2011年12月31日土曜日

明日の礼拝案内

1月1日 午前10時30分

元旦主日礼拝

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 5:1-15
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 5:13
説 教 題  「愛に基礎を置く」
説 教 者 小嶋崇牧師

2012年度 教会標語聖句
愛によって互いに仕えなさい

※神への礼拝を通して、心新たに新年をスタートしましょう。

2011年12月30日金曜日

ブログは「縦穴を掘る」

年の暮れ、何とかブログもここまでやってこれた。

ブログ開設一年半が経った。

振り返ってみるとこのブログ余り一貫性がない。
一記事に書く量もそれほど多くない。
書くネタに頭をひねることもしばしば。
記事投稿頻度も年末に向かって減る傾向にある。

来年はどうなるだろう。

さて筆者の場合ツイッターとブログをほぼ同時にスタートしたのだが、一年半経ってみて筆者はブログ重視派であることが明らかになってきたように思う。
「気軽につぶやく」のは苦手のようだ。

ここ数年「内田樹」の名前をよく耳にするようになった。
今年になってツイッターでフォローするようになった。
つい最近「内田樹の研究室」と言う彼のブログに『ツイッターとブログの違いについて』と言う記事を書いている。
そこでこんなことを言っている。
Twitterには「つぶやき」を、ブログには「演説」を、というふうになんとなく使い分けをしてきたが、二年ほどやってわかったことは、Twitterに書き付けたアイディアもそのあとブログにまとめておかないと、再利用がむずかしいということである。
Twitterは多くの場合携帯で打ち込んでいるが、これはアイディアの尻尾をつかまえることはできるが、それを展開することができない。
指が思考に追いつかないからである。
だから、Twitterは水平方向に「ずれて」ゆくのには向いているが、縦穴を掘ることには向いていない。
そんな気がする。
ブログは「縦穴を掘る」のに向いている。
「縦穴を掘る」というのは、同じ文章を繰り返し読みながら、同じような文章を繰り返し書きながら「螺旋状」にだんだん深度を稼いでゆく作業である。
 「なるほど」、とも思ったが「待てよ」とも思った。
自分のブログ記事は「縦穴を掘る」と言うには余りに浅い、と言うか淡白な文章が多いように思う。

今年振り返ってみて、一ブログ記事ではないが、あるテーマを追跡したり(例えば東日本大震災と原発関連記事)、シリーズ(『教会における聖書の解釈』①~⑥)で取り組んだブログ記事はないわけではないが、殆んど単発で終わった。

話題を変えて(特にプロテスタントの)牧師にとって大切な役割の一つである「説教」を考えてみると、この「縦穴を掘る」あるいは「繰り返し書きながら『螺旋状』にだんだん深度を稼いでゆく作業」は結構よく当てはまるのではないかと思う。

と書いて反省するのであるが、ブログに限らず筆者の最近の説教もやはり淡白傾向にあるのではないかと・・・。

さて新年を迎えいくらかでも「掘り下げ」「深度を稼ぐ」ブログ記事や説教をと願うものである。

年末所感終わり。

2011年12月27日火曜日

マコト・フジムラ『四福音書挿絵』展

タイトルの付け方が『四福音書挿絵』展でいいのかどうか。
開催している日本橋高島屋は「マコト・フジムラ展ーホーリーゴスペルズー<日本画>」と広告しているが・・・。

今こう書いている時間から間もなく展示は終了するから、この記事を投稿しても読者が足を運ぶことがないのは残念である。

既にこの展覧会のことは聖書2題聖書2題追記で書いているので参考にしていただきたい。


さて実際に筆者が行って来て見た感想である。

26日の午前中に行ったのだが、25日の翌日と言うこともあったのか展示会場はがらんがらんであった。
余り人混みは好きではないし、絵の展覧会に行くと言うこともめったにないので、このような状況はまさに『お一人様用展覧会』で千載一遇のチャンスであった。

入り口左側には皮装丁とキャンバス布装丁のサンプルが置いてあったが、既に両方ともSold Outになっていた。
ぱらぱらとページをめくってみたら意外にあちこちにスケッチ的な絵や描写が配されていて字と絵の空間配置が面白い。

その次には長ーいテーブルの上に四福音書各章の冒頭の言葉の第一文字目のアルファベットを絵にしたものが横に長く並べられている。
それはAであったり、Oであったり、Kであったり、様々である。
四福音書全部で89章になるわけだからかなり同じ文字がダブるわけだが、見た感じ同じ文字でも印象は結構異なる。

一つの絵のサイズは20センチ四方位だろうか、キャンパスから溢れる位の文字と色彩背景である。
マコト・フジムラの画風は(専門家ではないのでいい加減なことしか言えないが)日本画を背景にしたモダンアートだと見える。
単なる抽象画ではなく、色彩をベースにしたスペース・ファンタジーとも言うべき世界を作っている。

これら89枚の絵は殆んどそう言う絵なのだが、与件によりアルファベット文字だけは認識されなければならない。
それらの文字は薄い金箔の線で描かれることもあれば、殆んど線とは認識されない太い筆で絵の具をびしゃっと殴りつけたような形象の組み合わせもある。

89枚もアルファベットを中心にしたテーマの絵となるとどうしても似た感じと言うか同じアイデアやデザインの流用みたいなものが出てきても良さそうだが、筆者の見る限り一枚一枚が絵のデザインとして独立している。

日本画・水墨画では余白と言うものが重要な絵の構成要素であるが、これら89枚の中に色のない余白が用いられていたのはほんの一枚か二枚であったろう。
既に書いた「太い筆で絵の具をびしゃっと殴りつけたような形象」のNだけではなかったか・・・。

次に中型サイズの絵が何枚か壁にかけられていたと記憶するが、入り口右側に掲げられた四福音書それぞれを象徴するテーマの大きな絵四枚の印象に消されてしまったようなのでこれらの中型絵についての感想はあきらめる。

さて四福音書をそれぞれ象徴する大判サイズの絵は大きさが縦横それぞれ1.5メートル位はあろうか、縦長だがこちら絵の号数とかそういうことは良く分からないので大きさについては勘弁願おう。
テーマとなっているのはマタイから順に言うと「野の百合(Consider the Lilies)」、マルコが「燃え上がる炎(Water Flames)」、ルカが「放蕩なる神(The Prodigal God)」、ヨハネが「初めに(In the Beginning)」である。

ぱっと見一番分かりやすいのはマタイ。
うっすらと百合の花が白っぽい水色の背景から浮き上がっている。

マルコも分かりやすいが、炎の赤の鮮烈さが何を指すのか・・・。

ルカは15章の「放蕩息子(The Prodigal Son)」をもじった題名になっている。
印象としては地平線を境に地上と空とが白絵の具で描写された形象で覆われ「和解」をイメージさせる。
興味深いのは近寄ってみると細い線で金箔文字(文章になっているようだ)が沢山何行にも渡って書かれていることだ。

ヨハネはタイトルからも想像できるが、筆者の目にはビッグ・バンの宇宙空間を連想させた。
四枚の中では一番重量を感じさせる色彩であり、荘厳さを醸し出している。

他の三枚は意外と軽やかで透明感を感じさせ、スペースの広がりや伸びやかさを感じさせる。
ただマルコの炎はちょっと違う感じだが。
むしろモーセが荒野で神の顕現に出合ったと言う「燃える柴」を連想させる。

とまあ、何ともグータラな感想記だが、何せアートに触れる機会の少ない素人なので頓珍漢な部分が殆んどだろうが適当に読み流して頂きたい。

最後に読者のために筆者の見た絵をネットで観覧できるサイトを紹介して終わりにする。
Dillon Gallery, Makoto Fujimura "The Four Holy Gospels"

2011年12月26日月曜日

もろびとこぞりて 追記

まだ「英語圏ブログ紹介」シリーズで取り上げていませんが(そのうち取り上げようと思っていたのですが)、
Storied TheologyブログのJ. R. Daniel Kirk(ダニエル・カーク)さんが筆者と同日(きのう)

"Joy to the World"
と言う記事を投稿しました。

内容的にも大分重なるところがあります。(偶然です。)

いいや、偶然ではないな。
と言うのも、カークさん(フラー神学校、北カリフォルニア地域、メンロー・パーク市を拠点にする新約学助教授)はN.T.ライト教授の影響を多分に受けているから。

良かったらどうぞお読みください。

2011年12月25日日曜日

もろびとこぞりて

日本のキリスト教会で歌っている賛美歌は殆んどが欧米の作者のものを訳したものだ。
もちろんクリスマスの賛美歌もそうだ。

先日たまたまツイートで目に留まったのが
And Heaven and Nature Sing
と言う歌詞が入っている賛美歌「もろびとこぞりて」だ。

へー改めて考えてみるとクリスマス、御子の受肉を祝うのに「天も地も歌え」とはなかなか似合っているではないか・・・。
と、その時はそのままで止まってしまったのだが、段々クリスマス・イブの「お話」を準備しているうちに、この賛美歌が気になり、それとなくネットを使って調べ始めた。
日本語の「もろびとこぞりて」ではなく、英語の、Joy To The World、で調べ始めたのだった。

ところで筆者の教会で使用している讃美歌集、「インマヌエル賛美歌」では「もろびとこぞりて」は以下のような節と歌詞になっている。
①もろびとこぞりて むかえまつれ  ひさしくまちにし
主はきませり 主はきませり 主は主はきませり
②くろがねのとびら うちくだきて とりこをはなてる
主はきませり 主はきませり 主は主はきませり
③とこやみの世をば てらしたもう  あまつみひかりの
主はきませり 主はきませり 主は主はきませり
④しぼめるこころの はなをさかせ めぐみのつゆおく
主はきませり 主はきませり 主は主はきませり
⑤あまつかみの子と いつきむかえ すくいのぬしとぞ
ほめたたえよ ほめたたえよ ほめほめたたえよ
ところがJoy To The Worldの歌詞はと言うと、
Joy to the World , the Lord is come!
Let earth receive her King;
Let every heart prepare Him room,
And Heaven and nature sing,
And Heaven and nature sing,
And Heaven, and Heaven, and nature sing.

Joy to the World, the Savior reigns!
Let men their songs employ;
While fields and floods, rocks, hills and plains
Repeat the sounding joy,
Repeat the sounding joy,
Repeat, repeat, the sounding joy.

No more let sins and sorrows grow,
Nor thorns infest the ground;
He comes to make His blessings flow
Far as the curse is found,
Far as the curse is found,
Far as, far as, the curse is found.

He rules the world with truth and grace,
And makes the nations prove
The glories of His righteousness,
And wonders of His love,
And wonders of His love,
And wonders, wonders, of His love.
あれっ、節数も歌詞の意も違うじゃないか・・・。
よく見れば「もろびとこぞりて」の原詩は、Hark, the Glad Sound!となっているではないか。
Joy To The Worldを原詩とする日本語賛美歌は「たみみなよろこべ」となっていて、すぐ隣にあるではないか。
なーんだクリスマスというといつも「もろびとこぞりて」を歌っているので、Joy To The Worldの訳詩だと勘違いしていたわけだ。

と言うわけでネットでJoy To The Worldをリサーチしてみると結構面白いことが分かった。
先ず著名な讃美歌作者、アイザック・ワッツのこの賛美歌はもともとクリスマス賛美歌ではなかったのだ。
彼は詩篇を題材にした讃美歌集を作ったのだが、そのうちこのJoy To The Worldだけが、それも歌詞の半分だけが辛うじて忘却から免れたのだと言う。

背景となっている詩篇は98篇。特に後半部分が歌詞に反映している。
全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。
琴に合わせてほめ歌え
琴に合わせ、楽の音に合わせて。
ラッパを吹き、角笛を響かせて
王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。
とどろけ、海とそこに満ちるもの
世界とそこに住むものよ。
潮よ、手を打ち鳴らし
山々よ、共に喜び歌え
主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き
諸国の民を公平に裁かれる。
ワッツはこの賛美歌を「初臨のキリスト」ではなく「再臨のキリスト」にフォーカスして作ったのだと言う。
思えばこの賛美歌にはクリスマスのエピソードとなるマリヤとヨセフや、天使の賛美(グロリヤ・イン・エクシェルシス・デオ)、羊飼いや東の博士などは登場しない。

しかしヨハネ福音書序のロゴス論にあるような創造主と共におられた御子イエス・キリストが被造世界に「来たり・宿る」と言うクリスマスの意義をよく表していると思う。
受肉の出来事ゆえに被造世界全体が賛美へと招かれるのだ。
まさにHeaven and Nature Singだ。

そして3節、4節の歌詞も重要だ。
罪と死の呪いの呪縛に繋がれている被造世界が再臨のキリストの時、ついにその枷から完全に解放される希望を歌っている。
神のキリストによる愛と正義と真理の統治が完成するのだ。

クリスマスは初臨のキリスト、受肉の出来事を祝うが、キリスト者は再臨のキリストにおいて完成する新天新地を展望しながらクリスマスの賛美歌を歌うのだ。
被造世界は既にキリストにある新創造に与っているが、しかし未だ完成までの産みの苦しみの中に置かれている。
そのうめきと共に人類と被造世界全体の回復・癒しを予感しながら希望に溢れて私たちは賛美するのだ。

(※讃美歌の背景については英語ウィキ記事ここ、やここを参照。)

2011年12月23日金曜日

明日の礼拝案内

12月24日(土) 夕7時

クリスマス・イブ
キャンドル・ライト礼拝

ろうそくの火を燈しながら、賛美歌と聖書で進行する礼拝です。
どなたでもお加わりください。
きっと味わい深いクリスマス・イブになることでしょう。

※礼拝後には茶菓の用意があります。時間のある方はごゆっくり歓談の時をお過ごしください。
※翌日、25日は日曜日ですが、礼拝はありません。

2011年12月18日日曜日

トラウマ、って言ってしまったけど

今日クリスマス礼拝の後のこと、ある方とお話をしていてたまたま筆者の小学生時代の体験を語ることになった。
そのことを「トラウマ」と表現してしまったのだが、今になってトラウマという表現を軽く使い過ぎてしまったと今思い直している。

その体験とはこう言うものである。
(予め注意しておくが自慢話をしようというのではない。ただそういう流れの話ということで聞いてもらいたい。)

小学一年生の時の事であった。
学芸会の出し物で「さるかに合戦」の劇をやることになった。
最初に(幕が開く前に)劇の紹介をする生徒を選ぶことになったのだが、そのためにオーディションが持たれた。
用意された文章を先生の前で読み上げるのだが、どう言う訳か筆者が選ばれた。
恐らく声の大きさや、恥ずかしがらないで出来る度胸の良さとか、そんなことが要素になったのだと思う。

こう言うのもなんだが筆者は天真爛漫な方で、人前で一人で何かをやる、と言うことに殆んど自意識とか恥ずかしさとか(当時は)持ち合わせていなかったようだ。
練習でも、本番でもあがったり心配になったりと言うことが微塵も感じられなかった。

まっ大事なのは本番でのことなのだが、学芸会当日体育館一杯の生徒と親たちの前で「堂々と」「朗々と」、つまり余りにも見事にやってのけたようなのである。
本人はそのことを殆んど自覚していない。
自分が何かを見事にやったと言う自覚はなかったのである。

大分後になって親や姉妹から「あの時の劇の紹介が如何に聴衆の度肝を抜くほどのものであったか」を話してもらっても、いかんせん自分の中では「ふーん」と言う記憶しかないわけである。

ところで問題はその余りの自分の無自覚さである。
学芸会が終わって間もなくのことであったと思うが、たまたまお便所で用を足していると、自分の横で用を足していた身も知らない上級生(多分五六年生位であったろう)から、「あー、お前、あのサルと蟹は・・・やっただろう」と声をかけられた。
このことで筆者ははたと自分は「他人にインパクトを与えるようなことをやってしまった」と言う、何と言うか「しまった」と言うネガティブな印象を持つことになったわけである。
「へえー、上級生が一年坊主の俺のことを覚えていて声をかけてくるほど俺は大したことをやったのか・・・。えへん。」とは真逆の感情的反応を持ってしまったのである。
これが筆者の心にぐさりと刺さり、「もう二度とこのようなことはやるまい」みたいな覚悟を持ってしまったのである。

実際その後は劇とか人前で何かをやることには拒否反応を持つようになった。
多分大学生になる頃まで続いたのではないかと思う。

さて長いイントロになってしまったが、この体験を「苦い思い出」くらいに言っとけばよかったものを、咄嗟に「トラウマになっていて」と言ってしまった。
普段ことあるごとに教会員(筆者より少し年齢が上の方々)とは、「最近の子どもたちはいじめや何やらで傷つき易くなっているのじゃないかねー。
昔(自分たち)はもうちょっと喧嘩やいじめがあっても年長者が諌めたり仲を取り繕ったりして、心に傷がつくなんてことにならなかったように思うんだけどねー・・・。と話していた。
そんな時「トラウマ」なんて言葉でなんでもかんでも子供たちの心の傷の体験を表現するのはちょっとどうかねー。ちょっと過保護すぎやしないかなー。などと話していたのだった。

トラウマとは「心的外傷」とも呼ばれ、簡単に克服できない体験のことを指す、と説明されている。
かなり重症なケースに使われるべき言葉ではないかと思う。
筆者の体験など「トラウマ」などと言うにはおこがましい、誰にでも一つや二つあるような身近なものであった。それなのに今日の会話で、つい「トラウマ」と言う語を使ってしまったことは不用意だった。

今年は東日本大震災があった。
まさに「トラウマ」のような体験をした子どもたちや大人たちが多くいるに違いない。
そのような方々の体験を表す言葉を自らが軽々しく使ってしまったことを恥ずかしく思う。

2011年12月17日土曜日

明日の礼拝案内

12月18日 午前10時30分
待降節第四主日 クリスマス礼拝

「ルカのクリスマス・ストーリー」

ルカ福音書の1-2章全体を、朗読と交読で読み進めます。
間には賛美歌を織り交ぜながら。

※礼拝後には茶菓の用意があります。時間のある方はごゆっくり歓談の時をお過ごしください。

2011年12月15日木曜日

権威と服従

最近「ガバーナンス」とか「コンプライアンス」と言う語がよく使われている。

目立った事件としては巨人の球団代表兼GMだった清武氏と読売トップの渡辺氏の人事を巡る対立が訴訟合戦に発展している。
またオリンパスの巨額損失隠しのために取った違法行為。

前者の場合は組織防衛のための脱法行為と言うより人事権を巡る確執と越権行為の面が強そうだが・・・。

オリンパスの問題は大手メディアのおかげで最近一般大衆に認知されるようになった教会の不祥事問題とその隠蔽体質が相通ずるような観がある。
筆者のこれらの問題に関する知識は至って初歩的なものだが、いかなる組織も権威と統治の問題は避けて通れないと思っているので、会社であれ教会であれ「組織の権威と統治をいかに運用するか」に関して注意深く思慮深くなければならないと思っている。

オリンパスの巨額損失隠蔽は歴代の社長が関与していたらしいから、企業倫理に対するコンプライアンスより自社の組織防衛が優先された、と言うことになる。

最近の教会不祥事事件として(悪)名高い「卞在昌(ビュン・ジェーチャン)」事件は刑事事件としては無罪で終わってしまったが、ネットで情報を収集する限り、司法の問題としては別に教会も一組織として牧師と言う教会組織トップの不祥事に対して組織防衛的隠蔽体質が浮上していた問題のように思う。

オリンパスの場合よりも(一般的)牧師不祥事事件により共通するのは大王製紙会長のケースだろう。
社内的に創業家会長一族には「何も言えない」雰囲気があったと言う。
ナベツネさんもそうらしいが権威を帯びると「威圧的な物言い」で周りの人を有無を言わせず服従させる雰囲気を作ってしまうようだ。

牧師の場合は自己の権威を「王権神授説」ではないが神からの直接の権威と勘違いする傾向があるらしい。
普通の牧師ならなかなかここまで図々しくなれないだろうが、教会を大きくしたり、多くの教会員を獲得して「成功した」と自認・自慢するようになると、このような勘違いからはそう遠くない危険水域に達するようだ。
そして一旦そのような威圧的言動や行動に対して周りが黙認するようになるとますます抑制が効かなくなり、その組織内で力関係が下の者に対し自己の役職を越えた要求をしたり服従を求めたりするようになる。
パワハラやセクハラはそう言った「役職外れの権力の濫用」として現れる。

イスラエルの民は周囲の国から度々脅威に晒されることによって、彼らと同じように王を立てることを欲した。
預言者サムエルは本意ではなかったが彼らに王政を敷くことを許した。
しかし王がどのように強権を発動するのかを予め示し、更に王が従うべきルールを与えた。

パウロは「すべての権威は上からのもの」であるとローマ書13章で言っている。

すべからく人の上に立つ者は上から与えられた権威の範囲とその権威の為すべき役割とを知り、自制の徳を持たなければならない。

言うのは簡単だが「適正な権威の範囲」を超えたかどうかを判断するのは実は非常に難しい。
それは「権威と服従」は個々の文化でかなりな程度固定されていたのが社会の変化によってその線が流動的になっているからである。

参考までに最近読んだブログ記事でその辺のことを取り扱っているものを紹介しよう。

①女性と男性と言うジェンダー間での「権威と服従」の線引きが変化している。
足蹴にされている/踏みつけられている
踏みつけられている妻について」(以上、上沼昌雄先生のブログ)
"...your daughters will prophesy" (レイチェル・ヘルド・エバンスのブログ、右コラムにもリストされています)

②もう一つセクハラ関係では、(恐らく)温厚で慎重な物言いのラリー・フルタド氏が、つい先だって開かれたSBL(聖書学会)の間、二人の女性教員から、別々の機会に、学生時代著名な聖書学の教授たちからセクハラを受けたとの告白を聞いた、と述懐し、非常に遺憾であり、同僚(同業者)としてこのようなことがあってはならない、と強い口調で発言している。
Disturbing Reports and Troubling Questions

少々雑駁な文章になってしまった。また機会があったら考えてみたい。

2011年12月10日土曜日

明日の礼拝案内

12月11日 午前10時30分
待降節第三主日礼拝

朗読箇所 ルカの福音書 1:67-80
説教箇所 ルカの福音書 1:73-75
説 教 題 「主に仕える」
説 教 者 小嶋崇 牧師

2011年12月9日金曜日

アン・ライス「主イエス・キリスト」

アン・ライス(日本語ウィキ)は米国の人気作家。


吸血鬼とか魔女とを題材にしたベストセラーホラー小説作家として有名(らしい)。

カトリックの家庭に育ったが18歳で「教会を去り」、後に無心論者の絵描きと結婚する。
しかし小説家として「道徳的問題」にもぶつかりながら霊的葛藤の中を潜り抜け、ついに1998年、カトリック教会に戻る。(同性愛者である息子のことで、カトリック教会の同性愛に対する立場に悩みながらも。)

その頃から彼女は「主イエス・キリストーエジプト脱出」と言うイエスの幼年期時代を取り上げた小説を書き始める。
この小説を書くにあたって彼女はヨセフスや新約聖書学者、なかでも保守的な立場のN.T.ライトの著作を参照した。
しかし彼女の小説のベースになったのは特にルカ福音書であり、福音書記述の信憑性や史実性に対して懐疑的な学者へは否定的な態度を露にした。
彼女はこれまでの自分の読者に対しても、またファンダメンタリストやリベラルなキリスト者にも、また非キリスト者に対しても、正統主義の立場(十全に神であり人である)に立った「主イエス・キリスト」を知ってもらいたいとの願いを持って書き上げたのだと言う。(2005年ビリーフ・ネット記事より要約)

と言うわけで、筆者の関心は実はアン・ライスその人ではなく、N.T.ライトに関連する存在としてであった。
実際筆者がアン・ライスという作家を知ったのは、彼女がサン・フランシスコのグレース大聖堂で行ったN.T.ライトとの対話を聞いたからであった。(このリンクから聞くことが出来ます。)

その後アン・ライスはフェイスブック上に以下のような言をもって「もう教会はやめた」と宣言し、大いに耳目を集めた。
I refuse to be anti-gay. I refuse to be anti-feminist. I refuse to be anti-artificial birth control. I refuse to be anti-Democrat. I refuse to be anti-secular humanism. I refuse to be anti-science. I refuse to be anti-life.(2010/07/29 ハッフィントン・ポスト
ただしキリスト者であることをやめたのではなく、既成教会(彼女の場合はカトリック教会)の「文化的対抗主義(そんな語あるかどうか知りませんが)」に嫌気がさした、と言うことのようです。

さてなぜ今アン・ルイスを記事に取り上げたかと言うと、(彼女の今日のツイートで知ったのですが)「主イエス・キリストーエジプト脱出」が映画化されるというのです。
それも「ハリー・ポッター」シリーズの製作陣によって。

映画化に当たってのインタヴューでアン・ライスは教会を出たことに関して質問されたようで以下のようなことばを残したようです。
“My heart and soul and love for Jesus Christ is in this book,” Rice told Examiner.com. “It really has nothing to do with my move away from Organized Religion. That had to do with many theological and social and political issues that have no connection with Jesus at all.”(Harry Potter Producer To Work On New Film About Jesus Early Life
筆者の教会では、マタイ福音書とルカ福音書の「クリスマス・ストーリー」を毎年交代で取り上げているのですが、この映画がイエスの幼少年期をどう描くのか興味深く待ちたい思います。

2011年12月6日火曜日

北川東子と教養

ツィッターでフォローしている、山脇直司東京大学教授(@naoshiy)の以下のツイートに何か目が留まった。
今日は長らく闘病生活をされておられた駒場の尊敬する同僚の訃報に接し、ずっと落ち込んでいました。心より先生のご冥福をお祈り申し上げます。Wikipedia
リンクを辿ると同僚の方とは北川東子氏のことだった。
全然聞いたことのない名前だった。(東大教授で名前を知らない人が殆んどであるからそれ自体は何の不思議でもない。)
ただ妙に同僚の大学教員に対しこのようなツイートを残す何がしかの人柄と言うか人物を「北川東子」氏に感じたので耳に残った。

そうしたら別の方が北川東子氏の訃報に触れて思い出を語る連続ツイートに出会った。
以下一つにまとめる。
いま、新しい本の相談をしているのですが、その最後に書こうかな、と思っている話。「僕が東大で受けた、もっとも美しい授業」 あんまし反響ないかな、とかとも思いつつ、ちょっと考えています。
僕が学生として東大で受けた「もっとも美しい授業」は30を過ぎて二度目の博士取得の際に参加した北川東子先生のゼミナールでした。学生はたった3人、 ニーチェの「悲劇の誕生」の原書講読。毎週木曜日の午後4時過ぎから先生の部屋で始まりますが、深い議論になりやすく9時10時になる事もしばしば6時7時を過ぎるとおなかも空き、先生のご発案で34回目あたりから夕ご飯時に場所を駒場の研究室から渋谷方向に少し歩いた店に移しビールを傾けながらま た3,4時間ゼミ後半の議論になりました。そういう時の北川先生のゼミ指導の所作が本当に素晴らしかった。テキストの一言一句を精緻に読みながら一人の好奇心に満ちた個人として何の衒いもなく、必要ならその場で辞書なども引きながら、本当に嬉しそうに楽しそうにニーチェを読んでゆかれました。上か らものを仰る先生ではなく僕らも好きに発言し、その場で調べて間違ってたりもしながらテキストと同時にテキストとどう関わるかの姿勢も学びました。5時間6時間に及ぶゼミは一方向的な講義では到底もたず、素の構えでどう向き合うかという仕事そのもの、ビールを傾けつつ資料も前に真剣な議論というのは北川先生が博士を取られたベルリン自由大学ご留学時代のご経験と同様ということで、こういう授業をやってみたかった、とも仰っておられました。酒を飲みながらの授業とは何事か!と怒る方があるかもしれませんがニーチェの「悲劇の誕生」は酒の神のランチキ騒ぎみたいなお祭りの話で、また北川先生は 本当に端正な仕事をされる方で、そんな先生がビールを飲みながら議論しましょう!と嬉々として輝くように読解の喜びを体現しつつ教えて下さった。決して上からモノ申すのでなく、同じテーブルでその喜びとか、あるいは瞬間的な発想、アイデアなども遊ばせつつ「テキストと戯れる」ということを目の前で 行って下さった。ちなみに鋭利と言って良いほどの北川先生の実力は知る人は誰でもしっています。本当の本物の知性、いま思い返してみて僕が学生時代に受けたあらゆる講義や授業の中で、飛びぬけて「美しい」授業として、現在まで自分の支えになっているのは北川東子先生の原書講読のゼミナー ルでした。ただドイツ語本来の難しさはその場で先生が解いちゃうので僕の語学力はここでは伸びなかった^^;それはこれからの僕の課題と思います。(以上、 Ken ITO 伊東 乾
外国の哲学者の原文(テキスト)と格闘する。
その共同作業に長時間没入できる数人の教師と生徒の充実した「学業」の光景が眼に浮かぶ。

しかし北川東子氏は教養学部の教員として絶えず自問自答しながら「教養とは何をどう教えることなのか」を模索していたらしい。
(こちらをお読みください。「『二十一世紀的教養』を求めて」

全く見ず知らずの方だが、なぜかこの北川東子氏について一文残したい思いがした。
北川氏の教員としての姿勢、誠実さを印象付けられた思いがする。

それにしてもまだ50代の若さで・・・。

2011年12月4日日曜日

クリスマスの12日

クリスマスって一体期間的にはどの程度なのか。
教会暦では12月25日の前の四回の日曜日が待降節となる。
でも非キリスト教国の日本ではそのはるか前からクリスマス・デコレーションやクリスマス・ソングが巷に溢れ始める。

キリスト教会でもそれぞれの都合で12月に入るとクリスマスの様々な催しが持たれる。
筆者の教会では大抵12月の第三日曜日がクリスマス礼拝、24日の夕に燭火礼拝となる。

筆者が英会話講師を勤める某キリスト教団体では、その昔まだ英会話プログラムが盛んであった頃、クリスマス礼拝・パーティーをやっていた。
数曲キャロルを歌うのだがよく歌われたのがTwelve Days of Christmasだ。
何しろ英会話クラスの生徒たちがメインなので語学的には少しハードなこの歌が選ばれていたのかもしれない。

こちらは教会で育ったので賛美歌のキャロルは知っていてもそれ以外のキャロル、つまり直接キリスト教的ではない、民俗的なキャロルは歌い慣れていない。(もちろん有名な「ジングルベル」とか「赤鼻のトナカイさん」とかは別だが。)
で、ついぞTwelve Days of Christmasに関しては「何と面倒くさいキャロルなんだろう」くらいにしか思っていなかった。
訳の分からんプレゼントが一日ずつ増えて行き、歌の節が進むごとにそれらを全部順に言うなんて・・・と思わずにはいられなかった。
でもこのキャロルが子どものためのわらべ歌、数え歌のようにして親しまれてきた、とあっては文句の言える筋合いのものではないのかもしれない。

そんな思い出しかないキャロルだが最近ひょんなことからこのキャロルの面白みを知った。(断っておくが歌う面白みではない。)

一つはこのキャロルの歌詞を字義通りに使って「ひっちゃかめっちゃかなお話」を作ることができるということである。
Day 1
On the first day of Christmas my true love gave to me, a partridge in a pear tree. Such a thoughtful gift, she knows how much I love fruit. She also knows my building’s pretty strict about pets so the bird threw me a little. But he is a cute little guy.
Day 2
On the second day of Christmas my true love gave to me, two turtle doves. Wow, she’s really into the avian theme this year. Um, thank you? I guess I’ll just put them in the kitchen with the partridge and the pear tree, which suddenly seems a lot bigger than it did yesterday.
Days 11 & 12
These final days have come and gone in a bewildering fog. I remember drummers. Pipers. Lots of them. I haven’t slept or washed my body in quite some time. Food is scarce… the fighting, fierce. I killed a lord today! Snatched him right out of the air and killed him with my bare hands. Now he doesn’t leap anymore. I used his leotard as a net to trap one of the swans. She was delicious. Didn’t even cook the old gal. Ha! I made everyone gather around and watch—that’s what you do when you want to send a message. A very important message! This is my castle! Do you all hear me? Do you see what I’ve done? What I am capable of!! No more eye contact with the king, do you understand? Or I will end you! I will end you all right here and now!! Now one of you fetch me a goddamned pear. The king needs something sweet.(The Twelve Days of Christmas by Colin Nissan
まあちょっとブラック・ユーモアだが、確かにこんな贈り物を毎日もらっていたら家中ひっちゃかめっちゃかになってしまうはずだ。
ドダバタ劇を想像するのは容易い。

でも歌い継がれてきたこのキャロルをそんなギャグ風に楽しんでいる方は少数派だろう。
歌詞のナンセンスさについては余り考慮しないでとにかく「歌い切る」のを楽しんで来たのではないかと英語文化圏外の者は考えるしかない。

で、改めてこのキャロルについて検索してみたら、その背景についてこんなことが書いてあった。
エリザベス1世により「統一令」が出された1558年から1829年の「カトリック教徒解放令」までの期間、英国ではローマ・カトリック教の信者は、公然と自分たちの信仰を実践することは出来ませんでした。
そこで、イギリスのカトリック教徒たちは、自分たちの信仰を織り込んだ「わらべうた」を創作しました。つまり、一見数え歌のように聞こえ、歌っても捕らえ られる心配がないが、裏にカトリックの信仰をも歌い込んである──そんな歌を創作したのです。それがこの「クリスマスの12日」というキャロルでした。
歌は二重構造になっていて、表向きは他愛もない子供の歌ですが、裏の意味はローマ・カトリック教会への信仰を示す敬虔なものです。歌詞のすべての単語は、 カトリック信仰の核をなす概念の暗号(符牒)になっていて、信者たちはこれを歌う時、暗号の裏に秘められたものを思い浮かべ、自分たちの信仰の実践にした のです。(歌詞の翻訳と説明も合わせてこちらをどうぞ。)
「暗号」と言うより当時の権力構造で出来た「隠語」のようなものだとおもうのだが、それはそれで分かって歌っている方は一種の快感なのかもしれない。

筆者はしかし違う面白みを感じた。
先ほどの歌詞を字義通りに受け取ってひっちゃかめっちゃかな話に仕立てるやり方に対応して、これはカトリックの聖書解釈法の伝統である「アレゴリー」的用法、遊びに見えるのである。
アレゴリー解釈とは字義通りの意味の他に隠された別の意味がある、と言う前提で聖書テキストを解釈することである。
例えば有名なアウグスチヌスの「良きサマリヤ人のたとえ」の解釈などがそうである。

上記のサイトの説明では1から12までの「モノ」は
  • 第一日の「ナシの木の中のウズラ」は、木の十字架にかけられたイエス・キリスト(Jesus Christ)を表します。
  • 「二羽のキジバト」は、神からの他の贈り物である「旧約」「新約」両聖書を表します。
  • 「三羽のフランスのメンドリ」は、「信仰」、それをささえる「希望」、そして神の「愛」を表します。
  • 「四羽の囀る小鳥」はイエスの救済を描いた、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる「四福音書」を表します。
  • 「五つの金の指輪」は聖書の最初の五つの本、「モーゼの五書」を表します。
とあるように、別にわざわざ暗号にする必要がないプロテスタント、カトリック双方が共有するものである。
なぜ暗号化しなければならなかったか、の説得的な説明としていまいち腑に落ちない。

まあこのキャロルの歴史文化的背景はあるいはもっと複雑なのかもしれませんが、筆者にはこのキャロルの歌詞の「字義通り」と「アレゴリー」の対比として興味深く楽しませてもらいました。

2011年12月3日土曜日

明日の礼拝案内

12月4日 午前10時30分
待降節第二主日礼拝

朗読箇所 ルカの福音書 1:5-23,57-66
説教箇所 ルカの福音書 1:64
説 教 題 「彼の口が開け、舌は解け」
説 教 者 小嶋崇 牧師

2011年12月2日金曜日

教会暦と信条

先日ご紹介したスコット・マクナイト教授の「王なるイエスの福音」をようやく入手して読了した。

「福音」とは「イエスが王であり主であることを宣告する」こと、及びその枠組みは「イエスの物語がイスラエルの物語を完了し、解決する」ものであること、が一貫して説かれている。

福音が「救いの計画(あるいは救いの順序)」とそれを「説得する」こととほぼ混同、還元されている現状に対して、パウロが簡潔な形で伝承された『福音』(Ⅰコリント15章)、四福音書、使徒の働きに収録されているペテロとパウロの伝道説教に照らし合わせて「使徒的福音」の輪郭を提示し、それを通して矮小化された現在の福音理解を比較分析している。

ここまでの部分はほぼ予想通り、と言うか筆者が考えてきた「福音問題」を扱う方法論として共通するものがある。

ただ筆者の考察で足りない部分として「いかに『ゴスペル・カルチャー』を育てていくのか」と言う課題に対して、マクナイト教授はやや面白い提案をしている。

それが標題の『教会暦』と『信条(歴史的信仰告白や宣教会議文書も含めているが)』の自覚的使用である。

最近(ここ10~20年位の傾向か?)福音主義のクリスチャンがカトリックや正教に改宗すると言う現象が目に付く。
一つは聖書の個人解釈権の原理に立つことによる果てしない論争、権威の脆弱性や崩壊に幻滅して、と言う面があるだろう。
さらに「信心(の継続)に関し、プロテスタント個人主義の不安定性に対し、カトリックや正教が提供する「教会的伝統」の安定性が評価されていることがあるであろう。

そのような傾向の中でプロテスタント側も「リタージカル(典礼)」なものへの関心・接近が無きにしも非ず。

しかしマクナイト教授が『教会暦』と『信条』をゴスペル・カルチャーを醸成するものとして提案しているのは以上のような文脈からではなく、『教会暦』と『信条』がまさに彼の言う『福音』の提示と見るからだ。
この指摘にはやや意外な感じがした。
The church calendar is all about the Story of Jesus, and I know of nothing ... that can "gospelize" our life more than the church calendar. It begins with Advent, then Christmas, ... Anyone who is half aware of the calendar in a church that is consciously devoted to focusing on these events in their theological and biblical contexts will be exposed every year to the whole gospel, to the whole Story of Israel coming to its saving completion in the Story of Jesus. (p.155、強調は筆者)
逆説的かつ皮肉っぽい見方だが、このような「ゴスペル・カルチャー」で漫然と育ったカトリックの信者は、福音主義が強調するイエス・キリストに対する自覚的回心にどれだけ至っていると言えるのだろうか。
教会暦それ自体ではゴスペリングしていると言えるのだろうか。
文化=習慣に埋没してしまうことがどれだけ多いことだろう。

だから教会暦の「神学的、かつ聖書的文脈」をよほど自覚した上で、しかも全体を「ナレーティブ」な枠組みで把握した上で教会暦を過ごさないと「ゴスペリングしている」とはならないのではないか。

信条に関しては更に意外に感じた。
確かに『使徒信条』くらいまではマクナイト教授の言う「福音」の内容を羅列していると言えるだろう。
しかしその“信仰箇条”を「イエスの物語がイスラエルの物語を完了し、解決する」と言う枠組みで告白している信者はどの位いるだろうか。
これも「ナレーティブ」な意識で取り組まないと個別の箇条の寄せ集めに感じられてしまうのではないか。
さらにその後のニカヤ・カルケドン信条に至ってはギリシャ的思惟のオブラートが被ってしまってユダヤ的思惟の遺産である「ナレーティブ」枠組みは殆んど意識されず、教理的に統合されたものに映るのではないか。
最近の研究ではユダヤ的ナラーティブ構造が認められることが指摘されているが。Oskar Skarsaune and Reidar Hvalvik編著、JEWISH BELIEVERS IN JESUS, (Hendrikson, 2007)

しかし個人的にはマクナイト教授の提案する、教会暦と信条をゴスペリングな機会として自覚的に用いることには賛成である。

2011年11月27日日曜日

英語圏ブログ紹介⑦

更新が滞っています。

段々「矢尽き、刀折れ」のような感じになってきました。
なるべく自然消滅しないように息長く続けられたらいいな、とちょっと弱気コメントで幕開け。

「英語圏ブログ紹介」では聖書学関係のブログを多く紹介してきましたが、今日は神学関係です。

Per Crucem ad Lucem
と言うラテン語のタイトルを付けているブログです。
結構ラテン語をタイトルに使う人いますね、英語圏ブログでは。

ブロッガーは、Jason A. Goroncy さんで、セント・アンドリュース大学でPhDを取得された方のようです。
アートに関心があるようで神学の他にこの方面でも色々記事にしています。

ところで最新投稿記事は何と日本におけるP.T.フォーサイスの研究事情を紹介しています。
PT Forsyth in Japan: フォーサイス神学概論ー十字架の神学

紹介している本は
記事では日本でのフォーサイスへの関心が戦前からずーっと今に至るまで継続していることに注目しています。

しかし日本での神学研究が英語圏のブログで紹介されているなんて初めて目にしました。
もちろんゴロンシー(と発音するのかな・・・)さん自身がフォーサイスに多大な関心を寄せているからのことでありましょうが、何にせよ驚きです。

ところでブログの読者の中でフォーサイス研究家の金子啓一氏(立教大学に所属していたようですが今ネットで調べてみたのですが現在の所属は良く分かりません。)が指導教官をしている学生の博士論文について知っている方は情報くださいとのリクエストも書かれています。
この学生でも、指導教官の金子氏でもどちらの情報でもよいから欲しいそうです。

《追記》
①「一キリスト者からのメッセージ」ブログが久しぶりに更新され始めました。
数ヶ月か更新がないのでどうしているかと思っていました。
(そんな心配している筆者がそのうち冬眠してしまうかもしれませんね・・・。)

②その「一キリスト者からのメッセージ」が「このブログがすごい」(元の紹介は超有名クリスチャンブログ「命と性の日記」のこの記事)で紹介していた 
クリスチャンの片隅で暴論を吐いてみる
はなかなか強烈。
現在某学生伝道団体を槍玉に挙げて日本の(軟弱な?)プロテスタント教会の内情を痛烈に皮肉っています。
敢えて「暴論」にすることで警鐘を鳴らす意図のようにも見えますね。
なかなか「王様は裸」と言うのは閉鎖的な社会には難しいこと。
こういうブログもありなのかもしれませんね。

2011年11月26日土曜日

明日の礼拝案内

11月27日 午前10時30分
待降節第一主日礼拝

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:8-5:1
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 5:1
説 教 題 「解放と自由」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(71)
ガラテヤ人への手紙(59)
・4:21-5:1 自由の子

2011年11月20日日曜日

言葉とポータビリティー

つい先日、誰かが

椹木 野衣 Noi Sawaragi@noieu

と言う方のツイートをリツイートしていたのが目に留まった。この方のプロフィールには
美術批評家です。昨年5月にツイッター開始、年末には終了していましたが、今年の5月を目前に震災モードで再開しました。埼玉県秩父市生まれ。(TLの景色を変えるため、頻繁にリムーヴ&再フォローします。「お気に入り」は「気になった」程度です。)
とある。

全然知らない方なのでその連続ツイートの内容がこの方の仕事とか生き方とか、そんなことにどう関わっているか知る由もないが、とにかく不特定他者の一人である筆者に響くものがあったので以下にその全文を掲載してみようと思う。(長くなるがあしからず。下線した部分が特に心に響いた部分です。)
先日、渋谷の喫茶店で編集者の方と話した。震災後、詩(のようなもの)の重要性が高まっているように思われる、と。実際、これまで詩にはほとんど関心がなかったにもかかわらず、心のどこかで確かにそう感じるのは、今が緊急時であり、破局的な災害下にあるからだろう。
原発事故直後もそうだったが、西に向かうため慌てて家をあとにするとき、一冊くらい本をと手にしたのは、意外にも詩(のようなもの)だった。少なくとも散文ではありえなかった。薄くて軽いという持ち運びやすさもあるが、何度でも繰り返し読めることと、最終的には暗記できるものがほしかった。
書物としては頁をめくるという共通性があったとしても、実際には詩は小説よりも遥かに絵や唄に近い。慣れ親しんだ詩の味わいは無時間的だ。そして暗記してしまえば、その人の精神の一部として血肉となる。そうなると、読んでいて新しい発見や展開などなくても全く構わない。むしろない方がよい。
僕はこのことを、子供に絵本を読み聞かせていたとき気付いた。子供は何度でも繰り返し同じお話を聞きたがる。最初は変化を嫌う子供に特有の危機回避の本能かなと思っていた。が、どうやらそうではないようだ。子供たちは次の場面に何が起こるかを驚くほど細部まで暗記し、それを楽しんでいる。
それは刺激や意外性を求める小説の楽しみとは全く違っている。むしろ、同じ感覚が体を通り抜ける快感を貯めている。そしてふとした時、絵本の言葉が形を変えて別の場所に現れる。子供たちは同じエネルギーを供給してもらい続けるために、繰り返し同じ絵本を読んでもらいたがっているかのようだ。
肝心なのは、読書の楽しみではなく、言葉を心に刻み、いつ、どこにでも持ち運べるようになることなのだ。小説にこれはなかなか望めない。が、詩や絵本には可能なこの性質が、災害や緊急時には、大きな意味を持つ。暗記してしまえば、その人がすべての財産を失ったとしても、詩の言葉は心に残る。
どのような暴力も、それを剥ぎ取ることはできない。たとえ電子化されても、タブレットを奪われれば何も残らない。が、暗記された言葉はその人が生き延びる限り、活きて残り続ける。このような詩の性質は、数多くの破局や戦乱をくぐり抜けてきた人類にとっては、きわめて重要な形式にちがいない。
震災後、どうも小説にあまり手が伸びないのは、震災で非日常が現実のものとなり、フィクションが力を失ったというより、小説という形式が根本的に災害下や緊急時から生まれたものではなく、平時の過ごし方、もっといえば「ヒマつぶし」を高度に洗練して探究する文学形式だからなのではないか。
そう考えてみると、日本の小説が、戦後という稀に見る「平時」に隆盛をむかえたのも、何だかわかるような気がする。他方、そういう時代に「詩」を詠むことにも、どこか無理はなかったか。かりに詩が緊急時の芸術なのだとしたら、平時の詩は避けがたく「超短編小説」化してしまう。
かつて、批評家として活動を始めた頃、僕がひどく「詩」というものに苛立ったのは、きっと、そのせいだったのだろう。……おっと、切りがない。仕事しなきゃ。(了)
この方の詩と小説の違いに関する文学論はさておく。
災害緊急時のような時に持参したいのは時間をかけて読みこなす小説よりも、何度でも読み返せるそして薄くて軽い詩集のようなものが「この一冊」となるのではないか、というのはそうかもしれない。
ただ文学作品の中でも詩や歌に普段から慣れ親しんでいる人のことだと思うが。

暗記できる長さの言葉、そして必要な時にすぐに思い出せる心に刻まれた言葉、突き詰めて言えば本と言う外形で持ち運びしなくても良いほど心に残っている言葉、と言うことになるのだろう。

なぜこのような文章が心に響いたのかと言うと、最近少し心がしんどい時があり、そんな時心に浮かんでくるのは賛美歌の一節とか、よく覚えている聖書箇所とかなのである。
もちろんその時々に応じた聖書の箇所を開くと言うこともできる。例えば詩篇の中には作者の状況に応じて幾つかの種類に分類することが出来る。

でも「その時」咄嗟に思い出す言葉が「その時」の心を整理したり、励ましたり、慰めたりするわけである。
だから「ああ、あの言葉は確か聖書のあの辺にあった」とやおら聖書を取り出して探し出すのとでは「言葉が働くモード」が違うのだと思う。
やはり暗記している言葉、心に刻みつけた言葉を持っていることは自分の心の状況を一瞬にして一つの方向に向けることが出来る「身につけたわざ」のようなものだと思う。

そう思ってみるともう少し備蓄が必要かな、と思う。

2011年11月19日土曜日

明日の礼拝案内

収穫感謝主日礼拝

11月20日 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 14:8-18
説 教 題 「神の証し」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※礼拝後、昼食会があります。

2011年11月17日木曜日

繋ぐ

ボストン便り」と言うブログがある。
ハーバード公衆衛生大学院研究員という肩書きを持つ細田満和子さんという方が書いているブログで、専門である「医療社会学、生命倫理、患者運動、医療政策、国際保健」などについて時々レポートをされている。

以前「健康への権利・健康への義務(1)」と言う記事を読んでコメントを書いて以来ツイッターでフォローしている。
もともとはツィッターでフォローしていた東大教授の山脇直司氏のツイートに細田氏のことが書かれていたのに関心を持ったのが始まりだが。


先日大野更紗さんの「困ってるひと」について記事を書いたが、難病を抱えた人が必要な医療や介護補助を受けるために、それこそ死に物狂いで資料を揃えて提出しなければならない、と言う苛酷な状況を大野さんはリポートしていた(右コラムの「マイ・ブログ・リスト」参照)。

制度の狭間に落ち込んで苦しんでいる人は様々いるに違いない。

細田さんはここ数ヶ月の活動を一気に5つの記事にまとめている。

制度と現場のコンフリクトを越えて―さまざまな立場を繋ぐ役割(1)

制度と現場のコンフリクトを越えて―さまざまな立場を繋ぐ役割(2)

医療者と患者の協働で医療を変える ~慢性疲労症候群/筋痛性脳脊髄炎(CFS/ME)~

ポリオの世界の今

筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群(ME/CFS)への挑戦

標題の「繋ぐ」はこれらのレポートから垣間見れる細田さんのような働き、あるいは細田さんが提案している、実際に疾病を抱えた人、医療従事者、それをサポートする行政や同じ病に苦しむ人たちのサポートグループが連携して「救済」を構築する必要から考えさせられたことである。

10月23日(日)に東大駒場キャンパスで開催された、「ともに挑もう!慢性疲労症候群(CFS)」と題する上映会とシンポジウムも、この病にかかり一人で苦しんでいた篠原さんと言う方が、一念発起して患者の自助グループを立ち上げ、働きかけてきた努力の結果であることが指摘されている。

病を抱えながら泣き寝入りに終わらず、アクションを起こす勇気と粘りに頭が下がります。

また細田さんがその篠原さんの言葉を以下にまとめているように、社会の側が障壁を作っていること自体が「障害の本質」に関わるとは、大野さんのケースにも通じることのように感じられます。

篠原氏は壇上で、終始ストレッチャーに横たわったままでしたが、シンポジウムを締めくくる言葉として、患者一人一人がチャレンジして変化を起こそう、と 強い志の感じられる宣言をしました。機能障害や疾病を有する人々の障害の本質とは、様々な社会への参加を妨げている社会的障壁にほかならず、機能障害や疾病を持つ人々を排除しないようにする義務が社会、公共にあることが確認される必要があります。病気を持つ人々の社会参加を排除して、適切な支援を実施しな い社会の側が障害の原因であるという障害把握の転換を明確化する必要があります。篠原氏はこのことを、身を持って証明してくれているのです。だからこそ、 応援したいと思う人が周りに集まり、メディアも高い関心を寄せているのでしょう。

 この「繋ぐ」と言う働きを患者自身の自助努力に任せているだけで良いのか、と言うことを考えさせられます。
社会の中に「共に痛む」と言う心がなければならないと思わせられます。
また「繋ぐ」働きをするファシリテーターのような専門的人材も高度高齢者社会に向けてますます必要になってくるでしょう。
でも肝心なのはやはり様々な痛みや困難を抱える人たちに繋がろうとする普通の人々の心ではないかと思うのです。

2011年11月12日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

11月13日 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 15:1-29
説  教 「聖霊と教会」シリーズ(7)
説 教 題 「聖霊とわたしたちは」
説 教 者 小嶋崇 牧師

2011年11月11日金曜日

ペットの死

筆者が購読しているメーリングリスト(英語)に最近こういう質問があった。

「飼っていた犬が亡くなって家中悲しんでいる。特に小さい子供たちのことを考えると、何か葬儀と言うか簡単なお祈りでもしてあげた方がいいかなと思うんだけど・・・。何か良いリソースがあったら教えて欲しい。」
と言った内容のものだった。

何人もの人がすぐ同情して色々とアドバイスをしていた。
お祈りの文章を書いてくる人や、同じような体験をした時に自分がしたことや感想を言う人もいた。

その中に『レインボー・ブリッジ』の話をしてあげるのはどうか、と言う提案をした方がいた。
Rainbow Bridge(以下導入部分を引用)
Just this side of heaven is a place called Rainbow Bridge.

When an animal dies that has been especially close to someone here, that pet goes to Rainbow Bridge.
There are meadows and hills for all of our special friends so they can run and play together.
There is plenty of food, water and sunshine, and our friends are warm and comfortable.
これはペットの死に悲しむ人のためのサイト、Pet Loss Grief Siteに収められている「お話」で、大意は天国の手前にあるレインボー橋というところで死んだペットが元気に回復して楽しく暮らしている、というものである。
そして飼い主が天国にやってくる時には走り迎えて一緒に天国に入る、と言う結末である。

このメーリングリストはキリスト教関係で、この話を子どもたちにしてあげるのは信仰的にどうか、と言う意見もあった。

どちらにしても最近気になるのがペットの家族化である。
ひどい場合は家族より溺愛する場合も見受けられる。
当然そのような存在だから、ペットの死も手厚く葬る。

で、(大衆)神学的にはどうか、と言うことがある。
はたして天国は人間だけでなくペットも入れるのか。
では人間以外の動物の中でペットだけが特別なのか。
他の家畜や野生動物はどうなるのか。
彼らの死には何らかの「葬り」のような儀礼が必要なのか。

そんなことを考えていくと、自然と共生していた原始社会の文化に近くなっていくような感じがする。現代人はただ「食べ物」としてしか受け取っていない生き物の命を原始社会の人間は同じ命を共有するもの同士として、狩猟や漁によって得たものの命を頂いて生きているという自覚を持っていた、それ故その命に感謝し敬意を表す儀礼を行っていたように思うのだ。
ただそのような文化を理想化する傾向も現代人にはあるかもしれない。

そんなこと考えなくても、現代人はペットが死ぬと「天国に行った」と簡単に思っている人は多いだろう。
と言うかそのように自分を慰めている。
確かに長年一緒に暮らしてきたペットには「個体」としての性格と言うか「魂」とも思しきものを持ち合わせているように考えても不思議ではない。
最近ではペット用の葬儀やお墓もあるようである。

教会にもペットのための葬儀を依頼してくるような時代は来ているのかもしれない。

2011年11月9日水曜日

聖書2題 追記

「聖書2題」の記事に「はちことぼぼるの日記」改め「ミルトスの木かげで」ブログのはちこさんがコメントを下さいました。(左コラム下の「最近のコメント」)

今年一月に行かれたマコト・フジムラさんの
The Four Holy Gospels展覧会
の様子を紹介した記事のことを書いておられます。

せっかくですので記事のリンクをこちらの方で。
 「フジムラ・マコトさん」

一緒にこのブログ記事も紹介すればよかったのですが・・・。

なかなかの盛況だった様子。日本での展示会はどうなるやら。

2011年11月8日火曜日

聖書2題

先日、日系アメリカ人のアーティスト(絵画)マコト・フジムラが自身のツィッターであるブログ記事を推薦していた。
長老派の牧師がマコト・フジムラのアートを批評している記事で、結構フジムラのアートをよく理解している、と言うようなものだった。

Fractured Lightと題するその記事で、やはり美術に関心を寄せていたフランシス・シェーファーと比較しながらフジムラのアートに対する姿勢を「一般啓示」との関連で分析している。
The weakness in Schaeffer's view of art resides in his failure to appreciate the common grace gifts of the Spirit in common culture. A lack of faith is not the only ingredient in the creativity of unbelievers, although unbelief sometimes expresses itself in ugly and even reprehensible ways. True beauty may be created by the non-Christian artist or poet made in God's image. General revelation is no less God's revelation.
Like Schaeffer, Fujimura self-consciously reflects on art through the lens of his Christianity—as well he should. However, Fujimura also recognizes the brilliant insight of the artistry of his unbelieving Nihonga master Matazo Kayama-sensei (1927-2004), as well as many other modern western artists, like Mark Rothko.
一応フジムラのことは暫く前から気になっていた。
キリスト教信仰とアートを、いやアートを含めた文化を現代の混沌とした様相の中で積極的に交渉させようとしている大胆な構想力の持ち主だと注目している。

既にアーティストとしての地歩を築いている人であるからそれなりに有名な割には教会と言うかキリスト教側からはそれほど評価されていないような気がする。

ところでこのフジムラが欽定訳400年を記念したプロジェクトとして自分の抽象画を配した「四福音書」を刊行している。
the Four Holy-Gospels
日本での展示は、日本橋高島屋デパートで、12月21-27日まで開かれる予定である。
挿絵付きの聖書はこれまで常に写実画であったが、フジムラによって初めて抽象画、モダンアートによるものとなる、とサイトに説明されている。

聖書についての2題目はN.T.ライトによる新約聖書個人訳、The Kingdom New Testament、の出版だ。
今日アマゾンに注文していたのが届いた。

ライトは新約聖書27巻全部にEveryoneシリーズと言う一般読者向けの註解書を刊行していたのだがそれが全部終わり、まとめと言うかこのように個人訳を出したと言うわけだ。

ちょっと気になる箇所を拾って紹介して見よう(強調は筆者)。

ヨハネ1章1-2節
In the beginning was the Word. The Word was close beside God, and the Word was God. In the beginning, he was close beside God.
ヨハネ3章16節
This, you see, is how much God loved the world: enough to give his only, special son, so that everyone who believes in him should not be lost but should share in the life of God's new age.
ローマ人への手紙3章21-22節
But now, quite apart from the law (though the law and the prophets bore witness to it), God's covenant justice has been displayed. God's covenant justice comes into operation through the faithfulness of Jesus the Messiah, for the benefit of all who have faith.
ライトの著作に触れている人にとってはそれほど目新しいことはないかもしれないが、改めてこうして「新約聖書」として読んでみると結構味わい深い箇所が多いのではないかと期待している。

2011年11月5日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

11月6日 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 15:1-10
説教箇所 ヨハネの福音書 15:9
説 教 題 「愛にとどまる」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2011年11月3日木曜日

70億人

2011年10月31日に世界の人口が70億人を越えた、と話題になっている。

テレビのニュースではこの日に生まれた子は70億人目として認定されるそうだ。

一応「お祝い」の雰囲気のニュースとして流れているが、このような人口「爆発」は様々な問題を呼び起こすことは大分前から考えられていた。例えば1972年に出されたThe Limits to Growth。

経済成長を支える資源問題、食糧問題、それから最近とみに注目されているのが「水」資源の問題だ。

日本はと言うと人口減少から経済縮小が予想され、別なセットの問題が予測されているが。

創世記には「産めよ、増えよ、地を満たせ」とあるが、現在の人口問題から見るとその限度は既に大分前に越えているから、21世紀の文脈では「世界を管理する」方が大きな意味を持っている。

3.11以降「地球温暖化」のようなグローバル問題は一時視界から外れている感じがあるが、とにかく今の時代グローバルな問題は増えるばかりのような気がする。

そんなこんなを考えていたら、7 Billion Actionsと言うサイトがあった。国連関係組織ということらしいが、この「危機」に対して二つの目標を立てている。
  • Building global awareness around the opportunities and challenges associated with a world of seven billion people.
  • Inspiring governments, NGOs, private sector, media, academia and individuals to take actions that will have a socially positive impact.
二つ目のところに「個々人」もとあるように、政府や関連組織だけでなく普通の人もこの課題に関心を持って行動するよう働きかける、と言うことなのだろう。つまり世界の人々がこの問題を共有することが目指されている。
「70億人行動」と言うキャンペーンは特に7つの問題に焦点を絞っている。
  • Poverty and inequality;
  • Women and girls empowerment;
  • Reproductive health and rights;
  • Young people;
  • Aging population;
  • Environment;
  • Urbanization.
先進諸国での人口増加はほぼ頭打ちだと思うが、発展途上国での人口増加に伴うニーズは上に掲げた問題だけでも大変なものになるだろう。
教育による人材育成も少しはこのような問題を意識して為される必要があるだろう。

などと書いてみたが、やはり問題が大き過ぎて何をどう考えたらいいのやら・・・。

2011年11月1日火曜日

会堂改修工事

2001年新会堂が建ってから今年11月でまもなく10年。

数年前から外壁撥水塗装工事の準備(積立献金)をしてきた。

今年9月設計をした事務所の今井氏に点検してもらったのだが、結局建物全体の「定期検診」になった。
修繕が必要な箇所をリストアップして頂き、工務店に見積もりを出してもらった。

外壁撥水塗装工事だけなら準備してきた基金で収まったのだが、他にも修繕が必要な箇所が幾つかあり予想よりも大きな工事になってしまった。

その工事もようやく終わり、先日今井氏と工務店の方と三人で工事の完了を確認した。

コンクリート打ち放しの壁は大分きれいになった、ように見える。

確認が終わってから三人で四方山話。
と言っても建物等に関することだが。

実は新会堂になった後入り口が以前の時の場所と変わったことにより、道路に面した入り口のほぼ真ん中に電信柱が来るようになってしまった。
設計段階でそのことは分かっていたが、移動費用は工事見積もりを減額する過程で外れてしまった。
また別の機会に、となったわけである。

今回担当した工務店の方がいかにもこの電信柱の位置が気になって仕方なく、何とか移動するよう提案した。

10年の間何もせずに来てしまったが改めてこの電信柱の位置が「目の上のたんこぶ」に感じられてきた。
慣れている人はいいが初めて来る人や通りがかりの人にはやはり「変に」感じるだろう。
まるで通せんぼでもしてるみたいに。

工務店の方曰く、「こんないい雰囲気の場所なのにこの電信柱で台無しだ。」

なるほど景観的にこの電信柱によって何割方かその魅力を削がれていることは間違いない。
段々「何とかしなきゃ」と思うようになって来た。
これからどれだけこの教会施設を使って催しが為されるか分からないが、やはり将来的にも早いうちにこの電信柱を移動しなければ。

と言うことでこの工務店の方が早速東京電力の方に電話で問い合わせてくださった。

まもなく移動に関わる実地検査や見積もりについて調査をすることになった。

2011年10月30日日曜日

プレイヤー・ウォーク

日曜の午後散歩に出た。
いつもの散歩のつもりだったが、この日はあることを祈るために散歩に出た。
あいにく10分過ぎた位で雨がポツポツと降り始めた。
通常だとこの時点で散歩コースを短かく切り替えて帰ってくるところであったがどうしても祈る必要を覚え続行することにした。

思えば筆者はいわゆる「プレイヤー・ライフ(祈りの生活)」に関してはずぼらな方である。
筆者の育ったキリスト教環境は概して「敬虔主義」の影響が強く、デボーションと呼ばれる聖書と祈りの「個人の密室の時間」を大切にする。
聖書学校や神学校ではこのことを霊的修練として大事にする。

牧師になってある時ふと思ったことがある。
福音書では「イエスが一人祈りに専念している」姿が描かれ、その姿を見た弟子たちがその崇高さに打たれたのかイエスに「祈りを教えて欲しいとやって来たのである。
つまりイエスは召し出した弟子たちを自分のそば近くに置きながら、あえて自分から弟子たちに祈りを教えなかった、と言うことになる。
勿論当時の敬虔なユダヤ人たちは日に三度シェマーを唱えていただろうし、「18の祝福の祈り(The Amidah)」のようなものが既にあってそれを唱えていたのかもしれない。弟子たちは弟子たちなりの「プレイヤー・ライフ」を持っていたはずだ。それなのに師であるイエスに祈りを教えて欲しい、と願ったのである。

イエスの答えが現在の私たちキリスト者も受け継いでいる「主の祈り」である。

さて「プレイヤー・ウォーク」に戻ろう。

祈りの課題は一つであり、集中して祈るために歩いた。
歩きながら幾つかの聖書の場面や言葉が思い浮かんだ。

一つはヨシュアとイスラエルがエリコの町を周回した場面である。
祈りの課題は周回コースに関連していたのだが、一歩一歩踏みしめながらかつて約束の地の一部を確保するために為されたこの一種「プレイヤー・ウォーク」とも言える場面を想像していた。

祈りの言葉は単純であった。
「信じて」「祈って」「歩きます」と繰り返した。

途中また雨が強めに降り出した。
横っ腹も苦しくなったので無理はよして区切りにしようかと一瞬迷った。
しかし祈りの要請が強く最後までコースを歩き通すことにした。
幸い雨は小降りのままで済んだ。

「信じて」と繰り返しながら、なかなか納得がいかなかった。
福音書には汚れた霊に取りつかれた子をイエスのもとに連れてきた父親のエピソードがある。(マルコ9:14-29)
父親の懇願の言葉「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(マルコ9:24)の場面が思い出された。
今祈りながら歩いている自分もこの父親のようだと感じられた。
父親のことばを繰り返した。

段々コースは終盤に差し掛かって来た。
横っ腹が苦しいままで歩き続けていた。

祈り終えた、と言う感触ではなかったがプレイヤー・ウォークは終点(家)に来た。
70分かかった。
祈りの1ラウンドが終わった感じがした。

2011年10月29日土曜日

明日の礼拝案内

10月30日 午前10時30分
宗教改革記念礼拝

朗読箇所 Ⅰペテロ 2:1-10
説教箇所 Ⅰペテロ 2:5,9
説 教 題 「万人祭司」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《宗教改革の発端》
1517年10月31日、万聖節前夜、マルティン・ルターはヴィッテンブルグ城教会の門に免罪符を始めとする95箇条の公開質問状を打ちつけました。当時の教会が教える内容について聖書に照らし合わせて疑義を覚え、それを公開の場で議論しようとしたことからこの世界史的出来事は始まりました。

2011年10月28日金曜日

英語圏ブログ紹介⑥

「市民宗教」と言う言葉をご存知だろうか。

もともとは啓蒙主義期フランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソーが「社会契約論」で発案した概念だ。
この概念をベトナム戦争で揺れていたアメリカ共和政治思想に適用しようとして導入したのがカリフォルニア大学バークレー校社会学教授のロバート・ベラーだ。
「アメリカ市民宗教」と題して学術雑誌に発表されたこの論文はその後大論争を巻き起こし数奇な運命を辿る。
日本にもこの概念が導入され、主に神道派の社会学者に適用されたりした。

長い話を省略し、現在一般的にも使用されることとなった「市民宗教」は批判的な方々からは「特定宗教と国家との癒着」や「ナショナリズムに迎合する特定宗教」として理解されることが多い。
政教分離原則を掲げる近代世俗主義からは否定的に取られる現象のことである。

さて今日紹介するブログは米国福音派の中堅新約聖書学者として以前本の紹介で名前を出したことがある、マイケル・ゴーマンの
Cross Talk - crux probat omnia: Life through the lens of the cross / Biblical and theological reflections by Michael Gorman

その副題からして「聖書と神学」を話題にするブログとして始まったのだろうが、最近はアメリカの「市民宗教」現象に対して警鐘を鳴らすウォッチドッグ的記事を多く掲載している。

最近の記事Take me out to the civil religion affair at the ballgameでも大リーグ・ベースボールの試合中に起こったことを取り上げている。
それは7回の時に国内・国外で国のために戦っている兵士たちへの尊敬を込めて国家を歌う、と言うものであった。

ゴーマンは最近は余り試合を見に行く機会は減ったと言っているが、試合開始セレモニーにつき物の国歌斉唱の時はお便所に行ったりして避けていると言う。
そんな具合だから、この試合途中の国歌斉唱にいたく疑問を抱いた、と言う次第である。

記事ではこの場合の「神」はアメリカの民族神のようなもので、キリスト教の神ではない、と疑問を呈し批判している。

ゴーマンのような人はアメリカでは少数派と言っていいだろう。
そのくらい民族(民俗)的市民宗教はアメリカ市民に余り自覚もなく受け入れられている。
イラク戦争の時ブッシュ大統領を支持した多くのキリスト者たちの振る舞いに見られたように、彼らの意識の中では「聖書の神」は「アメリカの神」なのである。

筆者もその現象を最初に目撃した時は面食らったものだ。
アメリカでの一年目、聖書学校での学びを始めて間もなく、「収穫祭礼拝」がチャペルであった。
そもそもチャペルに国旗が飾ってあること自体異様な風景だったが、その時の礼拝の最中に「国旗への誓い(Pledge of Allegiance)」と言う儀式がなされたのである。

礼拝後学生たちにその時の違和感を口にしたら、殆んどの学生が「何がおかしい」とばかりに筆者を見つめた。
まだ足りない英会話力で何とかこのような儀式が教会でなされることの不適切さを議論しようとしたことを思い出す。

2011年10月26日水曜日

ベースボールとキリスト教

「野球とキリスト教」と言う題を書きかけてすぐ書き改めた。
現在ワールド・シリーズたけなわの米大リーグの「ベースボール」と日本の「野球」はルールは同じでもかなり違う、とよく言われる。
プレーのスタイルや、球場、観客の雰囲気、そして応援の仕方やチームと地域の繋がり方など、挙げだしたら色々あるだろう。

筆者は別にプロ野球のファンでも、米大リーグにお気に入りのチームがあるわけではない。
球場に足を運んだことは記憶にあるだけでも後楽園に一回、留学中にシンシナッチ・レッズの試合を一回見に行っただけである。

さて今年のワールド・シリーズはセントルイス・カージナルスとテキサス・レンジャーズとの対戦で、目下レンジャーズの方が3勝2敗と王手をかけている。
レンジャーズの主砲ジョシュ・ハミルトン選手が今日の記事の主役である。

これはクリスチャニティー・トゥデー誌に掲載されたSuper Natural: Josh Hamilton's Comebackを読んでの感想みたいなものである。

なるほど大したカムバックである。

記事は、ハミルトンが選手として駆け出しの頃酒とクラック(覚せい剤)に溺れ怪我や何かで選手生命を棒に振っていたが、ある時を境に立ち直り現在の活躍までを綴っている。
その立ち直りの要因の中に少なからず信仰も関わっている。(自伝の中でそのことが綴られているらしい。)

さてハミルトンがドラフト一位指名でそのままスターに上り詰めていたら、変な言い方だが普通の「アメリカン・ドリーム」の話で終わるわけだろう。
しかし挫折を繰り返しどん底まで行って這い上がって現在のスーパースターダムにいることがよりドラマティックな「アメリカン・ドリーム」の達成者としている。

しかし彼は酒やドラッグに逆戻りしないように妻や、コーチや、同僚の選手たちの監視に守られている、と言う曰くつきのスーパースターなのだと言う。

彼の元には教会などから講演依頼が舞い込んでいるらしいが、彼は自分がそのような条件のもとで選手を続けていることを自覚している。自分のカムバックが周りの人たちの守りによることを承知で「証し」しているらしい。
Hamilton says it's all part of his "platform" for reaching people who deal with their own or loved ones' addictions, and for reaching people with the good news of the gospel.
果たして日本でプロ野球選手が麻薬で自滅した後にカムバックできるような環境があるだろうか。多分麻薬常習が発覚した時点で社会的にアウトだろう。
野球に限らずプロスポーツ選手は倫理的に少し高いハードルを課せられていると思う。(彼らは青少年の憧れの的であり、模範的であるべきだ、と言う考えによるものだろう。)

人生に失敗した人間に第二、第三のカムバックの機会を提供できるアメリカ(スポーツ)社会は懐が深いと言うべきなのか。それともいかにドラッグに陥りやすい環境が満ちている社会と言うべきなのか。難しいところだ。

2011年10月24日月曜日

何歳まで生きたい?

とある会話で「何歳まで生きたい」と唐突に聞かれた筆者は答えに詰まった。

先日57歳の誕生日を迎えたが暫く前から、もっと正確に言えば40代後半位から、人生の折り返しに入っていることは漠然と考えるようにはなっていた。

ここ2年ほど体調がすぐれないと言うか、気力が落ちているのを感じているので、どちらかと言うと一日一日、一週間一週間なるべく不具合なく過ごすのが目標みたいにしている。

「何歳まで生きたい」と質問されて、はたと「そんなこと考える余裕のない自分」を発見したような気がした。
でも改めて考えてみると「長生きしたい」とは思っていないようである。

先日元気印の有名老人、日野原重明氏が100歳を迎えたことがニュースになっていた。
その時だったか、その数日後位だったか、何かのテレビ放映で日野原氏が「私はまだ110歳くらいまで生きる気がする」と言っていた。
またご自分スケジュール帳には10年先までの予定が書いてある、みたいなことも言っていた。
全くバイタリティーに溢れた方である。

でも余り羨ましいとは思わないのはなぜなのだろう。
詰まるところ「自分の人生でこれを実現したい」と言うようなはっきりとしたゴールを持っていないからなのだろうな。
これまでもそうであったように大体が行き当たりばったりの人生を歩んできたわけだ。
計画性がないというか・・・。

もともと人より何事もゆっくりペースを好む方だ。
競争は嫌い。
とにかく何かに必死になると言うことが殆んどない。

思い返せば神学校時代、初めて頑張って勉強することを学んだ。
と言ってもせいぜいタームペーパー(小論文)を締切日前に完成させるため半徹夜したことが一回ある程度だ。
だが筆者にとってはそんなに必死になったことはなかったので、無事完成させた時の解放感、達成感は特別なものだった。

要するに普段はいかにして労を惜しむか、つまり省力に頭をひねる方なのだ。
そういう生き方をしてきた人間が「何歳まで生きたいか」と問われても答えに窮するのは無理もないのではないか。

自然体。
流れに任せる。
少しキリスト教的に高尚に言えば「摂理のまにまに」だ。
自分であれこれ画策するのは面倒くさいだけなのだが・・・。

ただ牧師をやっている手前後何年位できるのか、教会の将来をどうしたらいいのか、等の課題は無理にでも考えざるを得ない。
回答は難しくて出そうもないが・・・。

「何歳まで生きたい」
こんな質問時々必要だ。
はたと立ち止まってぼんやりしている自分に活を入れるためにも。

2011年10月22日土曜日

明日の礼拝案内

10月23日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:8-5:1
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 4:27-31
説 教 題 「自由の女の子ども」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(70)
ガラテヤ人への手紙(58)
・4:21-5:1 自由の子

2011年10月21日金曜日

英語の強制

今朝の朝日の朝刊、世界政治欄(12ページ)の『特派員メモ』コラムの記事についての感想。
「英語でしゃべって。じゃないと放送できない」
18日夕、国連本部前の公園。米大手放送局の記者たちが声を張り上げた。イエメンのサレハ大統領退陣を求める在米イエメン人らのデモに参加した、今年のノーベル平和賞を受賞する人権活動家タワックル・カルマン(32)さんの記者会見のことだ。
「英語は得意ではありません」と当惑するカルマンさんに、米国人記者たちは「片言でいい」と食い下がる。カルマンさんは悩んだ末、「正確に伝えたい」として母語のアラビア語で語り、通訳が一文ずつ英訳した。米国人記者たちからはため息が漏れた。
この様子を見ていた日本人記者(『特派員メモ』の筆者)、春日芳晃は会見後米国人記者たちに「カルマンさんに対して失礼ではないか」とたずねたそうだ。
反応は「英語は世界共通語だ」「彼女が英語で話す映像は世界中で放送される」だから少しでも英語でコミュニケートする努力して当然だ、とばかりに猛反発されたそうである。
春日記者はその反応に「自分たちが世界標準と言うおごり」を感じたと記している。

朝日の記者が「失礼」と感じたのは米国人記者がカルマンさんに対して英語で話すように要求したやり方が一方的、と映ったからだろう。通訳が傍にいたのだから自国語で話したとしても問題はないはずだ、と朝日の記者は思ったに違いない。
一方米国人記者たちは、自分たちが大手メディアであることを背景に、ノーベル賞を受賞する人権活動家が英語でアッピールするインパクトを計算して、カルマンさんに片言でもいいから英語で話すことの効果を思う余り「英語でしゃべって。じゃないと放送できない」のような言い方になってしまったのだろう。

米国人記者は「英語を強制」したのだろうか。
その場に居合わせたわけではないので実際のところは分からないが、その後の推移を見ると「強制」とまで感じたのは朝日の記者の方で、カルマンさんではなかったのではないか。
実際カルマンさんは通訳を介してインタヴューに応じた、とある。
その後の実際の報道が通訳部分を介して語ったところをどの程度省略せず報じたか、それはこのコラムからは分からない。

この一件から思い出したことがある。
女子プロ・テニスの伊達公子のことだ。
現在のクルム伊達のことではなく、一時引退する前の世界ランキング上位にいた頃の伊達選手のことだ。

女子プロ・ワールド・ツアーに参加する選手は試合後のインタヴューに対し英語で応対するよう決められていた、と言うことがあり、伊達選手はそれをプレッシャーに感じていた、と言うことを何かで読んだ。
実際何度か彼女の英語のインタヴュー場面を見た覚えがあるが、いかにも苦手な感じでそそくさとした受け答えであったような記憶だ。
もし記憶が間違っていなかったら、伊達選手はある時インタヴューをすっぽかして帰ってしまい協会から注意を受けたようなことがあったらしい。

スポーツ選手のインタヴューとカルマンさんの場合は比較にならないが、少なくともカルマンさんが英語でしゃべるか、それとも母語でしゃべり通訳してもらうかはカルマンさんの訴えたいことをどのように効果的にやるか、と言うことの選択肢であり、この時のカルマンさんは「正確に国内の状況をなるべく詳細に伝えたかった」のだろう。
簡単な英語でキャッチーなコピーを発することも出来ただろうが、彼女はそれを選ばなかった。やはりジャーナリストとしての自覚と意識に基づく選択だったのだろう。

ところでネットで入手できる、タワク・カルマンさんの英語の挨拶とアラビア語のスピーチ
を聞くと、ある程度英語でコミュニケートできることが分かる。ただ内容的に自分が伝えたいことをしっかりと訴えるにはやはり通訳の助けを借りることが賢明であることがこのスピーチを聞くと分かるような気がする。

イエメン国内での人権侵害や報道規制など、アメリカの対テロ政策とイエメン政府との関係の背景などを聞いてみると、やはりその複雑な内容を外部の人たちに伝える時には母語でしゃべらざるをえなかったのだと思う。
世界がどれだけイエメンの国内問題に関心を持っているだろうか。
ノーベル賞受賞と言うきっかけを用いてできる限りイエメンの状況を正確かつ詳細に訴えられるかはカルマンさんにとって優先的課題だったに違いない。

2011年10月19日水曜日

英語圏ブログ紹介⑤

今日紹介するのはアンディ・ローウェルのChurch Leadership Conversationsというブログです。

彼は現在デューク神学校の神学博士(Th.D)過程5年生(と言うのは変な言い方か)。
更新回数はそれほど頻繁ではないですが、カール・バルト、ディートリッヒ・ボンヘッファー、ジョン・ハワード・ヨーダーなどについて時にアップ・ツーデートな、時に突っ込んだ内容の記事を掲載します。

ここ二回ほど取り上げた、クリスチャン・スミスのビブリシズム批判の本に関しても記事を書いています。A few reflections about Christian Smith, Biblicism and Barth

この記事を読むとアンディーはクリスチャン・スミスとは良き友達のようで、スミスの本でのカール・バルトの取り上げ方に関して少し批判していて、それに対してスミスが、コメント欄でその批判に応じ、さらにアンディーが返答する、と言う議論を読めます。

またスミスがビブリシズムの根本問題としている「pervasive interpretive pluralism」に対しても、アンディーは全面的否定的に取らないで、「聖書を取り囲む共同体」の姿として解釈の幅があること自体を容認する姿勢を示しています。

筆者は今年7月からだったか、ヨーダーの「イエスの政治」読書会に出席するようになったのですが、「イエスの政治」が終わった後、次に取り上げた「社会を動かす礼拝共同体」の方へも続けて出席しています。
段々ヨーダーを読むことで興味が湧いてきています。

アンディーのブログでも、たまたま右コラムのツィッター・メッセージ(ツイート)の中に面白そうな情報を見つけました。
The Yoder Indexと言うサイトでは、ヨーダーの著作のインデックス化を始めているようです。
既に9冊の本のインデックス化が終わっている様子。
ただ読書会でこの前から読み始めている「社会を動かす礼拝共同体(原題、Body Politics)」はまだのようです。

こんな風に筆者が紹介するブログは既に神学校の教授になっているような人ばかりでなく、現在学生で研究途中の最新情報のようなものを提供してくれるものもあります。

2011年10月17日月曜日

牧師と副業

「ミニストリー」と言うキリスト教界の雑誌がある。
最近始まったもので筆者が閲覧している日本語圏のキリスト教・牧師のブログでも時々内容が取り上げられている。
なかなかの評判である。

筆者と言えば、いわゆるキリスト教界の新聞・雑誌類は何一つ購読していない。
ネットで手に入る情報で間に合っている感じである。

「ミニストリー」誌最新号の特集は「ボクシたちのリアルⅡ 現代牧師白書―生活編」だそうである。ちょっと面白そう。

対談では上田紀行氏と牧師でホームレス支援をやっているらしい奥田知志氏が何やら色んな牧師たちの面白い話をしているらしい。上田氏がツィッターで3つもツイートしている。
雑誌「Ministry」が届いたら、表紙がワタシで驚いた!「次世代の教会をゲンキにする応援マガジン」、つまりキリスト教の雑誌で、表紙を飾るとは!

雑誌「Ministry」、奥田知志 さんとの対談「3/11後の宗教界を斬る!!」は、自分で言うのも何だけど、必読。奥田さんの素晴らしい洞察力が爆発している!!経験と思索から生みだされる言葉。ぜひお読みください。 

雑誌「Ministry」特集「ボクシたちのリアル」もむちゃくちゃ面白い。牧師の給与の最多層は「200〜400万」(38%)とか、2割の牧師が副業を持っていて、トラック運転手の牧師もいたりとか。
上田紀行氏は文化人類学者で特に仏教に関心があるらしい。自身のホームページのプロファイルでは、
近年は、日本仏教の再生に向けての運動に取り組み、2003年より「仏教ルネッサンス塾」塾長をつとめ、宗派を超えた、若手僧侶のディスカッションの場である「ボーズ・ビー・アンビシャス」のアドバイザーでもある。
2004年に出版された『がんばれ仏教!』(NHKブックス)では、時代の苦悩に向かい合う寺や僧侶達を紹介、日本仏教の未来図を提示し、大きな反響を呼んだ。
とあった。なんか仏教の応援やっているみたいと思ったら、今度はキリスト教の応援もやっているみたいだ。要するに「(既成)宗教よ、元気にがんばれ」ってことかな。

ところで本題に戻って、「ミニストリー」誌の調査によると牧師の給与の最多層は「200〜400万」(38%)だそうである。
他は知らないので何とも言えないが「そんなに悪くないじゃん」と言う印象。
筆者の場合はこれより下。
この層の牧師たちは副業やらなくてもいいのかな。

2割の牧師が副業を持っている、とのことらしいが筆者もこの二割の人たちと同じで副業をやっている。
某所でシニア英会話の非常勤講師をやっている。

実は遊学から帰国後、副牧師時代からずーっと続けている。(最初は中学生のクラス、その後は成人会話と変化はしてきたが・・・。)
始めた理由は経済的な理由も無きにしも非ずだが、それよりも社会経験という面が強かった。
また副牧師なので時間的余裕を他のことに使えた、と言うこともあった。

筆者は父方から言うと「牧師二代目」だが、父が初めに牧師をしていた教団では副業などはご法度であった。
名前に「伝道団」とついていただけあり、伝道に専念し、信者数を増やし、彼らの献金で生活するのがセオリーとされていた。
伝道をおろそかにするような副業などとんでもない、というわけである。

聞いた話では信者の少ない教会を持つ牧師婦人で栄養失調のため亡くなった方がいたそうである。
同じ教団で筆者の祖父は教区長をしていたが、小さな教会で貧しい暮らしをしていた教会の牧師たちに食料の差し入れなどの支援をしていたらしい。

時代は変わり、今では牧師の副業に目くじらを立てるようなことはなくなった。
現在属している連合の教会の牧師たちも副業をやっている方は何人かいる。

「牧師と副業」と言うと「牧師が本業、本職」と言うことになるわけだが、筆者の感触では経済的にこの形が維持できるのはそれほど長くないのではないかと思う。
他に仕事をしながら「牧師」を半ばボランティア的に奉仕するような形が増えてくることもあり得るのではないか、と感じている。
そのような現在の教会の行く末にある面悲観的な予感を持っている。

さてそんな事態になったら筆者はどうしようか。
やはり何かアルバイトでもやるか。
趣味の木工では生活を成り立たせるのは難しいだろうから・・・などと真面目に考えるような時は果たして来るのだろうか。

2011年10月15日土曜日

明日の礼拝案内

10月16日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:8-5:1
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 4:22-26
説 教 題 「律法からの比喩」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(69)
ガラテヤ人への手紙(57)
・4:21-5:1 自由の子

2011年10月13日木曜日

ビブリシズム(聖書主義)続

先日紹介した本、クリスチャン・スミスの「ザ・バイブル・メード・インポッシブル」を一応読了した。
前回は途中までだったので読み終ってからの感想も書こうと思っていた。
一応大体読みこなせたと思うのだがそれをアウトプットしようと思うとなかなかどう書いたらよいのかまとまらないでいる。
でもとにかく何かメモ程度のものでも残しておこうと思う。

本全体の内容を紹介するのはちょっと大変なので、多分に個人的な印象になってしまうが、特に考えさせられたことを一二挙げてみようと思う。

①聖書とは一体どういう書物なのか。
聖書に対するイメージと実際の聖書との間のギャップの問題。
これはどう言う事かというと、前回スミスが挙げていた「ビブリシズムの前提になっている10個の考え」の中の最後にあったように、聖書をハンドブックやマニュアルのようにイメージして読むことがその良い例であろう。
例えば子供のしつけとか、未信者との付き合い方とか、様々な実際問題に対して聖書は回答を持っている、と言うようなアプローチを極端に進めていくと、「聖書はあらゆる問題の解決方法を持っている『信仰と生活の唯一絶対の規範』」であることにより、聖書の権威は際限なく拡大され、最早その中心となるべきものが分からなくなってしまう、と言う問題である。

物事には軽重がある。ウェストミンスター信仰告白を始め、殆んどの保守的プロテスタントの団体の信仰規準では「救いに関する」聖書の権威が明言されているが、実際には「救いに関する」と言う中心性、即ちイエス・キリストの福音に関する聖書の証言性と、生活の細々とした、中にはどうでもいい様な問いにまで、「聖書の権威」が拡大されて言及されると、聖書と言う書物のそもそもの性格が歪曲されかねない、と言うことである。

②聖書信仰とは何か?
筆者の属するグループは信仰規準や信仰告白に相当するものが決められていない。
「立場」として「聖書信仰」と「ウェスレアン・アルミニアン」の二つが規約に挙げられているだけである。
特に定義をしていないが「聖書信仰」を標榜すると言うことは、他の日本の福音派団体と同じような聖書に関する見解を共有していると言っていい。
最も簡明な言い方としては「信仰と生活の唯一の規範」と言うことになるが、実際にこの原則を運用するほどの論争や問題があったという記憶はない。
立場としてはそうだが、実際に物事の決まる過程においては聖書箇所を引っ張ってきてその権威に依拠する、などという神学的な議論にはおよそお目にかかったことは無い。
物事はもっと今迄踏襲されてきた事例や経験則で決められるのである。

逆説的だがスミスが言うほど聖書主義ではないことによって、聖書解釈を巡って対立したり、と言うことがなかったことになり、それはある意味良かったのかもしれない。

③なぜ聖書通読をするのか
一般に敬虔な信者は聖書通読を習慣とする。
しかしこの本を読み終って思ったことは、なぜ聖書全部を均等に読むことが良い習慣なのか、と言うことである。

イエスは「聖書(旧約聖書)は私について証言している」と言っている。
スミスも言うように聖書をどう読むかと言う問題から言うと、①のようなあらゆるトピックについてハンドブック的に読むことは、聖書をその時代的・文化的背景を捨象して平板に読むことに繋がる危険がある。
聖書のナレーティブがイエスを目標にしている、と言う視点から言うとハンドブック的読み方は脱線になりやすい。
だから聖書通読もよほどこのナレーティブ枠組みを意識したものでないと、ハンドブック的な断片的な読書になってしまうのではなかろうか。

以上、少し平凡な感想になってしまった。

本の中にはなぜ理論的に破綻しているビブリシズムがあたかも有効なものであるかのように福音主義陣営の中で強固に受け継がれているのか、と言う事の社会学的観察や、ビブリシズムのような理論と実践の背景となる、オールド・プリンストン神学(チャールズ・ホッジやベンジャミン・ウォーフィールド)の哲学的ルーツなどにも言及していて興味深いのだがとてもここでは紹介しきれない。

本自体はアメリカの福音主義の問題として分析、提言されているので、邦訳しても他人事のような印象を受けるかもしれないが、扱われている神学的問題、特に「聖書の権威」の今日的有り様に関して幾つか面白い提案をしていると思う。
(聖書の真理を帰納的に組織的に記述することが出来る、と言うオールド・プリンストン神学のようなモダニストでもなく、相対主義的なポストモダニズムになるのでもなく、第三の道、理論的にはクリティカル・リアリズムを提唱している。)

2011年10月11日火曜日

個人的なこと

昔、大江健三郎の「個人的な体験」を読んだことがある。
こう言うのを私小説と括っていいのか分からないが、ご自身の子息、光さんのことがテーマになっている小説である。
記憶では「大変な子供が生まれて」おろおろする父親の自画像みたいのが書かれてあった。

ブログ名が「大和郷にある教会」に余り個人的なことを書くのは相応しくないかもしれないが、最近の思いを書いてみる。

最近、と言うかこの数年調子が良くない。
心身にアンバランスを生じ、最初は胃腸科に通ったがちょっと違う、と言うことで最終的に心療内科に通うようになった。
軽ーいうつ病と診断された。

最初は半年くらいでよくなるはずであった。
実際薬を飲むようになってからその効き目に驚いた。気分は変わるし、睡眠導入剤はよく効いた。
しかし現実のシナリオは当初の予想通りには運ばなかった。
一年経ち、二年経ち、今三年目に突入している。

一旦薬を減らし始めたところが症状が改善せず違う薬に変えたりしてやっているが、小康状態を保つだけで、微妙に体の違和感が解消しない。
先月、「安定してきた」と言う診断で、また薬を減らす過程に入った。

一週間は変わらず来れたので、このまま維持できたらいいな、と思っていた矢先、またいつもの症状が、今回は突然前触れもなくやってきた。
いわゆる更年期障害の症状としてよく挙げられる足の冷えと胃の辺りが熱くなると言うものである。
昨日は午前中から夜寝るまでずーっと胃の辺りの熱さが去らずにいた。

その間なんともしんどい思いをした。
自分の調子悪いところにだけ関心が行って、物事に集中できないのである。
ブログの更新なんてもうどうでもよくなっちゃうわけでした。

さて今日になって起きてみると収まっていました。
一日恐る恐るやっていましたが昨日のようなことは無く済んでいます。
ようやくブログの更新を考える余裕が出てきました。

でもここのところずーっと調子が良くなかったため「あれを書こうとしては消え、これを書こうとしては消え」の連続でした。
そしてやっと先ほど見つけました。

大野更紗「困ってる人」

大分前からツイッターでフォローしている方ですが、最近出したこの本が話題で益々注目を集めています。
ツイートで「グターリ」とか「鋭意昏睡中」みたいなのを見ては、ユーモアとともにしんどい状態をコミュニケートするその姿を想像していました。

筆者は身体的痛みに弱いです。
だから身体的な不便や不快に対してはすぐ負けてしまいます。
とたんにやる気が無くなったりしてしまいます。

マカバイ記の拷問の記述なんか読んでいるともう「自分がこんな目に遭ったら簡単に棄教するだろーな」などと想像してしまいます。

大野更紗さんの「困ってる人」はブログにもなっています。
「第0回目」を読んでみました。
聞きしに勝る壮絶さです。
でも何か爽やかに読めちゃうのは大野さん持ち前のユーモアと自分を客観視できる力と、そして生きるのに必死になれる意志力が伝わってくるからです。

人は自分より相対的に貧しかったり、困っていたりする人を見ると、それで何か自分は少しましなんだと慰めたりする卑俗な根性を持っています。
筆者もそうです。
でも大野さんの文章を読んでいると単に「自分の困り」とは比較にならないその困りようにそんな慰めなんか必要なくなります。

人が普通に出来ることを、生きることを大変な困難と努力で維持している大野さんの姿を想像すると何か変な言い方ですが爽快感さえ感じるのです。
かっこいいのです。

地を這い蹲ってでも何かを掴もうと一生懸命手を伸ばすその必死さにわが身のだらしなさを感じ恥ずかしくもなります。
と言うか自分が苦痛に思っていることを一瞬忘れてしまう位大野さんの壮絶な生の戦いに圧倒されてしまうのです。

良くぞ「個人的なこと」をここまでさらけ出して書いてくれた、と大野さんに感謝したくなります。

大野さんは自分の生の戦いをしながら、日本の病院制度や福祉制度や、色々な制度的制約の壁にぶち当たってはそれを突破する前衛のような戦いもしているのではないかと思います。

「わたしのフクシ」と言うサイトに連載を持っていますが、そこでの記事「せちろうくんの巻」では難病を抱えるせちろう君について興味深く書いています。

何か大野さんの書く文章と言うか文体は新しい文学のジャンルなのでは、と素人判断ですが、思うくらい読ませる魅力があるのです。
中身はもちろん「身体的苦難」ですが、それに閉じこもるのではなく、生きる方へ開放された伸びやかさを垣間見る感じなのです。

是非一読をお勧めします。

2011年10月8日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

10月9日 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 6:1-15
説  教 「聖霊と教会」シリーズ(6)
説 教 題 「御霊と知恵とに満ちた」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※昼食会があります。

2011年10月7日金曜日

反ウォール街デモ

今週も余り体調は良くないようです。
一応少しは更新していますが大したことは出来ません。
ツイッターやフェイスブックも疎遠な感じです。

世の中のことにも注意散漫です。
そんな状態ですが関心を持って見ているのがこのデモです。
日本でも数日前くらいから段々とメディアで目にするようになって来ました。

でちょっと検索してみようと思ったのですが、ウォール・ストリート・ジャーナルではなく、おひざもとのニュー・ヨーク・タイムズはどんな記事を組んでいるのだろうと・・・。

プロテストを始めたグループは「オキュパイ・ウォール・ストリート」って言うんですね。
Occupy Wall Street is a diffuse group of activists who say they stand against corporate greed, social inequality and other disparities between rich and poor. On Sept. 17, 2011, the group began a loosely organized protest in New York's financial district, encamping in Zuccotti Park, a privately owned park open to the public, in Lower Manhattan.
と言うことはまだ一ヶ月も経っていない訳だ。
彼らが抗議に立ちあがったのは、「企業の強欲、社会的不公平、富裕層と貧困層の間にある様々な不均衡」に対してだということらしい。

最初の一週間くらいはカバーするメディアもなかったらしいが、次第にメディアも注目するようになり、ここに来て全米の幾つかの都市に同様なデモが飛び火し拡大することによって、どのような運動になって行き、どんな政治的影響を持つのか、無視できないほどになってきた、ということらしい。

ニュー・ヨーク・タイムズのコラムニスト、ポール・クルーグマンは以下のように書いている。
What can we say about the protests? First things first: The protesters’ indictment of Wall Street as a destructive force, economically and politically, is completely right.
つまりデモが抗議の対象にしていることは正しいと。

(※以上デモの経緯や様々な情報はタイムズのここにまとめられているので詳細を知りたい方はどうぞ。引用したクルーグマンのコラムへのリンクも同ページで見つかります。)

このグループの「草の根民主主義的運動」がアラブの春をヒントにしているらしい点も見逃せない。
何はともあれ人々の「正義」への働きかけが政治や社会を動かしていくことが出来るのを期待して見よう。

2011年10月5日水曜日

朗読会のご案内

「空に消える雪」
紀元九世紀の日本の一女性の手記からの抜粋
原作 中村真一郎

朗読 松岡みどり(エー&イー)


日時 十月十九日(水)PM2時~
場所 巣鴨聖泉キリスト教会
 2000円(お飲み物付き)

申し込み コスモス映像工房
TEL/FAX 03-3392-2205
090-9823-2205
jadehottaer(アットマーク)i.softbank.jp

2011年10月3日月曜日

ビブリシズム(聖書主義)

暫く遠ざかっていました。
もう更新しないでいるうちに一週間経ってしまいました。
風邪気味で体調が今ひとつ、なかなか考えもまとまらず迷っているうちにこうなってしまいました。

と言い訳のような前置きはそれまでにして、今回は最近購入した本の感想を書こうと思います。(まだ三分の一位までしか進んでいないので途中経過、と言うことになりますが。) 
Christian Smith, The Bible Made Impossible: Why Biblicism Is Not a Truly Evangelical Reading of Scripture.
副題でビブリシズムという言葉が使われています。悪い意味(反知性的で、過剰な聖書の権威に対する信仰と言ったニュアンスがあると思います)で使われることが多いのですが、著者のクリスチャン・スミスは福音主義を始め多くのプロテスタント、特に保守的な信仰者・団体に共通してみられる「聖書に対する一定の態度」を表す用語としています。

先ずはそのビブリシズムをどう定義しているかと言うと
By "biblicism" I mean a theory about the Bible that emphasizes together its exclusive authority, infallibility, perspicuity, self-sufficiency, internal consistency, self-evident meaning, and universal applicability.
まあこれだけだと分かりにくいと思いますので一つ例を挙げます。
福音派のキリスト教に基づく大学である「東京基督教大学」の信仰規準(リンク)では次のように謳われています。
66巻からなる聖書は、聖霊の完全な霊感によって、それぞれの著者を通して、記されたものです。したがって、聖書の記述には、誤りがありません。聖書は、神が救いについて人々に啓示しようとされたすべてのことを含み、信仰と生活との唯一、絶対の規範となるものです。
これはかなり簡単な文章ですが、ビブリシズムで定義されたうちの、①唯一絶対の規範、②無誤性、などは明瞭に表現されています。
③十全性、④意味の自明性、⑤統一性などは少し表現は違いますが、例えば「ウェストミンスター信仰告白」の一番最初の条項である「聖書」に関する説明の文章に注意深く定義されながらも表されていると思います。(リンク

何はともあれ社会学者スミスにとってのビブリシズムの関心は、単に組織のタテマエとして表明されていることに限らず、実際にそのような聖書に対する態度を持っている人たちが実際に示す意見の表明や行動から推し量られる総体としての現象です。

少し蛇足になりますが、プロテスタントの団体・組織がその「信仰規準」について表明する時に、従来の歴史的信条での骨格的内容となる「三位一体の神」についての条項は、「聖書」についての条項の後に来る、と言うこと自体にプロテスタントの信仰原理である「聖書のみ」の重要性が如実に示されてと言えます。

さてスミスはビブリシズムのような態度を前提させている事柄を10個挙げていますので、それを列挙してみます。(以下はジーザス・クリードのスコット・マクナイトのダイジェスト版です。リンク
1. Divine Writing: the Bible is identical to God’s own words.
2. Total representation: it is what God wants us to know, all God wants us to know (he quotes J. I Packer here) in communicating the divine will to us.
3. Complete coverage: everything relevant to the Christian life is in the Bible.
4. Democratic perspicuity: reasonable humans can read the Bible in his or her language and correctly understand the plain meaning of the text.
5. Commonsense hermeneutic: again, plain meaning; just read it.
6. Solo [not sola] Scripture: we can read the Bible without the aid of creeds or confessions or historical church traditions.
7. Internal harmony: all passages on a given theme mesh together.
8. Universal applicability: the Bible is universally valid for all Christians, wherever and whenever.
9. Inductive method: sit down, read it, and put it together.
10. Handbook model: the Bible is handbook or textbook for the Christian life.
先ほどの定義より幾らか説明がついて分かりやすくなっていると思いますが、どちらにしてもアメリカの保守的キリスト者、特に聖書の権威を高調する福音主義者たちの信仰生活の中でどのように聖書が読まれ、用いられているか・・・の概観を示しているのではないかと思います。
もちろんこのような現象は日本の同様の背景を持つ信仰者たちにもかなりな程度で現れていることと思います。

著者が主張するのは、このような聖書への態度・理論(ビブリシズム)は基本的にも、論理的にも維持不可能であり、また実際面でも「多様で広範な聖書解釈の多元性(pervasive interpretive pluralism)」の問題を起こして、様々な対立や意見の相違から分裂や離反を繰り返す、教会の不一致の原因になっている、というものです。

筆者が今まで読んできた中では、著者の言わんとしていることは概ね当たっていると思われます。ただ聖書のテキストの多義性の問題と、実際に聖書学者や神学者たちが異なる解釈や見方(例えば「贖罪論に関する四つの異なる見方」のような現象)に至ることに直接の因果関係があるように著者が考えているとしたら、それは少し論理の飛躍ではないかと思うのですが・・・。

何はともあれまだ途中なので先ずはこの位の紹介でとどめておくことにします。

2011年10月1日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

10月2日 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 15:1-10
説教箇所 ヨハネの福音書 15:8
説 教 題 「わたしの弟子となる」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2011年9月27日火曜日

「史的イエス」と「史的キリスト」?

先日の「英語圏ブログ紹介④」の追記もかねて。

ただ今あるグループの同人誌のようなものの原稿を依頼されて執筆中です。
タイトルは「N. T. ライトと『史的イエス』」で大体四分の三くらいまで埋めることが出来ました。(9000字まで)

ライトについては色々な機会に簡単な文章は書いてきているので大丈夫だろうと引き受けたのですが、やはりそれなりに苦労します。
今週金曜日まで締め切りと言われているのでまあ何とかなるとは思いますが・・・。

「史的イエス」と言えば、「イエスの死」の歴史的・神学的意義も問題になるところですが、ちょうど今週の土曜日は「ライト読書会」があり、課題論文が
Jesus, Israel and the Cross
になっています。

そんなわけで原稿の執筆にもちょうど助けにはなっているのですが、この論文は1985年のもので少し古いし、「キリスト教起源と『神』問題」シリーズの二巻目、「イエスと神の勝利」にも目を通しています。
この本の中でライトは、自身も含めた「史的イエスの第三の探求」の研究者たちの問題設定を6つ挙げて、各研究者の方向性と傾向を評価する視座としています。
① How does Jesus fit into Judaism?
② What were Jesus aims?
③ Why did Jesus die?
④ How and why did the Early Church begin?
⑤ Why are the Gospels what they are?
⑥ Agenda and theology.(Pp.89-121)
大変広い視野と野心的な研究姿勢がこんな設定を第三探求に課しているように思います。

ライトは困難な作業が待ち構えているけれども歴史的研究としてはこの位徹底してやれるだけの立場に第三探求が置かれていると認識しています。
つまり『史的イエス』研究の将来に対して非常に楽観的姿勢を取っているわけですが、日本において「史的イエス」に関心を持つ神学者、上智大学神学部教授の岩島忠彦教授は、ラリー・フルタド著「主イエス・キリストーーキリスト教最初期におけるイエスへの信心」の書評で、欧米の「史的イエス」第三の探求について次のようなコメントと評価をしているのです。
 目下、聖書学界では米国を中心とする史的イエスの第三探求がもっぱらの話題である。J・D・クロッサン、M・ボーグ、E・P・サンダーズ、J・マイヤー、N・T・ライト、B・ウィゼリントン等々、それぞれが(時として何分冊にもなる)大著を刊行している。これら「第三探求」のキリスト論的貢献は無視できないものであるが、その膨大なエネルギーに比して、これまでに得られている成果は乏しいように思われる。一部の学者たちは、イエスのユダヤ性に注目し、そこから終末の到来にかける預言者としてイエス像を描き出すが(例えばライト)、これは基本的には二十世紀初頭のシュヴァイツァーのラインの踏襲である。…
筆者が言いたいのは、史的イエスの探求には限界があるということである。聖書学者は二百年以上これに携わってきた。今日その探求はますます厳密さを要求されている。確かにこのテーマ抜きには、イエス・キリストを論じることはできない。しかし、史的イエスという課題は、問題設定自体が持つ限界があるということが、特に今日明らかになりつつあるように思う。筆者は組織神学者である。少なくとも信仰の学としての神学としてキリスト論を論じるには、別のアプローチが必要であると思われる。この別のアプローチをフルタドは提供しているように思われる。それは「史的イエス」ならぬ「史的キリスト」の研究である。(書評リンク
とまあ「史的イエス」研究に対して非常に悲観的な評価なのです。

依頼された原稿ではこのコメントに対して筆者の考えを付記して結論に持って行こうと思っています。

2011年9月24日土曜日

明日の礼拝案内

9月25日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:8-5:1
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 4:21
説 教 題 「律法に聞く」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(68)
ガラテヤ人への手紙(56)
・4:21-5:1 自由の子

※プチ・オープン・チャーチ・カフェ、午後1-3時

2011年9月23日金曜日

英語圏ブログ紹介④

先日「今日注文した本」で紹介した
Larry W. Hurtado, Lord Jesus Christ: Devotion to Jesus in Earliest Christianity.
を読み始めている。
 
他の数冊も序文、目次、導入などに目を通したがどうやらこの本が今一番読みたい感じなのである。実際20数ページまで読み進んだ。
 
ところでアカデミックな世界では有名でも一般には知られていない学者は結構いる。
今まではそれが普通だった。
しかしネット世界の登場で、そしてブログが活用されるようになって、学者たちは自分から一般に向けて積極的に学会での議論や最近の研究動向などを発信するようになった。
特に30代から50代の若手から中堅にかけての学者たちがブログを有効に活用している。
 
「英語圏ブログ紹介」はそのような方々のブログを主に紹介している。
 
ところでラリー・フルタドは今年68になる。ちょうどエジンバラ大学を定年退職した方だが、この年齢の方にしては珍しく最近(2010年7月)ブログを始められた方だ。
 
で、そのブログだが、その名の通りLarry Hurtad's Blog と言う何の変哲もない名称である。
ブログ内容は主に彼の研究に関連するもので個人的な事柄のようなものは殆んどない。
だからコメントも真面目に研究に関すること、と注意書きしている。
 
ブログが開設された当初、若手の研究家たちは大いにこれを歓迎し、彼のような実績のある学者がブログ界に登場することを称えた。
確かにそうだ。自分の研究過程にあることや今までの研究実績から若手の研究者たちや一般の読者たちを励ましたり、鼓舞したり、少し苦言を呈したりするような存在は貴重だと思う。
フルタド教授の主要研究対象はイエスが初代教会においてどのように礼拝対象となって行ったのか、を歴史的に究明することである。
 
最新のブログ・エントリーでは、
Karl-Heinrich Ostmeyer, Kommunikation mitt Gott und Christus: Sprache und Theologie des Gebetes im Neuen Testament, WUNT, 197 (Tübingen: Mohr Siebeck, 2006). 
と言う「神」「キリスト」に対する祈り(呼びかけや会話)の研究書を紹介している。ちょっと引用してみよう。(英訳はフルタド教授によるもの) 
“Praise of God unconnected to the confession of Christ as the Lord is for Paul unthinkable” (p. 87). 
キリストを主と告白することと関連なく神への賛美をすることはパウロには考えられない。
“It is indisputable that Paul was familiar with communication with [the risen] Jesus.  . . . . [For Paul] The relationship of people to God differs from the relationship to Jesus; the manner of communication of Christians with both is not exchangeable” (98). 
パウロが復活の主とコミュニケーションを持つことが珍しいものでないことは論を待たない。 パウロにとって、人々と神との関係、そしてイエスとの関係は異なるものである。キリスト者と両者とのコミュニケーションの持ち方も同様混同されていない。
“God and Christ are not addressed in the same way.  God alone is addressed in thanks and worship.  Christ is the one through whose saving work is opened the possibility of thanks to and worship of God” (115).
神に対する呼びかけ方とキリストに対する呼びかけ方は同一ではない。神だけが感謝と礼拝の対象として呼びかけられている。キリストはこのような神への感謝と賛美を可能にした救済者なるお方である。
新約学や初代キリスト教史に関し、少し専門的な関心のある方にはお勧めのブログである。

2011年9月21日水曜日

日本人によるパウロ研究

先日(7月20日)「ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ」と言う記事の中で以下のような発言をした。
英語圏では神学や聖書学を専門にしているブログが数多くあるが、日本語圏では非常に少ない。
既に少し書いたがこの辺の事情を日本の研究者たちはもっと真剣に考えて欲しい。
学会に対してだけでなく、ネットパブリックに対してもせっかくの研究成果をもっと発表して欲しいものである。
筆者は現在主日礼拝の説教で「ガラテヤ人への手紙」を取り上げている。
既に4章に入っていて、いやもう4章の最後の区分、4:21-5:1に入ろうとしている。

筆者は原典釈義はしない(やったとしても中途半端なことしか出来ないので余りやろうと思わない)。
その代わりパウロ研究書や註解書(ワード聖書註解に収められている、リチャード・ロングネッカーの「ガラテヤ書」)などを参照している。

ネットでも色々探索するが、さすがにパウロ研究のトピックを記事にしているブログ(英語圏)は沢山ある。
最近の収穫としてはガラテヤ人への手紙に特化したサイトを見つけた。
Paul's Epistle to the Galatians

ガラテヤ書関連のトピックや書籍紹介などが行われているが、その他に「註解書文献リスト」と、『ピスティス・クリストゥー』を「主格」「目的格」のどちらに取るかで学者・文献をまとめているページがある。

今日それらのページを読んでいて二つ発見した。

発見①ちょうど講解しようとしている箇所に関するエントリーがあった。
Andrew Perriman on Galatians,4:21-5:1 Available Online)。
まだ全文読んでいないが、結構まとまった内容のものである。
pdf文書でHDDに保存した。

発見②『ピスティス・クリストゥー』のページに日本人研究者の名前が・・・。
Ota, Shuji. “Absolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paul.” Annual of the Japanese Biblical Institute. 23 (1997): 64-82.
これは珍しい。と言うかこのサイト主がリストに研究者・論文を網羅しようとしているからなのだろう。

さて先に引用したように日本人研究者は大学の紀要や論文集には発表するが、自分でブログを立ち上げ専門的な研究成果を一般向けに公開しようとする人が、少なくとも聖書学の分野ではなかなか見当たらない。
この辺英語圏のブログと比較すると大変な落差がある。

残念ながら太田修司氏のこの論文はネットには見当たらないが、氏が所属する一橋大学の方からネットで読めるようになっている何と2011年の論文がある。
これだ。
「ローマ書におけるピスティスとノモス(1)」

まっちょっと読み出してみたがやはり専門的過ぎて骨が折れる。
やはりブログのような形でもう少し一般読者に向けて噛み砕いて書いてくれたらなー、と思う。
でもネットにあるだけでも大したものだと思う。
それぐらい日本の研究環境はネットパブリックと断絶しているから。

この太田修司氏とはどんな研究者なのか殆んど詳しいことは知らないが、日本におけるパウロ研究ではかなりな人なのではないだろうか。前掲の論文でも大抵の欧米の研究者(筆者の知る範囲で)には言及している。

と、今日は主に自分用のメモでした。

2011年9月19日月曜日

聖書解釈と無誤論

先日は欧米福音的キリスト者の間でたった今話題の本、The King Jesus Gospel、を紹介した。
今回もたった今論争の的となっている本を紹介しよう。


Michael R. Licona, The Resurrection of Jesus: A New Historiographical Approach.

なぜこの本が話題になっているのか。それはこの本がN.T.WrightのThe Resurrection of the Son of God、の後にまたもやイエスの復活を歴史的に論証したからではない。但し、マイケル・バードはライトの本までとは行かないがかなり近くまでその成果を挙げているとこの研究書を評価している。(リンク
そうではなくてたまたま復活の関連で取り上げたマタイの箇所に関する解釈で論争を起こされたからだ。
まずはその関連箇所だが、
墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。(マタイの福音書27:52-53、新共同訳)
となっている。 
ライコナ(発音は定かではない)氏はこの箇所を色々と釈義的に検討した結果、黙示文学的な、詩的な表現による神学的意義の強調と受け止めた。(つまり第一義的に直接的歴史的出来事の叙述とは取らなかった。)

これを見逃さなかったのが「聖書無誤論」で有名なノーマン・ガイスラー氏で、二度に渡ってライコナ氏に歴史的叙述であることを認め自説を撤回するよう要請した。
ガイスラー氏曰く、「ライコナ氏は福音主義神学会の会員である。福音主義神学会はシカゴ声明で定義した『聖書無誤論』の立場を奉じているから、それに反する聖書解釈は許されない。故にライコナ氏の取るべき行動は自説の撤回である。」と言うのである。(ガイスラー氏自身は福音主義学会員ではなく数年前に何かのことで退会している。)

これで「個別の聖書箇所の解釈を巡る『無誤論』論争」の火蓋がきって落とされたわけである。相変わらず保守主義論客を自認するアルバート・モラー・ジュニア氏も見逃してはおかない。自分のブログで論争に加わった。(リンク

筆者の感じでは、「またかー」なのである。
保守的な聖書論者(歴史的叙述であることを前提している)と、聖書学の知見を援用して釈義に幅を持たせる研究者の対立の構図なのである。
進化論論争と並べればその類似性が見て取れる。「創世記の記述は『事実』を叙述している」と取る立場はそのような解釈が自明であると考え、もっと文学的に幅のある解釈を導入しようとすると、たちまち「聖書の権威を脅かす」と受け取るのである。

このような論争に何度も巻き込まれている者たちは、「いい加減頭から『聖書の権威』や『無誤論』を振りかざす議論はやめて、もっと対話的討論をしようではないか」となる。
すぐ二者択一に持ち込む、どっちが勝つか勝負するような議論は非生産的で、建設的な知識の探求に寄与しないことを思い嘆くのである。

ところでライト教授はこの箇所をどう解釈しているか。久しぶりにあの大著のページをめくってみた。かなり史実的なものとマタイが受け取っている、と言う立場を有力と見ているが、当該箇所自体の独自性や不明性を鑑み、決定的な解釈には達せられない、との立場であった。

この論争に興味のある方は、この記事を書くのに参照したマーク・コーテズの記事から読み始めるのが良いかもしれない。記事の終わりに関連ブログ記事等がまとめられている。

2011年9月17日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

9月18日 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 4:1-31
説  教 「聖霊と教会」シリーズ(5)
説 教 題 「地上の権威とイエスの権威」
説 教 者 小嶋崇 牧師

2011年9月16日金曜日

プチ・オープン・チャーチ・カフェ

日時:2011年9月25日、午後1-3時
場所:巣鴨聖泉キリスト教会及び活水工房
※ミニ・バザーもあります

3年前だったか、教会の文化祭、と言ったコンセプトで始まったのが「オープン・チャーチ」。
敷居の高い教会を地域の人に開放する、と言う目的で取り掛かったのだが、最初は色々な人の応援もあって「内輪の人たち」だけである程度盛況になってしまった。

その次の年、昨年だが今度はなるべく教会の中の人たちで出来ることをしようと言うことになり、こじんまりとした「オープン・チャーチ」になった。
写真、書、俳句、を展示して、道路にテーブルを出して工房から出た端材(ただ)や銀杏を売ったりした。

今年も「オープン・チャーチ」は継続すると言うことで決めていたが、規模は更に縮小。
それでネーミングもそれに合わせてスケール・ダウン。
「オープン・チャーチ」の前にプチをつけることにした。
更に今年は展示をやめて「カフェ」で行くことにした。

教会によっては立派な看板や、扉がついていて雨風をしのげるようになっている箱のようなケースのような案内板を持っているところもある。
大抵主日礼拝の説教題などが筆と墨でしたためられていたりする。
そんなものは当教会にはないので、今回のイベント案内はパソコンでワード文書にチラシを作成し、教会のプリンターではA4までなので、A3プリントアウトとラミネートを3枚外注した。
結構お金がかかるもので1700円ちょっとだった。
普段伝道的なことをしないので、この程度の「伝道」出費は致し方ない。

それにしても教会が外に向かって伝道する時の考え方や姿勢と、信徒でもない方々が教会に求めるものとは大分ずれがあることを最近感じる。

教会の前には「自由にお入りください。」と言う木の札が看板に張ってあるのだが、それはイベントを案内した時の意味で、常に教会堂が開放されているわけではない。
普段はしまっている。
しかし通りがかりの人が、この案内を見てか、見ないでか、いきなり玄関を開けて入って来ようとすることが年間数回ある。
その人たちは「当然開いている」と思って玄関を開けようとするわけだが閉まっている。
「どうしたんだろう」としばし立ち止まって考えた後あきらめて帰って行く。

たまたま事務室で玄関ががたがたと音がしたのを聞きつけた場合は、ちょうど敷地から出ようとしている人に向かって「何の御用でしょうか」と聞く。大抵「ちょっとお祈りしたいと思って・・・。」と言うことが多い。
恐らくカトリックの聖堂の先入観なのだろう。
残念ながらそのような開放の体勢は取っていないので、と事情を説明してお引取り願っている。

まだまだ今の時代の人との「うまいインターフェース」を作れていない教会の「お招き」を今年もトライする。

2011年9月13日火曜日

「王なるイエスの福音」

今年(英語圏の)キリスト教界で出版前に大きな話題になった本があります。
以前このブログで名前だけは出していると思いますが、ロブ・ベルの「ラブ、ウインズ(愛は勝利する)」です。

今またもう一冊話題になっている本が、スコット・マクナイトの標題の本、The King Jesus Gospel: The Original Good News Revisited、です。
既にキンドル版は出ているし、書評用に何人ものブロガーが読んでいるので、筆者としては10月に出版されて、購入して、読了するまではブログに取り上げるのもどうかと思うのですが、そう言う訳で何人もの筆者が目にしているブロガーたちが取り上げているのを見過ごしにしておくのももったいないのでここで記事にすることにしました。

幸い(と言うか不幸にもと言うか)他に取り上げるネタが余り見つからないので、ちょうどいいタイミング、と言うことで・・・。

先ず前文に、N.T.ライトと、ダラス・ウィラードが推薦文を寄せています。
ダラス・ウィラードの方は筆者はそれほど分かりませんが、ライトの場合は本の内容から言ってライトが主張してきた聖書の包括的ストーリーを背景にした福音の捉え方を提示している点、大いに推薦できる本だと言うことが分かります。

筆者がこんなことを言うのは少し生意気かもしれませんが、マクナイト教授がこの本の主張まで漕ぎ着けるのにライトの影響が大きかったことは本人も認めていますが、むしろ気付き方が少し遅かったと言うか、もっと早くこのような内容の本を書いていてもおかしくないほど、ライトの視点は明瞭だったと思います。
筆者は既にライトを読み始めて数年でマクナイトがこの本で強調している「サルベーション・カルチャー」と「ゴスペル・カルチャー」の区別はついていましたし、「使徒的福音に立ち戻らなければならない」ことははっきりしていました。

さてそんな生意気な前置きはそこまでにして、目次を見てみますと、
1971(序論的挿入、著者の若き日の「福音」伝道体験エピソード・・・筆者注)
1.The Big Question
2. Gospel Culture or Salvation Culture?
3. From Story To Salvation
4. The Apostolic Gospel of Paul
5. How Did Salvation Take Over the Gospel?
6. The Gospel in the Gospels?
7. Jesus and the Gospel
8. The Gospel of Peter
9. Gospeling Today
10. Creating a Gospel Culture
となっています。
アマゾン・ブックスである程度中身を数ページずつくらい読めるようですが、敢えて読まないでおきます。(ライトとウィラードの前文と「1971」はちょっと読んでみましたが。)

この本の紹介をしているブログを少し挙げておきますと、
①ユーアンゲリオン(ジョエル・ウィリッツ・・・右横のマイ・ブログ・リスト参照)
②フェイス・インプロバイズド(テイム・ゴンビス、Theological Method & the Gospel
③キングダム・ピープル(トレヴィン・ワックス、Scot McKnight and the King Jesus Gospel
④レイチェル・ヘルド・エバンス、"What was the Original Gospel?"

さて、この本の中身は広義の福音派も中世以降の、と言うより原始及び教父時代以降のキリスト教も、みんなが影響を受けてきた「自分が罪から救われる方法」に特化した福音と言う受け取り方に対する、聖書的チャレンジと言えます。

使徒的福音を端的に伝える「コリント15章前半」にしても、使徒の働きにおけるペテロやパウロの福音提示にしても、また福音書そのものにしても、いずれにしても旧約聖書のイスラエル物語の成就として語られ、提示されたメシヤ(ユダヤ人の王)、とは位相の異なる「福音」を私たちは聞いてきた、と言うのがこの本のテーゼです。

言ってみれば福音に関して大きなパラダイム・シフトを迫る本だと言うことができるでしょう。

今迄「福音」として聞いてきたものが、実は聖書的に忠実に語られた福音ではなく、「サルベーション・カルチャー」と定義された、「個人的救いに特化された神学とその適用」だった、とこの本は分析するわけです。

多分多くの人は最初読んでもぴんと来ないかもしれません。
しかし聖書の福音に関する箇所の叙述と比較しながら考察すれば、自ずとその指摘が理解できると思います。
問題はそのような新しい視点での「福音」が自分にとって座り心地が良いかどうか、と言う「自分の救いの居場所の心地よさ」に関する厳しい選択となって降りかかってくることだと思われます。
今までの「救い」に安住していたいのか、それともより聖書の叙述に忠実な「福音理解」に移行しようと船出するのか、と言う選択です。

さて、そう言う訳でもし邦訳出版されるならば、それなりのインパクトを与える本であることは十分予測されます。
筆者としては個人的にこの問題に講壇から取り組んできた者として、大変有益な本であることは間違いないと思いますので、是非邦訳して欲しいと思います。

このブログを読んでいる方でキリスト教出版に携わっている方があれば、是非早いうちに取り組んでください、とお願いしておきます。

2011年9月10日土曜日

明日の礼拝案内

9月11日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:1-31
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 4:19-20
説 教 題 「苦悩する使徒」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(67)
ガラテヤ人への手紙(55)
・4:8-20 訴えかけるパウロ

2011年9月9日金曜日

フィジーでのメソジスト教会弾圧

昨日届いた世界福音同盟信教自由委員会からの9/7付けの報告では、フィジーの軍事政権によるメソジスト教会の弾圧が続いているらしい。

メソジスト教会はキリスト者が人口82万の約半数を占めるフィジーでも最大の教派とのこと。ちょうど政府から教団総会の許可も取って開催寸前で中止させられた。これで総会が中止させられたのは三年連続とのこと。

政府のキリスト教会弾圧は、教会活動が会堂内での集会のみに制限され、(しかし総会は中止させられたのだが)、キャンプピング、バザー、基金活動、伝道集会等が禁止となっている。明らかに信教自由の過剰な制約である。

これには現軍事政権とメソジスト教会が支持してきた政治団体との歴史的経緯があるのだと言う。
The military rulers see the Methodist leadership as siding with the erstwhile Soqosoqo Duavata ni Lewenivanua (locally known as SDL) government, which was ousted by the military in a coup in 2006 and which was mainly supported by indigenous Fijians.
 フィジーと言うと、まもなく開催される「2011ワールドカップ・ラグビー」にも参加する強豪国の一つだ。
南国の島国で平和なイメージが強いが、政情はそう言う訳で不安定であり、信教自由に関わる宗教活動が極端に制限されている現実を見るとそのギャプを感ずる。

世界福音同盟信教自由委員会はフィジーのキリスト教会を取り巻く環境が改善するよう祈りを要請している。
CJC通信による同国の政治・宗教事情

2011年9月7日水曜日

映画「ツリー・オブ・ライフ」

めったに(映画館で)映画を見ない筆者だが、この映画には多少「見に行って来ようかな」と言う衝動ともつかない好奇心が湧いている。
既に何度か簡単な寸評やネットやメディアの伝聞でその内容みたいなものをイメージしている。
何か大きなストーリー(宇宙史、生物史、人類史)を舞台に繰り広げられる核家族の普通の物語り、と言う風な・・・。

たまたま手にした昨日の朝日の夕刊、池澤夏樹のコラム『終わりと始まり』でこの映画評が載っていた。
と言うわけで彼の映画評の文章を糸口に今日の記事を書き始めてみよう。

このブログでは以前池澤氏の文章を取り上げたことがある。池澤夏樹「多神教とエコロジー:世界を支配する資格」、ではいくらか彼のキリスト教解釈について辛口の文章を書いた。 今回取り上げた映画評もたまたま彼の「キリスト教解釈」が引っかかってくる。
 「ツリー・オブ・ライフ」にキリスト教の色は濃い。そもそも「生命の木」とは旧約聖書でエデンの園に「善悪の知識の木」と並んで生えていた木だ。
だが、人間はこの世界で他の被造物の上に立つ別格の存在であり、神の愛でる子である、という楽天的な世界観は採用されていない。
映画の最初に「ヨブ記」からの言葉が掲げられている(引用省略)
と、言うようになぜか氏はこの映画にキリスト教の意義を読み込もうとしているようなのだ。

筆者はまだ見ていないので、この映画がどれほど「キリスト教の色が濃い」のか何とも言えない。
少なくとも池澤氏の評では「キリスト教」に当たる部分は、宇宙創成と重なるという意味での『創世記』と、『ヨブ記』からの引用だけのようだ。
それならば旧約聖書の「トーラー(律法)」と「詩歌・知恵文学」だけで「預言書」を含まないということになり、新約聖書(本来のキリスト教を性格づける聖書)とは直接関連のない、とも言い換えることが出来る。むしろユダヤ教の幾つか(大きなものだが)のテーマを隠喩的に用いているだけかもしれない、とも言えるのではなかろうか。

しかし池澤氏は続ける。
 大事なのは世界は人間のために作られたのではないということだ。人間が登場しなくても世界は完結していた。それでも我々は「神は与え、神は奪う。その御名はほめたたえられよ」と言わなくてはならない。
家族がずっと考えているのはこのことだ。今、東日本大震災の後でぼくが考えているのはこのことだ。キリスト教の信仰とは別に、なぜ震災でたくさんの人が亡くなったのか、なぜ大地は揺れるのか、その先のどこに生きる意味があるのか?(強調は筆者)
ははーん。なるほどそこに持って行きたかったのか。とすると、映画でのヨブ記からの引用も、氏にとっては「宇宙創成についての知識をヨブに問う神」の言葉としての意義ではなく、「神義論」への布石なのだ。

さて一通り氏の映画評を咀嚼した後、ニューヨーク・タイムズでの映画評(リンク)にも目を通してみた。
Not Mr. Malick (who prefers to remain unseen in public) but the elusive deity whose presence in the world is both the film’s overt subject and the source of its deepest, most anxious mysteries. With disarming sincerity and daunting formal sophistication “The Tree of Life” ponders some of the hardest and most persistent questions, the kind that leave adults speechless when children ask them. In this case a boy, in whispered voice-over, speaks directly to God, whose responses are characteristically oblique, conveyed by the rustling of wind in trees or the play of shadows on a bedroom wall. Where are you? the boy wants to know, and lurking within this question is another: What am I doing here? (強調は筆者)
永遠から永遠に流れる命の流れの中で、人間の根本的存在意義が人間を取り巻く大きな世界の背後にある「神と思しき存在」に発せられ、そして確たる答えがなくその問いは自己の存在証明の問いとして継続される。
と言う風な宗教的設定としてこの評者は捉えている様だ。

所謂キリスト教的背景はある意味米国と言う文化圏から言えば前提であり、格別この映画が「キリスト教の色が濃い」わけではなさそうである。
ただ池澤氏が見落としていて、キリスト教的視点として言及されているのは「死者の復活」である。
だからと言ってそれが「キリスト教的に」解釈されていないことは明らかだ。
だからタイムズの評者は「宗教的に濃い」とは言えても、特に「キリスト教的に濃い」とは言えないはずだ。

恐らく欧米の知識人にとっても、更に日本の知識人にとってはなおさら、「キリスト教」が意味するところは多分に西洋文化に浸透している事柄や、聖書に言及するかどうかと言った事柄なのではなかろうか。
なぜなら「キリスト教」にとって決定的とも言える「イエス・キリスト」の存在とその意義に言及することなく「キリスト教の色が濃い」とかどうとか言えたものではないからである。
もしこのような知識人が敢えて「キリスト教的」と言う表現を使いたいのであれば、「キリスト教文化の色濃い」と言った一枚壁を挟んだ物言いにしなければ厳密とは言えないであろう。

何はともあれ、「ツリー・オブ・ライフ」はなかなか魅力的な映画であることは確かなようだ。そしてその解釈の仕方も多分色んな方向に出来るのだろう。池澤氏だけでなく。

2011年9月6日火曜日

英語圏ブログ紹介③

少し間が空いてしまいました。ブログネタを探していたのですが適当なのが見つからないのでこのシリーズものにします。

今回紹介するのはかなり若手の新約聖書学者(パウロ研究)で、最近教鞭を取る学校がセダービル大学からグランド・ラピッズ神学校に変わったばかりのティム・ゴンビス(Tim Gombis)です。

その変化を受けて新しく始められた(?)らしいのが、Faith Improvised、と言うブログです。
今年6月から始まったばかりです。

先ず簡単に彼の紹介から始めたいと思いますが、ネットで検索してみると、彼に関する記事や(ブロガー同士の)インタヴューは、殆んどこのシリーズに登場してきそうな方々ばかりで、一々取り上げると、それだけで延々と「英語圏ブログ紹介」になってしまうほどです。
まあ類は友を呼ぶと言うか、若手の新約学者たちの間は割合ネットで通じていると言う印象です。

と言うわけであえてソースのリンクを省略してつまみ食いしたことを簡単に羅列します。


 ①先ず現職は、

Grands Rapids Theological Seminary、の associate professor of New Testament、と言うことになります。新約学の分野で博士号を英国スコットランドのセント・アンドリュース大学から取得しました。指導教官はブルース・ロングネッカー教授(ガラテヤ書の註解で有名)でした。

②著書



「パウロ:迷っている読者たちのためのガイド」(Paul: A Guide for the Perplexed.)




「エペソ書のドラマ:神の勝利に参与する」(The Drama of Ephesians: Participating in the Triumph of God.)



筆者が彼のブログを読み出したのは7月からだと思います。第一印象は若い感覚の新約学者が出てきたな、バランスが取れてて、単なるアカデミックではなく、新約聖書の教えを研究するだけでなくそれを自分の現実(聖書学界やキリスト教界)に当てはめようとしている人、でした。

7月のブログ記事はキリスト教会内の対立、特に福音主義陣営内でのトライバリズム(党派傾向)がもたらす混乱状況に関する観察と聖書的適応が書かれています。
「レイチェル・ヘルド・エバンス」の記事でも指摘しましたが、若い世代のキリスト者たちは神学的立場をめぐって対立や抗争がエスカレートしていく現状を非常に憂いており、教会にとって克服すべき深刻な課題と捉えているようです。
ティム・ゴンビスのこの一連の記事は新約聖書学の知見を動員しながらアメリカ福音主義の党派対立現象に警鐘を鳴らしているものだと言えます。
(四つ目の記事には筆者もコメントを書き込みました。)

最後に「入門編」として、彼が「クリスチャニティー・トゥデー」誌に寄稿した論文のリンクを挙げておきます。
The Paul We Think We Know

2011年9月3日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

9月4日 午前10時30分

説教箇所 ヨハネの福音書 15:1-10
説 教 題 「ぶどうの枝が願うこと」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2011年9月2日金曜日

今日注文した本

円高傾向が続いています。
また本を買うチャンスだなー、と暫く色んな本を眺めていました。
適当な本が見つかるとアマゾンのウィッシュ・リストにためておくのです。
 
夏の間はさすがになかなか本を読む気力もなかったのですが、秋が近づくにつれてそろそろと言う感じになってきました。
それで今日になって注文を入れました。
 
と言うわけでどんな本を購入したか紹介しましょう。

最初の本 
Larry W. Hurtado, Lord Jesus Christ: Devotion to Jesus in Earliest Christianity.
は、前々から目を付けていた本です。フルタド(発音は正確ではないかもしれません)は最近エジンバラ大学を定年退職した著名な新約学研究者です。初期キリスト教史における重要な歴史的神学的問題である、「初期キリスト教におけるイエス崇拝」を論述する本です。 
Michael J. Gorman, Inhabiting the Cruciform God: Kenosis, Justification, and Theosis in Paul's Narrative Soteriology.
は、米国の新約学者(特にパウロ研究や最近では黙示録研究)ではもう中堅に位置する方です。「クルシフォーミティー」と言う造語(?)を使い出したのがゴーマンかどうかは定かではありませんが、彼によればその定義は、
“Cruciformity”—from “cruciform” (cross-shaped) and “conformity”—means 
conformity to the cross, to Christ crucified. Cruciformity is the 
ethical dimension of the theology of the cross found throughout the NT 
and the Christian tradition. Paradoxically, because the living Christ 
remains the crucified one, cruciformity is Spirit-enabled conformity to 
the indwelling crucified and resurrected Christ. It is the ministry of 
the living Christ, who re-shapes all relationships and responsibilities 
to express the self-giving, life-giving love of God that was displayed 
on the cross. Although cruciformity often includes suffering, at its 
heart cruciformity—like the cross—is about faithfulness and love.
となっています。筆者の関心はこの「クルシフォーム」と言う視点です。
 
John Stott, The Cross of Christ.
は、つい最近天に召されたジョン・ストット師について記事にしましたが、そこで書いたように筆者は彼の本を一冊も読んでいないことを改めて思わされ、遅ればせながら一冊読んでみようと思い探していました。ストットの「この一冊」は何冊か候補があったのですが、その中でもこの近刊のものを読むことにしました。
 
John Howard Yoder, Body Politics: Five Practices of the Christian Community Before the Watching World.
は、最近参加するようになったヨーダー読書会の「イエスの政治」が終了した後を受けて次の一冊の候補になっています。この本は『社会を動かす礼拝共同体』として東京ミッション研究所シリーズから出ています。邦訳も持っていますが小冊子なので原著も購入しておこうと思いまして・・・。
 
John M. G. Barclay, Obeying the Truth: Paul's Ethics in Galatians.
は、目下礼拝でガラテヤ書を講解中なのでそのためにも、と思い、最近よく名前を聞くジョン・バークレー(ダーラム大学)にも興味があったので購入しました。
 
Christian Smith, The Bible Made Impossible: Why Biblicism Is Not a Truly Evangelical Reading of Scripture.
は、最近話題の本で混沌と言うか混乱の中にある「福音主義のアイデンティティー」の根幹をなす「聖書の権威」に関わる社会学的な研究のようです。ジーザス・クリードのスコット・マクナイトがこの本について連載中です。(終了したかかな?)
本が到着するのは九月の半ば頃でしょうか。楽しみに待っています。

2011年8月31日水曜日

日本の牧師は勉強しているか?

今日は英国留学中で帰国中のY兄と神学も含めた四方山話をした。
断片的になるが適当に並べてみよう。

①N.T.ライトの「キリスト教起源シリーズ」の四巻目「パウロ神学」の本は来年出版されるかどうか。
本当は既に出版されているはずであったのが延び延びになっている。
昨年のホィートンでの神学会議では2011年と言われていたが、間もなく2012年とされた。
しかしY兄によると同時に執筆中の本が5-6冊あるようで、2012年も無理かもしれない。なぜならライト博士のパウロ研究に対する思い入れもあり、絶えず新しい資料を渉猟したり、新しい視点や領域を抱合しようとしているので、なかなか本にまとまらないのではないかとのこと。
まだ一年以上も待たねばならないと言うのは残念だが、それだけ分厚い研究成果を見せてくれるのだろう。そっちの方を期待してよしとするか。

②ポストモダンの教会の退潮傾向英国国教会は衰退している。
一部の教会はそうでもないかもしれないが全体的に見れば退潮傾向は明らかだ。
英国国教会の牧師の給料も意外と低い。
総じてポストモダンに突入している地域ではキリスト教会は停滞か衰退している。
米国の福音主義教会もメガチャーチに目を奪われがちだが、主流派教会は減少傾向にある。
日本もポストモダン圏にあると位置づけられるが、高齢化など将来衰退するのは避けられないだろう。

③大教会の牧師は大変だ。伝統のある教会の牧師も大変だ。少人数の会衆の教会で牧師が出来ればいい。
そう言えば著名な新約学者、C.K.Barrettが亡くなって、オビチュアリーをどこかのブログで読んだ。彼はメソジストの巡回説教者として20-40人位の教会で説教をしていたそうだが、誰も彼を大新約学者とは知らないで説教を聞いていたそうだ。
(これを書いている時点でそのブログを見つけました。新進気鋭の新約学者、ニジェイ・ガプタのブログです。多分「英語圏ブログ紹介」シリーズで今後取り上げるかもしれません。C.K.バレット訃報

④今新約聖書学をやるとしたらどこか。
最近はオックスフォードやケンブリッジには目玉になる教授がいないね。
ダーラムかセント・アンドリュースだろうね。
神学だったらエディンバーグもいいけどね。
英国の学風は深く落ち着いた雰囲気があるけど、アメリカはどうかね。基本的には浅く広くという印象がある。
リチャード・ヘイズのいるデュークはいいね。

と言ったようなことをあれこれおしゃべりした。
標題の「日本の牧師は勉強しているか?」については、どんな話の流れで出てきたかと言うと、依然として日本の神学や神学校教育は英語圏のものを翻訳して移入しているが、どうなんだろう。
本格的「日本の神学」を目指すような必要はあるだろうか。

いや、やはり聖書学で言うと英語圏の業績が量的にも質的にも圧倒的だ。まだまだ学ぶ必要はある。
そうなると英語で読まない限り翻訳に頼ることになるけど、日本のキリスト教出版事情では読者数が限られているからどうしても一定の神学者や定評のある本に限られてしまう。
そうすると翻訳された時点で20年、30年遅れてしまうことになる。

確かに日本の牧師は牧会や何やらに時間が取られていて勉強する時間が限られている。
説教の勉強と言ってもバイブル・ソフトを使ったりして釈義の細かいことはやるけれど、もっと広い聖書学の研究、例えば第二神殿期ユダヤ教についての学びなどをやっていないのでは。
例えば旧約聖書外典偽典なんかちゃんと読んでいないのじゃないか。

たまたま死海文書を邦訳で探してみたけれど見つからない。もしまだ邦訳されていないとすると、第一次資料のレベルで英語圏とは差をつけられてしまう。

まっ牧師が一人でこつこつ勉強するのもいいけど、読書会のような相互に刺激し合う場があると、もっと勉強するようになるのじゃないか・・・。

と言ったような話を二時間ほどしてお別れした。

2011年8月29日月曜日

英語圏ブログ紹介②

先日はこのタイトルではなかったが、「牧師という職業」で筆者が回覧している英語圏ブログの一つを紹介した。

今回二回目は既に紹介したことのある、レイチェル・ヘルド・エバンスのブログを紹介しよう。

「アメリカの新世代キリスト者①」、や「ディスペンセーショナリズム」で彼女のことについては、その著書「モンキー・タウンで進化する(Evolving In Monkey Town)」 などについて触れたので、ここでは彼女のブログの面白さや日本語圏のブログと比較した時の特徴などについても書いてみようと思う。

先ず彼女に限らず英語圏の筋金入りのブロガーはかなりの購読者数を抱えており、ブログは一種の個人で発刊する雑誌並みの企画や内容、分量を持っている。
レイチェルのブログは常に新しい試みを行っていて、最近のものでは、「インタヴュー」記事シリーズが読み応えがある。

自分のブログに得意の分野の専門家を招いてインタヴューを掲載する、と言うのはよく見られるものであるが、彼女のものはそれをもう一ひねりしている。
レイチェル自身が狭い保守的なキリスト教理解で青年期を迎え、信仰遍歴するようになったが、そんな背景もあって、レイチェルは自分とは異なる立場のものの見方を理解しよう、と言う点で旺盛である。
そんな態度を反映したのがこのシリーズである。ちょっと英語になってしまうが書き出すと、
Ask an Atheist
Ask a Catholic
Ask an Orthodox Jew
Ask a Humanitarian
Ask a Mormon
Ask a Mennonite
Ask an Evolutionary Creationist
レイチェルはなかなか人脈を作るのも上手なようで、ブログ上でか、色々な講演会での触れ合いからか、上に掲載した様々な立場の人たちをインタヴューするくらい先ず友達になってしまうようなのである。

「アメリカの新世代キリスト者」でも少し触れたが、この世代のキリスト者は自分たちの抱合するキリスト教が政治的立場や思想的相違で、むやみやたらに対立し、生産的な討論を出来ない硬直化した信仰者になってしまっていることを憂いている。
それでこのインタヴュー・シリーズではブログの読者たちに質問したいことを聞いて集めるわけだが、何よりもインタヴューされる人がどんな考えを持っているかを知ることを最優先している。
だから論争を吹っかけるような質問や、相手の立場にいちゃもんをつけるような質問は避けるように、と要請する。
そうして集めた質問の中からレイチェルが幾つか適切なものを選び、それを相手に回答してもらう、と言うスタイルを取っている。

現在北米の福音主義は、自分と神学的理解が異なる者を排除しようとするどちらかと言うと「狭い福音主義」に走る傾向と、神学的立場や意見がかなり異なっていても、概ね歴史的福音主義の中心を外さない者たちならば受け入れるべきだ、とする「広い福音主義(ビッグ・テントと表現したりする)」とがせめぎあっているように見える。
レイチェルのブログでのこのような試みは、福音主義が狭い殻に閉じこもってしまわないように、周囲の異なる世界観や立場の人たちを尊重する態度を育もうとするスピリットを感じる。

レイチェルのブログは支持者を増やし、投稿された記事には大抵100以上のコメントが寄せられる。そう言う意味では、レイチェルのブログは多様な視点や意見を柔軟に交錯させようとするプラットフォームを提供しているのだと思う。

彼女はまだまだ若く、好奇心に富み、何よりも学習意欲が旺盛で、向上心に溢れている。今後も注目すべきホットなブログだと思う。