2011年1月1日(土) 午前10時30分
朗読箇所 使徒の働き 18:1-11
説 教 題 「ここに腰を据えて」
説 教 者 小嶋崇 牧師
2011年間標語聖句
ここに腰を据えて、使徒の働き18章11節(新改訳)
彼らの間で神のことばを教え続けた。
※2日の主日は礼拝をお休みします。今年の主日礼拝は9日からとなります。
巣鴨聖泉キリスト教会(日本聖泉キリスト教会連合)創立1965年。 大和郷の一角にある緑と花に囲まれた教会、隣には牧師の木工房。 静かに賛美と聖書の学び、そんな礼拝の時をお過ごしください。
ここに腰を据えて、使徒の働き18章11節(新改訳)
彼らの間で神のことばを教え続けた。
私がキリスト教信仰を持てない理由なのですが一度に回答できるとも、又回答し切れるとも思わないが、ジャブ程度のものは書いておこうと思う。
1.人間には「原罪」がある
2.それをキリストが贖って人類が救われた
1は理解できますが、2がどうしても私には腑に落ちないのです。
キリストが罪を贖ったというが、人間は依然として弱く、汚くあり続けているのにどこが救われたんだ・・・と思ってしまいます。
「救われた」と言ったって結局同じ罪人じゃない。 じゃ「キリストの救い」を信じるのと信じないのとで何の違いがあるのよ。と少し皮肉っぽく言えばそう言う事になるかもしれない。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」「ユダヤ人の王」としてお生まれになった方は、マタイによれば「ユダヤ人の王」として、ローマの十字架刑で処せられて死んだ。
また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである。」と書いた罪状書きを掲げた。この「ユダヤ人の王」は宮殿ではなく、旅籠の馬小屋の飼い葉桶で生まれ、十字架刑で死を迎えた。何と言う「ユダヤ人の王」だろうか。
それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。この王は傷み、散らされた羊たちを癒す方であった。そのようにして羊飼いの仕事をなされた。
また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。
「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。「王なる羊飼い」のメシヤ像は、上掲のイザヤの預言だけでなく、エゼキエルの「イスラエルの牧者」(あるいは「散らされた羊と非牧者」)を髣髴とさせる。
争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。
彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。
異邦人は彼の名に望みをかける。」
「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。「王なる羊飼い」の招きのことば
あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。
弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。
彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。
わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。
それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。
わたしは生きている、――神である主の御告げ。――わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。
それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。
神である主はこう仰せられる。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない。
まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。
牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。
わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。
わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。
わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ。――
わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。
(エゼキエル34:2-16)
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。「ナザレのイエス」は、今も私たちに近づき、助け、起こしてくださる。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
星をかぞえる夜
季節が過ぎゆく天には
秋がなみなみと満ちています
私はなんの心配もなく
秋の中の星たちをみな数えられそうです
胸の中にひとつふたつと刻まれた星を
もうみな数えられないのは
まもなく朝が来るためであり、
明日の晩が残っているためであり、
まだ私の青春が終わっていないためです。
星ひとつに思い出と
星ひとつに愛と
星ひとつに哀しみと
星ひとつに憧れと
星ひとつに詩と
星ひとつに母よ、母よ、
お母さん、私は星ひとつに美しい言葉を一言ずつつけてみます。
小学校の時に机をともにした子供たちの名前と、
ペ、ギョン、オク こんな異国の少女たちの名前と、
もう子の母となった娘っ子たちの名前と、
貧しい隣人たちの名前と、
はと、子犬、うさぎ、ろば、のろ、
フランシス・ジャム、ライナー・マリア・リルケ
そんな詩人の名前をつけてみます。
この人たちはあまりに遠くにいます。
星がはるか遠いように、
お母さん、
そしてあなたは遠く北間島にいらっしゃいます。
私はなんだかなつかしくて
このたくさんの星明りが降る丘の上に
私の名前の字を書いてみて、
土で覆ってしまいました。
なるほど夜を明かして泣く虫たちは
恥ずかしい名前を悲しんでいるわけです。
でも季節が過ぎて私の星にも春が来れば
墓の上に青い芝草が萌え出るように
私の名前の字を埋めた丘の上にも
誇らしく草が生い茂ることでしょう。
FROM DANIEL SEE
A man and his wife were having an argument about
who should brew the coffee each morning.
The wife said, 'You should do it, because you get up
first, and then we don't have to wait so long to get
our coffee'.
The husband said, 'You are in charge of the cooking
around here and you should do it, because that is
your job, and I can just wait for my coffee'.
Wife replies, 'No you should do it, and besides it is
in the Bible that the man should do the coffee'.
Husband replies, 'I can't believe that, show me'.
So she fetched the Bible, and opened the New
Testament and shows him at the top of the several
pages, that it indeed says.............'HEBREWS'.
測り綱は、私の好む所に落ちた。この「私への、すばらしいゆずりの地」が心にかかっている。
まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。
ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙っていてはいけない。どうしても「ジリ貧」を感じ消極的思考に負けそうになる。
わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。
この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。
そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。
沈黙の中で悲しみは「悲哀」に変容する。これは一種の愛情の形です。風のそよぎにも光の揺らぎにも大切な人の存在を感じる。そうなるともう寂しくない。これは、宗教人類学者、山形孝夫さんのことばだ。(朝日新聞夕刊、『語る人』、2010年12月6日)
ナイル川西岸の砂漠にエジプトのキリスト教徒コプトの修道院が点在しています。エジプト人が死者のクニと呼んできた荒野で、私は数ヵ月滞在し、修道士たち自身の物語の聞き取りをしていました。ある時、その修道院を抜け出して砂漠を歩いていました。周囲には何もない。聞こえるのは風の音だけ。そのとき、不意にだれかが私の名を呼んだ。オヤッと思いました。それが母の声だと気づいた瞬間、動けなくなりました。このことが契機となってその後自伝的エッセーを書く中でお母さんの記憶が次々と噴き出してきて、「書きながら涙が止まらな」くなったそうです。
悲しみは人間の成熟に大切な栄養剤です。その人らしさを形作るパーソナリティーの根幹になる。悲しみは新しい生き方に変化する。と言っています。
これまで、死と向き合うのは宗教の役割でした。現代日本で神の存在を信じるのは難しい。でも「祈り」の願望はむしろ大きくふくらんでいるのではないか。その問題にどう切り込むのかを考えています。筆者も近年その感を強くしています。
※ちょっときつい言い方かもしれないが、当初討論に招かれていたジョン・パイパー師が欠席し、代わりにトム・シュライナー師が相手を務めたのは残念である。私見ではライト師に対して最も強い反論をしているのはパイパー師であり、より聖書学者としての議論をするシュライナー師は、ライト師の相手としてはやや軽量、と言うか本当の論敵ではなかったような気がする。それに対しこのブログの著者が言っているように、明らかに二人の相手と対論する「敵陣」にちゃんと姿を見せたライト師は、「討論を厭わない」礼を尽くしたと言える。
“Only by close attention to Scriptural context can Scriptural doctrine be Scripturally understood,”次に、ライト師もコメントで加わった、デニス・バーク氏のブログ。N. T. Wright on Justification at ETS
音楽というものは楽譜という氷の塊の中に閉じ込められた生き物で、演奏家たちは、彼らの心の熱でもってその氷をとかし、音の世界を解放し、取り出してくる仕事に一生をかける人種なのだということを、こういうCDに接すると思わずにいられなくなる。この文章の《音楽》を《メッセージ》、《楽譜》を《聖書》、《演奏家たち》を《説教家たち》、と置き換えてみると何とも面白いではないか。
聖書の<スコアリーディング>なる訓練が非常に有効であることはもうお分かりかと思います。 与えられた聖書テキストのエッセンスをいかに効率よくテーマ で括るかを鍛える訓練です。 音楽の世界のスコアリーディングを聖書の読み方に適用する訳です。 ここで重要なのは、細部の正確さに拘泥しないということ です。 むしろ<抽出>という作業に徹することです。と言うように、「楽譜を読む」ことと「聖書を読む」こととの類比をされておられる。
講演の冒頭、イエスの十字架上の死を贖罪の犠牲としてとらえることに疑問を呈した同氏の主張に対して、「贖罪論はキリスト教信仰の核心だから譲れない」 との反響があったことを紹介し、「欧米の神学者の間にも批判的な議論が存在してきた。贖罪論なしに信仰が成り立たないかどうかは、もはや自明のことではな い」と反論。と言う部分。(アンダーラインは筆者)
高橋:・・・キリスト教で殉教が語られるときに、イエスが十字架上で刑死したこと、これを「犠牲死」ととらえるのかどうかが問題になるのではないでしょうか。従来は、これを犠牲死と見て、見習うべきモデルとする見方が強かったのではないか。・・・しかし、このイエスの死を犠牲死ととらえる見方そのものについて、キリスト教思想の中でも議論はあったと思いますが、もっときちんと検討しなおす必要があるのではないでしょうか。勿論、高橋氏の関心事は「犠牲」そのものではなく、「殉教」を正当化する神学的議論としての「贖罪論」での「犠牲」の役割であろう。
森:・・・結局、キリストの十字架を生贄とか犠牲としてとらえると、神理解が色々歪んできてしまうんです。
高橋:やはり、そう思われますか。
森:キリストの十字架を「犠牲」というかたちで説明するのは、先ほど申し上げた正義、交換の正義と言う視点が、聖アンセルムス(1033-1109)とかトマス・アクィナス(1225-1274)あたりで神学の中にどんと入ってきてしまった論理です。それがのちに主流になって今日まできてしまった。
ところが、キリストの十字架を「犠牲」としてとらえてしまうと、神の姿が歪んできてしまう。それは現代の神学者たちも指摘しているところです。・・・ちなみに、福音書をずっと読んでみても、福音書の中にキリストの十字架を「犠牲」とする、あるいは罪のあがないとするような言葉は全く出てきません。ですから、そういう意味で、現代はもう一度、真正面から神理解、そしてキリスト教の教義理解に取り組まなければならないと思っております。
(以上、98-99ページ)
高橋:トマスの影響は大きいでしょうし、贖罪論との関係でいうと、アンセルムスの『クール・デウス・ホモ 神は何故に人間となりたまいしか』・・・の存在が大きいのでしょうね。要するに、人間は神を裏切って罪を犯したことに対して償わなければいけないのだけれども、神に対する背信という罪は無限の罪であるので、人間には償う力はない。そこで神自身が人間に手を差し伸べて、それを一緒にやってくれる。神であり同時に人間であるようなイエス・キリストの死をもって、それをあがないとして、神が人間と和解する。そういう理屈だと思うんです。(以上、152ページ)さて、中世神学議論に疎い筆者が述べられることは僅かである。
人の子は・・・多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。(マルコ10:45、新共同訳)
これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である。と言うように、全然ないとは言い切れないのではなかろうか。
(マタイ26:28、新共同訳)
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。(ローマ人への手紙4:25、新共同訳)とある。
キリストは・・・ご自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。(ガラテヤ人への手紙1:4、新共同訳)
「後生の助けはデウス(唯一の神)に拠ることこそが大切である」と語る。《ファビアンが理解したキリスト教の特徴》としてまとめられているのは、
天使論(あんじょ)で天的被造物の階層に触れ、人間を弱く造ったのに裁く神は無慈悲ではないか、と『妙貞問答』の議論を逆にたどるキリスト教批判を展開する。悲惨な事件があるのに神は何をしているのか。悪というものの積極性が関わっている問題にも触れており、神義論がテーマとなっている。とのこと。
創造と堕落そして悪の存在を統合して見るには人格的概念が深く関わってくるが、ファビアンは人格概念にまで理解が及んでいなかったのではないか、さらには、贖罪論が弱かったのではないか、などの指摘もなされる。とのこと。
ファビアンが「根源的第一者こそが創造主である。仏など何もいないのだ」と批判する時に、嘲笑的で論争的な表現が「軽すぎる」と言う批判を受けることがある。この「軽さ」とは何を意味するか。一つには、理由は判らない漠然とした「恐れ」であるが、日本の土壌ではとても深刻で根深いこと。恐れ忌むという本能的な行為の深刻さにファビアンが十分向き合っていない・・・文脈化の要素②・・・「空」の理解
仏教との対話をつきつめた時、死が持つ尊厳性の問題や、贖いの問題が充分に対峙されていない分野として残っている・・・「無常」の中で「痛み」を感じる人々に適切に寄り添うにはどうすればいいのか、と言う問いも文脈化への模索として非常に重要となる。と、乱雑な紹介になってしまったが、福音の受容、と言う意味で、特にファビアンのような知識人的教養を備えた人のキリスト教受容の問題性を考える上で、興味深いケースではないか。
随分昔になりますが、聴取者からいただきました手紙に「キリスト教の牧師さんは、本当に上手な話をするものだ。《たてまえ》は分かったから、牧師さん自身の《ほんね》を聞きたいものだ。」と言うのです。信仰告白や説教を単なる《たてまえ》と聞かれるのは淋し過ぎます。そこでいつも説教をしておられる先生方に、説教ではなくご自分が神様にどのようなお取り扱いを頂き、何が先生の本当の喜びであり、何が悲しみなのか。例えば先生にとってイエス様とはどなたか。なぜ牧師職になられ今牧師をされておられるのか等、お証し頂きたく存じます。このシリーズは全国の牧師たちをカバーしてもう何順目かしているらしい。今回また東京圏だか、関東圏に戻って来るらしい。
神と個人的に向かい合う事は、正にプロテスタントでよくある状況だと感じました。所謂、「我と汝」。カソリックの様に、マリア信仰も聖人も関係ないからこそ、生じている状況でしょう。そこで、追いつめられてしまう人もいますね。前半のコメントは「プロテスタント」の「神」と「自己」の間に仲介者を置かない(置かせない)、ある種結果としての孤立性、神の前に一人で立つ自立した人間の背伸びのような苦しさを表現しているように思う。
私もプロテスタントですが、特に旧約については、冷ややかに読んでいます。中東戦争以来、注視しているイスラエルとパレスティナの戦闘状況も影響していま す。旧約の詩編は、よく励ましや慰めの言葉が好んで用いられますよね。でも、それはイスラエルの民だけのもので、それを邪魔する者たちへは、実に容赦がな い。そこが引っ掛かるんです。都合の良い部分だけ利用していないか、と。
どうお考えですか?
「ちょっとお祈りしたいと思って入ろうとしたんですけど閉まっていて・・・。」残念ながら、このような門前払いが一年に一二回ある。
「うちはカトリックのような教会ではないので・・・。」
カトリックの神父は独身ですが、プロテスタントは妻帯が許されています。と言った表現を見受ける。
客席の暗きへ台詞放ち冬はじまる②写真
五十路なる二枚目役者冬帽子
稽古果て寒夜についてくる台詞
芝居はね凍て星の役貰はむか
冬北斗朗読の声鋼なす
磔刑の像の腰布寒夜かな
それが ことによくすみわたつた日であるならば金子みすず「積もつた雪」「露」
そして君のこころが あまりにもつよく
説きがたく 消しがたく かなしさにうづく日なら
君は この阪路《さかみち》をいつまでものぼりつめて
あの丘よりも もつともつとたかく
皎々と のぼつてゆきたいとは おもわないか
上の雪
さむかろな。
つめたい月がさしてゐて。
下の雪
重かろな。
何百人ものせてゐて。
中の雪
さみしかろな。
空も地面《ぢべた》も見えないで。
誰にもいわずにおきましょう
朝のお庭のすみっこで
花がほろりと泣いたこと
もしも噂がひろがって
蜂のお耳にはいったら
わるいことでもしたように
蜜をかえしに行くでしょう
もし殉教の意味を、聖書本来の意味に解すれば、それは現在この大戦の真っ只中において、切実に求められているものと言わねばならない。聖書に従えば殉教とは、生命を賭して、福音を立証することである。それはただ宗教闘争に死することばかりを意味しない。生命を賭して福音を立証することであれば、それはみな殉教である。今は国民総武装の時である。我々一億国民は、皆悠久の大義に生き、私利私欲を捨てて、ひたすら国難に殉ずることを求められている。しかるにこの国難に殉ずるところにこそ、福音への立証があり、殉教がある。これは殉国の精神を要する時である。全国民をして、この精神に満たしめよ。高橋氏はこのような国家の戦争遂行目的に同調した教会人による神学的援用が、「果たして偶然のことであったのかどうか、これをあらためて問い直す必要があるのではないか」と指摘する。
クリスチャンではない私は、イエスの教えの大事な点は、神の愛が、太陽の光のように、あるいは雨のように強者にも弱者にも、富者にも貧者にも、善人にも悪人にも、絶対無差別に注がれる、と言うことではないかと考えてきました。いやそれどころか、むしろ弱者や、貧者や、悪人の近みにこそあって、これを受け入れ、救おうとするものではないか、と。ですので私は、まるで信仰の強さと弱さで人を区別し、前者の功績を特別にたたえるかのような列聖、列福の儀礼に違和感を覚えるのだと思います。最後のパンチは、顕彰行為は「信仰」のあり方にそぐわないものだ、との認識。
信仰は、むしろ本質的に、人に知られること、有名になること(すなわち名を残すこと)、名誉を得ること、ほめられることを、嫌うのではないでしょうか?神の前に自分を低くする信仰は、他の信仰者に対しても、また世界に対しても、自分を低くすることを望むのではないでしょうか?名を求めない信仰は、誰にも知られず、全くの秘密にとどまることを、むしろ良しとするのではないでしょうか?さらに秘匿の信仰者の可能性に言及する。
私はクリスチャンではないと申しました。しかし、その私が、じつは隠れてキリスト教の信仰を持っているとしたら、どうでしょうか?私が自分の信仰を神に対してしか「証」せず、他の誰にも秘密にして生きているとしたら、どうなるのでしょうか?クリスチャンとして信仰告白していない人の中に、熱烈な信仰が生きていることなどありえないと、誰が断言できるでしょうか?そしてユダヤ人に伝わる「メシヤ」のエピソードに見る「incognito(自らを隠すあり方)」と重ね合わせながら、「信仰を誇ると言うこと、それを名誉や栄光や栄転の対象にするということ、信仰をその現れた形によって評価し、ランク付けし、そして信仰の故の死を美化することは、はたして信仰にふさわしいことなのでしょうか?」とたたみかける。
本書を読みながら思い出したのは、夏目漱石のことである。小説『こころ』で、自殺する主人公の先生に、自由と独立と己をほしいままにして現代に生きるわれわれはこの寂しさを味わわなければならないと語らしめている漱石は、近代的な自我の迷路の中で懊悩し続けた。本書には、まるでそのような漱石の苦悩に応えようとする哲学的人間学の趣があるのだ。まっ、とっかかりとしてはいいか。
浩瀚だが決して難解ではない本著は、わたしたちが見失いつつある、望ましい人生の意味に伴う畏敬や尊重の感情を取り戻すヒントを与えてくれる。には、ちょっと違和感を持った。
ここに言う「近代的アイデンティティ」とは、ウェーバー風に言えば、「西洋近代」に誕生しながら、やがて普遍的な意義を持つに至った自我や「わたし」についての観念ということになる。と言うのもちょっと違うのではないか。
世に残る民 去りし民と 共に交わり 神を仰ぎ
永久の安きを待ち望みて 君の来ますを せちに祈る
(賛美歌「いともとうとき主はあもりて」四節)
正典とは、カノンとも言いいます。ものごとの基準、規範となるものという意味です。ですから、聖書正典といえば、キリスト教信仰の最高の規範になるものという意味です。教会が正典と認めているものを、まず挙げておきましょう。旧約聖書は46書、新約聖書は27書あります。プロテスタントの読者は、「旧約聖書は46書」に「あれー」と思ったことでしょう。
(本のリスト省略)「ラウダーテ」サイトの「聖書の正典」解説
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(新改訳)を念頭にしていた。
御使はまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。(黙示録22章1-2節、新改訳)我ながら良いネーミングをしたな、と思っている。
字義からは、教会は「教える会」、つまり「何かを教えそれを学ぶ集まり」と言うことになります。ここでは、日本語で「教会」が“教えを中心とした集まり”との印象を与えやすいのではないか、と指摘しました。
明治期の宣教師がChurch をそう訳したのでしょうか。Churchと言う語はチュートン系民族に共通していて、ギリシャ語の「ギリヤコン」あるいは「キリヤコン」に源を持つようです。その意は「主の家」。建物を意味する語だったようです。
新約聖書では、教会は「エクレシヤ」、ギリシャ語で「集会」の意ですが、キリスト教的には「主に召集された『神の民』」です。
使徒の働きでは、ペンテコステに聖霊が降臨し、主の弟子たちに加わった信者たちの様子が映し出されています。簡潔な描写から垣間見られる原始エクレシヤの姿は「主イエス・キリストに対する信仰を基盤にした〝生活共同体〟」。まだ神殿が破壊される前でしたから、「神殿」での礼拝と、共同体の生活における信仰生活とが、一体となっていた様です。つまり「教える」と言う面は、ペンテコステ後の教会、「信仰と生活が一体となった共同体」の一側面であったことを指摘しました。
既にバプテスマを受けた信者たちですから、メシヤ・イエスに対する信仰告白の基礎に立つ「教え」であったでしょう。ペンテコステ説教の内容から逆に推測しますと、メシヤ・イエスが、聖書に証しされている通り、神の御心に従って受難と復活を通して贖いを成就されたこと、そしてその成就の上に、約束された「罪の赦し」と「御霊の賜物」が信者たちに受領されていること、を確認させる、堅くする、確信させるものであったと思われます。
講演の冒頭、イエスの十字架上の死を贖罪の犠牲としてとらえることに疑問を呈した同氏の主張に対して、「贖罪論はキリスト教信仰の核心だから譲れない」 との反響があったことを紹介し、「欧米の神学者の間にも批判的な議論が存在してきた。贖罪論なしに信仰が成り立たないかどうかは、もはや自明のことではな い」と反論。と言う部分。(アンダーラインは筆者)
Dan Kimball, THEY LIKE JESUS BUT NOT THE CHURCH: INSIGHTS FROM EMERGING GENERATIONS.のようなタイトルの本が注目を浴びるのだと思います。
あきらめるな、と、そんな風に肝に銘じたいと思っています。
ひるむな、
信仰・希望・愛を持って労苦せよ。
さて、お祭りの内容だがそれはただ一つ。「礼」だ。何とも簡単な「お祭り」ということだが、お爺さんの簡単な「拝礼」と共に考えさせられた。
時間になると、参加者が記念碑に向かって礼をする。その間10秒足らず。シン、と静まりかえったと思うと同時にお祭りは終了する。