2010年9月5日日曜日

有神論的世界観と『被造世界』の科学的解明

御大層な題になって申し訳ありません。

要するに、「私たちの住む世界全体をどのように考えるのか。キリスト教はどう見ているのか。」
と言うことに関する覚書みたいなブログです。

先日「無神論」と言う題のブログを書きました。
その中で「世俗化論」と言うものを紹介しました。
単純な『世俗化論」は、「科学的世界観が樹立されれば、宗教的世界観は取って代わられる」というものです。

ところがそう単純に宗教的世界観が無くなったか、と言うと現実にはまだ無くなっていません。
注意深く観察すると、現代人の世界観は、科学的世界観を中心にしながら、宗教的世界観を含む。それも異種の宗教・擬似宗教的世界観が混在して構成されているように見えます。

病気になっても、近代医学や東方医学(漢方)、民間療法から、占い、祈祷、・・・“効きそうなもの”だったら何でも手を出すのが現代人ではないでしょうか。

ある意味で『世界=全リアリティー』は、様々な学問・技術に専門化し・分化し・断片化し、全体を掴めないまま、『モザイックな世界像』、『未統合の世界観』の中を行ったり来たりしながら、答えを探して生きているのが現代人と言えないでしょうか。

つい最近「ビッグ・バン宇宙論、時の始まり」で有名なスティーブ・ホーキング博士が、ビッグ・バン理論では『神の存在』は必要ない、と改めて主張しているそうです。
ヤフー・ニュース(英語)

啓蒙主義までの科学は『神の存在』が前提されていました。
それ以降は科学は無(脱)神論的方向に発展してきました。

その間、かつて「諸科学の女王」だった神学は、とっくにその座を追われ、自然科学からまともに相手にされず、自らの城に閉じこもって何とか大学と言うアカデミックな世界で生き延びてきました。

しかし、ポスト・モダンの知的状況は、あらゆるアカデミックな権威を否定し、科学とか宗教を問わず、様々な「“私の”知っている“世界”はこんな感じ」言説が共存しています。(少し誇張して言っています。)

さてキリスト教的には、このような知的・精神世界的状況をどう見るでしょうか。

問題点① 科学の発達に神学が遅れを取ってきた
「科学と信仰」「科学と聖書」のように、啓蒙主義以降、主に「二項対立的議論」が支配的でした。その結果、キリスト教側から実証科学に対抗するために、科学的認識論、方法論を聖書に当てはめる傾向が強くなりました。(聖書の言語・叙述を科学的言説に対応させようとして、聖書を自然科学に並行するデータと見立てるようになりました。)

古い神学的前提では「二つの啓示(『聖書と言う特殊啓示』と『自然と言う一般啓示』)」と言う考え方で二者関係の調和が留保されてきたのですが、近世以降自然科学が理論的に先行し過ぎて、神学的フォローが追いつかなくなったため、致し方ない面がありました。

問題点②近年の神学的取り組み
近年になってT.F.トーランスや、最近になってアーサー・ピーコック、ウォルファート・パネンバーグ、ジョン・ポルキンホーン、そして今話題のアリスター・マグラスなど、勇敢にも「自然科学」と対話を試みる方々が出てきました。

対話の出発点として、神学者は諸科学の成果を真摯に受け止めなければなりません。近代以降の自然科学は、もはや「神の存在」と言う前提なしに、実証的に理論を積み重ねてきました。伝統的(組織)神学の枠組みにこれらの科学理論を無理やり押し込むことは知恵のあることではないでしょう。

アメリカでは「進化論」が目立って取り上げられる特殊事情があります。これも「科学と信仰」一般論と切り離しすぎると、偏った「科学と信仰」観になるのではないかと懸念します。

一般論としては①科学的知識分野全般に明るく、②聖書言語、記述の釈義的背景を柔軟に理解でき、③自然神学論史に通じている人が、議論を発展させて行ってくれるといいと思います。

実際には、一人の人がこれをやるのは到底無理でしょうから、やはり学際的共同作業が相応しいと思います。私が学んだ Graduate Theological Union の神学と自然科学研究センターMetanexus など、現在では「科学と宗教」「科学と信仰」を深いレベルで対話させている研究機関が輩出しています。今後も期待できると思います。

問題点③異なる記述言語レベルで対話は可能か
個人的に一番関心が深いのは、②の「聖書言語、記述」自体の持つ「ポエティックな表現による統合された被造世界観」です。やはりキリスト教世界観的には、聖書、特に詩篇などに表現されている『被造世界の素晴らしさを賛美する』スピリットが、科学的探究を相応しくリードする要素を備えているのではないかと思います。

その意味でも、被造世界を叙述するプライマリー言語は、聖書的表現であり、より包括的な記述ではないかと思います。科学的叙述は聖書表現やその世界観的叙述から、ヒントやインスピレーションを得ることが出来、また神学はそのような科学的被造世界の解明に示唆を与えることが出来るのではないかと思います。まっ、私の個人的期待でもありますが・・・。

9 件のコメント:

  1. お初にコメントいたします。ミーちゃんはーちゃんこと「かわむかい」と申します。以後よろしくお見知りおきをお願い申しあげます。

    コメントのご要望があったので、ミーハーな性格なので、お調子者特有のミーハーなコメントしてみたいと思います。

    基本、ミーハーでおちゃらけたキャラクターなので、突然、大和郷にある教会に出没するかもしれません。今年は、津・諏訪・お茶の水でやってしまいましたし。面白そうなものがあると、つい寄ってしまう癖があるので。NTライトの読書会のサイトから、このブログ、たどりつきました。

    個人的な感想を少しだけ。

    基本的にご意見に大賛成!! ですけれども

    ①神学が科学に遅れをとってきた。

    にちょっと違和感がありました。
    遅れ、とか言う概念、本当にポストモダンの環境で意味を持つんでしょうか。なんか進化論的な世界観があるような気がするのですけれども。時代の先端を行っている→進んでいる→進化しているといったような。ご意見に対する批判ではございません。印象論なのですけれども、ポストモダンの環境下では、それぞれが相互に違うということを認めて、その中での対論というのか、ディスクルスというのか、対話というのかが大事なような気がするのは、私だけかもしれません。

    戦車やヘリコプターで鳴り物入りで乗り付け、戦車やヘリコプターで論敵を蹴散らしたうえで、一方を正義としたり、正義とした考え方を真実としろ(先生のお書きになったものでは、啓蒙時代以来の二項対立的な議論として書かれているもの)、というのではなく、認識の違いを認めつつ、より納得できる認識が共通理解にならないか、ということを模索していく世界がポストモダンではないかなぁ、と思うのです。だからこそ、こんな感じ、という言い知れない「ゆるさ」が漂うのは避けられないのですが。ポストモダンは、エキュメニカル運動や異端論争とも絡むので、キリスト教的世界観としては、ややこしいものがあるように思うのですが。

    創造論に関しては、個人的な信仰として、創造論に立ちますが、創造論の人たちというよりは、その尻馬に乗った人たちにそこはかとのう匂ってくる「自分たちこそ真理」であり、相手の立場を一見認めているふりをしながら、実はあまり認めていない主観主義的な対話(というよりは教条主義的で攻撃的な批判方法とその精神)に個人的にはなじめないものを感じます。キリスト者として属しているグループは、世間様からは、Fundamentaristと呼ばれるグループに属しているのですけれども。ナイーブ過ぎるのかもしれませんが。

    イギリスでは、進化論論争はそれほど大きくなく、アメリカで大きいのには、以前、ミーちゃんはーちゃんの書き殴りではございますが、ポリティカル・コレクトネスの議論がその背景にあると思います。

    http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=151

    まぁ、進化論の立場のドーキンスさんは、イギリス人なのですが、どちらかというとこの戦車とヘリで乗り込んで、風な議論の立て方をするところがあるので、この人、イギリス人?と思ってしまいますが。アメリカ人は、こんな対立的な会話、大好きなんですけど。まぁ、子供時分から、賛成、反対に分かれてのディベートの文化で暮させますからねぇ。ディベートって、アメリカ風の文化ならでは、のように思います。Crossfireって番組がCNNであったように記憶しています。

    ブログ、楽しく拝読しています。私の家には木工をするほどのスペースがないので、子供の夏休みの宿題を手伝ったり、自分自身の作品として、木彫しながら遊んでいますが、今年の夏は暑いので、まったく作品に手付かずの状態です。

    非常にインスパイアリングな記事だったので、少し自分のブログでも書いてみたいと思っています。暑さのために脳が夏休み状態なので、いつになるかは未定でございます。

    また、時々おじゃまします。

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  2. かわむかい様。
    早速に「促し」に乗ってくださり、コメントを頂きありがとうございます。
    実は名前だけでピーンときました。「のらくら者の日記」には記事になっていましたよね。
    それから「本を枕にスピリチュアルな日々」にもコメントを残しておられました。
    ついにこんな新参ブログにまで目を配っていただき光栄です。
    さて、「神学が科学に遅れを取った」云々は、神学がもう一度諸科学の上に君臨するようなニュアンスで言ったのではありません。「・・・伝統的(組織)神学の枠組みにこれらの科学理論を無理やり押し込むことは知恵のあることではないでしょう。」と書いたように、今や神学ができることは「先ずは対話」それも「聞く」ことから始める対話と言うことです。神学は今までそれさえも出来ていなかったからです。それは啓蒙主義以降の諸科学の専門家・断片化傾向の一例であり、神学だけのものではありませんが。ただ科学重視の世間は「神学」を「サイエンス」とは見做さなくなりました。A・J・エイヤー(Ayer)などが一世を風靡した二十世紀前半の哲学界では『論理的実証主義』から「宗教的言説は実証不能ゆえ、サイエンスではない」、とされ、「科学と宗教」の対話さえも出来ないとかつては思われた時があったのです。
    仰っておられるように様々な言説が共存しているのがポストモダンの知的状況の一面です。しかしそれは一つの(西洋キリスト教)文明の崩壊過程の一段階で、必ずしもゴールではありません。
    リアリズム的には知の専門化・断片化が避けられないと言う認識と、その知的状況に対する二つの異なるアプローチがあります。一つはポストモダニズム(フーコー、デリダ、等)であらゆるメタナレーティブの再構築を否定的に見ます。もう一方で啓蒙主義の合理主義的理性の弱点を認めつつ、その歴史を再構成する作業を通して、より統合的な理性の修復を目指す人もいます(ハーバーマス)。
    哲学者から見ると「神学的ディスコース」が後者のような作業ができるとはあまり思っていないでしょう。
    むしろ理性の行き詰まりを打開する可能性を持つのは、アートのような、エクスタティックな知性、と見ている方が多いようです。

    さて大分コメントとはずれてしまいましたが、「創造論(※神学一般で言う創造論ではなく、創造論の偽科学的再解釈であるcreation scienceのことを指しておられるのだと思いますが)」に対する違和感同感です。
    古くは、根本主義、初期福音主義が、自己防衛に奔走していた頃、「6日創造説」を「文字通り一日24時間」での6日間、と解釈することを『シボレス』のようにしていた時期がありました。
    このような解釈が、筆者が指摘した「・・・キリスト教側から実証科学に対抗するために、科学的認識論、方法論を聖書に当てはめる傾向が強くなりました。(聖書の言語・叙述を科学的言説に対応させようとして、聖書を自然科学に並行するデータと見立てるようになりました。・・・」と言う一例ではないかと思います。これは聖書の文学的性格を無視する、無謀な(ちょっと言い過ぎかもしれませんが)そして粗野な議論だと思います。
    現在求められる「科学と聖書」「科学と信仰」「科学と神学」の対話は、相互の記述言語の固有の性格を認めた上での対話です。
    そして大事なポイントは、「対話」はキリスト教側から必須です。なぜなら科学が相手にしている「世界、リアリティー」は聖書が、キリスト教が相手にしている「世界、リアリティー」と同一だからです。二者は別の世界に住んでいるのではありません。同じ世界に住んでいる、しかしながら異なる解釈が存在する、だから対話してどこがどう異なるのか、また共有できるものは何かを探求する必要があると思うのです。対話を避ければ神学は「サイエンス(知識)」から撤退したままと見做されてしまいます

    と、まあー余りコメントっぽくない感じになってしまいました。

    どうやら神出鬼没な方とお見受けしますが、こちらは小心者の方なので、なるべくお手柔らかにお願いします。

    ではまたの来会をお待ちしています。

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  3. ミーちゃんはーちゃんことかわむかいでございます。

    お驚かせることになってしまったようで、申し訳ございません。私の雑な文章にご丁寧かつご親切にご対応いただき、申し訳ありませんでした。

    先生の対話を大切にされそうなご姿勢にひかれて、つい甘えてしまいました。まるで、自分自身が嫌っている、「戦車とヘリで乗り込んで・・・」をしてしまったように思います。失礼の段、重々お詫び申し上げます。

    神学というか、信仰者でも対話を拒否し、対立的な姿勢だけが目立つ方が少なくないと感じていただけに、先生のコメント、深く染み入りました。

    私自身は、ハーバマスから、キリスト教と世界との関連における公共性の問題に関係していったものですから、デリダとかフーコーとかの知識がないものですので、もう少し勉強してみたいと思っております。

    本職の仕事の関係があるので、10月のライトの研究会参加できるかどうか、予断を許さないのですが、その日に実証試験が入らなければ、門前の小僧として参加できればと思っております。参加する際には、事前にご連絡入れさせていただきたく思います。

    のらくら者の日記の方のところにお邪魔する際には、奉仕しておられる教会かどうか、今一つ確信が持てなかったもので、突然おじゃまする形になってしまいましたが、ライトの研究会に参加する際には、事前にご連絡を申し上げます。ただ、この度の実証実験は、お天気にも左右されるので、どうなるか、直前まで読めそうにありませんけれども。

    また、拝見させていただきます。

    ご丁寧なコメント、ありがとうございました。

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  4. ネットサーフしていて興味深いタイトルだったので、足跡残しておきます。
    個人的なざっくりな感想は、実証主義的科学観は一般人のふつーな感覚には未だ残っているけれど、科学哲学の分野ではもはや過去の信仰とみなされている、と思います。
    科学との対話、自然神学の再興の動きがありますけれど、それってトミズム(スコラ学)とどう違うのか、疑問です。参考文献などあれば教えてください。(今マクグラスの、fine-tuned universeは読んでます)

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  5. 感想ありがとうございます。
    背景がどんな方なのか(科学哲学に関心のある方?)良く分かりませんので、どんなレスを書いたらよいのか自信ないですが、「実証主義的科学観」とは positivistic scientific view のことでしたらそうでしょうね。
    おそらく科学哲学の分野のものをお読みの方なら私などより良くご存知ではないかと思います。
    何名かの名前を挙げていますが、ポルキンホーンは量子論で一線の研究をされた後牧師になられ、神学的主題(教理)に科学の方から刺激を与えて、神学的議論をよりダイナミックなものに拓いておられる方です。彼の場合はどちらかと言うと科学の神学へのインプリケーション、インターアクションをテーマに著作している感じです。私が持っている本ではScience and Theology an Introduction (1998)があります。彼は著作が多いので関心ありそうなテーマをアマゾンで探してみてください。
    パネンバーグは「歴史学」を「キリストの人性」(Jesus-God and Man)や「終末論」に適用して刺激的な著作を残しています。また「自然神学」に関しては、Toward a Theology of Nature (1993)と言う論文集があります。
    さて、トミズムと最近の「科学と神学の対話」がどう違うのかについては、何と答えてよいのやら・・・。
    中世トマスの「神学大全」が「アリストテレス哲学による(神学とその他の)知識の統合、総合」と言う風に形容させていただければ、現在の対話は、個別的な科学的理論(進化論、量子論、ビッグバン理論、物質論、時間の科学概念、などなど)の神学へのインプリケーションを思索するもの(逆も少しあり)のように見えます。
    社会理論、特に倫理学においては、Alasdair MacIntyreがアリストテレス哲学がもっとも有効な哲学だとして、その復権を主張しています。
    最後にマグラスをお読みでしたら、彼のA Scientific Theology三巻(Nature, Reality, Theory)がありますね。簡単な要約、Scientific Method and the Reconstruction of Theologyがhttp://www.metanexus.net/magazine/ArticleDetail/tabid/68/id/8363/Default.aspxで読めます。
    以上のようなお粗末なレスです。くれぐれも筆者をこの道の識者とお間違えないようにお願いします。ただの関心者です。では何かの足しにでもなればと願って。

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  6. 通りすがりの者に丁寧なレスをありがとうございます。
    私が「最近の神学界における科学との対話と、トミズムがどう違うのか」というようなことを上で書いたのは、トマスの罪認識・人間観・自然観とどこが違うのか、ということです。
    トマスが人の堕落後も、失った物は付加的恩恵だけと考えたから、世俗の学問であるアリストテレス哲学を総合出来ました。
    もし現代科学との対話・そして自然神学を目指すなら、トマスと同じ罪観で、プロテスタント教会は全的堕落を捨ててしまったのか、ということです。

    。。マクグラスの三巻本は、それを簡単にしたthe science of God an introduction to scientific theologyを読むだけで大変だったので、私にはまだ無理そうです。。

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  7. なるほどそのような問題意識からのご質問でしたか。
    「・・・プロテスタント教会は全的堕落を捨ててしまったのか・・・」とは、堕落の結果「知性・理性」も含めて「空しくなった」と言う立場のはずだ、ということですよね。
    恐らくネオ・カルヴィニズム的「堕落のままの理性」と「再生(新生)された理性」のようなカテゴリカルな区別を前提しての問題設定のように聞こえますが当たっているでしょうか・・・。
    もしそうだとすると、神学側からの「世俗学問」の正統性・妥当性を問うていることになりますかね。「堕落した理性・知的営為である科学」を肯定するのか、と言う問いかけでしょうかね。
    対話と言う場合、即「知のシステム」に統合する、とは限らないと思います。
    むしろ同じ「世界・リアリティー」をどう解釈するのか、と言う世界観的対話になるのだと思います。調和を目指すことが究極目標かどうかは自明ではありません。
    ただ近代科学はその方法論(仮説理論→実験→検証)によって一定の成果を出してきた。その理論的結果に立脚して技術的発展があり、否応なしに(宗教の如何を問わず、信仰の有無を問わず)その中に私たちは生きています。

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  8. その視点から言えば、対話するとかしないとかに関わらず、既に私たちは「脱・神論的」科学技術の世界に生きてしまっています。ですから、神学的評価云々を別にして、近代科学を否定することは、自分が?まっている枝を切り落とすようなものではないでしょうか。
    その点を認めた上で最初の問題設定に戻るとすれば、殆どのプロテスタント神学側からの「科学」との対話は、以上のような原理的対立構造をそれ程突き詰めて問題視していないと思われます。
    むしろトミズムとの違いは、中世キリスト教が一つの世界観的融合に到達していたのに対し、世俗化した近代においては、世界観的に異なる諸立場が、同じ「世界・リアリティー」をそれぞれ固有に分化した叙述・言語によって解釈しようとしていると言う状況では。しかしその際、蛸壺的に自己の世界観解釈に居座るのではなく、他の世界観解釈と対話する一定の有効性、有益性を認めるようになってきたのではないでしょうか。また、現代において神学が科学と対話しなければ、「世界・リアリティー」解釈のイニシャティブ(あるいは覇権)は「科学」に握られたままになってしまう可能性があります。そして「神学」は自己の伝統言語の中を堂々巡りし続け、新しい意味の地平をなかなか拓けず化石化するかもしれません。
    どっちにしても「科学」に限らず、神学はあらゆる「知の営為」と対話・弁証する役目があるのではないでしょうか。

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  9. 意見を正しく理解してくれ、的を射たコメントを返して下さることが嬉しいです。

    >「堕落のままの理性」と「再生(新生)された理性」
    >のようなカテゴリカルな区別を前提しての問題設定

    その通りです。
    また、

    >対話と言う場合、即-統合する、とは限らないと思います。

    というのもその通りですね。ただ、懸念していることは、科学技術の恩恵にあるからと言って、罪の影響を軽んじ、無批判にその主張を受け入れ、あるいは利用することです。精神医学や心理学の主張をもとに聖書を解釈するとか、本末転倒かと。

    旧約のイスラエルはアッシリアやエジプトの恩恵にあり、新約ではローマの恩恵の中にキリスト者は生きていた、と言えないでしょうか。その世界観がすべて悪ではありませんが、その中に生き、役に立っているからと言って、それが判断の基準にはならないかと。。
    まぁこれは、科学哲学のパラダイム理論の視点で「科学」を見た感想ですが。

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