2015年1月1日(木) 午前10時30分
朗読箇所 コロサイ人への手紙 3:1-17
説 教 題 「平和への召し」
説 教 者 小嶋崇 牧師
この平和にあずからせるためにコロサイ人への手紙3:15(新共同訳)
あなたがたは招かれて
一つの体とされたのです
※1月4日(日)の主日(日曜日)礼拝はお休みとなります。
巣鴨聖泉キリスト教会(日本聖泉キリスト教会連合)創立1965年。 大和郷の一角にある緑と花に囲まれた教会、隣には牧師の木工房。 静かに賛美と聖書の学び、そんな礼拝の時をお過ごしください。
この平和にあずからせるためにコロサイ人への手紙3:15(新共同訳)
あなたがたは招かれて
一つの体とされたのです
グリーン・スリーブスの旋律に付けられたクリスマスキャロル、What Child Is This、日本語では「みつかいうたいて」。
その2節の歌詞に「いぶせきうまやに 生まれし君こそ」とあるが、この「いぶせき」とは何だろう。
それで国語の先生に聞いてみた。
そしたら、鼻を押さえながら「臭いような場所のこと」だよ、と教えてくれた。
と言うわけで、クリスマスと言うと綺麗なものが一杯のイメージがあるので、何かそんなものだろうと思っていたら、意外にもそのようなみすぼらしい、不衛生な場所で一人お産をしたマリアのことを思い、ひとりごイエスがそのように身を低くして来られたクリスマスの意義に圧倒された(以上概要)・・・と言ったようなお話だった。
いぶせける厩に生まれクリスマス※この句は早速「銀化句会速報」の葡萄の会(平成26年12月24日)で発表されています。
いぶせける厩は、キリストの誕生の厩。 また、思い通りにならない誕生のひとこま。だったそうです。
山崎ランサム 和彦(Kazuhiko Yamazaki-Ransom)
1970年大阪生まれ。東京大学教養学部卒、同理学系大学院修士課程修了。米国Bethel Seminary (M.A.T.S.)、Trinity Evangelical Divinity School (Ph.D.) 卒業。専門は新約聖書学。現在、リバイバル聖書神学校(愛知県新城市)校長。日本福音主義神学会中部部会理事長。
現代の福音主義キリスト教会には標準的な聖書解釈法があります。それは「歴史的・文法的方法」と呼ばれるものです。・・・この解釈方法を今一度見直してみようというのが、私の発表の論旨でした。誤解を恐れずあえて言うなら、このシリーズでは、「歴史的・文法的方法」が唯一の「聖書的」な解釈法なのか?ということを考えてみようと思います。
価値観の違い
ピアノ調律
浅野素女(もとめ)『書くことはさまようこと』が紹介している文学作品の3冊の中で(ノーベル賞受賞のパトリック・モディアノをさしおいて)筆者の目を惹いたのは、
エマニュエル・カレール『Le Royaume(神の国)』であったのは題名からして当然であろう。
ある時期の3年間、神を信じて熱心にミサにも通ったという作者が、自身の姿を掘り下げつつ、キリスト教の真髄に迫るエキサイティングな試みだ。
イエスの死から聖書が成立するまでのキリスト教初期は神秘に満ちている。磔刑(たっけい)にかけられたひとりの男の惨めな死。そこに端を発して、キリスト教は不滅のローマ帝国を内部から侵食し、3世紀の間に覆してしまった。
これは、一体どういうわけなのか。カレールは探偵のように、歴史資料を縦横に駆使しつつ、2000年前の物語を現代に引きつけながら検証していく。と、解説されている。
宗教を材料にした娯楽小説でも、信仰の書でもない。それでいて信仰というものにがっぷり正面から取り組んだ野心作である。と結ばれている。
This book covers the first fifty years of Christianity. Emmanuel Carrère conducted a fascinating study on the first disciples of Christ, including the four Evangelists and the groups they formed. Or how the message of Christ is re-translated, edited, published in the first communities around the Mediterranean. We are witnessing the different recruitment strategies of the first disciples, rivalries and alliances, the adventures of these far-traveling evangelists, all described in detail. Often Carrère imagine how it could have happened in the absence of documents or records accurate enough, but when he invented it has the honesty to say. Always with comparisons with events and actors of the modern era (Ben Laden, Lenin, Trotsky, Stalin) which, while avoiding anachronisms, allow to understand the events of 20 centuries old but have helped shape our history. Certainly books more competent, more scholars have been written on the subject. I tried to read one or the other, but these works have fallen from my hand after a few pages. This big book one, I devoured from beginning to end. An extraordinary evocation of what could be the atmosphere and life of the time, you'd be there....
「キリストの脇腹を突く槍のさきしたたりやまず例えば辺野古」佐野豊子--作者は沖縄出身の歌人です。沖縄県知事選の投票まで、あと1週間。最もよい道が開かれますように。
— 松村由利子 (@yukoshka) 2014, 11月 9
佐野豊子さんと言う歌人は(当然ながら)存じません。わたしのルーツは沖縄ですが、台湾でうまれ、東京の府中で育ちました。「汎神的土俗」と「一神教」が混ぜこぜ・・・と言うところに興味を惹かれました。
祖母、両親の影響がつよく、沖縄舞踊、短歌、クリスチャンと3つの草鞋をはいています。
「汎神的土俗」と「一神教」が混ぜこぜのようですが、すべての背後にあるキリストの愛をみつめています。
還暦もすぎてようやく折り返す神のまにまに捨て舟の見ゆ
日高屋はおひいとりさまが多すぎておふたりさまのテーブルにざす
『一日の仕事』
祈ることと働くことは二つの異なることだ。祈りは働きによって邪魔されてはならないし、同様に働きは祈りに邪魔されてはならない。・・・
仕事は人を「ものの世界」に投げ込む。キリスト者は兄弟姉妹の交わりから、非人格的な、三人称な世界へと踏み出す。この新しい対面によってキリスト者は「自分」から客観化されて自由になる。なぜなら「ものの世界」は神の手にあってキリスト者をすべての自己中心や自己追求から清める手段にすぎないからだ。 (ボンヘッファー、Life Together、2章)
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太田出版も翻訳者の加藤万里子も聞いたことがないので、それで調べてみる気になり、今回の記事となった。
第1章 キリスト教と外交政策
第2章 福音派の本質と起源
福音主義の発展
福音派の信徒を特定するには?
福音派の台頭とメインラインの衰退
福音主義の組織化
将来の福音主義
第3章 福音派のグローバルな展開の起源――宣教活動
第4章 福音派の政治倫理
第5章 福音派とアメリカの対イスラエル外交政策
聖書とイスラエル
クリスチャン・シオニズムとイスラエルの建国および維持
アメリカ人とイスラエル
福音派のイスラエルへのアプローチ
第6章 福音派と世界の貧困
第7章 福音派の外交政策アドボカシー
国際的な信教の自由
人身売買への取り組み
北朝鮮の人権への取り組み
スーダン和平プロセス
HIV/エイズの世界的流行
福音派の政治的アドボカシーについての予備的結論
第8章 福音派の外交政策アドボカシーの欠陥
気候変動
アメリカの移民改革
強制的尋問と対テロ戦争
核兵器の削減
結論
第9章 より効果的なグローバルな関わりへ
教会の政治関与
より効果的に政治に関わるための原則
His most recent publication is "Evangelicals and American Foreign Policy" - a book that describes and assesses the role of Evangelicals in global affairs.
In 2005 he published a study, The Healing of Nations, which addresses the challenges of confronting and overcoming regime human rights abuses.
Evangelicals were active in foreign affairs since at least the nineteenth century, when Protestant missionaries spread throughout the world, gaining fluency in foreign languages and developing knowledge of distant lands. They were on the front lines of American global engagement--serving as agents of humanitarianism and cultural transformation. Indeed, long before anyone had heard of Woodrow Wilson, Evangelicals were America's first internationalists.(アマゾンから)確かにリンクにあるインタヴューでもこの点が本書の強調点である、と言っている。
アメリカは宗教で動いているとなっている。
◆アメリカ国内に推定1億人の信者を持ち、アメリカ最大の宗教勢力とも言われるキリスト教福音派。聖書の教えを絶対視する保守系キリスト教徒である彼らは、宣教活動やロビー活動、そして草の根の政治運動を通じてアメリカ外交に大きな影響を及ぼしている。
◆彼らはなぜ「アメリカは他国より質的に優れている」と信じ、「世界中で善を実現する特別な任務を持つ」と自負しているのか。なぜイスラエルを支持し、核兵器を持ち続ける北朝鮮に対して人道的支援を行うのか。
福音派の信仰と政治的信条を歴史的に解き明かし、アメリカ外交において果たしてきた役割を示す。
“I think the ‘young, restless, and reformed” are different than the Dutch stream in that they tend to stay with authors and leaders that they know. It does run the risk of being provincial, but I don’t think it is intentional."(ダッチ・ストリームとは恐らくカイパー系のニオ・カルヴィニズムを指すのだろう。
An illuminating example of this might be the recent glut of Mark Driscoll controversies—from sexist comments to charges of plagiarism to proof that he bought his way onto the New York Times bestsellers list using ministry monies. Leaders in the movement were effectively mum until a select few broke the silence of late.※ここで取り上げているマーク・ドリスコル(元)牧師のケースはかなり例外的なものかもしれないが、その威圧的な言動や牧会指導スタイルで批判を受け、さらに自著セールス・キャンペーンに詐欺まがいの方法を用い、しかもそれを教会会計から多額支出したことで非難されていた。
いま気になっているのは、社会にいる難病に限らないありとあらゆる困ってるひとたちが、忸怩たる思いを抱えていても、社会システムの変革に繋がるようなチャンネルがない状況です。
いろいろな困ってるひとがいます。アクティブに活動できる困ってるひとも、本当に深刻で、誰にも気づかれていない困ってるひとも、あるいはアクションを起 こすほど困ってるわけじゃないけど、ちょっと困ってるひとだってままいると思います。特に就労されている方だと、就労を維持することで精いっぱいで、自宅 に帰ったら体を休めるしかない。アクションを起こす余裕なんてない。社会運動をするよりは、就労を継続するほうが現時点では大切だ、という人もいるでしょ う。
……漠然とした言い方になっちゃうんですけど、人間って他人に関心が持てない側面と頼まれてもいないのに異常な情熱をもって人助けをしてしまう側面の両方をもっていると思うんです。
いつでも利他的で、役に立ちたい! なんて気持ちがずっとある必要はないと思うし、それは逆に不自然だと思うんだけど、でも普通に生きていれば、人 間、ひとつは自分のライフワークみたいなものがあると思うんですよ。仕事かもしれないし、趣味かもしれない、まだ見つからない何かかもしれない。それを ね、最近つくづく思うんだけど、もうちょっとまっとうなエネルギーに使ってもいいんじゃないかなって。
①H・リチャード・ニーバー「キリストと文化」、などがあるかな・・・。
②ポール・ティーリッヒ「文化の神学」(Theology of Culture)、
①メイン・カルチャー(言語や国民的価値観のようなもの)のようなものであった。
②宗教文化(プロテスタンティズムは北米でのメインな宗教文化)
③「福音主義」や「バイブル・ベルト」という宗教でのサブカルチャー
④人種的背景の違いから来るサブカルチャー(スン・チャー・ラーの韓国系福音主義キリスト教)
「空気」と、(丸山眞男が指摘した)日本人の「古層」とには深い関係がある。キリスト教会にとって、福音(メロディー・旋律)も、「古層」(執拗低音)の 問題に取り組まなければ、和音の色彩はすべて変質してしまう。クリスチャンも本書を熟読して考えてもらえればと願う。もっと掘り下げて欲しいのだが・・・。
小嶋崇先生最初は名前だけはもしかしたら・・・としばらく考えてみたのだが、記憶に繋がるものがなかなか出てこなかった。返事を待たせるのもなんなので、以下のように返事した。
初めてのメール、失礼いたします。私は○○○○と申します。JECA日本福音キリスト教会連合傘下、水戸下市キリスト教会の信徒です。
私は195○年○月生まれ、仙台出身です。実家は○○○町で片平丁小学校、○○中学校、○○○○高校、○○学院大学を経て、197○年、茨城県に就職しました。
197○年のペンテコステに○○○○○○教会で洗礼を受けました,。
小嶋先生の経歴を拝見して、もしや片平丁小学校の同級では?と思い、失礼を省みずメールを宛てさせていただきました。
○○○○さま、そうしたらやはり二人は同じクラスであったことを確認して直ちに返事をくれた。
メールありがとうございました。
確かに片平丁小学校に4年生まで通いました。
当時の記録がないので記憶だけなのですが、生年が1954年10月なので同学年ですね。
私の担任は1、2年生の時が高橋まさこ先生、3、4年生時が菅原先生でした。
同級生の名前を何人か覚えていますが、残念ながら「○○」と言う名で顔が浮かんできません。
違うクラスだったのでは。
時々ネットで「片平丁小学校」で同学年卒を検索したりするのですが、さすがに個人的な情報までは行き当たりません。
担任だった先生たちは今どうしているだろう、などと思ったりするのですが・・・。
私の方は東一番町一番地(現仙台聖泉キリスト教会)でしたので、その辺に住んでいた(記憶が正確であれば)「田中○○○○」「吉田○○○○」「村上○○○」たちと仲良しでした。
いやー、小学生時代の自分の印象を突然聞くとは・・・。何か不意に鏡を見るようで自分でもびっくり。小嶋先生レスありがとうございます。やはりそうでしたか。小生、1年2年は○○○先生、3年4年は菅原先生、5年6年は○○先生でした。3-4年で同クラスだったわけですね。ただ、小嶋先生と会話した記憶はありません。誰かが「コジマくんの家は教会だよ」と言っていたので、コジマくんが教会の息子さん、だったという認識があった程度でした。うっすらと覚えているコジマくんの印象は、色白で優しそうな少年、でした。
スコット・マクナイト「福音の再発見」
リチャード・ボウカム「イエス入門」の名前を挙げておいた。
ポール・マーシャル「わが故郷天にあらず」
Munck was an incisive exegete who died too young, but not before he had produced two major works, of which this is one. The other likewise deserves continuing attention among serious students of the NT: Johannes Munck, Paul and the Salvation of Mankind (Aarhus/Copenhagen: Universitetsforlaget/Ejnar Munksgaard, 1954; reprint, Richmond: John Knox Press, 1959).
『日本語が亡びるとき』の二つの記事のリンクを挙げておきます。
水村美苗+梅田望夫
(基本的には)どんな分野であっても知的追求は可能だ。その学生の信仰的確信の深化については教会や同じ基盤に立つ者たちの交わりの中でした方がいいだろう。アカデミックな文脈で自分の宗教的信念について披瀝するのは(しかし)終身雇用を獲得するまで控えた方がいいだろう。といったものです。
新カルヴィニズムは果たして「イマージェント教会」「ミッショナル教会」など、5年サイクル程度で置き換えられる「流行」に過ぎないのかどうか。もっと長続きするのか。
新カルヴィニズムのリーダーたちが内輪の神学的指導権にだけ関心を持っているのか。それともそこからさらに外に、パブリックに向かっての「デスティニー」を感じているのか・・・。