元旦主日礼拝
朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 5:1-15
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 5:13
説 教 題 「愛に基礎を置く」
説 教 者 小嶋崇牧師
2012年度 教会標語聖句
愛によって互いに仕えなさい
※神への礼拝を通して、心新たに新年をスタートしましょう。
巣鴨聖泉キリスト教会(日本聖泉キリスト教会連合)創立1965年。 大和郷の一角にある緑と花に囲まれた教会、隣には牧師の木工房。 静かに賛美と聖書の学び、そんな礼拝の時をお過ごしください。
2012年度 教会標語聖句
愛によって互いに仕えなさい
Twitterには「つぶやき」を、ブログには「演説」を、というふうになんとなく使い分けをしてきたが、二年ほどやってわかったことは、Twitterに書き付けたアイディアもそのあとブログにまとめておかないと、再利用がむずかしいということである。「なるほど」、とも思ったが「待てよ」とも思った。
Twitterは多くの場合携帯で打ち込んでいるが、これはアイディアの尻尾をつかまえることはできるが、それを展開することができない。
指が思考に追いつかないからである。
だから、Twitterは水平方向に「ずれて」ゆくのには向いているが、縦穴を掘ることには向いていない。
そんな気がする。
ブログは「縦穴を掘る」のに向いている。
「縦穴を掘る」というのは、同じ文章を繰り返し読みながら、同じような文章を繰り返し書きながら「螺旋状」にだんだん深度を稼いでゆく作業である。
①もろびとこぞりて むかえまつれ ひさしくまちにしところがJoy To The Worldの歌詞はと言うと、
主はきませり 主はきませり 主は主はきませり
②くろがねのとびら うちくだきて とりこをはなてる
主はきませり 主はきませり 主は主はきませり
③とこやみの世をば てらしたもう あまつみひかりの
主はきませり 主はきませり 主は主はきませり
④しぼめるこころの はなをさかせ めぐみのつゆおく
主はきませり 主はきませり 主は主はきませり
⑤あまつかみの子と いつきむかえ すくいのぬしとぞ
ほめたたえよ ほめたたえよ ほめほめたたえよ
Joy to the World , the Lord is come!あれっ、節数も歌詞の意も違うじゃないか・・・。
Let earth receive her King;
Let every heart prepare Him room,
And Heaven and nature sing,
And Heaven and nature sing,
And Heaven, and Heaven, and nature sing.
Joy to the World, the Savior reigns!
Let men their songs employ;
While fields and floods, rocks, hills and plains
Repeat the sounding joy,
Repeat the sounding joy,
Repeat, repeat, the sounding joy.
No more let sins and sorrows grow,
Nor thorns infest the ground;
He comes to make His blessings flow
Far as the curse is found,
Far as the curse is found,
Far as, far as, the curse is found.
He rules the world with truth and grace,
And makes the nations prove
The glories of His righteousness,
And wonders of His love,
And wonders of His love,
And wonders, wonders, of His love.
全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。ワッツはこの賛美歌を「初臨のキリスト」ではなく「再臨のキリスト」にフォーカスして作ったのだと言う。
琴に合わせてほめ歌え
琴に合わせ、楽の音に合わせて。
ラッパを吹き、角笛を響かせて
王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。
とどろけ、海とそこに満ちるもの
世界とそこに住むものよ。
潮よ、手を打ち鳴らし
山々よ、共に喜び歌え
主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き
諸国の民を公平に裁かれる。
I refuse to be anti-gay. I refuse to be anti-feminist. I refuse to be anti-artificial birth control. I refuse to be anti-Democrat. I refuse to be anti-secular humanism. I refuse to be anti-science. I refuse to be anti-life.(2010/07/29 ハッフィントン・ポスト)ただしキリスト者であることをやめたのではなく、既成教会(彼女の場合はカトリック教会)の「文化的対抗主義(そんな語あるかどうか知りませんが)」に嫌気がさした、と言うことのようです。
“My heart and soul and love for Jesus Christ is in this book,” Rice told Examiner.com. “It really has nothing to do with my move away from Organized Religion. That had to do with many theological and social and political issues that have no connection with Jesus at all.”(Harry Potter Producer To Work On New Film About Jesus Early Life)筆者の教会では、マタイ福音書とルカ福音書の「クリスマス・ストーリー」を毎年交代で取り上げているのですが、この映画がイエスの幼少年期をどう描くのか興味深く待ちたい思います。
今日は長らく闘病生活をされておられた駒場の尊敬する同僚の訃報に接し、ずっと落ち込んでいました。心より先生のご冥福をお祈り申し上げます。Wikipedia http://p.tl/i_4Vリンクを辿ると同僚の方とは北川東子氏のことだった。
いま、新しい本の相談をしているのですが、その最後に書こうかな、と思っている話。「僕が東大で受けた、もっとも美しい授業」 あんまし反響ないかな、とかとも思いつつ、ちょっと考えています。外国の哲学者の原文(テキスト)と格闘する。
僕が学生として東大で受けた「もっとも美しい授業」は30を過ぎて二度目の博士取得の際に参加した北川東子先生のゼミナールでした。学生はたった3人、 ニーチェの「悲劇の誕生」の原書講読。毎週木曜日の午後4時過ぎから先生の部屋で始まりますが、深い議論になりやすく9時10時になる事もしばしば6時7時を過ぎるとおなかも空き、先生のご発案で34回目あたりから夕ご飯時に場所を駒場の研究室から渋谷方向に少し歩いた店に移しビールを傾けながらま た3,4時間ゼミ後半の議論になりました。そういう時の北川先生のゼミ指導の所作が本当に素晴らしかった。テキストの一言一句を精緻に読みながら一人の好奇心に満ちた個人として何の衒いもなく、必要ならその場で辞書なども引きながら、本当に嬉しそうに楽しそうにニーチェを読んでゆかれました。上か らものを仰る先生ではなく僕らも好きに発言し、その場で調べて間違ってたりもしながらテキストと同時にテキストとどう関わるかの姿勢も学びました。5時間6時間に及ぶゼミは一方向的な講義では到底もたず、素の構えでどう向き合うかという仕事そのもの、ビールを傾けつつ資料も前に真剣な議論というのは北川先生が博士を取られたベルリン自由大学ご留学時代のご経験と同様ということで、こういう授業をやってみたかった、とも仰っておられました。酒を飲みながらの授業とは何事か!と怒る方があるかもしれませんがニーチェの「悲劇の誕生」は酒の神のランチキ騒ぎみたいなお祭りの話で、また北川先生は 本当に端正な仕事をされる方で、そんな先生がビールを飲みながら議論しましょう!と嬉々として輝くように読解の喜びを体現しつつ教えて下さった。決して上からモノ申すのでなく、同じテーブルでその喜びとか、あるいは瞬間的な発想、アイデアなども遊ばせつつ「テキストと戯れる」ということを目の前で 行って下さった。ちなみに鋭利と言って良いほどの北川先生の実力は知る人は誰でもしっています。本当の本物の知性、いま思い返してみて僕が学生時代に受けたあらゆる講義や授業の中で、飛びぬけて「美しい」授業として、現在まで自分の支えになっているのは北川東子先生の原書講読のゼミナー ルでした。ただドイツ語本来の難しさはその場で先生が解いちゃうので僕の語学力はここでは伸びなかった^^;それはこれからの僕の課題と思います。(以上、@itokenstein Ken ITO 伊東 乾)
まあちょっとブラック・ユーモアだが、確かにこんな贈り物を毎日もらっていたら家中ひっちゃかめっちゃかになってしまうはずだ。Day 1On the first day of Christmas my true love gave to me, a partridge in a pear tree. Such a thoughtful gift, she knows how much I love fruit. She also knows my building’s pretty strict about pets so the bird threw me a little. But he is a cute little guy.
Day 2On the second day of Christmas my true love gave to me, two turtle doves. Wow, she’s really into the avian theme this year. Um, thank you? I guess I’ll just put them in the kitchen with the partridge and the pear tree, which suddenly seems a lot bigger than it did yesterday.
Days 11 & 12These final days have come and gone in a bewildering fog. I remember drummers. Pipers. Lots of them. I haven’t slept or washed my body in quite some time. Food is scarce… the fighting, fierce. I killed a lord today! Snatched him right out of the air and killed him with my bare hands. Now he doesn’t leap anymore. I used his leotard as a net to trap one of the swans. She was delicious. Didn’t even cook the old gal. Ha! I made everyone gather around and watch—that’s what you do when you want to send a message. A very important message! This is my castle! Do you all hear me? Do you see what I’ve done? What I am capable of!! No more eye contact with the king, do you understand? Or I will end you! I will end you all right here and now!! Now one of you fetch me a goddamned pear. The king needs something sweet.(The Twelve Days of Christmas by Colin Nissan)
エリザベス1世により「統一令」が出された1558年から1829年の「カトリック教徒解放令」までの期間、英国ではローマ・カトリック教の信者は、公然と自分たちの信仰を実践することは出来ませんでした。「暗号」と言うより当時の権力構造で出来た「隠語」のようなものだとおもうのだが、それはそれで分かって歌っている方は一種の快感なのかもしれない。
そこで、イギリスのカトリック教徒たちは、自分たちの信仰を織り込んだ「わらべうた」を創作しました。つまり、一見数え歌のように聞こえ、歌っても捕らえ られる心配がないが、裏にカトリックの信仰をも歌い込んである──そんな歌を創作したのです。それがこの「クリスマスの12日」というキャロルでした。
歌は二重構造になっていて、表向きは他愛もない子供の歌ですが、裏の意味はローマ・カトリック教会への信仰を示す敬虔なものです。歌詞のすべての単語は、 カトリック信仰の核をなす概念の暗号(符牒)になっていて、信者たちはこれを歌う時、暗号の裏に秘められたものを思い浮かべ、自分たちの信仰の実践にした のです。(歌詞の翻訳と説明も合わせてこちらをどうぞ。)
The church calendar is all about the Story of Jesus, and I know of nothing ... that can "gospelize" our life more than the church calendar. It begins with Advent, then Christmas, ... Anyone who is half aware of the calendar in a church that is consciously devoted to focusing on these events in their theological and biblical contexts will be exposed every year to the whole gospel, to the whole Story of Israel coming to its saving completion in the Story of Jesus. (p.155、強調は筆者)逆説的かつ皮肉っぽい見方だが、このような「ゴスペル・カルチャー」で漫然と育ったカトリックの信者は、福音主義が強調するイエス・キリストに対する自覚的回心にどれだけ至っていると言えるのだろうか。
美術批評家です。昨年5月にツイッター開始、年末には終了していましたが、今年の5月を目前に震災モードで再開しました。埼玉県秩父市生まれ。(TLの景色を変えるため、頻繁にリムーヴ&再フォローします。「お気に入り」は「気になった」程度です。)とある。
先日、渋谷の喫茶店で編集者の方と話した。震災後、詩(のようなもの)の重要性が高まっているように思われる、と。実際、これまで詩にはほとんど関心がなかったにもかかわらず、心のどこかで確かにそう感じるのは、今が緊急時であり、破局的な災害下にあるからだろう。この方の詩と小説の違いに関する文学論はさておく。
原発事故直後もそうだったが、西に向かうため慌てて家をあとにするとき、一冊くらい本をと手にしたのは、意外にも詩(のようなもの)だった。少なくとも散文ではありえなかった。薄くて軽いという持ち運びやすさもあるが、何度でも繰り返し読めることと、最終的には暗記できるものがほしかった。
書物としては頁をめくるという共通性があったとしても、実際には詩は小説よりも遥かに絵や唄に近い。慣れ親しんだ詩の味わいは無時間的だ。そして暗記してしまえば、その人の精神の一部として血肉となる。そうなると、読んでいて新しい発見や展開などなくても全く構わない。むしろない方がよい。
僕はこのことを、子供に絵本を読み聞かせていたとき気付いた。子供は何度でも繰り返し同じお話を聞きたがる。最初は変化を嫌う子供に特有の危機回避の本能かなと思っていた。が、どうやらそうではないようだ。子供たちは次の場面に何が起こるかを驚くほど細部まで暗記し、それを楽しんでいる。
それは刺激や意外性を求める小説の楽しみとは全く違っている。むしろ、同じ感覚が体を通り抜ける快感を貯めている。そしてふとした時、絵本の言葉が形を変えて別の場所に現れる。子供たちは同じエネルギーを供給してもらい続けるために、繰り返し同じ絵本を読んでもらいたがっているかのようだ。
肝心なのは、読書の楽しみではなく、言葉を心に刻み、いつ、どこにでも持ち運べるようになることなのだ。小説にこれはなかなか望めない。が、詩や絵本には可能なこの性質が、災害や緊急時には、大きな意味を持つ。暗記してしまえば、その人がすべての財産を失ったとしても、詩の言葉は心に残る。
どのような暴力も、それを剥ぎ取ることはできない。たとえ電子化されても、タブレットを奪われれば何も残らない。が、暗記された言葉はその人が生き延びる限り、活きて残り続ける。このような詩の性質は、数多くの破局や戦乱をくぐり抜けてきた人類にとっては、きわめて重要な形式にちがいない。
震災後、どうも小説にあまり手が伸びないのは、震災で非日常が現実のものとなり、フィクションが力を失ったというより、小説という形式が根本的に災害下や緊急時から生まれたものではなく、平時の過ごし方、もっといえば「ヒマつぶし」を高度に洗練して探究する文学形式だからなのではないか。
そう考えてみると、日本の小説が、戦後という稀に見る「平時」に隆盛をむかえたのも、何だかわかるような気がする。他方、そういう時代に「詩」を詠むことにも、どこか無理はなかったか。かりに詩が緊急時の芸術なのだとしたら、平時の詩は避けがたく「超短編小説」化してしまう。
かつて、批評家として活動を始めた頃、僕がひどく「詩」というものに苛立ったのは、きっと、そのせいだったのだろう。……おっと、切りがない。仕事しなきゃ。(了)
この「繋ぐ」と言う働きを患者自身の自助努力に任せているだけで良いのか、と言うことを考えさせられます。篠原氏は壇上で、終始ストレッチャーに横たわったままでしたが、シンポジウムを締めくくる言葉として、患者一人一人がチャレンジして変化を起こそう、と 強い志の感じられる宣言をしました。機能障害や疾病を有する人々の障害の本質とは、様々な社会への参加を妨げている社会的障壁にほかならず、機能障害や疾病を持つ人々を排除しないようにする義務が社会、公共にあることが確認される必要があります。病気を持つ人々の社会参加を排除して、適切な支援を実施しな い社会の側が障害の原因であるという障害把握の転換を明確化する必要があります。篠原氏はこのことを、身を持って証明してくれているのです。だからこそ、 応援したいと思う人が周りに集まり、メディアも高い関心を寄せているのでしょう。
「飼っていた犬が亡くなって家中悲しんでいる。特に小さい子供たちのことを考えると、何か葬儀と言うか簡単なお祈りでもしてあげた方がいいかなと思うんだけど・・・。何か良いリソースがあったら教えて欲しい。」と言った内容のものだった。
Just this side of heaven is a place called Rainbow Bridge.これはペットの死に悲しむ人のためのサイト、Pet Loss Grief Siteに収められている「お話」で、大意は天国の手前にあるレインボー橋というところで死んだペットが元気に回復して楽しく暮らしている、というものである。
When an animal dies that has been especially close to someone here, that pet goes to Rainbow Bridge.
There are meadows and hills for all of our special friends so they can run and play together.
There is plenty of food, water and sunshine, and our friends are warm and comfortable.
The weakness in Schaeffer's view of art resides in his failure to appreciate the common grace gifts of the Spirit in common culture. A lack of faith is not the only ingredient in the creativity of unbelievers, although unbelief sometimes expresses itself in ugly and even reprehensible ways. True beauty may be created by the non-Christian artist or poet made in God's image. General revelation is no less God's revelation.一応フジムラのことは暫く前から気になっていた。
Like Schaeffer, Fujimura self-consciously reflects on art through the lens of his Christianity—as well he should. However, Fujimura also recognizes the brilliant insight of the artistry of his unbelieving Nihonga master Matazo Kayama-sensei (1927-2004), as well as many other modern western artists, like Mark Rothko.
In the beginning was the Word. The Word was close beside God, and the Word was God. In the beginning, he was close beside God.ヨハネ3章16節
This, you see, is how much God loved the world: enough to give his only, special son, so that everyone who believes in him should not be lost but should share in the life of God's new age.ローマ人への手紙3章21-22節
But now, quite apart from the law (though the law and the prophets bore witness to it), God's covenant justice has been displayed. God's covenant justice comes into operation through the faithfulness of Jesus the Messiah, for the benefit of all who have faith.ライトの著作に触れている人にとってはそれほど目新しいことはないかもしれないが、改めてこうして「新約聖書」として読んでみると結構味わい深い箇所が多いのではないかと期待している。
Hamilton says it's all part of his "platform" for reaching people who deal with their own or loved ones' addictions, and for reaching people with the good news of the gospel.果たして日本でプロ野球選手が麻薬で自滅した後にカムバックできるような環境があるだろうか。多分麻薬常習が発覚した時点で社会的にアウトだろう。
「英語でしゃべって。じゃないと放送できない」この様子を見ていた日本人記者(『特派員メモ』の筆者)、春日芳晃は会見後米国人記者たちに「カルマンさんに対して失礼ではないか」とたずねたそうだ。
18日夕、国連本部前の公園。米大手放送局の記者たちが声を張り上げた。イエメンのサレハ大統領退陣を求める在米イエメン人らのデモに参加した、今年のノーベル平和賞を受賞する人権活動家タワックル・カルマン(32)さんの記者会見のことだ。
「英語は得意ではありません」と当惑するカルマンさんに、米国人記者たちは「片言でいい」と食い下がる。カルマンさんは悩んだ末、「正確に伝えたい」として母語のアラビア語で語り、通訳が一文ずつ英訳した。米国人記者たちからはため息が漏れた。
雑誌「Ministry」が届いたら、表紙がワタシで驚いた!「次世代の教会をゲンキにする応援マガジン」、つまりキリスト教の雑誌で、表紙を飾るとは!http://www.ministry.co.jp/
雑誌「Ministry」、奥田知志@tomoshiokuda さんとの対談「3/11後の宗教界を斬る!!」は、自分で言うのも何だけど、必読。奥田さんの素晴らしい洞察力が爆発している!!経験と思索から生みだされる言葉。ぜひお読みください。http://www.ministry.co.jp/
雑誌「Ministry」特集「ボクシたちのリアル」もむちゃくちゃ面白い。牧師の給与の最多層は「200〜400万」(38%)とか、2割の牧師が副業を持っていて、トラック運転手の牧師もいたりとか。http://www.ministry.co.jp/上田紀行氏は文化人類学者で特に仏教に関心があるらしい。自身のホームページのプロファイルでは、
近年は、日本仏教の再生に向けての運動に取り組み、2003年より「仏教ルネッサンス塾」塾長をつとめ、宗派を超えた、若手僧侶のディスカッションの場である「ボーズ・ビー・アンビシャス」のアドバイザーでもある。とあった。なんか仏教の応援やっているみたいと思ったら、今度はキリスト教の応援もやっているみたいだ。要するに「(既成)宗教よ、元気にがんばれ」ってことかな。
2004年に出版された『がんばれ仏教!』(NHKブックス)では、時代の苦悩に向かい合う寺や僧侶達を紹介、日本仏教の未来図を提示し、大きな反響を呼んだ。
Occupy Wall Street is a diffuse group of activists who say they stand against corporate greed, social inequality and other disparities between rich and poor. On Sept. 17, 2011, the group began a loosely organized protest in New York's financial district, encamping in Zuccotti Park, a privately owned park open to the public, in Lower Manhattan.と言うことはまだ一ヶ月も経っていない訳だ。
What can we say about the protests? First things first: The protesters’ indictment of Wall Street as a destructive force, economically and politically, is completely right.つまりデモが抗議の対象にしていることは正しいと。
と言い訳のような前置きはそれまでにして、今回は最近購入した本の感想を書こうと思います。(まだ三分の一位までしか進んでいないので途中経過、と言うことになりますが。)
副題でビブリシズムという言葉が使われています。悪い意味(反知性的で、過剰な聖書の権威に対する信仰と言ったニュアンスがあると思います)で使われることが多いのですが、著者のクリスチャン・スミスは福音主義を始め多くのプロテスタント、特に保守的な信仰者・団体に共通してみられる「聖書に対する一定の態度」を表す用語としています。Christian Smith, The Bible Made Impossible: Why Biblicism Is Not a Truly Evangelical Reading of Scripture.
By "biblicism" I mean a theory about the Bible that emphasizes together its exclusive authority, infallibility, perspicuity, self-sufficiency, internal consistency, self-evident meaning, and universal applicability.まあこれだけだと分かりにくいと思いますので一つ例を挙げます。
66巻からなる聖書は、聖霊の完全な霊感によって、それぞれの著者を通して、記されたものです。したがって、聖書の記述には、誤りがありません。聖書は、神が救いについて人々に啓示しようとされたすべてのことを含み、信仰と生活との唯一、絶対の規範となるものです。これはかなり簡単な文章ですが、ビブリシズムで定義されたうちの、①唯一絶対の規範、②無誤性、などは明瞭に表現されています。
1. Divine Writing: the Bible is identical to God’s own words.先ほどの定義より幾らか説明がついて分かりやすくなっていると思いますが、どちらにしてもアメリカの保守的キリスト者、特に聖書の権威を高調する福音主義者たちの信仰生活の中でどのように聖書が読まれ、用いられているか・・・の概観を示しているのではないかと思います。
2. Total representation: it is what God wants us to know, all God wants us to know (he quotes J. I Packer here) in communicating the divine will to us.
3. Complete coverage: everything relevant to the Christian life is in the Bible.
4. Democratic perspicuity: reasonable humans can read the Bible in his or her language and correctly understand the plain meaning of the text.
5. Commonsense hermeneutic: again, plain meaning; just read it.
6. Solo [not sola] Scripture: we can read the Bible without the aid of creeds or confessions or historical church traditions.
7. Internal harmony: all passages on a given theme mesh together.
8. Universal applicability: the Bible is universally valid for all Christians, wherever and whenever.
9. Inductive method: sit down, read it, and put it together.
10. Handbook model: the Bible is handbook or textbook for the Christian life.
① How does Jesus fit into Judaism?大変広い視野と野心的な研究姿勢がこんな設定を第三探求に課しているように思います。
② What were Jesus aims?
③ Why did Jesus die?
④ How and why did the Early Church begin?
⑤ Why are the Gospels what they are?
⑥ Agenda and theology.(Pp.89-121)
目下、聖書学界では米国を中心とする史的イエスの第三探求がもっぱらの話題である。J・D・クロッサン、M・ボーグ、E・P・サンダーズ、J・マイヤー、N・T・ライト、B・ウィゼリントン等々、それぞれが(時として何分冊にもなる)大著を刊行している。これら「第三探求」のキリスト論的貢献は無視できないものであるが、その膨大なエネルギーに比して、これまでに得られている成果は乏しいように思われる。一部の学者たちは、イエスのユダヤ性に注目し、そこから終末の到来にかける預言者としてイエス像を描き出すが(例えばライト)、これは基本的には二十世紀初頭のシュヴァイツァーのラインの踏襲である。…とまあ「史的イエス」研究に対して非常に悲観的な評価なのです。
筆者が言いたいのは、史的イエスの探求には限界があるということである。聖書学者は二百年以上これに携わってきた。今日その探求はますます厳密さを要求されている。確かにこのテーマ抜きには、イエス・キリストを論じることはできない。しかし、史的イエスという課題は、問題設定自体が持つ限界があるということが、特に今日明らかになりつつあるように思う。筆者は組織神学者である。少なくとも信仰の学としての神学としてキリスト論を論じるには、別のアプローチが必要であると思われる。この別のアプローチをフルタドは提供しているように思われる。それは「史的イエス」ならぬ「史的キリスト」の研究である。(書評リンク)
Larry W. Hurtado, Lord Jesus Christ: Devotion to Jesus in Earliest Christianity.
を読み始めている。
他の数冊も序文、目次、導入などに目を通したがどうやらこの本が今一番読みたい感じなのである。実際20数ページまで読み進んだ。
ところでアカデミックな世界では有名でも一般には知られていない学者は結構いる。
今まではそれが普通だった。
しかしネット世界の登場で、そしてブログが活用されるようになって、学者たちは自分から一般に向けて積極的に学会での議論や最近の研究動向などを発信するようになった。
特に30代から50代の若手から中堅にかけての学者たちがブログを有効に活用している。
「英語圏ブログ紹介」はそのような方々のブログを主に紹介している。
ところでラリー・フルタドは今年68になる。ちょうどエジンバラ大学を定年退職した方だが、この年齢の方にしては珍しく最近(2010年7月)ブログを始められた方だ。
で、そのブログだが、その名の通りLarry Hurtad's Blog と言う何の変哲もない名称である。
ブログ内容は主に彼の研究に関連するもので個人的な事柄のようなものは殆んどない。
だからコメントも真面目に研究に関すること、と注意書きしている。
ブログが開設された当初、若手の研究家たちは大いにこれを歓迎し、彼のような実績のある学者がブログ界に登場することを称えた。
確かにそうだ。自分の研究過程にあることや今までの研究実績から若手の研究者たちや一般の読者たちを励ましたり、鼓舞したり、少し苦言を呈したりするような存在は貴重だと思う。
フルタド教授の主要研究対象はイエスが初代教会においてどのように礼拝対象となって行ったのか、を歴史的に究明することである。
最新のブログ・エントリーでは、
Karl-Heinrich Ostmeyer, Kommunikation mitt Gott und Christus: Sprache und Theologie des Gebetes im Neuen Testament, WUNT, 197 (Tübingen: Mohr Siebeck, 2006).
と言う「神」「キリスト」に対する祈り(呼びかけや会話)の研究書を紹介している。ちょっと引用してみよう。(英訳はフルタド教授によるもの)
新約学や初代キリスト教史に関し、少し専門的な関心のある方にはお勧めのブログである。“Praise of God unconnected to the confession of Christ as the Lord is for Paul unthinkable” (p. 87).キリストを主と告白することと関連なく神への賛美をすることはパウロには考えられない。“It is indisputable that Paul was familiar with communication with [the risen] Jesus. . . . . [For Paul] The relationship of people to God differs from the relationship to Jesus; the manner of communication of Christians with both is not exchangeable” (98).パウロが復活の主とコミュニケーションを持つことが珍しいものでないことは論を待たない。 パウロにとって、人々と神との関係、そしてイエスとの関係は異なるものである。キリスト者と両者とのコミュニケーションの持ち方も同様混同されていない。“God and Christ are not addressed in the same way. God alone is addressed in thanks and worship. Christ is the one through whose saving work is opened the possibility of thanks to and worship of God” (115).神に対する呼びかけ方とキリストに対する呼びかけ方は同一ではない。神だけが感謝と礼拝の対象として呼びかけられている。キリストはこのような神への感謝と賛美を可能にした救済者なるお方である。
英語圏では神学や聖書学を専門にしているブログが数多くあるが、日本語圏では非常に少ない。筆者は現在主日礼拝の説教で「ガラテヤ人への手紙」を取り上げている。
既に少し書いたがこの辺の事情を日本の研究者たちはもっと真剣に考えて欲しい。
学会に対してだけでなく、ネットパブリックに対してもせっかくの研究成果をもっと発表して欲しいものである。
Ota, Shuji. “Absolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paul.” Annual of the Japanese Biblical Institute. 23 (1997): 64-82.これは珍しい。と言うかこのサイト主がリストに研究者・論文を網羅しようとしているからなのだろう。
墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。(マタイの福音書27:52-53、新共同訳)となっている。
1971(序論的挿入、著者の若き日の「福音」伝道体験エピソード・・・筆者注)となっています。
1.The Big Question
2. Gospel Culture or Salvation Culture?
3. From Story To Salvation
4. The Apostolic Gospel of Paul
5. How Did Salvation Take Over the Gospel?
6. The Gospel in the Gospels?
7. Jesus and the Gospel
8. The Gospel of Peter
9. Gospeling Today
10. Creating a Gospel Culture
The military rulers see the Methodist leadership as siding with the erstwhile Soqosoqo Duavata ni Lewenivanua (locally known as SDL) government, which was ousted by the military in a coup in 2006 and which was mainly supported by indigenous Fijians.フィジーと言うと、まもなく開催される「2011ワールドカップ・ラグビー」にも参加する強豪国の一つだ。
「ツリー・オブ・ライフ」にキリスト教の色は濃い。そもそも「生命の木」とは旧約聖書でエデンの園に「善悪の知識の木」と並んで生えていた木だ。と、言うようになぜか氏はこの映画にキリスト教の意義を読み込もうとしているようなのだ。
だが、人間はこの世界で他の被造物の上に立つ別格の存在であり、神の愛でる子である、という楽天的な世界観は採用されていない。
映画の最初に「ヨブ記」からの言葉が掲げられている(引用省略)
大事なのは世界は人間のために作られたのではないということだ。人間が登場しなくても世界は完結していた。それでも我々は「神は与え、神は奪う。その御名はほめたたえられよ」と言わなくてはならない。ははーん。なるほどそこに持って行きたかったのか。とすると、映画でのヨブ記からの引用も、氏にとっては「宇宙創成についての知識をヨブに問う神」の言葉としての意義ではなく、「神義論」への布石なのだ。
家族がずっと考えているのはこのことだ。今、東日本大震災の後でぼくが考えているのはこのことだ。キリスト教の信仰とは別に、なぜ震災でたくさんの人が亡くなったのか、なぜ大地は揺れるのか、その先のどこに生きる意味があるのか?(強調は筆者)
Not Mr. Malick (who prefers to remain unseen in public) but the elusive deity whose presence in the world is both the film’s overt subject and the source of its deepest, most anxious mysteries. With disarming sincerity and daunting formal sophistication “The Tree of Life” ponders some of the hardest and most persistent questions, the kind that leave adults speechless when children ask them. In this case a boy, in whispered voice-over, speaks directly to God, whose responses are characteristically oblique, conveyed by the rustling of wind in trees or the play of shadows on a bedroom wall. Where are you? the boy wants to know, and lurking within this question is another: What am I doing here? (強調は筆者)永遠から永遠に流れる命の流れの中で、人間の根本的存在意義が人間を取り巻く大きな世界の背後にある「神と思しき存在」に発せられ、そして確たる答えがなくその問いは自己の存在証明の問いとして継続される。
円高傾向が続いています。
また本を買うチャンスだなー、と暫く色んな本を眺めていました。
適当な本が見つかるとアマゾンのウィッシュ・リストにためておくのです。
夏の間はさすがになかなか本を読む気力もなかったのですが、秋が近づくにつれてそろそろと言う感じになってきました。
それで今日になって注文を入れました。
と言うわけでどんな本を購入したか紹介しましょう。
最初の本
Larry W. Hurtado, Lord Jesus Christ: Devotion to Jesus in Earliest Christianity.
は、前々から目を付けていた本です。フルタド(発音は正確ではないかもしれません)は最近エジンバラ大学を定年退職した著名な新約学研究者です。初期キリスト教史における重要な歴史的神学的問題である、「初期キリスト教におけるイエス崇拝」を論述する本です。
Michael J. Gorman, Inhabiting the Cruciform God: Kenosis, Justification, and Theosis in Paul's Narrative Soteriology. は、米国の新約学者(特にパウロ研究や最近では黙示録研究)ではもう中堅に位置する方です。「クルシフォーミティー」と言う造語(?)を使い出したのがゴーマンかどうかは定かではありませんが、彼によればその定義は、
“Cruciformity”—from “cruciform” (cross-shaped) and “conformity”—means conformity to the cross, to Christ crucified. Cruciformity is the ethical dimension of the theology of the cross found throughout the NT and the Christian tradition. Paradoxically, because the living Christ remains the crucified one, cruciformity is Spirit-enabled conformity to the indwelling crucified and resurrected Christ. It is the ministry of the living Christ, who re-shapes all relationships and responsibilities to express the self-giving, life-giving love of God that was displayed on the cross. Although cruciformity often includes suffering, at its heart cruciformity—like the cross—is about faithfulness and love.
となっています。筆者の関心はこの「クルシフォーム」と言う視点です。
John Stott, The Cross of Christ. は、つい最近天に召されたジョン・ストット師について記事にしましたが、そこで書いたように筆者は彼の本を一冊も読んでいないことを改めて思わされ、遅ればせながら一冊読んでみようと思い探していました。ストットの「この一冊」は何冊か候補があったのですが、その中でもこの近刊のものを読むことにしました。
John Howard Yoder, Body Politics: Five Practices of the Christian Community Before the Watching World. は、最近参加するようになったヨーダー読書会の「イエスの政治」が終了した後を受けて次の一冊の候補になっています。この本は『社会を動かす礼拝共同体』として東京ミッション研究所シリーズから出ています。邦訳も持っていますが小冊子なので原著も購入しておこうと思いまして・・・。
John M. G. Barclay, Obeying the Truth: Paul's Ethics in Galatians.
は、目下礼拝でガラテヤ書を講解中なのでそのためにも、と思い、最近よく名前を聞くジョン・バークレー(ダーラム大学)にも興味があったので購入しました。
Christian Smith, The Bible Made Impossible: Why Biblicism Is Not a Truly Evangelical Reading of Scripture.
は、最近話題の本で混沌と言うか混乱の中にある「福音主義のアイデンティティー」の根幹をなす「聖書の権威」に関わる社会学的な研究のようです。ジーザス・クリードのスコット・マクナイトがこの本について連載中です。(終了したかかな?)
本が到着するのは九月の半ば頃でしょうか。楽しみに待っています。
Ask an Atheistレイチェルはなかなか人脈を作るのも上手なようで、ブログ上でか、色々な講演会での触れ合いからか、上に掲載した様々な立場の人たちをインタヴューするくらい先ず友達になってしまうようなのである。
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