパパッとネットで検索して得た「インスタント知見」で何か書くこともまた難しい。

ということで以下の二つのポイント(と、一つの蛇足)にまとめてみました。

(1)スコットランド常識哲学の評価の仕方
 
 啓蒙主義をどう捉えるかどう評価するか、という問題は依然として「いまの問題」であると思います。

 プリンストンにこの新風を吹き込んだジョン・ウィザスプーン、根付かせたA・アレキサンダー、受け継いだC・ホッジ・・・の全体の流れを文脈として評価することが大事なように思います。

 啓蒙主義のネガティブ・サイドを代表するデカルトやD・ヒュームに対抗した形で出たと思われるスコットランド哲学は、プリンストン神学にとって「特別啓示」にも「一般啓示」にも、どちらにも楽観的な認識論的態度を提供するものとして(ネガティブな認識論より)ベターな選択であった、と考えることも出来るかと思います。

(2)理性主義のポジティビスティックな性格の捉え方

 19世紀初頭において「科学に対する楽観的態度」が支配的であり、そのような空気をプリンストン神学の基礎を築いた方たちも吸っていたとしても、それ自体では「科学的な態度に対する自信過剰」にはならないと思います。

 2011年に出されたC・ホッジの伝記の「序」やその紹介記事などをかいつまんで読んでみると、プリンストン神学の祖はどうも「新しい空気」に敏感でありながら、しかしカルヴィニズムの伝統を重んじることにも意識が強い人であり、その中にはカルヴィン来の「堕落した理性に対する顧慮」と「神の言葉」である聖書に対する先見的な主張依然強かった印象が強い。(この記事などほんの少し参照しました。)

 かつてボンヘッファーがバルト神学を「聖書啓示のポジティビズム(revelational positivism)」と呼んだらしいが(E・ベートゲ)、それと比較すると神学的洗練はないかもしれないが、根本主義の「聖書啓示のポジティビズム」に繋がるものがプリンストン神学の聖書観にあったとしても、それがよりポジティビスティックな性格を帯びるのは、やはりリベラリズムとの敵対的対決を経過してのことではないか、と勘ぐる次第。

《蛇足》
 より平均的(大衆的)アメリカ・キリスト教に対するスコットランド常識哲学(楽観的科学主義のような傾向)の影響も同時に押さえておくのも大切ではないか。

 19世紀、アレキサンダー・キャンベル(1788-1866)が祖の一人とされる「キリストの教会」の伝統として語られる「救いの計画(The Plan of Salvation)」にもこの理性主義的傾向は見られるのではないか、と既に指摘しました。

 さらにこのような回復運動がより「大衆的キリスト教」性格を帯び、(思弁的神学を嫌って)反知性主義的力学も加わって、「聖書記述を事実」としてそのまま受け取っていく「聖書解釈原則」の方向に働いたことも、その後の根本主義の背景として考えられるのではないか、と愚考します。


2016年12月23日金曜日

明日のイブ礼拝案内

クリスマス・イブ
キャンドルライト礼拝
12月24日(土) 夕7時~
 ※礼拝は1時間弱。その後軽食パーティー。
 ※この礼拝が年内最終集会となります。 
 降誕節第一主日
 2016年12月25日(日)
は巣鴨聖泉キリスト教会での礼拝はありません

新年は・・・
2017年1月1日(日)の元旦(主日)礼拝がスタートとなります。
時間は通常と同じ、10時30分~


以上年末年始の主日礼拝は不規則となりますのでご了承ください。

巣鴨聖泉キリスト教会
牧師 小嶋崇

2016年12月17日土曜日

明日の礼拝案内

待降節第四主日 クリスマス 礼拝

2016年12月18日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ルカ福音書 2:1-7
説 教 題 「彼らには泊まる所がなかった」
説 教 者 小嶋崇 牧師

  ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。                  (ルカ2:6-7、新共同訳)

2016年12月12日月曜日

(3)「イチオシ!」の入れ替え、2016 [追記]

イマイチお奨め(イチオシ)の本の評判を聞かないが、AI(人工知能)については既にお茶の間に浸透していると思う。

まだ皮膚感覚でその影響は感じていないが、近い将来にありそうな予感はかなりの人が感じているのではないか。

そんな中間もなく任期を終える米国オバマ大統領と、MITメディアラボの伊藤穰一氏との対談がWIREDという雑誌に掲載された。



国家のトップとして意外に先端技術に明るい・・・とTLで取りざたされている。

同ツィッターではフォローする東大大学院の伊東乾氏と「AI(人工知能)と倫理問題」について少しツイートを交わしたことがあった。


一読をおすすめ。

2016年12月11日日曜日

(5)新カルヴィン主義動向、5

また「新カルヴィン主義」に関連する動きが出てきましたので記事にします。

(※既にシリーズとして1~4を書いています。リンクはこちらの記事を参照してください。)

新しい動きとは南部バプテスト連盟にあって、新カルヴィニズム台頭の動きに歯止めをかけようとしている、あるいは「伝統的バプテストの立場」を保守しようとする動きのことです。

この動きに気がついたのは、ジーザス・クリード(ブログ)のこの記事です。

記事中のリンクが示されていた、リック・パトリック牧師のサウスウェスタン・(南部)バプテスト神学校チャペルでの説教を興味を持って聴きました。

ちょっと我ながら意外な感じがしたのですが、「雄弁」さを感じさせる40分でした。
終始一貫、新カルヴィニズムに対して「伝統的バプテスト(神学)の立場」を弁護しています。

早速調べてみると、このリック・パトリック牧師は新興勢力(新カルヴィズム)に対して伝統的立場を守るべく「コネクト316」 を立ち上げた発起人の一人で事務局長のような立場で指導者となっている方でした。

幾つかメモしておきたいポイントがあるのですが、この「対抗的動き」が

(1)(元々「告白神学(コンフェッショナル)的でない・・・筆者の印象)バプテストが「教理的部分」にこだわることによって「神学内容」を意識化する方向に行くのだろうか、と云うのが先ずあります。(アルミニアン・ウェスレアニズムはそのような対抗的動きの一つでしたが・・・。)

 コネクト316のサイトにある「宣言序文」の中に以下のような部分があります。
exclusively Calvinistic understanding of salvation, characterized by an aggressive insistence on the "Doctrines of Grace" ("TULIP"), and to the goal of making Calvinism the central Southern Baptist position on God's plan of salvation
伝統的立場を表すのが「神の救いの計画」であり、それがカルヴィン主義の救済論(チューリップで代表される)によって塗り替えられることに対する神学的抵抗運動、みたいないいっぷりになっています。

(2)「異質なもの」(と感知される)を排除するのではなく、伝統的なバプテストの立場を認めさせた上での「神学的な解釈」として共存していくのかどうか、分離とか分裂に展開して行くのかどうか、が今後注意して見て行く必要があるようです。

 リック・パトリック牧師の説教後にサウスウェスタン・(南部)バプテスト神学校学長のペイジ・パターソンがしたコメント(「新カルヴィニズム」を奉ずる者たちはその立場の教派に移ればよい・・・みたいなニュアンスの発言が説教に抗議してチャペルを出て行った学生たちに対して向けられた、云々)については、後日パターソン学長が釈明と云うか説明している記事があります。


以上まだまだ正確なところはよく分からないのですが、一応レポートしておきます。 

2016年12月10日土曜日

明日の礼拝案内

待降節第三主日礼拝

2016年12月11日(日) 午前10時30分

朗読箇所 イザヤ書 9:1-7
説 教 題 「シオンに据えられた礎石」
説 教 者 小嶋崇 牧師
  それゆえ、主なる神はこう言われる。「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石/堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。
  (イザヤ28:16、新共同訳)

2016年12月3日土曜日

明日の礼拝案内

待降節第二主日礼拝

2016年12月4日(日) 午前10時30分

朗読箇所 イザヤ書 9:1-7
説 教 題 「
神の慈しみと厳しさ
説 教 者 小嶋崇 牧師
 

だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。
  (ローマ人への手紙11:22、新共同訳)      

今日のツイート 2016/12/3

今年の流行語大賞にノミネートされてたことでまた話題になっている。



 (社会学者)古市氏のツイートは「死ね」という過激なコトバを誰がどの文脈で使うかによっては「擁護」できる、という趣旨のようだ(と筆者は理解したが)。

 これに対して殆どの反論ツイートは「死ね」というコトバの「比喩」使用の無制限濫用の危険性、のような反応の仕方になっている。(「死ね」を比喩的に使うならば許されるのなら、ヘイトスピーチのような形で拡大してしまう・・・みたいな。)

 津田氏のツイートは「本来政治の文脈での現状への不満、改善申し立て」に集約される方向で「意見(ツイート)百出」が表現されれば・・・という意見のようである。

 筆者もどちらかと言えばそのような「正論」的議論に収まった方がよろしいと思うが、「民主政治が様々な不満を回収して政策に反映する」ことがなかなか出来ない(却って政治不信・諦めが進行する)現状では、この「個別の過激表現」を「流行語」祭りで「通路として」様々な人がそれぞれの「一過的怒りを爆発させる」現象(↓)自体を観察する必要があるのかな・・・という印象である。

 「じこぼう」さんのツイートはそのような(メディアによるガス抜き?)現象を「(後期資本主義社会)における消費」の視点で批判的に見るよう示唆している感じだ。

 インターネット・メディアが「政治と世論操作」の問題にどう関わっているか・・・はまだそれほど表立って問題になっていない印象だが・・・。


※少し蛇足かもしれないが、これも今朝のツイートなので追加しておこう。


2016年11月26日土曜日

明日の礼拝案内

待降節第一主日礼拝

2016年11月27日(日) 午前10時30分

朗読箇所 イザヤ書 9:1-7
説 教 題 「不思議な助言者」
説 教 者  小嶋崇 牧師

 不思議な助言者は 力強い であられる。
 永遠のは 平和の君 であられる。
          (イザヤ9:6)

2016年11月19日土曜日

明日の礼拝案内

収穫感謝 主日礼拝

2016年11月20日(日) 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 14:8-18

説 教 題 「食べ物を見る」
説 教 者  小嶋崇 牧師


※礼拝後、持ち寄り昼食会があります。

2016年11月16日水曜日

(1)去るブロガーに、オクることば

「去るブロガー」とは、主に神学ブログ 4で紹介したのらくら者の日記だ。

「・・・開始からおよそ8年という短い歳月でしたが・・・」とあるが、当ブログより2年先輩なだけでなく、「英国神学事情通」として貴重な記事を書いてきただけに残念だ。

新しい任地に着いて環境が整ったらまた何か別の形ででもいいので「発信」を再開していただけるとありがたいのだが・・・。

「のらくら者の日記」を通して様々な英語圏キリスト者・牧師・神学者・文化人等を教えて頂いたが、その中で思いつくまま挙げてみると・・・


 (1) ジョン・レノックス
 (2) ドナルド・カーソン
 (3) ロイド・ジョンズ
 (4) ジョン・ストット


などが思い当たりますが、もちろんもっともっとたくさんいるのですが・・・。

ただ、忘れたくない方が一人いるのですが、その方は日本人です。
 (5) 有賀寿
です。


のらくら者さんは有賀の著書『カゴの鳥と見るな』を福音派の禁書?というタイトルの記事で紹介しているのですが、筆者は残念ながらこの本を持っていません。


しかし紹介されている「見開きにある文章・・・」の中にある
・・・極めて多数の人は、いかさまな救いをつかまされたといえます。それでいて福音派のクリスチャンは、聖書がどう伝道を教えているか、主イエスがどう福音を語られたかについて、改めて学ぶ必要はほとんどないと思っています。非常にたくさんのクリスチャンたちは、伝道者・牧師・宣教師・外人講師の話をただ鵜呑にし、それが聖書の教えと一致するかどうかを調べようとはしません。そうする必要も認めません。 なぜか。それは彼らが「カゴの鳥」とされているからです。
という警鐘のコトバが依然として「効いている」ように思います。

この課題にもっと集中的に取り掛かかることが必要に思います。

さて、最後になりましたが、「オクることば」ですね。

カム バック! (多少遊ぶとこんな感じ

2016年11月12日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年11月13日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ルカの福音書 15:11-32
説 教 題 「父の家」
説 教 者 小嶋崇 牧師

こころ(11)

2016年11月6日日曜日

(4)MLJとJSのガチンコ 追記

もう二年以上も前、「MLJとJS、JSとBGのガチンコ」と云う記事を書いたが、そのうちの「MLJとJSのガチンコ」についての追記となる。

そのガチンコがあった1966年10月18日から50年経った、という回顧記事がゴスペル・コーリションに掲載されている。


ジャスティン・テイラーがマーティン・ロイドジョンズの意義を評価する論文集、Engaging with Martyn Lloyd-Jones: The Life and Legacy of ‘The Doctor’ (Inter-Varsity Press, 2011)、の編者であり、ジョン・ストットとのガチンコについての論文も書いたアンドリュー・アザーストン(Andrew Atherstone)にインタヴューしている。

その中で以前ブログで書いた
次のようなエピソードが残っている。
1966年ロンドンでのとある会合で二人は教会論争で激しくぶつかった。
ロイドジョンズは神学的に雑多な人々が混じっている英国国教会を嫌い、福音派の人たちを引き連れて出よう、と言うようなことを主張した。
しかしそのすぐ後登壇したストットはその動きに抗議したのであった。
このエピソードについてのより詳細な解説が記されている。(ほんの一部を引用)
So what did Lloyd-Jones say exactly, and why was it so controversial?
At its heart, Lloyd-Jones’s address was a call for visible unity among evangelicals to match their spiritual unity. He lamented that they were divided among themselves and “scattered about in the various major denominations . . . weak and ineffective.” But he believed the ecumenical turmoil of the 1960s presented “a most remarkable opportunity” to rethink evangelical ecclesiology along New Testament lines.
In particular, he argued that evangelicals were guilty of “the sin of schism” for remaining visibly separated from each other, while being visibly united in their denominations to people who denied the gospel essentials. “I am a believer in ecumenicity,” he provocatively declared, “evangelical ecumenicity!” Evangelicals should not be satisfied with unity merely through parachurch networks and societies, Lloyd-Jones insisted, but should come together in “a fellowship, or an association, of evangelical churches.”
書評も読み合わせてみるとある程度イメージが浮かんでくるが、こんな感じではないだろうか。

既に一部の教職者たちが国教会を出て福音主義のグループを形成する動きが出ているところに、このロイドジョンズのアッピール(どんな福音主義組織を作ろうとしているのか具体的な部分は曖昧だが)が(既に始まっていた)離脱の動きを加速することを懸念したストットが、ロイドジョンズの降壇後に(礼儀も弁えず)激しく非難した。

ということらしい。


詳細について興味ある方は、是非ここに紹介したものを直にお読みください。

(※アザーストンさんはかなり精力的に「現代(英国)福音主義」の歴史を著作しているみたいです。ウェブサイトをご覧ください。)


今日のツイート 2016/11/6

変わったのは「世の中」なのか・・・。


2016年11月5日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年11月6日(日) 午前10時30分


朗読箇所 ローマ 8:31-39
説 教 題 「喜びと苦しみ」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2016年11月2日水曜日

今日のツイート 2016/11/2

ハローウィーン(宗教改革記念日)が過ぎたところだが・・・

話題としてはこの時期に出てくるものと云うことなのだろう。

ウェスレーの言葉とされるものは、下記の本によると1768年のダイアリーによるものだそうだ。
They well know (whether Christians know it or not) that the giving up of witchcraft is in effect giving up the Bible.


ここでのジョン・ウェスレーの引用は、学識のある人でも「(様々な)霊的存在」を信じていますよ、と以下の本の25ページで「例証の一例」として挙げられている。


まあ開明的・進歩的な知識人(近代主義者)が「様々な霊的存在を否定する」のが時流とされつつある中で、ウェスレーはかなり強くそれらの存在に対するビリーフを擁護しているようである。

聖書に書かれているということもあるし、経験上もそのような遭遇があったから、ということなのだろう。

近代主義者の行き過ぎにブレーキをかけたい、との含みもあったかもしれない。

2016年10月29日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年10月30日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 ルカの福音書 11:1-4
説 教 題 「互いの負い目を赦す」
説 教 者 小嶋崇 牧師

いのり(9)

わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を 皆赦しますから。
                                           (ルカ 11:4a、新共同訳)

2016年10月22日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2016年10月23日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 3:1-17
説 教 題 「日々新たにされて」
説 教 者 小嶋崇 牧師 

コロサイ(33)/パウロ書簡の学び(150)


 「キリストにある」生き方③
  新しい人 (コロサイ3:8-10)

2016年10月16日日曜日

(4)主に神学ブログ⑩

[2016/10/22 追記あり]

最近更新がめっきり減った。

JCE6(第6回日本伝道会議)での「N.T.ライトの義認論」という神学ディベートに準備段階も含めてほぼ半年関わったので、そちらの方のアウトプットで一杯であった。現在は休養中の感じである。

最初に「主に神学ブログ」を久々に更新するにあたっての簡単な説明の前に、更新きっかけとなったツイートから紹介して「イントロっぽく」始めることにする。

「へー(このツイートの主は)誰だろう」から、始まった。

「横レス(横からレスポンス)で聞いてみようか」
「DM(ダイレクト・メッセージ)で聞いてみようか」

・・・としばらく「誰なのか」サーチしてみたら案外早く見つかった。
神谷光信 (かみや・みつのぶ)
関東学院大学キリスト教と文化研究所客員研究員。
1960年、横浜生。修士(学術)。
専攻: 日本近代文学
と以上のプロフィールがあるブログ、
フォントネー研究院 (本のある生活)
が今回紹介する「主に神学ブログ」である。

このシリーズの過去記事①~⑧はこの記事にまとめてある。
最新⑨はこれ。(2015年6月28日)
専門から言って「主に神学」ではないわけだが、『キリスト教』で記事の数を見るとかなり書き溜めたようである。

筆者の興味で幾つか目を通したものを挙げてみる。

1. 信仰にとって、何が本質か

 「・・・洗礼の有無にかかわらず、神は、私を見ておられるであろう。私がキリスト者であるかどうかは、おそらく私が決めることではない。」

 日本の歴史的環境下、隠れキリシタンや無教会の伝統があるので、このような信仰論に類似か関連のある論考はこのブログでも幾つか取り上げた。

 ・「非キリスト者による信仰論
 ・「生きる意味: 柳澤桂子
 ・「若松英輔『イエス伝』
 ・「『霊性』を神学する」シリーズ(1234

2. 加藤圭氏の論文「史的イエスの第三研究、その輪郭と妥当性」

 キリスト教信仰にとって「歴史は(そして史的イエスは)避けられない」こと、むしろ信仰構造的には歴史を避けることはグノーシス化することを指摘している、と云う点に共感なさっておられるようだ。

 加藤氏の論文がどのような研究と対話しているか分からないが、N.T.ライトを「史的イエス第三探求の旗手の一人」と紹介している筆者としては、カトリックの方では「史的イエス研究」に悲観的な岩島忠彦教授に対して好意的な見方を紹介しているものとして読んだ。

3. カトリック知識人の存在感

 戦前の岩下荘一以下、日本でマイノリティーのキリスト教知識人が論客として存在感を示していたのに、現在(2008年)70歳以下くらいで殆どカトリック論客がいないことを嘆いている。


さて神谷さんが加藤周一の「キリスト教信仰」についてどんな論考をするのだろうか・・・。

[2016/10/22 追記]

2016年10月15日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年10月16日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ルカの福音書 9:10-17
説 教 題 「食品ロス問題」
説 教 者 小嶋崇 牧師

世界食糧デーを迎えて

2016年10月14日金曜日

(3)翻訳聖書について考える

 主宰する「ライト読書会」 のうちフェイスブック読書会の方が先ごろ(2016年8月)『クリスチャンであるとは』を読了した。

『結び』の部分に聖書について書いてある。
 最初に考慮すべき本質的なことの一つは、現代の聖書翻訳の良いもを手に入れることである。
 しかしともかくも大切なことは、現代の訳を手にして読み始めることである。
それで以下のような《質問》をした。
 皆さんが(持っているだけでなく)よく用いている(読んでいる)現代訳はどれですか?(リストになければ追加してください。)
一番多かったのは『新改訳』、以下『新共同訳』『口語訳』と続く。結局英訳も含めて10をはるかに越える聖書が挙げられた。

 中には「個人訳」とか「文語訳」とか現代訳の範疇に入るのか疑問符の付くものもあったが・・・。


 そんな折、海の向こうで ESV (The English Standard Version) の出版元であるクロスウェイ社が今後改訂を行わない、と発表した。(つまり不朽訳みたいな?)

 後から説明するが、この方針はまもなく撤回され、大見得切って「不朽訳宣言」したページも削除された模様(クリスチャニティー・トゥデー誌関連記事)である。(「不朽」とは筆者が幾分皮肉を込めた修飾表現ですので誤解なきようお願いします。)

 と云うわけで、この方針にいち早く反応し、抗議したスコット・マクナイトのブログ記事から件の「不朽訳宣言」を転載しておく。
Beginning in the summer of 2016, the text of the ESV Bible will remain unchanged in all future editions printed and published by Crossway—in much the same way that the King James Version (KJV) has remained unchanged ever since the final KJV text was established almost 250 years ago (in 1769). This decision was made unanimously by the Crossway Board of Directors and the ESV Translation Oversight Committee. All future Crossway editions of the ESV, therefore, will contain the Permanent Text of the ESV Bible—unchanged throughout the life of the copyright, in perpetuity.
The creation of the ESV Permanent Text represents the culmination of more than seventeen years of comprehensive work by the Translation Oversight Committee, as authorized and initiated by the Crossway Board in 1998. ... The decision now to create the Permanent Text of the ESV was made with equally great care—so that people who love the ESV Bible can have full confidence in the ESV, knowing that it will continue to be published as is, without being changed, for the rest of their lives, and for generations to come.
 朝令暮改ではないが、この宣言後まもなくクロスウェイ社は「不朽訳」宣言は間違いであったとして方針を撤回(クリスチャニティー・トゥデー、2016年9月28日)した。

 
 あーやれやれである。

 聖書についても、翻訳についても、筆者のような素人はうっかり「微妙なこと」に関して発言することはやめたほうがいいわけだが、ちょうど『クリスチャンであるとは』の結びで取り上げられた現代の聖書翻訳の良いもということの関連でちょっとだけ・・・。

 (1)翻訳の底本となる本文研究でさえまだまだ改訂が止まったわけでもないのに、「不朽訳」はおかしいでしょう。
 (2)(ライトも度々指摘するが)「言葉(language)も変わるし、意味も変わる」から世代が変われば新しい聖書翻訳が必要になる、でしょうね。

 翻訳聖書を「不変の聖書」みたいに勘違いするような扱いはやめたほうがいいと思う。

 現代英訳聖書の一つに過ぎないものに、「全幅の信頼」を寄せるようなことは控えた方がよろしいと思う。(それはいわゆる「聖書信仰」とは別の次元のことだろうと愚考する。)

 蛇足・・・スコットマクナイトの記事に「翻訳問題の背景となる北米のジェンダーに関する『文化戦争』事情」があるらしいことが分かります。

2016年10月8日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年10月9日(日) 午前10時30分

朗読箇所 マルコの福音書 6:30-52
説 教 題 「独りでいるのは良くない」
説 教 者 小嶋崇 牧師

こころ(10)

2016年10月1日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年10月2日(日) 午前10時30分


朗読箇所 ローマ 8:31-39
説 教 題 「どんな被造物も」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2016年9月24日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年9月25日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 ルカの福音書 11:1-4
説 教 題 「日毎に与えられる」
説 教 者 小嶋崇 牧師

いのり(8)
わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
                                           (ルカ 11:3、新共同訳)
 

2016年9月23日金曜日

今日のツイート 2016/9/23

ただいまこれにかかりっきりで、なかなか更新できない。

たまたまカルヴィンの『キリスト教綱要』を「軽くて、あまり組織的ではない」と評した(惜しくも先ごろ天に召された)ジョン・ウェブスター(John Webster)のことばがツイートされ、「へー」と共に「なるほど」と思わされた。


2016年9月17日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2016年9月18日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 3:1-17
説 教 題 「悪習慣を捨て去る」
説 教 者 小嶋崇 牧師 

コロサイ(32)/パウロ書簡の学び(149)

 「キリストにある」生き方②
  旧い習慣の変革(コロサイ3:5-7)

2016年9月10日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年9月11日(日) 午前10時30分

朗読箇所 マタイの福音書 5:1-16
説 教 題 「地の塩、世の光」
説 教 者 小嶋崇 牧師

こころ(9)

2016年9月3日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年9月4日(日) 午前10時30分


朗読箇所 ローマ 8:31-39
説 教 題 「圧倒的な勝利者」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2016年9月1日木曜日

今日のツイート 2016/9/1

たまにはシリアスなものも。




国歌強制を巡る問題:
 (米)表現の自由、憲法、愛国心
 (日)嫌悪感、日本的でない、(自由に)ポーズを変える

2016年8月31日水曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、6

「4 十九世紀とプリンストン神学」(59-72ページ)

プリンストン神学に入る前にイントロ的に扱っている「教義神学から独立させる」聖書神学のことについてちょっと。

「1787年、ヨハン・ガーブラー・・・」と言及されている部分ですが、この「神学と聖書学」の分離が端緒となって「聖書無誤」のような神学的前提を排除した実証的な歴史学としての聖書理解のスタイルが定着していった、とあります。

つまり「プリンストン神学」が「聖書無誤」の前提で神学構築される背景としてこの「神学と聖書学の分離」のような動きがあったということでしょうね。

 プリンストン神学について第一世代(C・ホッジ)と第二世代(A・ホッジとウォーフィールド)で「聖書の啓示性と真理性」についての信頼が楽観的から次第に(脅威に対する)防衛的へと変化して行く過程を要約しているようです。

(1)楽観的理性主義

 神の啓示は「言葉」を客観的媒体として「知性」に伝達され、魂全体に作用する。

 「真理は感情の中には与えられず、知性によって発見され解明される。・・・」

 「そのような啓示の真理は、科学の世界同様に検証され、確実に認識できるという。こうして聖書の預言や歴史的データをさかんに検証し、その真理性を証明し、その上に神学を構築しようとする試みを積み上げていった。」(チャールズ・ホッジ)

 「聖書は神の言葉を記しているのではなく、それ自体が神の言葉である。したがって、すべての要素や言明は絶対的に無誤であり、私たちはそれを信じ、それに従うことが求められている。」(A・A・ホッジ、B・ウォーフィールド) 

(2) 脅威に対抗するア・プリオリな無誤論

 「しかし、ここに来て進化論的世界観やドイツの高等批評学が聖書を解体分析していく中、彼らはトゥレティーニなどの逐語霊感説よりも綿密に、またそれを超えた無誤論を考え出して行く。」

 「このような危機感は、十七世紀には存在しなかった。また一世代前のチャールズ・ホッジよりも、息子A・A・ホッジとウォーフィールドが、より強烈に実感していたものである。」

 「ところが、リベラリズムの脅威をより強く意識した次の世代のウォーフィールドは、矛盾を矛盾として認めようとはせず、・・・、解釈困難な箇所はそのままにして、すべてが真理であるとみなされるべきである、と主張する。言うならば、 ア・プリオリな真理はア・プリオリなままで信ずるべきであるとして、無誤性を完璧に守ろうとしたのである。」

 「こうして十九世紀末から自由主義の圧力が増大していく中で、聖書の無誤論は、聖書批評学への道を閉ざし、保守派の防波堤として重んじられた。」

 「言い方をかえると、この時代のプリンストン神学において、聖書信仰はキリストや十字架に並ぶような信仰箇条になってしまった。福音主義の組織神学の書物があれば、聖書、神、キリスト・・・・・・の順に記されるようになる。」 
以上、(1)と(2)で目立ったポイントを引用列挙したが、筆者として要約すると次の二点が重要化と思う。

 (一)聖書の啓示に対する科学並みの「客観性」の要求

 それによって打撃を蒙ったのは「聖書テクスト」との「正直な距離感」ではなかろうか。

 「言葉=データ」というナイーブな実証主義的態度が、本来「聖書テクスト註解」を基礎にすべき神学を席巻しまった感がある。

 (二)聖書批評学アレルギー

 これは現在まで続くmalaise であるが、そして筆者の乏しい理解でもこのように言っていいと思うが、宗教改革者は基本的にその時代の聖書批評学者であり、歴史的文書としての聖書テクストの側面を忘れなかったと思う。(聖書を原語から翻訳したり、原語で註解するということは「聖書テクスト」との「正直な距離感」を常に保持することだと理解する。

 プリンストン神学にとっての聖書テクストの解釈困難な箇所の意義と、宗教改革者たちにとってのそれとは大分違ったものになっている、といっていいだろう。(ノート、3の「(テクストの)明瞭性(パーピスキュイティー)」問題参照)   
  
(次回に続く)

2016年8月27日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年8月28日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 マタイの福音書 6:5-15
説 教 題 「天と地を繋ぐ」
説 教 者 小嶋崇 牧師

いのり(6)


御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
                                           (マタイ6:10、新共同訳)
 

2016年8月24日水曜日

今日のツイート 2016/8/24

生活の細部に(も)宿る「美」を垣間見るには・・・。
 一日の仕事を終えて帰宅する。その日、起こった物語を話す。テレビやラジオでさらに物語に耳を傾ける料理をしたり。食卓を整えたり、家族のために何百と行う、単純でしかも深みのある儀式のことである。そして言う。「これが私たちだ。」「(独身であれば)これが私だ。」「ここがまさに私たちが私たちである場所だ」と。そして一輪の花を飾り、家をきれいにする。折々にそのすべての意味を語り合う。(N.T.ライト『クリスチャンであるとは』第4章「美」から)

2016年8月20日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年8月21日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 3:1-17
説 教 題 「上にあるものを求めない」
説 教 者 小嶋崇 牧師

コロサイ(31)/パウロ書簡の学び(148) 



さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。
あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。3章1-4節、新共同訳)
 

今日のツイート 2016/8/20

映像「プラス」SNSの世紀・・・ということだろうか。


この映像が(世界中の?)人々の同情を誘った、と云うのは一つ。
それが「ヴァイラルした」のはまた一つ。

その間の(何かしら構造的な)連関を分かろうとすることに多分意味があると思う。

2016年8月13日土曜日

明日の礼拝はお休みです

巣鴨聖泉キリスト教会での明日、
8月14日の主日礼拝はお休みです。

どうぞお間違えありませんようにお願い申し上げます。

※今年は比較的過ごしやすい暑さですが、熱中症等 健康にはくれぐれも留意してお過ごしください。

2016年8月6日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2016年8月7日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヤコブの手紙 3:1-4:10
説 教 題 「思いとことばと行い」
説 教 者 小嶋崇 牧師

こころ(8)

わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。

上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。

(ヤコブ3:9-10、17-18、新共同訳)

※次週、8月14日の主日礼拝は休みとなります。

2016年8月2日火曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、5

「3 敬虔主義と信仰復興運動」(45-57ページ)

今回の部分は筆者にとっては自派(ホーリネス・メソジスト)と深い関わりがある時期なので、前回とは逆にかなりファミリアリティーがあり読んでいてもほとんど違和感はない。

(1)敬虔主義

本書では先に福音主義・ウェスレーが紹介されているが)17世紀の「プロテスタント正統主義」との関係で次のように説明されている。
ドイツ敬虔主義の父と言われるシュペーナーは、プロテスタント信条・信仰告白に対抗して、あらためて聖書を掲げた。聖書は、教理・教条の源ではなく、信仰者の霊性と生活の源となるべきである。教条主義の中で、神の御言葉は聖霊と信仰体験から離れて、知性のために読まれるようになり、御言葉の生ける力が失われていったという。(52)
ここから引き出される「対立図式」は以下のようになる。
「信条・信仰告白」「聖書(のテクストそのもの)」
(聖書の主たる目的)「教理・教条の源」「霊性と生活の源」
(聖書の読まれ方)「知性的」「ハート」
(2)福音主義・ウェスレー

 ここでの注目点はウェスレーの福音的回心体験にみられる(頭の知に対して)「心の知」、そしてそれは「個人的に体験される」ものとしての(聖書の)福音のメッセージである。

(3)信仰復興運動

 ここでの注目点は(制度的)教会の内外に「個人的に体験される福音」を語る情熱とそれを支える革新的手段(パンフレット大量印刷・大衆伝道)の採用である。

 そしてそのバックストーリーとしての制度的教会の時代に対する硬直性であろう。教派信条はこちらに整理される。


(感想)
17世紀から18世紀へと西洋キリスト教が、社会の変化に対応して起こした「一つの進展」として「敬虔主義・信仰復興運動」は捉えられるのではないか。

上記に掲げた「対立の図式」で二分された要素は必ずしも二者択一であった必要はなく、却って相互補完的な関係と捉えられるかもしれない。


以上かなり宙ぶらりん状態のまとめで今回は終わることにする。


(次回に続く)

2016年7月30日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年7月31日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 ルカの福音書 24:36-49
説 教 題 「聖書はわたしについて」
説 教 者 小嶋崇 牧師

聖書の一大ナラティブ

2016年7月29日金曜日

今日のツイート 2016/7/29

数日来この事件(相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」殺傷事件)についていろいろ考えていたところだ。



連ツイの最後三つだけを紹介したので、文脈を補足すると、この記事に対する批判の必要を感じてのものであることが連ツイの初めに断られている。

筆者の方の「いろいろ」の一つは、事件の重大さ・深刻さを鑑みて速やかに表明されるべき(であった)「アラーム(覚醒)」が明瞭に出なかった、ということ。

事件を起こした個人の特殊状況その他を考慮に入れても、今回の事件が「人間の尊厳」に対する挑戦であることは免れないだろうからだ。

しかしその面に関しての「アラーム(覚醒)」は海外のメディアの方が速かったように思う。

フェイスブックではある「ドイツ在住日本人」女性の方の投稿がこの面に注意を向けるようアッピールしていた(と記憶する)。


かつて『酒鬼薔薇事件』のときであったか、「なぜ人を殺してはいけないのか」に「どのように答えたらいいのか」という問いが立てられた。

学校その他で「いじめ」によっていのちがなくなると「かけがえのないいのちを大切にしましょう」と繰り返される道徳訓のひ弱さ。

直接には繋がりはないが、「いのち」や「人間の尊厳」を根底で支える教えを道徳的権威とともに言明することが躊躇われる何か、が背景の一つのように思われるのだ。

あるノーベル賞作家が、その理由を「人間として守るべき暗黙の了解」のような道徳的価値観(大前提)を「口にしなければならないことへの恥ずかしさ」のようなものを表現していたように思う。

(道徳的であるべき)「人間はそこまで退化してしまったのか」、「そのような悪びれもせず人のいのちを奪うことの出来るような人間を社会は生み出してしまったのか」という改悛に沈んだまま沈黙してしまいたくなる敗北感・・・のような。

そんなムードが感じられた。

今回の事件に際して人々の心の中にある「道徳感度計」が何度を表示するか、「道徳針(モーラル・コンパス)」が何を指すか、はまだまだ見守る必要があるのだろう。



2016年7月23日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年7月24日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 ルカの福音書 11:1-4
説 教 題 「御国が来ますように」
説 教 者 小嶋崇 牧師

いのり(6)


 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。 (ルカ11:2、新共同訳)
 

 「御国が来ますように」と祈るとき、幾らかでも「御国」についての具体的なイメージが浮かぶでしょうか・・・。
 20 世紀以降の西洋キリスト教では、近代化の問題に対応する中で「社会正義と平和」に取り組むリベラル派、それに反発して「個人的救霊(伝道)」を強調する保守(福音)派に分裂してきました。その分裂は「福音」の理解、「福音書」の読み方にもそのまま反映されてきたようです。
 その結果福音書の「神の国」は「この世」での社会正義・平和実現に、「十字架」は「あの世/天国」へと個人を救済する、と二分したメッセージのまま、日本に、そして現在へと、引き継がれてきたようです。

 

2016年7月19日火曜日

(5)オープン神論サイドノート②

をアップした後は泣かず飛ばずの「オープン神論」サイドノートになっています。

理由は幾つか考えられますが、大きな方の理由の一つは内容の低調さ・・・もあるかも知れません。

筆者はどちらかというとオープン神論の方に共感を覚える、くらいな程度ですから、ことさらに肩を持つわけではありません。

そもそもが「神論」を論ずる「プローズ(prose)」の面で「オープン」に反対する(異端呼ばわりする)側のことばに「リジディティー(rigidity)」を感じてしまうのです。

それはもちろん(リフォームドの)神学的システムから派生してくるものだと思うのですが、しかしそれでももう少し言い方があるだろうに、と思ったりするのです。

と云うわけで今後もこのシリーズを継続するだけの「関心度」が維持できるかどうかは分かりませんが・・・。

今回紹介する動画は、ダラス・バイブル・チャーチの トム・スティガル牧師のものです。(たまたまです。別に特別いいとかそう言うわけでもありません。)



・「オープン神論者」が福音主義者の中に「侵入して来た」だけでなく、大勢を占めつつある・・・みたいな言い方をしています。(福音主義神学会での2004年、ピノックたちが締め出されそうになった経緯からの変化を見て。20分前後くらいのところ)

・「内輪もめ」の雰囲気が強く感じられるのですが・・・。やはり「オープン神論」の影響力を阻止しよう、と云う目的での「「オープン神論」についての学習ビデオになっています。

・その面では割合良くできているのではないでしょうか。講師自体はそれほど頭に血が上っているわけでもなく、落ち着いて「オープン神論」の(反対者から見ての)間違いを指摘しています。



(次回もあれば、続く)

今日のツイート 2016/7/17

いろいろな教訓が・・・


・「プールサイドは滑りますので走らないでください」
 ・「後方注意を怠りなく」
 ・「自分がして欲しくないことは人にもするな」
御覧ください、彼らは悪をみごもり/災いをはらみ、偽りを生む者です。
落とし穴を掘り、深くしています/仕掛けたその穴に自分が落ちますように。
災いが頭上に帰り/不法な業が自分の頭にふりかかりますように。(詩篇7:15-17、新共同訳)

注意!

実際は「一昨日のツイート」というべきなのですが。
詩篇の引用を付けてから考えました。
あまりいい趣味ではないかと思いアップするのはやめておこうか、と。

最初はただのプールサイドの悪ふざけが目に留まっただけなのです。
しかし注意して見たら、先日のトルコの軍事クーデター未遂事件に引っ掛けたものでした。
ちょっと笑ってられない事態です。

しかし、「ユーモア」の問題提示としてアップします。
と言うのも、拾ったのはあるキリスト者、しかも新約聖書学の博士課程の学生がRTしたものでした。

欧米ではユーモアは好まれます。しかし「テイスト」というのもあるわけで、これは文化によっても個人によっても基準は変わってきます。時に失敗や行き過ぎから学ぶこともあるでしょう。
個人的には、そう言うわけで「ちょっとねー」という感じです。

「面白いとすぐRT」をしてしまうことへの自戒も込めて。

2016年7月16日土曜日

(3)「イチオシ!」の入れ替え、2016

大体年一回のペースで更新しているイチオシ!です。

 2014年・・・水村美苗『日本語が亡びるとき』
 2015年・・・金鎮虎『市民K、教会を出る』

毎回ジャンルが変わると言われそうですが、今年はこれです!!

エリック・ブリニョルフソン『ザ・セカンド・マシン・エイジ』(2015年7月)


どこで評判を聞いたかはもう覚えていない。

昨年7月の発刊だからもう1年経つわけである。

毎度のことながら自分で本書を購入して読んだわけではない。

図書館で借りて読んだ。(『日本語が亡びるとき』はその後古本を購入したが。)

予約者が多く確か2ヶ月くらいは待ったと思う。

そして、一回では読み終えられず、その後2回借りた。(その2回とも again 予約待ちだった。)

そして明日返却となった。まだ10-20ページくらい残っている。

でも大体内容は掴めたと思うので、記事にしてもいいだろう。


デジタル技術によって「人間の労働」が肉体労働だけでなく、知能労働もどんどん取って替わられる近未来社会をいろいろな角度から検討している。

まずコンピューターのもたらす「革新」が人類が経験してきたものとしては「産業革命」に続く広範なものであり、そのスピードもある時点を越すとナントカ数的ものになるそうだ。

一昔前コンピューターがチェスの世界チャンピオン破った事件があったが(今年だったかチェスと比較するとはるかに複雑で暫くはまだ人間を負かせないだろうといわれていた囲碁でもついに何勝かしたのが今年だった、かな・・・。)AI(人口知能)の進歩が加速度的に進むだろう、そして労働市場その他の経済の様相を大きく変えそうだ、という予測にかなり焦点を当てている。

個人的にはこのような「技術革新」がもたらす文明的問題については、過去に何冊か興味深く読んだことがある。

大雑把な印象だが、それらの「未来予想」本が現実をどの程度予測したかと言われると(その途上のものが殆どだが)それほど目を見張るようには実現していないような・・・。

だからといって、このザ・セカンド・マシン・エイジ』も眉唾で読んだらいいとは思わないのだ。

人間に取って替わる「自動化」技術はデジタルの前からあり、長い歴史の延長線にある技術の問題であり、ただデジタル技術というほぼ無限にコピーすることができる、量的制限を撤廃する技術がもたらす革新的変化の予測がかなり大きいとはいえ見通せないところが難しいポイントのようだ。


教会の牧師として一番関心が向く問題が、「人間の尊厳」である。

以前どこかで書いたかもしれないが、大学は経済学部だったが、原論で「マルクス経済学」の基礎を叩き込まれた。

労働者の「労働」が生んだ商品価値が資本家によって搾取される構造を理論化したのがマルクス経済だ。

つまりそこでは「労働」とは人間の価値を端的に表すものだった。

しかし未来社会では「疎外」は「労働者と商品」ではなく、自動機械が人間の労働機会をどんどん奪っていくという構図なのだ。

人間の価値は、人間の尊厳は「働く」ことにあるとすると、これはやはり大きな危機となりうるわけだ。

その辺の展望や対策についても本書はいろいろ書いているのだが、基本的に経済学畑の人なのだろう、このような問題の「精神性」の側面はそれほど深められていない、と云う印象だ。

広範な(事務・頭脳労働も含む)単純労働者の仕事が取って替わられたり、所得格差が大きくなったりと自動化社会への移行過程でも難しい問題が出てくるし、既に出てきている。


まっ、そういった事柄に関心のある方にお薦めしたい。

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2016年7月17日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 2:1-23
説 教 題 「キリストと共に死んで」
説 教 者 小嶋崇 牧師

コロサイ(30)/パウロ書簡の学び(147)


あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。
これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。 2章20-23節、新共同訳)
 

2016年7月14日木曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、4

「2 17世紀プロテスタント正統主義」(33-44ページ)

今回の部分は筆者にとってはかなり未知な部分で、16世紀の「宗教改革」とある程度のファミリアリティーがある「18世紀(初期信仰復興運動)」 (次章の区分で扱われる)の間に横たわる「知の空白」大陸である。

だから余り危なっかしいことは言わない方がいいのだが・・・。
 
『逐語霊感』と『十全霊感』
 「十全」とは、霊感が部分ではなく、聖書全体に及んでおり、したがって、救いや信仰のことだけでなく、歴史や科学の領域にも及んでいるという考え方である。「言語(逐語)」とは、霊感が思想だけでなく、一つ一つの言葉にも及んでおり、したがって、霊感が言葉と結びついていると考える。 

逐語霊感・・・聖書の記者による「言葉の選択」にまで及ぶ
十全霊感・・・救いや信仰のことだけでなく、歴史や科学の領域にも及んでいる

先ずもって「逐語」と「十全」の違いがピンと来ない。

論理的順番で言うと、①十全霊感があり、それをさらに強化するために、②逐語霊感にまで進めた、と説明されると納得行くが・・・。

つまりこう言う風に「意味(思想)」と「言語構造(語・フレーズ)」の関係を捉える場合である。

 「意味(思想)」を建物の2階部分、「言語構造(語・フレーズ)」を建物の1階部分にたとえ、下部構造が上部構造を規定する、と理解した場合のことである。

しかしその辺のところはさっぱり分からないので、目下はそれなりに「当時の霊感論が時代精神(合理主義、ロマン主義)にある程度影響されて形成された」ものであり、しかしそのような霊感論として形成される論理的必然性は「聖書の権威」を「(人によって)書かれた言葉であるが、真理の直接啓示」として弁護・保証するため、二重三重に論理武装する必要を覚えたから、と仮定しておこう。

17世紀は筆者にとって「知の空白」大陸と書いたが、妄想的仮説を乱発しそうなのでもうやめておこう。

宗教改革後のプロテスタント・スコラ主義が歴史的にどう発展したのかは、今後のより実証的な歴史研究を探すこととしよう。結構面白そうだ。

あるいは時代背景として興隆しつつある「合理主義(rationalism)」との関係が「思想史的」に追跡されると面白いかもしれない。

(次回に続く)

注:「改革派の正統主義」と云う文章が見つかりました。参考になるかもしれません。

今日のツイート 2016/7/14

なんかいろいろ憶測が流れ出しているが、「象徴天皇制」部分が「平和憲法」部分とどう連絡するのか(しないのか)、今後の改憲論議の行く末とともに興味深い。

2016年7月10日日曜日

今日のツイート 2016/7/10

今日は参院選の日ですが、それとは直接も、間接も(少しはある?)、関係ないものです。すいません。


ところでちょっと気になって「慣用的に用いられる『神学論争』」とはどういうことなのか、とちょっとググって見たら、意外や意外、主に神学ブログ⑦で紹介した伊那谷牧師こと大杉先生のブログが話題にしたことだったようですね。(これ

2016年7月9日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2016年7月10日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ルカの福音書 12:13-34
説 教 題 「心のあるところ」
説 教 者 小嶋崇 牧師

こころ(7)


小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。
              (ルカ12:32-34、新共同訳)
《説教要旨》


 今日は参院選投票日です。しかし政治についてではなく、主権者である国民の投票行動に関わることを主イエスの教えから振り返ってみたいと思います。
 投票するとき普通考えるのは候補者の所属する党とか、人柄・実績とか、政策とかではないかと思います。しかし今朝考えたいのは候補者の「価値観」ではなく、投票者である私たちの価値観です。私たちの政治面や経済面、暮らしや人生設計での優先事項を尺度に「候補者」を判定するのではなく、そもそも私たちの「心の宝」がどこにあるのか、を問題にしたいのです。

 今朝のルカの箇所では「貪欲への警戒」「施しによって『天に冨を積む』」ことが言われています。弟子たちの目の先は「神の国」に向いているべきであり、自己の生活の充足や経済の半永久保証に一極集中的関心と信頼を向けてはならないことを教えています。

 「神の国」とは、将来的に神がもたらそうとしている世界のことであり、私たちがそれに(今から)どう対応するかの課題のことです。私たちの「今の時勢」での投票は、「来るべき神の世界」に向けての「先行投資」の面があるように思います。「神の国」を心に思い描きながら、一票の投資先を考えましょう。
 

2016年7月7日木曜日

(5)「イエスの妻」断片、偽造ほぼ判明

一度だけ「イエスの妻」パピルス断片について記事をアップした。

遠からず収束するのではないかと云う観測を立てておいた。

当然「偽造」という線で。

しかしことはなかなか収束しなかった。

パピルス断片や使用インクが「年代もの」ということが専門的検査の結果得られたからだ。

しかし当初から、コプト語の文法や字体については専門家たちは「偽造」の心証を強くしていた。


このように(パピルス・インクの)物理的な信憑性と、(文法・字体の)内容的疑いという反発する二つの面から「決定的なこと」を出せずに時間が過ぎていった。

しかし後から紹介する、The Atlantic誌のアリエル・サバー記者が、このパピルス断片の「来歴・入手経路(provenance)」の面から徹底な調査を行った結果、とんでもないストーリーが浮上することになった。

The Unbelievable Tale of Jesus Wife

残念ながら英語をよく読める人でも、この長文の、入り組んだ「ディテクティプ・ストーリー(推理小説のようなストーリー展開)」をじっくり読むのは大変だと思う。

しかし見返りは大きいと思う。

何しろ登場人物を取り巻く「道具立て」が殆どハリウッド映画並だ。

少しだけ紹介しても、

 (1)ウォルター・フリッツ(断片をカレン・キング教授に持ち込んだ人物で、状況から見てこの人物が今回のドラマを仕組んだ張本人と推定される。)は、旧東ドイツ出身で、コプト語研究でキャリアを得ようとしたらしい。

 (2)しかし上手く行かず、一時シュタージ(旧東ドイツ秘密警察)本部跡に立てられた歴史博物館に勤め(そこに収納されていた物品が幾つも盗難に遭い、その責任を取って辞職、みたいな)

 (3)米国に拠点を置いて、(ポルノを売り物にしたウェブサイト・サービスを運営していた)妻と、「ダヴィンチ・コード」を下敷きにしたような・・・

 (4)キング教授がヴァチカンで初めて断片のことを「イエスの妻」断片と命名して発表するより3週間も前に、その名前でドメイン(www.gospelofjesuswife.com)を獲得し・・・

 以上はほんの少しだけしか紹介できていないが、そして記事が出てから3週間以上も経ち、幾らか記憶も鈍ったので多少詳細な部分では正確ではないかもしれないが、とにかく最後の「あっというエンディング」まで驚きの連続と目くるめくような展開であきれるほどのストーリーだ。


で、筆者が情報収集している範囲(新約聖書学者でネットで盛んに情報提供していたような方々)では、この記事を受けてほぼ大勢は定まったとの見解で満ちている。

幾つか代表的なものを紹介しておく。

 (1)マーク・グッドエイカー、イエスの妻福音書・最終章
  関連するメディア記事(ボストン・グローブ、等)や偽造問題を追跡してきた研究者たちのブログ記事のリンクがまとめられている。

 (2)アリン・スチューさん(コプト語/パピルスの専門研究家みたいだ)のフェイスブック・ページ
  断片がメディアに登場した初期から「偽造」をほぼ確信していたらしいが、「2016年6月17日」のエントリーに、仲間たちの「おめでとう」のようなコメントが並んでいる。

(※フェイスブックの性格上、リンクを貼るのを控えました。ブログの方には関連記事の投稿がないところを見ると、専門家としての発言は本人的には時期尚早ということかもしれません。)

[2016/07/17追記]
 (3) 「ローグ・クラシシズム」ブログの2016年6月24日の記事
 (ウォルター・フリッツにまんまと嵌められてしまった)カレン・キング教授(ハーヴァード大神学部)に多少の落ち度はあったとは言え、学者としては十分情報公開や慎重な審査のもとに発表を進めたとして弁護している。

 この記事のご苦労さんなところは、アトランティック誌記事を時系列にまとめて「流れ」を見やすくしていること。何しろいろいろな思惑で動いているわけだからそれを時系列で追ってみないとポイントがはっきりしないことが多々ある。

 (4)「ジーザス・ブログ」(英語圏神学ブログ、16 で紹介)のアンソニー・ルダンが総括的な記事を書いている。
Now that there is no longer any reasonable reason to argue for the fragment's authenticity, let us devote a bit more time for some self-reflection, shall we? I promise to make this post extra lengthy for your navel-gazing pleasure.
(最早件のパピルス断片の真正性を支持する理由が全くなくなったところで、反省すべきことを探し出して、一体全体何でこんなことになってしまったのか“自分のへそをじっくり見つめるように”振り返ってみようではないか。)
アンソニーはユナイテッド神学校(オハイオ州にある合同メソジスト認可校)の新約学教授で、史的イエス/福音書研究領域で「聖書記者の記憶」に光を当てて福音書記述を研究する比較的新しい研究手法をリードしている一人です。(あのリチャード・ボウカムの目撃者証言の手法とも多分に重なります。)
 
 彼が最後に書いているポイント―― 今やSNSは研究者間の意見交換等、研究発表に不可欠なものになってきた ―― は今回の事件がまさに証明していることなのだと思う。

 ということは研究者たちがブログ等に発表するプロセスに筆者のような素人も含めたパブリックが(多分に野次馬としてだが)参加できる時代になってきた、ということだろう。

 いや、それにしても今回の「イエスの妻(福音書)」断片事件は面白いものであった。