2010年9月29日水曜日

「・・・とは一切関係ありません。」

教会の看板、週報、ホームページに次のような記載(具体的表現は個々の教会で多少異なると思いますが)をすることについての是非を考えてみました。(カトリックやギリシャ正教ではこのようなことか゜あるのかどうか不勉強のため不明です。)
「当教会は正統的プロテスタントに属する教会であり、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは一切関係ありません。」
巣鴨聖泉キリスト教会では、余り深く考えてではありませんが、以上のような文言をどこにも記載したことがないと思います。

筆者が主任牧師となってから、あっちの教会、こっちの教会で、こう言う文言を目にするにつけ、しばし「いかがなものか」と思ったりしますが、それ以上は深く考えないで来てしまいました。

筆者の教会で、現在このような文言をどこにも記載しないのは、以上のようにちゃんとした考えからではなく、筆者の直感で「しっくりこない」、あるいは「ニュアンスがどこかずれている」感じがしているからではないかと分析しております。

さて、とは言えこの“問題”には以前から気にかかっていましたので、昨日のポストではありませんが、「世間」と「教会」のインターフェイス上、どんな効果があるのかネット検索したところ、興味深いブログ・ポストをヒットしました。

(ハンドル名、宗教ミーハーさん)
日本のプロテスタント教会には、おおむね、以下のような文言が教会の看板に書いてあります。これってわざわざ言わないといけないことなんでしょうか?前半の文言はいいと思うんですけど、後半は言わない方がいいと思います。こういうことが書いてあると、エホバとかで悩んでいる人が、改宗のために教会にいきづらいと思います。異端のキリスト教の人たちが来ると対応が面倒くさいって告白しているようなものだと思います。習慣でどこの教会もこういうふうに書いていますけど、考え直した方がいいのではないかと私は思います。
私たちの教会は正統的なプロテスタントです。エホバの証人、モルモン教、統一教会とは一切関係ありません。」
先に少し紹介しておきますと、この「宗教ミーハー」さん、まだ二十代前半の女性で、芸能人・政治家・スポーツ選手等と宗教との関わりの情報を追っかけているようです。そして彼女のブログを読んで行くと、結構ミーハーな面だけではないことも書き綴っています。(最後にウェッブサイトのアドレス等を紹介します。)

このポストにコメントがついていましたので、それも紹介しておきます。
(Aさん) 自意識過剰なんでしょうね・・・。
(ブログ主) 統一教会と関係ない!ってわざわざかいてあったら、元統一教会の人や、統一教会に疑問を持っている人は、なかなか教会の門をくぐりにくいでしょうね。「異端の人」が来るのは迷惑だと牧師が思っているのがばればれの看板だと思っちゃいます。
(Aさん) 反対牧師がいる所はそうじゃないんでしょうけどね・・・。
(ブログ主) いろんな牧師に聞きましたけど、統一教会、エホバ、モルモンのことを異端だとしょっちゅう悪口言ってる牧師でも、それぞれがどういう教義なのかをさっぱりわかっていない人が多いですね。
反対牧師は、それぞれの宗教に関わった人たちを救援しようと必死な人もいますけど、ほとんどの牧師は、わざわざそういう信者に関わらずに、キリスト教に関心がある人を相手にしたいようです。
そんなものなんでしょうね、実態は。
筆者にズキリと来た部分は「・・・それぞれをどういう教義なのかをさっぱり分かっていない・・・」です。まさにその通り、「異端視している組織」をどう言う根拠でそうしているのか、自分自身では真面目に学んだことがない、と言う指摘です。もう既に大方がレッテルを押しているので、わざわざ自分が綿密に調べるまでもない。と言うか頭から相手にしていないのです。
もし仮にこれらの組織から脱退してきた人が、筆者に相談に来られたら、殆ど無知である筆者は狼狽することでしょう。
よく「真贋を見分けるには本物だけ見せておけ」みたいなことが言われますが、キリスト教に関しても「わざわざ異端のレッテルを貼られている組織の教義まで、真面目に勉強できるか」と言うのが本音です。

さて、問題は筆者のような無知・無関心に留まらないのは言うまでもありません。

西洋中世から近代にかけての「キリスト教文明圏(Christendom)」における正統と異端の問題の文脈と、現代とでは大きくかけ離れています。
信教自由の原則から言えば、どの宗教・信仰を取るかは個人の裁量であり、たとえ伝統的な見方で「異端」であっても、現在の市民社会で活動する「教会」は自分から見た「異端組織」を“裁く”ことはできません。
但し、「異端」であろうが「正統」であろうが、市民社会の「法」に触れるような活動をすれば、その「法」に従って裁かれます。(その教会内で有効な固有の法規や規律を持つのはまた別のことです。)

以上のような背景から、上記のような「文言」について筆者が思い至った点は二つあります。

①上記のような「文言」が、どの文脈で有意義なものになるかを考えることが大切。
看板やウェッブサイトのトップページにこのような文言を記載するのは、「パブリック・ステートメント」としての意義を持つことになるだろうと思います。と言うことは、「自分たちは何であり、何でないか」と言うアイデンティティーに言及する内容から言って、宗教ミーハーさんが指摘しているように、前半と後半ではその用法が異なるように思います。
どのようにプロテスタントの正統に位置するのかを言い切ることの方が優先的であり、特定の「異端」とは関係ない、と言及することは少々蛇足な観を否めません。
もしそのことを言いたいのであれば、別の括りでなされるのが良いだろうと思われます。

②現代人(筆者がよく使う表現で言えばポストモダン)の感性では、正統異端の別は相対化され、それらも含め、オカルト・占い・ニューエイジ・スピリチュアルなどと並列されます。
これ自体はよく考えなければならない問題ですが、現に「宗教一般を並列化」して眺める現象は「パブリックな場」で「キリスト教」と言う一宗教を伝道する者にとって想定内でいた方が良い。
これは「キリスト教も一宗教」と言う解釈のことではなく、一般現代人が「キリスト教」を見る時にはそうなるだろう、と言う意味です。

上掲ブログ・ポスト

(補記、ポストモダンの「スピリチュアル」や「宗教」への関心は、「ミーハー」に見えて侮れないと思います。上記ブログのヒット数をご覧ください。またブログ・ポストをしばらく読んで行くとはっとする記事もあります。少なくとも「現代への伝道」を考えていく上で、このような宗教の取り上げ方があることをよく把握していくことは必要なことだろうと思われます。)

2 件のコメント:

  1. ツイッターの書き込みから遡らせて頂きました。ものすごく面白いです。わたしも牧師なのですが、ほんとうにそのとおりだと思います。ポストモダン的視座への想像力も、そのとおりだと思うのです。そういうことを言うとすぐ「それに同意しているのか」と賛成か反対かの二元論で裁かれますが、同意するしないではなく、「想定する」という想像力の問題がたしかにあるのだということを、あらためて考えさせられます。ありがとうございました。

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  2. gongusmosさん、初コメントありがとうございました。
    暫く前の記事なので、今リンクをチェックしてみたら件のブログはなくなっているようですね。今頃何を考えているやら・・・。
    ところでどうやら共感を持って読んでいただいたようで感謝です。牧師をなさっておられると言うことですが、あるいはキリスト教会内の視野の狭さに少々辟易なさっている向きかもしれませんね。ご同情上申し上げます。これからの時代キリスト教会ももっと懐を広くして対応しないといけませんと思っています。

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